あら、婚約破棄ですの?
―――わたくしの婚約者である王太子殿下は、大変愚かなのです。
ほら今も、早足で近づいて来られたと思ったら。
「ディオーラ! 君との婚約を破棄する!」
「陛下と妃陛下に却下されると思いますけれど?」
「何だとぉ!?」
金髪碧眼の美男子の理想だけれど、子どもみたいなワイルズ王太子殿下は即座にディオーラが切り返すと、突き飛ばされたように両手を上げた。
「そ、そんな事はないはずだ!!」
「ある、とすぐに理解出来ない辺りが、ワイルズ殿下がワイルズ殿下たる所以ですわねぇ」
ディオーラは頬に手を当てて、聞こえよがしにフゥ、と溜め息を吐く。
すると、ギュッと眉根を寄せたワイルズがギリギリと奥歯を噛み締めた。
「ディオーラ、君は、王太子であるこの私を舐めてるだろう!?」
「舐めてませんけれど、本当に愚かだと思っていますわ。ですけれど、一応言い分だけは聞いて差し上げますわよ? 何故婚約破棄を?」
ディオーラは、クスクスと笑いながら先を促した。
「その上から目線の不敬な態度が原因だぁああああ!! 来る日も来る日も私をバカにするその振る舞いに、もう我慢ならんのだ!!」
ワイルズがジタバタと暴れながら言うのに、ディオーラは、ほぅ、と息を吐く。
―――ああ、本当に愚かわいいですわねぇ、殿下は。
「愚かなのは本当のことなのですから、仕方がありませんわ、殿下」
「私の! どこが! 愚かだというのだ!」
「例えばですけれど」
ディオーラは、ピン、と人差し指を立てる。
「もう8年も連れ添った有能かつ貞淑で、王太子妃教育をもうすぐ終え、陛下や妃陛下の覚えがめでたいわたくしとの婚約破棄を言い渡すところ、とかですわね」
「その発言のどこが貞淑だ! いいか、夫を立てて、静々と寄り添う気立ての良い女を、貞淑というのだ!!」
「貞淑とは。
女性の操が堅くしとやかなこと。また、そのさま。
しとやかとは、物静かで上品なさま。ものやわらかでたしなみがあるさま。
たしなみとは、 芸事などに関する心得や、つつしみ、節度のあるさま、ふだんの心がけ、ですわね。
―――わたくし、きちんと弁えておりましてよ?」
「どーこーがーだぁあああああああ!!!! 何も、つつしんでもいなければ!! 物静かでも上品でもないだるぉおおおおおお!?」
「地団駄踏んで大声を出さないでくださいまし。そのさまこそ、紳士のたしなみがございませんわ」
ディオーラは、ふふ、と皮肉を口にし、口元に手を当てて密やかに笑う。
「それに、人前で愚かと述べたことはございません。場は弁えていますよ? 殿下」
愚かと口にするのは、二人きりの時だけ。
もっとも、護衛や侍女を外すわけにはいかないので、彼らには聞かれているかもしれないけれど。
「むしろ二人きりの時にだけ愚か愚かと貶められて、誰も私の発言を信じない!! 一体、この状況のどこがつつしんでいると言うのだ!? イジメだ! イジメだろ!?」
「心外ですわ、殿下」
ディオーラはワイルズに近づき、その乱れた柔らかな金髪をそっと耳にかけて差し上げてから、頬に手を添える。
軽く上目遣いに見上げると、ワイルズは顔を赤くして、ゴクリと唾を呑んだ。
少しはしたないかしら、と思いつつ、ディオーラはそっと告げる。
「わたくし、こんなにも殿下の愚かしさを愛しんでおりますのに」
「また愚かって言った!」
一瞬、見惚れたことを後悔するように顔を歪めて、ワイルズが距離を取る。
顔は赤いままなので、またディオーラはクスクスと笑った。
「もう我慢ならんのだ! 私は、私は他の女性を王太子妃に選ぶのだ!!」
「あら、殿下。……本当に、可能だと思いますの?」
「な、何がだ?」
スッとディオーラが目を細めると、ワイルズがたじろいだ。
「稀代の秀才と呼ばれ、歴代最短で王太子妃教育を修了し、貴族学校始まって以来の全技一位を取って首席の座を得て、美麗な髪は烏の濡れ羽色、瞳は黒曜石、肌は新雪の如く、顔立ちは女神の再来とまで言わしめた、このわたくしよりも……」
―――優れた女が、この世にいると?
