5.遅い朝
エマの侍女としての朝は遅い。
従えている主の朝が、遅いからだ。
侍女の仕事はたくさんあれど、クラウス王子専属の侍女であるエマは、王子の世話が彼女のお役目である。
なので、洗濯も掃除も免除されていた。
そんなエマは、踝まであるスカートの侍女のお仕着せ着に身を包み、髪をきちんと結った姿で扉の前に立つ。
当然、主であるクラウス王子の部屋の前だ。
コンコンと扉を叩くが、いつものごとく返事がない。
はあと自然と溜息が漏れた。
(いつ入って良いのか、全然わからないわ……)
そう思いながら、扉を開けた。
「失礼いたします」
厚いカーテンで窓を覆っている部屋は、朝と昼間の中間の時間だというのに薄暗い。
エマはカーテンを開けることなく、迷いなく前室を抜け、寝室へと入る。
「フリードリヒ。今度はいつ来るの?」
寂しそうに問うたのは、天蓋付きベッドの縁に座る少年――クラウス王子だ。
床に膝を着き、悲しそうな顔の王子の手をとったのは、フリードリヒという青年だった。
「また、すぐにでも」
そう言って、王子の手の甲にキスをした。
(朝から甘々ね)
といっても、この王子、愛人が何人居るのやら。
毎日違う殿方を連れ込んでは、朝帰りさせているのだ。
何も思っていないような素振りで、お辞儀をする。
「おはようございます。殿下」
「今日は、私を斬りつけようとはしないんだな」
「……はい?」
いつもは返事がこないので油断していたエマは、フリードリヒの質問に間抜けな声を出した。
「もう忘れたのか? この前――」
「あの時は、申し訳ございませんでした!」
かばっと頭を下げた。
「ですが……」と顔をあげる。
「言い訳がましいのは、申し訳ありません。お勤めの初日でしたので、わかりませんでした」
そう。それは、お勤め初日のことだった。
王子が殿方を連れ込んでいる。と言う話は聞いて知っていたが、頭と直結しておらず、エマは失態を犯したのだ。
それは、王子が連れ込んでいた相手――フリードリヒが侵入者だと思い込み、持っていた短剣で斬り込もうとしたという事件があった。
宰相の息子であるフリードリヒを斬りつけようとして、王子に止められたので事なきを得た。
あの時、許されたから良いものの、フリードリヒは根に持っているのか、エマをからかってくるのか、いつも聞いてくる。
(もう。三回目よ……)
正直、もう勘弁してほしい。
それがエマの率直な意見だった。
「そ、そろそろ、その事は、許してあげて……」
先ほどフリードリヒと話していた、はきはきとは程遠い、おどおどした声だった。
シーツを被り、フリードリヒを見詰めている。
そう。これが、エマが従える主人――クラウス王子の通常の姿なのだ。
「わかりました。それでは、失礼いたします」
そう言ってフリードリヒが出て行ったのを見てから、エマはクラウス王子に近づき、片膝を床につけ彼を見上げた。
「助けていただき、ありがとうございます」
「……」
返事が返ってこないのは慣れてしまったので、エマはにっこりと笑う。
「さあ、殿下。朝の支度をいたしましょう」
「わ、わかったよ」
おどおどとした返事に、エマは困るどころか、胸がツキリと痛んだ。
(やっぱり、ずいぶん人というものに怯えているわ。余程、何かあったに違いなわ……)
クラウス王子が男を連れ込んでいる。
その事実を目の当たりにしても、エマは気にしていなかった。
ベッドの乱れ方から、夜の営みはしていないと推測する。
まあ、男を連れ込むなど、十四歳の王子にしては、ませているような気がするが。
趣味や思考は、国が傾くもの以外だったら、王族でも自由だと思っている。
王位継承権が一位の王子が男好きだとしても、弟が居るのだから、弟の子供――といっても、弟王子は十歳で子供はいない――が後を引き継げば良いとも。
なぜならば、連れ込んでくる男達には、王子は心を許しているらしいから。
その人数が居ればいるほど、王子の味方が多いことになる。
それに――。
(私は、クラウス王子を守るって誓ったのだもの)
クラウス王子を守るということは、心も守るということだ。
エマは、そう考えている。
そうして思っている間にも、エマは仕事をこなす。
王子が洗面台の前に立てば、タオルを取りやすい場所に設置し、着替えの手伝いをし、王子が鏡台に座れば、腰ほどまである髪を梳かした。
少年特有の少女にも見える中性的な顔立ちに、長い髪がよく似合う。
