第七十七話 般若と桜
綱木のものでも田中のものでもない足音は、どんどんと神社へ近付いている。
「来たっぽいですね。それにしても、何でこの桜に拘るんやろ。二回も失敗したら私やったら他所行くけどなぁ」
鈴音の疑問に桜の精は寂しげな笑みを浮かべた。
「どっかで昔話を聞いたん違う?」
その反応で、やはり昔ここで何かあったのかと鈴音は納得する。
「有名な話……ではないですよね?それやと今頃この幹は藁人形だらけやろし」
「うん。このへんの人でも、昔何か可哀相な事があったらしい、ぐらいしか知らん思う。でも、人は紙に書いて残すやん?」
「あー……、郷土史纏めた本とかになら載ってそうですね。けど普通そんなん読まへんよなー……。そういう仕事の人なんかな?何か調べ物?取材?それで知って、いざそういう心理状態になった時に思い出した……?」
ブツブツと呟いていると、足音が神社入口まで来ていた。
口を噤んだ鈴音は一度深呼吸し、覚悟を決めてそちらを見る。
やって来たのは桜の精の言った通り、女だった。
30代前半ぐらいだろうか。
服装は鈴音と対して変わらない。
白装束でもないし頭に逆さの五徳も蠟燭も無い。
ロングヘアにカジュアルなパンツスタイルで、右手に小型の懐中電灯を持ち、左手にランチバッグのような物を提げている。
もう少し早い時間帯に街なかですれ違っただけなら、記憶に残らないだろう。
彼女の顔さえ見なければ、の話だが。
別に角が生えている訳ではない。
口が裂けている訳でも牙が出ている訳でもない。
それなのに異様だと感じさせる原因は、彼女の目にあった。
大きく見開いて真っ直ぐ前を見つめ、ろくに瞬きもしないその目に理性の光は見当たらない。
般若の面とは似ていないが、それでも充分過ぎる恐ろしさ。
「うわぁ……アカン。おまけに頭から何か出しとるし。あれが負の感情かな。見るからにアカンな」
女の頭からモヤモヤと湧き出た黒いモノが、煙のように立ち上ってはどこかへ流されて行く。
「あのまま飛んでってどっかで溜まって、澱が出来上がるんかぁ。あの調子で出す人おったら、そら消しても消しても追いつかんわ」
あちこちに澱マークの付いたマップを思い出し、うんざりとした顔をする鈴音。
思った程には女の顔が怖くなかったので元気だ。
その間にも、ここに人が居るとは知らない女は慣れた様子で桜へと近付き、しゃがみ込んでバッグを地面に置いた。
何やら呟きながら中から取り出したのは金槌と藁人形だ。
続けて五寸釘も取り出す。
それを見ていた桜の精は悲しげな顔になり、鈴音は溜息を吐いた。
「打ち込まれる手前で、ドーム拵えて幹に触ります。準備しとって下さい」
鈴音の声に桜の精は小さく頷く。
木の中へ姿を消す桜の精を確認してから、鈴音は女へ向き直った。
ほぼ同時に、呪いの道具一式を手に立ち上がった女が顔を上げる。
鈴音は思わず息を呑んだ。
鬼女が居た。
藁人形を握り締め、食いしばった歯の間からシューシューと息を吐き、眉間から鼻筋に皺を寄せて唸る姿は到底人には見えない。
怨念の宿る目が睨むのは、桜の木ではなくその先に居る誰か。
わざわざ藁人形に釘を打つ等という回りくどい事をせずとも、この姿で憎い相手の前に現れてやれば苦もなく目的が果たせそうだ。
「こ……っわ!!」
咄嗟に自身の胸元を見た鈴音だが、今日は鼻を埋めさせてくれる虎吉は居ない。
慌てて深呼吸を繰り返し、どうにか平常心を取り戻す。
「透明な氷透明な氷」
念仏のように唱え、純氷で出来た氷像の美しさをイメージしながら掌を空へ向けた。
直後、透き通った分厚い氷のドームが音も無く神社全体を覆う。
消す時の事を考えて、ドームに繋がる細い氷を足元まで伸ばしておいた。
「よし、これで悲鳴も怒鳴り声も響かへん」
頷いた鈴音は、周囲の異変に一切気付かず桜へ向かう女を見る。
女が木の根元に懐中電灯を立て掛け、藁人形を幹に押し当てて釘を持ち替えようとした所で、桜の精へ声を掛けた。
「触りますよ」
魂の光を灯し、右手でそっと幹に触れる。
左手で藁人形を押さえながら釘を持ち、今まさに打ち込もうと金槌を振り上げた女の目の前に、木の中から桜の精が顔を出した。
「ッキャアアア!!」
予想通り大きな悲鳴を上げた女が、弾かれるように下がった先で尻餅をつく。
「おぉ、悲鳴はフツーや。けど髪の毛乱れて怖さ倍増しとるんが嫌やなー」
うへえ、という顔をする鈴音の視界では、女が信じられない物を見る目で桜の精を見上げていた。
