5.秘密
「緋村さんっ。緋村一馬さーん」名前を呼ばれた。柔らかな声。天音という名の見習い看護師だ。
看護の専門学校に入ったばかりのところを、半ば強制的にリクルートされたらしい。まだ十代の少女だ。
「明日、退院ですね」私のバイタルチェックをしながら頬を膨らませた。「早すぎます。残念です」
「そんなに人気とは知らなかったな」私は苦笑した。
「筋肉ですよ、筋肉ぅー」彼女は無遠慮に私の胸をはだけると、「これが拝めないなんて…シクシク」と手を合わせた。
「そうか、もう若い自衛官が残ってないんだな」そういえば、三十代すら見かけなかった。
「はい、皆さん、前線に立たれました」天音は目を伏せた。
その指先が、私の腹の傷跡を探った。
「これは、熊さんに怪我させられたんですよね」
「熊さん?…んーまあ、そうか。熊さんなんて可愛いもんじゃないが…。死にかけたよ」
「緋村さんいいひとですよね?お願いがありますっ」天音は私に手を合わせた。
「動物さんを嫌いにならないでください。同じ生き物なのに、憎みあうの、天音は悲しいんです」
「あー、でも。君をボリボリ食っちまうんだぜ?俺はそんなにいい人じゃない。食われるくらいなら…」
「分かります。でもそれは昔っからですよね?人間と、生き物と、こんな分かれて戦ってほしくないんです」
「ん?よくわからんが…」
私が半ば呆れると、天音は身振り手振りで忙しく説明した。
「ああ、なるほどね。人間界、バーサス自然界、その戦争をやってるように見えるのか?」
天音は「うんうん」と頷いた。
確かに、“テラ”が出現してから、こちらの世界でヒトと自然との関係は変わってしまった。
昔から、熊は恐ろしい。だが、子どもはテディベアのぬいぐるみを抱いて寝た。ライオンや狼に憧れ、絵を描く子供もいた。
幼児は、絵本の読み聞かせで眠りについた。そこには様々な動物が登場した。
今は違う。
動物は、憎悪と侮蔑、あるいは食欲の対象でしかない。
擬人化を支える社会心理が破壊されたのだ。
猪を何十頭と殺したときの、不快感が蘇った。あれは、人殺しの罪悪感を含んでいた。
「…わかった」私は応えた。「憎まないよ」
私の言葉に、天音の目が輝いた。
「ありがとう。やっぱりいいひとっ!私ね、秘密があるんです」
窓を開けると、“ピューッ”と器用に指笛を吹いた。
その音が風に流れて消えた。
ベランダにカラスが一羽、舞い降りた。
羽を広げると五十センチほど。つややかな黒。いいものを食っているのか健康そうだ。
天音は、得意げに笑った。「友だち。頭いいんですよっ」
彼女がサンドイッチの切れ端を与えると、カラスは一口で飲み込んだ。
「そうか…君は動物が好きなんだね」私は平静を装い微笑んだ。
「色々、話せるいい友だち。そうなんだね」
「はいっ」と天音は答え、「でも秘密ですよ」と片目を閉じた。
彼女は用事を済ませると、部屋を出た。“窓を開けたままでいい”と言ったのは私だ。
立ち上がり、そっとカラスに近づいた。
「飛べるはずがない。そうだろ?」と話しかけた。「お前はただのカラスだ。ヒトの脳は鳥には重すぎる。だろ?」
カラスは、パッとくちばしを鳴らした。
「クアッ」と一声鳴くと、「バカヤロウ。ニンゲンナンテ、ハヤクヤメチマエ」と言い残して飛び去った。
「ふざけるな」私は窓辺に立ち尽くした。
カラスの群れが夕日に染まった曇り空を遠ざかった。
最近、外濠から神田川にかけて水質が改善し、カワイルカが見られるという。
街角ではタヌキが増えた。
もはや、すべて“入植者”たちと見なすべきかもしれない。
あちらの世界では、“テラ”の人々にとっての動物とは何なのだろう?
誰しもが動物に転生する可能性を持っている。それが当然の世界では、人と自然の関係に禁忌や断絶、誤解やファンタジーは生じないのかもしれない。
遼馬によれば、脳移植は延髄との“線”的な接続ではなく、大脳辺縁系における“面”と“面”の接合だという。したがって、動物的な本能が混在した状態で残る。
空を飛ぶ。森を走る。水中を泳ぐ。命がけで狩りをし、天敵と闘う。逃げる。雌を、食料を奪い合う。
彼らには“人間をやめてよかった”と、思う瞬間が訪れるのかもしれない。