と、甘やかな笑みを浮かべて首を傾げ、貌に手を添えると。
うぐ、とワイルズは平均以上に整った美貌を強張らせた。
「ましてこれほど殿下をお慕い申し上げ、いつだって側に侍ってその秀麗なお顔と、ご活躍と、才覚と……それらを以てしてもわたくしに敵わないことにコンプレックスを抱きがむしゃらに無駄な努力を続ける愚かしさを見守りたいと思っておりますのに……」
「途中までめっちゃ良いこと言ってたのに台無しなんだよ!!!!」
キィー!!! と感情をあらわにするワイルズの姿に、ディオーラは胸が締め付けられる気持ちになって両手を胸元で握る。
―――ああ、なんて愚かわいい……。
「また失礼なことを考えているだろう! 可愛らしく装ってもダメだからな!!」
「あら、可愛らしいと思ってくださいますの? お恥ずかしいですわ」
自分でも、熱を帯びほてっているという自覚のある頬にそっと手を添えて、軽く俯く。
「くっ……自分の儚げな美貌の活かし方を完全に計算したその動き……! い、今までは絆されたが、今度こそ騙されんぞ!」
「わたくしの愛は本物ですわ、殿下……」
「愚かさを愛されても嬉しくないのだッ!!!!」
―――ワガママですわねぇ。
これ以上いじめると本当に拗ねてしまうので、ディオーラは少し真面目になる。
「ですが、殿下。殿下は素晴らしく優秀ですけれど、わたくしに敵わないのは本当のことですわ。それに、殿下には一つ、どうしようもない欠点がございます。わたくしがお側にいなければ」
「な、なんだ、その欠点とは」
「―――目先しか、見えていないこと、ですわ」
そっと人差し指を立てて、殿下の口元あたりの空中で止める。
「そ、そんなことはない!」
「先の先まで見ていれば、殿下がわたくしを手放す選択はございません。また、短絡的にお怒りになって、婚約を破棄するだなんて言語道断ですのに」
「そんなことは!」
「まして、わたくしにからかわれて、仮面を被らずに、素の自分をさらけ出せるのが大好きで」
「そんっ……」
「殿下がわたくしのことを、好きで好きでたまらないことくらい、お見通しですのよ?」
「っ」
もう何も言えずに口をパクパクさせるワイルズに、ディオーラは大きく笑みを浮かべる。
「さ、愚かで可愛いわたくしの殿下。そんなことを言い出した本当の理由を、そろそろお教え下さいませ」
少しの間、唇の端を震わせてから。
殿下は諦めたように小さく顔を伏せて、ボソボソと言う。
「……君が、元々そんなに体が強くないのに、出来てしまうからって、無理を重ねるから……」
「この先、王妃になったら先に死んでしまうかもと、心配になりまして?」
「……そうだよ!」
拗ねたように吐き捨てる殿下に、ディオーラはさらにお互いの距離を縮める。
「そう思っていただけるのでしたら、大事にしてくださいませ。無理をしていると思われるのでしたら、殿下が陛下や妃陛下に伝えていただいてもよろしいのですよ?」
伏せた顔を下から見上げるように、少しだけ、甘えてみせると。
戸惑った顔で、ワイルズは目を瞬かせた。
「良いのか? それよりも、婚約者でなくなれば経歴に傷はつかんだろう?」
その問いかけの意図は、もちろん正確に理解していた。
完璧な王太子妃としてこなしている教育や職務を、体力のなさを理由に減らす……ということは、ディオーラの経歴に傷がつくことになるだろう、と。
でもそんなのは建前。
婚約破棄を言われる方がよっぽど経歴には傷がつくのに、そっちには気が回らず、ディオーラの健康を心配して理由をでっち上げただけなのだ。
―――本当に、愚かで可愛い人。
手放したくないと思っているくせに。
手放す気なんかないのを、知ってるくせに。
「わたくし、良案を提示はしても、殿下のなさることをダメと言ったことはありませんわよ」
ディオーラがクスクスと笑うと、ワイルズは口をへの字に曲げて、うなずいた。
「分かった」
ふわりと、ディオーラは背中と足に手を添えて抱き上げられた。
「あら?」
「そんな青い顔をしてるんだから、今すぐ休め! 私が部屋まで連れていってやる! 父上たちにもすぐに仕事や教育を休ませるように伝えるからな!」
耳まで真っ赤にして、ワイルズが言うのに、ディオーラは目をぱちくりさせた。
ワイルズは、目の前のことしか見えないけど。
ディオーラのことは、本当に良く見ている。
―――本当に、貴方にだけはいつも見抜かれてしまう。
だから、好きなのだけれど。
短編の連載版です。
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