懐中電灯は倒れて逆方向を照らしているのに、桜の精の姿が見えるらしい。
光る魂の力の為せる技だろうか、と鈴音は不思議がる。
「……こんばんは。目が合うてる……私が見えてるんやんね?」
微笑し小首を傾げる桜の精に、女は少し後退りつつも頷く。
「よかった、声も聞こえてるんや」
ころころと笑う桜の精を見つめる女は、突如現れた美少女が敵か味方か見極めようとしているようだ。
「うふふ……ホンマはね、ずっとずーっと話し掛けてたんよ?そんなんしたらアカンよ、って」
桜の精の言葉を聞いた女は顔を醜く歪めた。
なんだ、敵か、とでも言うように。
だが桜の精が続けた言葉で、女の表情は一変する。
「だって、その呪いが完成したら、あんただけ不幸になってまう」
「……え!?私……だけ……!?」
目を見開いて驚き、食い入るように桜の精を見る女。
「うん。やっぱり知らんかったん?素人が掛けた呪いは、全部自分に返って来るんよ?」
気の毒そうな顔で告げる桜の精に、女は激しく首を振る。
「嘘や!!呪詛返しされへん限りそんな事ならへん!!それも丑の刻参りは呪われとるて気付いた時には大概が手遅れやねんから、私に返って来るとしてもあの女が死んだ後や!!」
負の感情を立ち上らせながら叫ぶ女を見つつ、鈴音は『へぇー、そうなんや。よう調べとるなぁ。桜の精も、返って来るんは半分や言うてたもんなぁ』と感心していた。
そんな女の反応に桜の精は動じる事もなく、小さく息を吐いてから口を開く。
「誰がそんなん言うたん?……私は見たよ?ここで呪い掛けて死んだ女の人と、呪われたのにピンピンしてる女の人とその旦那さん」
それを聞いた女が明らかに動揺した。
「それ……恋人を金持ちの女に取られた人が昔ここで……」
「うん。どっかに書いてあったん?けど、ホンマの事は書いてなかったんやね」
「呪った人は死んだけど、呪われた方も一家離散したんでしょ!?充分やないけど呪いは確実に効いてるやん!!」
地面を叩きながら訴える女を、桜の精はただじっと見つめる。
女の混乱が落ち着くのを待つように、只じっと。
「……嘘や、ピンピンしてた……?旦那さんいう事は結婚したん?ほな彼女は?金持ちの娘に恋人取られて独りで死んだだけ!?」
段々と俯きブツブツと呟く女を見ながら、桜の精はまたしても気の毒そうに首を振った。
「お金持ちの娘さん違うよ?普通の娘さん。男の人の方が娘さんを好きになってもうて、元の恋人にゴメンナサイ言うて別れたんよ?」
勢いよく顔を上げた女だったが、力無く口を開きかけただけで声は出せなかった。
「ここで……私の前で沢山楽しそうにお喋りしてたのに、少しずつ回数が減ってって、最後は男の人からお別れの挨拶。わぁ悲しいなぁ思て見てたら、女の人は笑顔やったんよ。『それなら仕方ないやん、うまい事いったらええね』て」
何か思う所があったのか、女の目元がピクリと動く。
「女の人も男の人の事、もうあんまり好きやなくなってたんかなぁ、思てたんやけど……違うかってん。男の人が居らんようになってから、わあわあ泣くんよ。悔しい悔しい言うて。やっぱり若い女がええんか!言うて」
聞いている女の顔が、またしても鬼のそれに戻って行く。
「その何日か後から、夜中に白装束で藁人形打ちに来だしたわ。あんたと違て、あの人は七日間やり遂げてもうてん。けど……誰も死なへんし病気にもならへん。……ああ何でや、このままやとあの二人が結婚してまう!」
重ねた手を胸に当て、迫真の演技を見せる桜の精に、女だけでなく鈴音も引き込まれていた。
「何がアカンの?何かが足らんの?……ああそうや“人を呪わば穴二つ”や、先に私が入って待っとかなアカンのやわ、きっとそうやわ」
女の目を見つめながらニタァと笑うのは、桜の精かそれとも別の誰かか。
「丁度ええ木がここにあるやないの、あの枝やったら足が着かんやろか」
ぐるりと振り向いた桜の精が見る先に、太い枝を落とされたらしい切り口がある。
「……そない言うたその日の夜中に、枝に縄掛けて首くくったんよ」
元の幻想的な美少女に戻った桜の精にホッと息を吐いて、鈴音は女の様子を伺った。
女は、思い詰めたような目でじっと桜の木を見ている。
思わず鈴音は『解っとる思うけど人を呪わば穴二つてそういう意味ちゃうで!』とツッコんでやりたくなった。
