第五百九十六話 元伯爵は忙しい
ラピールが人々の視線を警戒しながら、見当違いの方向へ歩いている頃。
彼女を探している元伯爵は、来た道を15分ばかり戻った所で足を止めていた。
「おかしい。いくら何でもこれより以前にはぐれるか?」
人が多かったとは言え、大きな道で見通しも良い。幼子でもない限り、親を見失って迷子になるのは難しいだろう。
「拐かしにでも遭ったか?しかしそれならば、悲鳴のひとつも上げそうなものだが……」
道の真ん中で立ち止まり、腕組みして唸る元伯爵。
大変邪魔なので、すれ違う人々から厳しい視線を突き刺されているが、彼には効かないようだ。
「もしや勘付いて逃げたか……、有り得るな。フン、愚かな事よ。金を持たずしてどこへ逃げると言うのだ」
呟いて冷笑してから、ひとつ息を吐いて歩きだす。
「致し方あるまい。探している暇なぞないからな」
そう言って大通りを横断すると、路地へ入って何処かへ向かった。
元伯爵がやってきたのは、まだ開店前の酒場である。
貴族街とは通りを挟んで隣の区域にある為、店の造りは上品で客層も良さそうだ。
とは言え、爵位の高い貴族が1人で訪れるような場所ではないと思われるのに、元伯爵は慣れた様子で中へ入って行った。
薄暗い店内に人の気配はなかったが、扉が開く音に気付いたのか奥から誰か出てくる。
カウンターの向こうに現れたのは、オールバックに八の字髭の中年紳士だ。
まだ開店前だと伝えようとしたのか、常連ならそのまま対応しようと思ったのか、柔和な表情だったのだが。
元伯爵の顔を見るなり、一瞬で目付きが険しくなった。
「これはこれは。何の用だ元貴族」
獣の唸り声のような重低音と、凶悪な闇を宿した目から、この男の本性がよく分かる。どう見ても裏社会に生きる者だ。
彼らと繋がりが深いとされる“メードゥ伯爵”は、この手の店をよく知っており、お得意様でもあるのだろう。本来なら、最上級の営業用スマイルで出迎えられたと思われる。
ところが、どうした事かこの殺伐とした空気だ。
これには元伯爵も怪訝な顔をした。
「はて?この私にそのような口をきくなど、何かあったか?」
爵位と屋敷を失ったものの、それが全てでない事くらい裏社会の者なら分かる筈だ。
にも拘らずこの態度。
「直ぐに貴族へと返り咲く私に、そんな対応をしていて良いのか?そなたの主がそうしろと言ったのか?」
流石の貫禄で、ボスの存在も絡めながら問う元伯爵だったが、男の表情は変わらない。
それどころか険しさを増した。
「テメェのせいでお頭はとんでもねぇ目に遭ったってのに、呑気な事だ」
「とんでもない目だと?」
何の話だかさっぱり分からないという顔の元伯爵へ、男は思い切り口を歪めつつ吐き捨てる。
「神の使いに襲撃された」
「何だと !?」
愕然とする元伯爵を忌々しそうに睨んだ男は、大きな溜息と共に続けた。
「お頭へ、この先はもうメードゥ伯爵に手を貸すな、と警告しに来たんだよ訛りのキツい小娘が。護衛っぽいのは連れてたが、1人だけだ。だから、『ああ姉だか母親だかが神官に売られて、その復讐でも考えてんだな』と思うのが普通だろう」
その場面を思い出したらしく、男はブルリと震える。
「手下共で囲んで、『お嬢ちゃん、俺がそれを受け入れにゃならん理由は?』って笑いながら聞いたお頭にあの小娘、『死ぬのが怖いからだろ』だとかぬかしやがった。いつの間に動いたのか、お頭の後ろからな」
「後ろから……」
思い当たる節がありまくる元伯爵の顔が強張った。
