4.神の手
「腹は塞がったか?」遼馬が病室の開き戸を開けた。
「勝手に入って来んな」私は警告したが、身体に全く力が入らない。自分でも驚くほど弱々しい声だった。
防衛省厚生棟のICUで大腸をあらかた切り落した直後で、感染症の併発による高熱も下がりきっていない。
遼馬は枕元にイスを引き寄せた。耳に包帯を巻いている。私が食いちぎった耳朶を縫合したのだろう。
「あの子は、俺たちの親父にちょっと似てるだろう?お前も乱暴なやつだが、ああゆう性格じゃない。隔世遺伝だ」と言う。
否定できない。五歳を超えたあたりから、私は颯馬の成長に不安を持つようになり、それを押し殺した。優子は明らかに手を焼いていたが、私は状況を直視しなかった。
そうだ。私と遼馬の父親は、人格障害者で、ヤクザにすらなれなかった男だ。
家族を殴るときは、大きく分厚い手で平手打ちをした。頬ではなく、わざと耳を狙った。耳を塞ぐように叩いて、鼓膜を破裂させる。倒れると足を使った。
私たち兄弟は耳を避ける方法を編み出したが、母親は暴力を前に何もできない人だった。
父親が刑務所に入る前に、母親は左耳の聴力と平衡感覚を失くし、精神的にもおかしくなっていた。
「酒を飲むと酷かった」私は、あの男が家の中で暴れる姿を思い出した。
「オーグに乗せてやったら、幸せそうだったよ。残念ながら仕返しにならなかった」遼馬は言う。
「闘いのあと、焼酎にシャブを混ぜて晩酌するのがお気に入りでな。まあ、結局は暴れるんで、始末するしかなかったが…」
青鬼の体組織は、覚醒剤に汚染されているのか。暗鬱の度合いが増した。
「あの子は?」
「酒も、薬物も与えてない。“テラ”の兵隊と闘うのが根っから好きみたいだ。特に、メスを追っかけて、乗っかって殺すのが楽しいんだろう」
私も優子も、颯馬を愛していた。
丸々と太って、よく笑う子だった。どこで何が狂ったのか。
遺伝。DNA。
それが定めなら、優子は苦痛に満ちたその死をもって何をあがなったというのか。
「なんだ、気分が塞がってるみたいだな?ちょっと良い話をしてやる」遼馬は笑った。
「最近、“テラ”の捕虜を尋問する研究が進んでる。言語野に電極を差し込んで無理やり喋らせる。で、あっちの世界のことが、少しずつ解ってきてるんだ」
敵はいつも、脳移植された動物だった。動物たちを操る“未来人”のことを、私は何も知らない。
「“Comprehensive Humanitarianism”“包括的人権主義”って聞いたことあるか?」
私は首を横に振った。
「“テラ”の政治的イデオロギーだ。こいつが中々よく出来てる」
遼馬は説明を始めた。
包括的人権主義。
“テラ”に死刑制度はない。懲役や罰金すらない。犯罪は、罰せられない。むしろ、最大限に生を全うするよう強制される。
もとより、一定の割合で犯罪は発生する。だが、再犯率はゼロ。
なぜこの矛盾が両立するのか。
犯罪者や、反社会的とみなされたヒトは、すべて脳を動物に移植される。そして、自然環境保護の役割を担う。
適用される年齢に下限も上限もない。
定期的な選別もある。十八歳になると犯罪傾向や社会性に関する一斉検査が行われ、二割以上が脳移植の対象になる。
成人儀式の一種として定着しているという。主を失った身体は、臓器移植など医療に貢献する。
犯罪や反社会性の内容によって、割り当てられる動物の種は異なる。凶悪犯罪の場合、肉食獣の雌に移植する確率が高いようだ。
動物化したヒトは、同じ種と交配する。だが、脳は生殖に影響しない。したがって犯罪者のDNAが子孫に伝わることはない。
いま起きていることは、地球規模の入植だ。未来人は、ユーラシア大陸の大部分を動植物だけの自然保護区にしようとしている。
「いまは俺たちヒトと、ヒトの脳を持った動物の世界。次にヒト動物が支配する。次の世代で、完全な動物の世界に置き換わる」
遼馬は微笑んだ。
「彼らの経済の仕組みもよく出来てる。経済活動は、AIによって完全にコントロールされているんだ。人口問題と環境問題は、脳移植によって解決できる。対立や競争はない。人権問題もない。資本主義の悪魔“神の見えざる手”から解放された、究極の計画経済だ」
「神も人間もいない、狂った未来だ」
私はそう思う。