1.プロローグ
――私は、騙されたんだ……。
太陽の光が入らぬ石造りの地下牢。
その数個ある一つに入れられていた彼女――エマ・アッシュフィールド男爵令嬢は皮肉気に、一人で微笑んだ。
だが、コツコツと響く靴音を聞いて、無表情に戻した。
そして、エマのいる牢屋の前で靴音は消える。
「お嬢様」
そう呼ばれて、エマは顔を廊下へと向けた。
エマの諦めにも似た声色が響く。
「……また来たの?」
「はい。いつまでも、あなたの所へ来ます」
訪ねて来た彼女は手と手を組んで、流されまいと強い意思を持った瞳でエマを見据えた。
(この子も懲りない子ね……。今日も無視をしても、話し掛けてくる気なんだわ)
そんな彼女に、エマは冷たい視線を向ける。
「ハンナ」
「っ……! はい。エマお嬢様!!」
「もう。来なくて良い。これは命令よ」
「お嬢様……」
名前を呼ばれて喜んだ表情の彼女――ハンナは、エマの突き放すような言葉に顔を翳らせた
。
その表情にチクリとエマの胸が痛む。
主従関係ではあったが、小さなころから共に育ったハンナの悲しむ姿は、本当は見たくなかったからだ。
幼馴染のようで、親友のようなハンナ。
だからこそ、ここに来て欲しくないのだと心を鬼にする。
そうしなければ、“あの連中”に目をつけられかねない。
“あの連中”とは、元婚約者で婚約破棄を言い渡してきたと共に、この牢屋へエマを入れた男。
この国の第一王子であるアラン王子と、その一派である。
「エマ様。いくらエマ様の命令でも聞き入れません。私は、そんな言葉で『はい。そうですか』なんて、引き下がれない! だって、おかしいじゃないですか! お嬢様は無実の罪でここに居るのですから!!」
「ハンナ……」
息巻くハンナに、エマは呆れなのか諦めなのかわからない表情を向ける。
すると、ハンナは俯いてしまう。
そして、沈黙がその場に広がった。
ハンナの言うことは、正しい。
エマは無実の罪を着せられて、ここに居るのだ。
聖女を殺そうとした、悪女として。
その聖女は、今やアラン王子の婚約者だ。
そう。エマは、騙されたのだ。
いや。裏切られたとでもいえば良いのだろうか。
「それに」とハンナは、堂々と宣言した声とは違い、小さな声でエマに囁く。
「戦況は、そんなに良く無いようです。もう少しで、この国は敗れるかもしれません」
「そうなの?」
隣国との戦況に、エマは悲しそうな顔を見せた。
そんなエマを見ながら、複雑そうな表情でハンナは言う。
「この国が敗れれば、エマ様は解放されるかもしれません」
「そうだとしても、近衛騎士団長の父を持つ私の首は飛ぶかもしれないわね」
「それはっ……!!」
現時点で死刑を言い渡されているエマには、どちらに転んでも死の気配からは逃げきれないのだ。
自分を陥れた男の顔を思い出して、ふんと鼻で笑う。
「ハンナの聞いた噂が本当なら、なんで死神王に喧嘩を売ったのかしらね?」
「まったくです。死神王の家族を殺害という大それたことをするなんて――」
そこで、ハンナの言葉は、騒がしくなったことで遮られた。
それに、二人は地下牢の出入り口に目を向ける。
地上で何かあったらしい。
「エマ様。私、見てきます」
「ちょっと、待って!」
エマの制止の言葉を振り切り、ハンナはあっという間に走り出して地下牢から姿を消してしまった。
その代わりに、食事を運んできた男が、無言でエマにその食事を差し出した。
ハンナを追うことのできないエマは、おとなしくその食事を受け取る。
食事と言っても、一握りにできそうな大きさのパンとスープだけだ。
「お前。ちっとも痩せないんだな。あの噂は本当なんだな」
面白がっているのか何なのかわからない表情で、食事を運んできた男がエマにそう言って、元来た道を戻っていく。
それを、感情がそげた顔でエマは見送った。
そうなのだ。
三ヵ月この牢屋に入れられているが、一向に痩せないぽっちゃりとした体系に、呪いは本当なのだなと思う。
アッシュフィールドの何代か前の当主は、不倫した女である魔女に呪いを掛けられた。
それは、後に産まれてくる子孫にも影響の出るものだったのだ。
それが、どんなに減量をしようと頑張ってもぽっちゃりな体系でいるという、何とも言えず、けれど、呪われている当人達には深刻な呪い。
呪いが掛けられた原因は、不倫がバレた時に、魔女であるその女を手酷く捨てたからだ。
いや。不倫するのがいけなかったのだ。
魔女は、不倫をしているとは知らなかったのだから。
そう。アッシュフィールドの何代か前の当主は、身分を偽って魔女と交際していたのだ。
綺麗な魔女だったという。
(さぞ、怒り心頭だったでしょうね……)
呪い殺しても、おかしく無かっただろう。
それなのにも関わらず、ぽっちゃりした体系になる呪いで許すとは、優しい魔女だ。とエマは思う。
だって、今の状況を思えば、今すぐここを出て、アラン王子を殺したい思いで胸がいっぱいだからだ。
(こんな鉄屑の檻、ピンを使えば何とでもなるのにっ!)
