不審な気配がしましたわ。
そうして、どうにか駄々をこねるワイルズ殿下を宥めすかしながらハムナについたディオーラは、与えられた客間で、肩に手を当ててぐるりと首を回した。
「肩が凝りましたわね……」
「お疲れ様です」
侍女のメルフィレスに労られて肩を揉まれつつ、ディオーラは彼女に話しかけた。
「ハムナ王のことだけれど」
「はい」
先ほど到着してすぐに面会したへジュケ殿下の父、ケルヴ・ハムナ。
彼とよく似た容姿をした中年男性で、どこか顔色が悪い……目の下の隈のある人物。
ハムナでは神聖な生き物とされる蛇の頭を模した杖を持っていた。
そうして、イルフィール陛下と言葉を交わす彼から。
「微かに、瘴気の気配を感じたように思ったのだけれど、貴女は何か感じて?」
ほんの一瞬だけ、香るように漂ったその気配。
確証が持てず、その場で指摘することは出来なかったけれど。
瘴気の大量発生と、それに伴う【魔獣大進行】……一連の【災厄】と呼ばれる事象は、記憶に新しい出来事だ。
ハムナ王が瘴気に侵されているとしたら、何らかの危険があってもおかしくはない。
でも、そんなディオーラの問いかけに、メルフィレスは微笑んで小さく首を傾げた。
「お嬢様にも確証の持てないことでしたら、私には分かりかねますが……陛下ご自身の視線が、少々剣呑な感じは致しましたね」
「ええ」
ハムナ王は、表面上はにこやかで、けれど目が笑っていなかった。
「〝影〟も貴女も、それにワイルズ殿下もいるし、滅多なことは起こらないとは思うけれど」
「……もし気になるようでしたら、『入れ替わり』も視野に入れておいた方がよろしいでしょうか?」
「ええ」
侍女のメルフィレスは、高い戦闘力を持っている訳ではない。
けれど彼女は、パング侯爵家においてディオーラの影武者として育てられた侍女であり、通りいっぺんの侍女としての技能の他に、変装と暗殺に長けた能力を有していた。
『入れ替わり』は、彼女がディオーラの影武者として表に出ることを指す。
普通は潜入工作などを行う為の能力だけれど、ディオーラや王族に限れば、侍従に潜入などの危険な行動を取らせるよりも、〝影〟と共に本人が動いた方が、結果的に安全だからである。
「お嬢様、お嬢様は、何が一番気掛かりなのでしょうか?」
「……リオノーラの発言よ」
メルフィレスも分かっているのだろうけれど、彼女は多分、ディオーラの思考の手助けをする為に、あえてそういうことを口にしてくれる。
ディオーラは、ヘジュケ殿下が『狂信者』である、というあの発言の真意が、ずっと引っ掛かっているのである。
「ねぇ、メルフィレス。『王のしもべ』の配役をお浚いしたいわ」
「はい」
ディオーラが指先で唇を撫でながら告げると、彼女は質問に澱みなく答える。
何の能力もない『民衆』。
他の者の役職を看破する『預言者』。
人を守る護衛である『神官』。
これらが民衆側。
人々を不死の王の生贄に捧げる『王のしもべ』。
人でありながら不死の王を信仰する『狂信者』。
これらが王のしもべ側。
そしてどちらの陣営でもなく、死したる者が何者かを見抜く『魔術師』。
へジュケ殿下が『狂信者』ならば、配役上最も『王のしもべ』である疑いが濃いのはハムナ王だろう。
ーーー生贄。
あの遊戯の一番肝心なルールは、その部分だ。
『王のしもべ』は、『民衆』を生贄に捧げるのである。
ーーーなら捧げられる側である、不死の王、というのはどこにいるのかしら。
大昔と違い、今は魔導技術が発展している。
生き物を生贄に捧げることで邪神の加護を受ける、というようなことは迷信とされる領域であり、人の呪う禁忌の呪術ですらも、実効性の高いものは魔術体系に則った魔導陣や呪具を介して使用する『技術』である。
瘴気という『負の魔力』も、発生原因こそ様々にあるけれど人体に対しては『毒』の一種とされていた。
他に瘴気の発生原因として、あるいは不死の王と呼ばれる魔性の正体として考えられるのは、魔人王や魔王獣といった存在。
濃い瘴気が発生した際に生まれ落ちる強大な魔性が、伝承になるくらい長い期間生き残っている、というようなことだけれど。
ーーー【災厄】が起こった時も行動を起こさず、そうした存在が大人しくしている理由が分からないのよね……。
今回の【災厄】でも既に複数が確認され、〝光の騎士〟や【聖剣の複製】を持つ者達によって討伐されている。
「ダメだわ」
これ以上、推測を重ねて考えても無駄だとディオーラは判断し、思考の方向を切り替える。
「もし誰かが何かを狙っているとして、わたくし達の不利益になる事柄はさほど多くはないでしょうし、そちらを考えましょう。イルフィール陛下、ワイルズ殿下、わたくし達。それだけ守れれば問題はないわ」
幸い、他の王族やアトランテ貴族は皆、フェンジェフの皇都に居残っているのだから。
「何かがあるとすれば、この周りでしょう。なるべく離れて行動しないようにしなくてはね」
「お嬢様の判断に従いますわ」
メルフィレスの答えに、ディオーラは頷いた。
油断さえしなければ、何かが起こっても対処は可能。
この中だと、イルフィール陛下が戦力的にも立場的にも一番危険なので、少し手厚くても良いかもしれない。
愚かわいいワイルズ殿下は、剣の腕に関しては、自分の身とディオーラの身を守れる技量を備えておられるので、妙な絡め手さえ使われなければ問題はない。
「メルフィレス、この後の予定は?」
「一応、ピラミッドの見物がございますね。昼食を摂った後、夕刻からの予定となっております」
「殿下がこの旅行で一番楽しみになさっておられた予定ですわね。ふふ、今頃きっとソワソワしているわね」
何を楽しみにしているのか、と言われれば、スフィンクスを見に行くことを、である。
殿下は、魔法生物が大好きなのだ。
そうして、表向き平穏に昼餐会を終えたディオーラ達は、ハムナ王宮の裏にあるというピラミッドに案内された。




