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ナオミはハルに近寄った。氛のコントロールを練習している。真面目にやっているようだ。少し様子を見ていると、氛の流れが良い。よどみが少ない。意図的に氛を調整すると、不自然さが出てしまう。それが抑えられている。不意にハルの氛が乱れた。
「あ、ナオミさん」
「邪魔してごめんなさい」
「いえ。あの、アドバイス通りにやってます。何か、こう、上手く行きそうです!」
ハルは興奮している。何かを掴みそうだ。手応えがあると、地味な鍛練も楽しくなる。良い傾向だ。しかしナオミは笑顔のあと、顔を引き締めた。
「でも、ちょっとオーバーワークね。ここらで休憩しましょう」
「そうっすかね?でも、了解です!」
ハルは床に置いたタオルを取る。そのときにフラついた。氛はたくさん出せば疲れる、というものではない。何でどれだけ疲労するかは、個人差が大きい。慣れないことは疲れやすい。疲労の蓄積に気付かないこともある。特にのめり込んでいるときは注意だ。今のハルのように。行き過ぎると危険である。
「ほらね。気を付けなさい」
「う、了解っす」
二人は道場を出て、廊下の自販機に向かった。そこには喫煙スペースやベンチがあり、小さな休憩所だ。ハルは自販機に着くなり、ふーっと吐いてベンチに座った。疲れを自覚したのだろう。ナオミはポケットから小銭を出す。
「何か飲む?おごるわよ」
「マジっすか?じゃあ、甘いコーヒーで」
ガコンと落ちる。拾ってポイと渡すと、ハルは煙草を咥えていた。ナオミはブラックを選ぶ。
「次の仕事だけど、」
ナオミはそう切り出し、先ほどの話しを伝えた。ハルは驚き、嬉しそうな表情を見せたが、徐々に緊張が増す。ナオミが危険な面を強調したからだ。しかしメリットやその面白さを伝えると、やる気が満ちて来る。最終的な参加判断はハルに任せたが、二つ返事でOKだった。ハルはワクワクしている。疲れた顔もマシになった。
「それまでしっかり準備なさい」
「ういっす。でも、今から待ち遠しいっすね」
そうね、とナオミはコーヒーを飲む。
「リゾート楽しみっすね!」
「ぶっ、」
吹きそうになったナオミは、それが否定できなかった。正直、初日と最終日くらい水着で、と考えていた。氛は好きを伸ばすが肝要である。後輩には規範を示さないといけない。
「念のため、あくまで念のために、水着も持参で」
「了解!」
二人はしばらく雑談した。ハルは疲れている。今日はもう切り上げて、気付いたことをまとめる方が良いだろう。頭を使うのも大切だ。能力者に必要な知識は山ほどある。雑談中に色々考えていると、階段の方に人影が見えた。ユキエである。
「ちょっと事務室までいいかしら?」
空気が重い。きっと良くないことだ。ナオミは引き締めて事務室に戻った。能力者が招集されたようだ。会社にいるのはナオミ、テツ、アキラ、ハルの4人だ。事務室の会議スペースに集まった。ユキエはすぐに話し出す。
「早速だけど、近くで暴行事件があったわ。能力者の犯行みたい」
「能力者っすか?」
ユキエは驚くハルに頷いた。余裕がなさそうだ。ナオミはふと気付いて、ユキエを見る。
「炎者、ですね」
キヨタカから聞いたことがある。才能を持つ者は、自然と氛の存在を自覚する。教えられずに氛を理解し、我流で氛を高めようとする。そこに盲点があった。正しい手順を踏まず、氛にのめり込む者は、往々にして炎者となる。
炎者とは魔に入る者のことだ。氛が炎のように暴走し、一時的に身の丈以上の力を得る。それは同時に高揚感や興奮をもたらす。しかし、その後に無気力やイライラ、錯乱、失神などの代償を伴う。最悪、死ぬこともあるらしい。魔に入った状態である。幸運にもフロンティアに来た人は、正しい手順で学ぶことができるようだ。フロンティアは能力者を救っている。キヨタカが熱心にスカウトをする理由かもしれない。ユキエは頷いた。
「おそらくね」
ハルの頭にハテナが浮かぶ。他の二人は知っているようだ。ユキエは簡単に説明し、先へ進める。
「協力依頼が来てるわ。今回は皆にも参加してもらう。とりあえず、今動けそうな人はいる?」
四人は視線を交した。テツとハルは動けないだろう。ナオミとアキラの状況次第だ。アキラがユキエを見た。
「犯人の情報はありますか?」
「学生だけど、かなり強いわ。ちょっと暴走ぎみね。暴れ回ったみたい。たぶん警官だと厳しいわね」
能力者は基本、対動物を想定している。鳥やサル、クマなど相手は様々だ。捕獲前提で準備し、気付かれないよう潜伏する。隙を付き、一瞬で終わらせる。これがメインの行動だ。殴ったり蹴ったりはするが、あくまでサポート用である。対人として洗練されたものではない。
問題はまだある。動物は生きるために殺す。縄張りを守るために襲う。子を守るために威嚇する。本能的な行動で、対処はしやすい。しかし人は異なる。興味本位で暴行し、快楽で殺すこともある。そういった想定外に対処することは、多くの能力者には難しい。
ただ有り難いことに、フロンティアには例外もいる。ユキエは笑顔を見せた。
「安心して。私も行くから」
安堵が広がり、ナオミも少しホッとした。しかしテツはうなだれる。
「すみません。おれはダメです」
おれもです、とハルが続いた。ユキエはいいのよ、と声をかけ、ナオミとアキラを見る。二人は大丈夫そうだ。
対人の依頼はほとんどない。ナオミも経験はない。しかし基本は同じである。気付かれずに接近し、捕まえれば良い。炎者は強く、行動が読みにくいが、何とかなるはずだ。ユキエもいる。
「じゃあ、行きましょう」
炎者への対処は急を要する。被害が一瞬で広がるかもしれない。三人は急いで事務室を出た。
「走っていくわ。時間ないから」
ユキエは階段を下りながら言う。能力者は鍛錬を欠かさない。ランニングは日課である。氛をまとった状態で、1時間以上走り続ける。時速は最低でも50km/hだ。車より速い。動物から逃げ切るためである。これをクリアしないと実践には出られない。ハルはナオミに日々追い回され、血反吐を吐きながら、ごく短い期間でクリアした。根性も才能である。
「ちゃんとついて来なさいよ」
「大丈夫ですよ」
平気なナオミの隣りで、アキラは苦笑いした。まだ3年目の能力者だ。体力は高い方ではない。女性の方が時としてスパルタである。三人は会社の外に出た。
「準備はいい?」
二人は頷く。ユキエはスーツ姿のままだった。
「5分で着くわよ」
「車で30分はかかりますが、」
「泣きごと言わない」
了解です、と言うアキラの背中に、ナオミは手を添える。よく見る光景だ。ユキエの無茶ぶりには慣れっこである。二人は遅れないよう、走り出したユキエを追った。