近衛騎士団長の父や母と弟、それに従えている使用人達を思えば、そんなことはできない。
おかしなもので、エマが死刑宣告を告げられたというのに、父は近衛騎士団長を降ろされていなかった。
それは、やはりこの国王が切羽詰まっているのだろう。
ぽっちゃりだとしても、この国で右に出る者はいない、最強の騎士である父を手放せないぐらいには。
「ざま―みろだ」
ハンナの前で声に出したら、圧のある微笑みで叱ってきそうな言葉を呟いた。
そして、配膳されたスープを一口掬い上げ、口に含む。
ゴクリと飲む。
「っ……うっ!?」
喉から競り上がる激痛に、エマは顔を歪め、その場に倒れる。
(何故毒がっ)
胃から全身へと広がっていく毒の気配に、エマは困惑した。
だって、死刑が確定しているなら、こんなことをしても死ぬのだから。
こんなことをして、なんの意味があるのか。
(新しい毒なのっ!?)
昔から毒に耐性をつかされていたエマは、大抵の毒は効かない。
なのに、今効いているということは、新しい猛毒でしかありえないのだ。
(油断した……)
走ってくる足音が聞こえる。
「エマ様! この国は負けましたよ!!」
嬉しそうなハンナの言葉に、エマは嗤う。
エマは、薄れゆく意識の中で思う。
――ざまーみろ!
◆ ◆ ◆
(苦しい苦しいくるしい!!)
どのくらいその苦しみに、唸り声を上げていただろう。
すでに、その体力もなく、目を閉じて耐え続けている。
「エマ様。大丈夫です。私がついていますからね」
いつの間にか、ハンナは牢の中に入っていて、エマに話を掛けてくる。
きっと、今、目を開ければ泣いているだろうと予測できるような声だった。
ハンナもわかっているのだろう。
新しい毒だから、解毒は皆無。
そして、もう全身を犯している痛みは、手遅れの印。
「ハ……ナ……」
「はい。エマ様。いいえ。エマ」
どうか、私を殺して。
なんて、姉妹みたいに一緒だったハンナにエマは言えなかった。
いや。舌が回らなかったのもあるが……。
(でも。だれか、わたしをころしてっ)
毒に耐性があるが故の悲劇だ。
耐性がないものだったら、こんなに苦しまずに、一発でころっと死んでいたはずなのに。
エマがそう思っていると、ぞろぞろと数人が地下牢へやってくる足音が聞こえ始めた。
そして、足音が消えたのは、エマの牢屋の前だった。
「これは、どういうことだ」
この場所には不釣り合いな、若々しい声が聞こえる。
けれど、この場の人間が凍り付くには十分な圧のあるもの。
その空気に固まってから少し、最初に発言したのはハンナだった。
「毒を盛られたのです!」
「こいつは囚人か?」
「はい。ですが、無実の罪でここにっ!」
「そうか……。その様子では、もう手遅れのようだ」
「そんなことはありません!!」
ハンナが庇うような気配に、エマは重い瞼を開けようとした。
格闘していると、少年のたった一言が響き渡る。
「おい」
「は!」
「なに!? 離して!! いや!! エマ!! エマ――――!!」
人の近づく気配がしたと思ったら、ハンナが悲痛な叫びを上げた。
尋常ではないその声に、エマはやっとの思いで瞼を上げる。
まだ自分を呼ぶ声を頼りに、まだ霞む視界でハンナを探すと、男に捉えられている所だった。
それを遮るように、人が目の前に立つ。
(だれ……?)
はっきりしてきた視界に映ったのは、男に指示をしただろう少年だった。
黒髪で赤い瞳が印象的な、少年だ。
「今、楽にしてやる」
そう言って、エマの顔に整った顔を近づけて言った。
そして、元に戻り、腰に着けていたすらりとした剣を鞘から引きずりだす。
「クラウス陛下。俺が代わりをやります」
「いや。良い」
「ですが……」
「うるさい」
「……はい」
今、クラウス陛下と言ったか?
それならば、死神陛下のことだ。
こんなに早くこの国の王城に来れる人なのだから、この国の王は馬鹿な戦を仕掛けたことになる。
視線に気づいたのだろう少年――クラウスが微笑む。
それは、慈悲を含むものだった。
「一瞬で殺してやる」
「嫌よ!! エマ!!」
ハンナの悲鳴にも似た叫びには答えずに、クラウスの剣が首に狙いを定めている。
(これでやっと……)
これでやっと、楽になる。
そう思うと、自然と苦しみの表情から微笑みを零していた。
それを見たクラウスは、目を見開いたが、すぐに悲しそうな顔を晒す。
(ああ。嫌な役回りをさせてしまうのね)
この子は、ハンナに憎まれるだろう。
それでも、自分を殺してくれようとしている。
(優しい子ね……)
振り上げられた剣を見て、エマは申し訳なさと、それに勝る痛みから解放されるのだという解放感があった。
そして、剣が振り降ろされ、エマは首に喰い込むその瞬間に思うのだ。
――あなたは、私の恩人よ。
と。