(私もこんな感じだったら、殿方を連れ込んで……は、しないわね)
自分だったら、唯一の人と恋人になって、上手くいけば結婚して……。
そんな恋をしてみたい。
(って、思っても、私のこの体形じゃあね……)
それに、時戻り前の苦い思い出がちらつく。
溜息をつきたいところだがエマは我慢して、用意してあったフード付きローブを持つ。
すると、王子は立ち上がる。
エマは、ローブを王子に着せた。
フードを被せれば、朝の支度は完了だ。
「ね、ねえ」
いつもは無言であるのに、声を掛けられた。
エマは、珍しいこともあるのねと返事をする。
「はい」
「君は……」
そこで一旦言葉を切って、もじもじとしはじめた。
そんな王子を急かすことなく、エマは微笑んで言葉を待つ。
エマの心の中は、『怖くないよー』と人間を怖がる仔犬を見守っている自分と言った感じだ。
不敬なので言葉には出さないが。
「……くないの?」
「はい?」
聞き取れずに首を傾げる。
「ぼ、僕のこと、怖くないの?」
痛々しいほどぎゅっと両手を握り、王子はいつもより大きな声を出した。
エマは、あっけらかんと間を開けずに答える。
「怖くないですよ」
「それとも、他の国から来たから知らないの?」
「何がですか?」
「僕が……死神王子って呼ばれていること」
「知ってますよ」
「じゃ、じゃあ、何で死神王子だって呼ばれているか、知っているでしょ?」
「知っていますよ」
警戒しているのね。と、エマが安心させるように優しく答えると、王子は目を見開いた。
だが、すぐに今度は王子の顔が皮肉気に嗤う。
「それとも、僕のこと好きなの?」
「好きですよ」
「へえ。それは、普通の好き? それとも、愛してるの好き? どっち?」
「普通の好きです」
「本当に?」
今度は、クラウス王子は微笑む。
その笑みは、幼さの残る顔と不釣り合いで、妖艶と言えば良いのか。
エマの脳裏に、傾国という文字が思い浮かんだ。
が、それだけだ。
「はい。でも……」とエマは言う。
王子の顔が怪訝そうになる。
「でも?」
「私は、あなたを守りたい。その付随するものが、普通の好きなのです」
そう。守りたいから好き。
きっかけは、守りたい。その気持ちから、今は王子の言う所の普通に好きになったからだった。
「なんで、僕を守りたいの?」
不安そうに王子が、エマを見上げる。
それは、そうだろう。
自国の民ならまだしも、数週間前からしかこの国に来たことのない隣国の令嬢が、いきなり守りたいなどと言ったらおかしい。
自分の失態に気づいたエマは、けれど、平然を装って微笑む。
「知っていますか? 私の父は、隣国の近衛騎士団長です」
「そ、そんなの知ってるよ」
「私共の家系は、従えたい主を見つけると、最後までお仕えするという性質を持っています」
エマは、王子の前に片膝を床に着ける。
「私は――」
そして、王子の白い手を取り、手の甲に額を付けた。
「あなたに決めたのです」
息を呑んだような音が頭上からした後、沈黙が落ちる。
駄目か。と思うようになった頃、
「……わかった」
と弱々しい返事が頭から降ってきた。
(いやー、ヒヤヒヤしたわ……)
そっと、王子の手から額を離す。
(時が戻る前に、あなたに助けてもらったからです。なんて、とても言えやしないわ)
言ったら完全に終わりだ。
頭がどうにかしていると判断されて、すぐにこの王城から締め出されるに違いない。
それでも、はぐらかしたことはあるが、王子に言ったことは本当のことだ。
父親は見つけられなかったが、祖父は先代の王に忠誠を誓った。
主と決めたから、最後まで従えて生涯を終えた。
そして、当たり前だが、エマはクラウス王子に忠誠を誓ったのだ。
嫌な役を買って出てくれたその恩義に。
自分を助けてくれたことに。
(それにしても、何であんなこと突然聞いてきたのかしら? ……不安だったとか?)
過去の自分にも、経験がある。
『デブ令嬢』と陰口を叩かれはじめた頃、誰も信じられなくなったその時だ。
家族とハンナに自分のことが好きなのかどうか、不安で何度も自分のことが好きなのか聞いたことがある。
それを思い出して、エマは目の前に居る心許なげな王子を見て、湧き出てくる気持ちに我慢できずに口を開く。
「殿下」
「な、なに?」
「お守りしますからね」
「わ、わかったよ」
ドン引きされたような気がするが、エマは構わなかった。