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「ここからだ。ナプーさん、」
ナプーが木から降りて来た。ナオミは周囲を見渡す。特に変わった様子はない。太い木々が密集し、薄暗く、ジメジメと不快だ。領域は数キロ四方ある。周辺の衛星画像も見たらしいが、役に立たなかったそうだ。
「別々に探したいけど、無謀ね」
「ああ。三人で地味に探すしかない」
「手掛かりもなしか」
ナプーはしゃがんで、土の匂いを嗅いでいる。そういえば、あのにおい、ナオミはふと思い出した。近づけば漂って来そうだ。
「ねえナプー、鼻は利くの?」
「鼻?当然だ。匂いも辿れるぞ」
さすがである。大変心苦しいが、排便のにおいを追ってもらおう。しかし頼むと案外反応は薄かった。普段から動物の糞を追っているのだろう。ナプーは木の上に登り、しばらくして降りて来た。
「ビニマ山の方から感じる。ついて来い」
二人は後を追う。ナプーは鼻をスンスンし、地面や木の上を嗅ぎまわった。犬みたいで可愛い。たまに大きく息を吸い、匂いを吟味しているようだ。しばらく移動すると、ナオミも感じた。臭い。だが少し違う。腐敗臭か。ナプーは渋い顔で振り返った。
「どうしたの?」
「ダメだ。鼻が利かない」
「変な植物が増えたな」
確かに増えた。不気味にカラフルだ。特に目を引くのは巨大な花、赤に紫の斑点で、直径は50センチほどか。中央にくぼみがあり、覗こうとしたら刺激臭だ。
「うっ、くさ。この花が原因?」
「ちがう。それは臭いだけだ」
なるほど、臭いだけの花だった。ナプーは臭いだけの花を飛び越え、その先の藪を指差した。目立たないが、青黒い綺麗な花が咲いている。1つ、2つ、3つ、よく見るとたくさんある。ツルを伸ばし、広範囲に花を咲かせていた。
「こいつの匂いは、鼻を麻痺させる」
「麻痺?」
ナオミは花に近づいた。花びらは繋がって1枚か。真上からだと形は五角形で、模様が星のように見える。しかしこれだけ近づいて、何も感じない。というか腐敗臭で分からなかった。こっちで麻痺している気分だ。
「兄さんは感じる?」
「いや。それよりも、周囲の様子が少し変わった」
においに気を取られたようだ。しかし集中しても分からない。さっきのジャガーといい、全然ダメだ。ハテマは相当ゆるかった。ユウジが右手をクイクイしている。ナオミは携帯を渡す。
「他に変わったところは?」
「動物の気配が消えている。動物はこの匂いが嫌いだ。大量に咲いているからな」
ユウジは頷いて、携帯を見せる。動物の気配だったか。嗅覚に頼る動物は嫌いそうだ。あいつはたぶん気にしない。むしろ敵が減って好都合だろう。
「身を隠すには最適ね」
「他に当てもない。この辺りを探す」
ナプーに匂いの強い方へ行ってもらう。余計に鼻が利かないが、あいつのにおいは分かるだろう。しかしライバルの巨大な花も多い。臭いだけとはいえ、あると探しにくい。動物がいない分、こういった植物は多様だ。今度はナプーが右手をクイクイした。
「植物には触るな。危険だ」
「分かってる。絶対触らないよ」
触るわけない。だが進みにくい。そこら中で草花が密集し、薄暗く、見通しも悪い。ナイフで切り開くのも危険だ。何が出てくるか分からない。ここはベテランのナプーに付いて行く。木のナイフを上手く使い、器用に進む。腐敗臭は徐々に弱まって来た。
「止まれ」
「ん、どうしたの?」
「あれを見ろ」
