殿下がご帰還なさるようですわ。
「そう……なのか」
イマイチ実感がなかったが、ワイルズはとりあえず頷いておいた。
多分、さっきのレオニール殿下もこんな気持ちだったのだろう。
別に、自分の中で何かが変わったわけではないのだ。
ただ、最初は体を触らせてもくれなかったチュチェに頭をぐりぐりされて『ちょっと嬉しいな』と思っただけである。
こんなもんか、という感じだった。
「それより、このレイキ? だったかは、どこに向かってるんだ?」
海に向かっているのであれば、船に避難させたと言っても巻き込まれる可能性がある。
さらに、こんな巨大な生き物が動いているのであれば、樹木はバキバキに踏み潰されて森は荒れるだろうし、海に入ったらとんでもない津波が起こるかもしれない。
麒麟や、レオニール殿下のような地上でしか動けない人たちを残して、ワイルズは白い飛竜のバンちゃんと一緒に、空に舞い上がった。
ちょっと機嫌が悪いのは、多分さっきチュチェに触られて匂いがついたからだろう。
飛竜は嫉妬深い生き物なので、他の動物に構うとこうなってしまうのである。
ちょっとバンちゃんを宥めながら上空に達し、下を見下ろすと……そこに見えたのは、霊亀の不思議な歩みだった。
台地がそのまま動いている、というのが最初の印象。
おそらく甲羅なのだろうそこから、黒い蛇の首が頭側と尾側からそれぞれ長く伸びている。
同様に黒い足も生えていて、ゆっくりゆっくり、地面を踏み締めて進んでいる……の、だが。
「……木々をすり抜けてる?」
あまりにも巨大過ぎて目視するのも難しいのだが、どうやら地面を踏む足の下にある樹木が潰れておらず、少し足が透けているように見えたのだ。
「……痕跡が残らない移動、か」
グリフォンの騎手に捕まったサーダラ兄ぃが、感心したように呟く。
「なるほど、あれほど巨大な魔法生物が見つからずに移動出来る理由、というのは、こうしたところにあったのか。人の使う魔術と、魔獣の使う魔法の類いは少し違うと言われているが、魔導学的にもおそらく興味深い事例だろうな」
「そうなのか?」
「ああ。透明になったり、翼がないのに飛べる魔獣、あるいは自身を大気に同化する魔術などは存在するが、明確に『物を透過する』魔術などは、知る限り現存していない筈だ」
壁抜け、と呼ばれるような魔術は遺失魔術に分類されているのだという。
「原理を知ることが出来れば、そうした魔術を復活できるようになるかもしれん」
「えーっと、それは良いんだが、サーダラ兄ぃ」
ワイルズが今知りたいのは、そういう部分ではない。
「あれが海に入ったら、どうなると思う?」
物を透過する魔法生物の魔法、というのが、どの程度作用するのかが分からない。
もし全身で水を透過出来なかったら。
あれだけの質量を持つ全身を霊亀が水に浸せば、要は風呂に飛び込んだ時の超巨大版みたいな水の揺れが発生する危険がある。
そうなると、波が大きく立つ以外にも海面が荒れて、船が転覆するかもしれない。
もっと沖合まで離すなら、海竜を操れるウォルフを連れてさっさと海に戻らないといけないのだ。
「……多分、大丈夫だとは思うが」
サーダラ兄ぃは難しい顔をして、霊亀を眺めている。
「根拠は?」
「言っただろう、『現れては消える島』の伝承などでは、忽然と現れて消える。もし何か大きな現象がその際に起こるなら、沿岸の被害が大きい。それ自体も記録されている筈だからだ」
そうして、彼は指を立てた。
「もう一つ。実際、現状の移動で樹木などは倒れていないわけで、地形が突然変わった、と思うような位置に霊亀はうずくまっていた。それに『魔獣の大樹林』は北にバルザム帝国、西にライオネル王国がある。となれば、来たのは海の方からだ。あの巨体が人目につかずに陸上を移動するのは難しいだろう」
「それは分かるが」
「我々が来た時、沿岸に巨大な波が立ったような痕跡は特になかった。本来届かないような位置に波の届いた跡があったりだとか、塩で草木が枯れたりだとかの状況が見受けられなかった、という意味だ。もしそうしたことがあれば、ウォルフが気づかないのはおかしいだろう?」
そう理路整然と言われてみると、いちいち確かにその通りではある。
「……なら、危険はないのか?」
「だから、多分だと言っただろう。万一のことを考えて避難しておくのは悪い提案ではない。あの移動速度なら、まだ猶予はある」
「なら、最初にそれを言ってくれ! サーダラ兄ぃ、喋りたいだけだろ!」