「その後しばらくだぁれも来てくれへんから、烏に頼んで男の人がどないしてるか見てきて貰てん。そしたら結婚してるて分かってん。その時に烏が私の花びら落としてったみたいで、男の人が慌ててお参りに来たわ」
桜の枝を見つめていた女の視線が、桜の精へと移る。
「そんなつもりやなかったんや、許してくれ、とか言うてた。それが原因かは知らんけど、結局その後二人はうまい事行かんようになったみたいやねん」
ハッと目を見開いた女の顔に、醜い喜びが広がって行く。
しかしそれも一瞬だった。
「何年かしてから娘さん、別の男の人とここへお花見に来たわ。せっかく二人が別れたのに、もうあの女の人は死んでしもて居らへんねん。もしかしたら『やっぱりお前がええわ』とか言うて男の人戻ってったかもしらんのに、居らへんねん」
鈴音などは『そんな男いらん』と思うのだが、思い込みの激しい女はやはり違うらしく、その目に絶望の色が滲んでいる。
「生きとったらなぁ……。何で死んでしもたんやろ。何であの時、自分が先に死ななアカン思たんやろ。何でそんな風に……思い込んだんやろ……」
雰囲気を作る桜の精の声に合わせ、鈴音は桜の木にある切り口から白い氷で枝を再現した。
ついでに、輪になった荒縄も。
「ヒッ……!」
驚愕する女の手首を、地面から生えた白く冷たい手が掴む。
「ィヤアアア!!」
振り払おうとする女の動きに合わせ、魂の光を全開にした鈴音は足元から這わせていた氷を軽く殴った。
それと同時にがっちりと手首を掴んでいた白い手が消え、女は恐慌状態に陥りながら周囲を見回す。
「あんたも……呼ばれとるん?」
鈴音が一瞬光を全開にしたせいか、風も無いのに長い髪をなびかせて、桜の精が微笑んだ。
「呪い……返って来てしもたん?死んでまうん?」
優しい微笑が余計に恐怖を煽るのだろう、女は襟元から紐を引っ張り出すと、その先に付いているお守りを両手で握り締める。
「んー、星のマーク?変わったお守りやなー。けど、ここも神社なんよねぇ……ここの神様に喧嘩売った感じになってなかったらええけど」
当然鈴音の呟きなぞ聞こえない女は、お守りに向かって必死に訴えている。
「まだ七日経ってへんから!失敗してるから!呪いは完成してへんでしょ!?助けて!!死にたない!!」
死にたくない、と繰り返す女を見つめていた桜の精が、不意に鈴音を振り向いて笑う。
それは恐怖を煽る微笑みではなく、悪戯が成功した子供のような笑顔だった。
頷いた鈴音はまた光を全開にし、氷で作った枝と荒縄を消去。
多分もう悲鳴は上がらないだろうと、氷のドームも消しておいた。
「なぁ、死ぬの嫌?助かりたい?」
桜の精の問い掛けに顔を上げた女は、幾度も幾度も頷く。
「もう誰か呪ったりせぇへん?絶対せぇへんて約束したら、一回だけ助けたげるよ?」
小首を傾げ楽しそうな笑みを浮かべている桜の精へ、必死の女は更に何度も頷いた。
「しません、しませんから助けて!アイツが無事に生きてて私だけ死ぬんは嫌や!!」
分かり易く本音を漏らす女に鈴音は笑ってしまう。
「こんな性格やから逃げられるんやとか、ぜーんぜん思ってもみぃひんのやろなぁ。友達でも嫌やで、丑の刻参りする系の思い込み激しいちゃんは」
呆れる鈴音とは違い、呪いから守る事さえ出来れば問題無いらしい桜の精はニコニコだ。
「ほな今から、あんたが私に打ち込んだ呪いの欠片、綺麗に消したげる。……見とって?」
そう言って、桜の精は木と同化した。
直後、閉じていた桜の蕾が開き始める。
それと共に赤黒いモヤモヤとしたモノが枝に纏わりつき、あっという間に桜全体を覆った。
どうやらこの澱も女の目に見えているようで、『これが私の……』と絶句している。
あれ、咲く前に消すんじゃなかったのか、この後どうするんだろう、と幹に触れながら見守っていた鈴音は、掌に圧倒的な力、生命力のようなものを感じ目を見開く。
水を吸い込むように鈴音の光も取り込みながら、地中から枝の先まで一気に力を流した桜が、一つ、二つ、と花開いた。
続けて三つ、四つ、五つ六つ七つ八つ。
数え切れない数の花が一斉に花開く。
花が開く度に赤黒い澱はか細い悲鳴のような音を立てて消えた。
纏わり付く醜いモノを全て浄化して、咲かない事を心配された桜は満開となる。
そこへ、雲間から月の光が差し込んだ。
咲き誇るエドヒガンを月光が照らす。
自然が作り出すあまりに美しい光景に、女は勿論、真下から見上げる鈴音も只ひたすらに見惚れていた。