前方の木、根本は他と変わらないが、途中から茶色の塊に覆われ、直径2mほどに膨らんでいる。それが上方まで続き、見える範囲は茶色だ。嫌な予感がする。下の地面には黒い塊、こっちはうごめいて、移動している。
「アリの巣?」
「絶対に近づくな。食い殺される」
「分かった。いっ!」
ふくらはぎ、噛まれた。ナオミは素早く潰す。肌に密着した攻撃は氛で防げない。氛は液体のようなもので、外からの攻撃を減衰し、受け止める。だがゆっくり氛の中へ侵入し、人体に密着してダメージを与えれば、氛の防御がない状態での攻撃と同じである。つまり、このアリには食い殺される。
「そこら中に巣があるな」
「もう、血が出てる。昆虫もたくさんいるのね」
植物の防壁に、昆虫が守りを固める。自然の要塞である。これは侵入が難しい。ナプーがまた右手を出している。眉間にしわ、アリ塚の奥を見ているようだ。
「ナオミ」
「何?」
「この奥、何かいる」
兄妹は目を合わす。当たりか。この奥はアヤノが示した領域のほぼ中央だ。ドンピシャ、鳥肌が立った。武者震いでもある。ナプーはアリ塚を迂回して、さらに奥へ進む。相変わらず動物の気配はない。しかし前方の様子が変わった。木々が減り、岩場が見えて来た。ようやく森を抜けると、目の前は高い崖だ。これを登るのか。ナプーを見ると鼻をつまんでいる。深呼吸し、ナオミに振り返った。
「あそこだ」
ナプーの指の先、崖の中腹に穴が開いている。遠くて分かりにくいが、どうやら人が通れそうだ。それに、心なしか、臭い。嫌でも思い出す。
「あいつのにおいだ。間違いない」
「穴の中が敵の巣か。やっかいだな」
たぶん仲間がいる。岩に穴を掘り、集団で暮らす。無策で突っ込むのは分が悪い。相手の土俵だ。それに異形の敵、言葉は通じない。人の形をした、何か。ナプーは木の上に移動し、中の様子を見ている。
「凝った仕掛けとかは、ないと思う。知性は低そうだし」
「そうか」
「堅くて、形は変わるけど、それだけ。空気はどうかな、吸っても平気だと思うけど」
「敵は元人間だろ。吸い続けたら、そうなっちまうかもな。この島は何が起こるか分からん」
分かっている。想像しないようにしていた。異形のハルが、襲って来るかもしれない。迷ったら死、当然だ。でも、やっぱり、心の整理はつきそうにない。痛っ、またユウジに肩パンされた。
「うだうだ考えるな。ハルがどうなっていようが、助からないと決まったわけじゃない。おれたちは、ハルが助かると信じて、最善を尽くせばいいんだよ」
「分かってるって。心配無用」
昔からそうだ。肝心なときは、すぐ気付く。うざったいくらいに。ナオミは駆け出して、ナプーのいる木によじ登った。う、臭い、きつくなってきた。ナオミは急いで登り、ナプーの隣で鼻をつまんだ。完全に通路を塞ぐ。
「なかは、どう?」
「ふっ」
笑われた。鼻声が過ぎた。逆にナプーは深呼吸している。あり得ない。肺に空気を溜め込むなんて。息を吐き終わると、ナプーは右手を出してきた。携帯を乗せる。
「においは気にするな。たぶん問題ない」
「ふごい、そんなことも、わかるのね」
「ある程度はな。じゃないと、ここでは生きられない」
説得力がある。問題ないなら、あとは耐えるだけ。ナオミはゆっくり手を離した。う。ナプーはよく平気でいられる。ユウジは崖に近づいて、岩を見ているようだ。ナプーが不意に立ち上がった。
「来い、中へ入る」
「え、ちょっと、」
ナプーが飛ぶ、枝がしなって、揺れる。あんなとこまで、ユウジのすぐそばだ。氛の使い方が根本的に違う。ナオミも飛ぶ。入口がちょっと近づいて、遠ざかった。ようやくだ。ハルがあの中で待っている。