時間があるからだとは思うものの、流石にそう言い返したワイルズは、改めて霊亀の背中に向かって降下した。
※※※
結果から言うと、特に問題はなかった。
サーダラ兄ぃが予測した通り、特に波が立つこともなく、霊亀は背中に麒麟を乗せたまま、海に半身を浸してゆったりと泳ぎ始めたのである。
不思議過ぎる魔法生物だが、もしかしたら上位種や瑞獣と呼ばれるモノは魔獣などとはもっと別の存在なのかもしれない、とワイルズは感じた。
応龍は、あの後着地して、霊亀の背で眠り始めた。
チュチェも鳳凰になって元気になったのだが、麒麟の仔が気になるらしく離れようとしなかったので、まだアガペロと共に霊亀の背の上にいる。
彼女も飛べるので、頼めばすぐにアガペロを船には戻せるし、霊亀の動きはゆっくりなので、とりあえず扱いを保留にしていた。
そもそもアガペロを戻せても、チュチェはあの大きさでは、船の甲板に乗せるとそれだけで半分以上占領しそうな大きさである。
それはともかく。
「レオニール殿下、本当に麒麟の仔を連れて行かないんですか?」
改めて、キャンプ地にしていた辺りで別れの挨拶を交わす時に尋ねると、彼はにこやかに頷いた。
「ええ。まさか自分が選ばれるとも思っていませんでしたし、麒麟に選ばれたことで、逆にそれを得る意味がないな、と気づきまして」
「どうしてですか?」
するとそこで、レオニール殿下の瞳に、チラリと鋭い光が宿る。
「―――我が国の者らは、そんな権威に縋る者に従うほど安くはないから、です」
「……!」
それまで、ずっと穏やかそうな人物だと思っていた彼の獅子の本性が覗いた気がして、ワイルズは少しゾッとした。
レオニール殿下と戦っても、負ける、ということはなさそうなのだが……王の威圧とでもいうべきものを感じたのである。
「私も、自分の見つけた『王とは?』という問いの答え合わせをしようと思っただけだったので、あまり重要視もしておりませんしね」
横にいる獅子王に手を添えた彼は、すぐに笑みを苦笑に変えて、その雰囲気を霧散させる。
「殿下の側近の方々も、そうでしょう? 選ばれることを喜んでくれはしても、『選ばれた』という事実を誇示したら、失望されてしまうのでは?」
「あ〜……それはそうかもしれないですね……」
鼻高々にチュチェに選ばれたことを誇った時に。
おそらく掛けられるだろう、ディオーラの『愚かですわねぇ』というセリフ。
あるいはベルベリーチェ上妃陛下の『このたわけが』という叱責。
それらが容易に想像できてしまい、ワイルズはコクコクと頷いた。
「ワイルズ殿下は、少し私と似たような境遇にいるようですし。これからも仲良くしていただければ幸いです」
「ええ、こちらこそ!」
そうしてガッチリ握手を交わして、ワイルズは船に、レオニール殿下は『魔獣の大樹林』の方に、と別れたのだが。
霊亀の進路を聞いて、ワイルズはまた少々頭を悩ませることになった。
「アトランテ大島に向かってる!? 何でだ!?」
「それは俺ではなく、霊亀に聞いて欲しいことだな! でも、進行方向は我々と一緒だということは間違いないぞ!」
「助かるじゃないか。チュチェを休ませる場所を確保しながら連れて帰れるぞ」
「いや、それはそうなんだが」
まず何の為に? と思いつつ、ワイルズは甲板の上から霊亀の方を見る。
尾の方にある巨大な頭が船の上からでも見えるが、穏やかそうな顔をしており、攻め入る為に向かっているとも思えない。
チラッと『もしやチュチェを送り届ける為か?』という考えも頭をよぎるが、尋ねたところで返事を貰えるとも思えない……と考えたところで。
「あ。でもサーダラ兄ぃなら、もしかして霊亀と話せたりするのか?」
「魔獣と同じなら、おそらく可能だが……どうだろうな。後で試してみるか」
その前にとりあえず船を動かそう、ということで、出発の準備を整える。
そしてサーダラ兄ぃが霊亀に尋ねたところ、ワイルズの予想通りという返答があったようだった。
ありがたい話だ。
ありがたい話、だが。
「……麒麟に、霊亀に、鳳凰に、応龍。しかも麒麟以外はデカい。こんなの連れて帰って、大丈夫かなぁ……?」
アトランテ大島についた後にチュチェ以外は解散するならそれで良いのだが、ワイルズはそれだけがちょっと不安だった。
今回は自分が拾ったわけではないのだが、また妙な拾い物をして、と言われかねない気がしたのである。