「それだけでもヤベェのにお前、護衛が剣抜いたなと思ったら手下共が纏めて倒れやがる。剣でブン殴る瞬間が見えねぇってどういうこった !? こりゃどっかの勢力がお頭へ差し向けた暗殺者に違いねえ!と思うだろうが。誰がその後に小娘が光ると予想出来るよ」
瞳孔が開いた目とワナワナ震える手から、男の恐怖と興奮が伝わる。
「そういや大神官像ブッ壊して神官ブッ殺しかけた、光る小娘がどうとかいう情報あったな。珍しい小動物抱いてるんだったか。と、その辺で思い出すんだ……遅ぇよなぁ」
「殺されたのか、そなたの主は」
「だとしたらこの店に入った時点でテメェは死んでいた。お頭の仇も同然だからな」
ギラついた目で睨まれ、元伯爵は後退った。
「幸いお頭は無事だ。顎の下まで氷漬けにされて、氷像になるか?と聞かれただけだ。『もうメードゥとは関わらん』と答えたら赦された」
「つまり、私の依頼は今後一切受けないと?」
「当たり前だ!神の使いに睨まれて生き残れただけで奇跡だろうが!」
荒ぶる野生動物のような男を見つめ、ジリジリ後退しながら元伯爵は更に尋ねる。
「今回の依頼は、私を売った神官への拷問なのだが?神を裏切った神官なら、多少痛め付けても神の使いは怒らんのではないか?」
「そう思うなら神の使いの許可を取ってから来い」
「手付金が大金貨2枚でもか?成功報酬は弾むぞ?」
「死んだら使えん」
真顔で返され、元伯爵は絶句した。
神の使いとの約束を破ったら死ぬ、と信じているらしいこの男を説得するのは不可能だと判断し、ちょうど背中に当たった扉を開く。
「そなたらがそこまで臆病であったとは。もう会う事もなかろう。ではな」
捨て台詞を吐く元伯爵を見やり、男は殺気はそのままに表情を消した。
「……長らくのご愛顧、まことにありがとうございました。夜道にはくれぐれもお気を付け下さい」
貴族家の執事にも似た雰囲気で、淡々と告げる。
今の今まで興奮状態だったのが嘘のような変わりっぷりに、元伯爵は気味悪そうな顔をしてそそくさと出て行った。
「おのれ、夜道に気を付けろだと?組織は私を狙うつもりか、愚かな。急ぎ用心棒を雇わねば。いやその前に馬車の確保だ」
徒歩で移動していたら日が暮れる。
だが大金貨2枚では馬と御者付きの馬車は買えないので、辻馬車を貸し切ろうと考えた。
両替の為に銀行へ向かい、大金貨を小金貨や大銀貨へと交換する。そのまま近くの待合所へ行って、辻馬車の御者に話を持ち掛けた。
ところがどの御者も、先約があるからと断るのだ。どう見ても暇そうだというのに。
「まさかそなたらも神の使いに脅されたのか」
不機嫌な元伯爵に問われた御者達は、ポカンとしてから明らかに見下した表情で笑いだした。
「脅す?神の使いが?元貴族は乗せるなって?」
「何で神の使いがそんな事しなきゃなんねぇんだ、馬鹿馬鹿しい」
「単純な話さ元お貴族サマ。平民同士はな、気に食わん奴ぁ相手にしないんだよ」
「神の使いが仰ってたろ、平民には平民のやり方があるって」
ゲラゲラと笑う御者達に怒り心頭の元伯爵だが、今は構っている暇などない。
別の待合所へ移動し、小金貨1枚を出す事でどうにか馬車を確保した。
夕日が西の空を朱く染め始める中、元伯爵を乗せた馬車は裕福な平民が暮らす地区を行く。
いわゆる高級住宅街で、貴族男性が愛人を住まわせるのもこの地区だ。なのでいかにもな人物を見掛けても、この辺りの住民は何も言わない。
それを良い事に元伯爵は、愛人ではなく財産を隠す為の家を購入していた。
「よし、そこの黒い門の家だ」
御者へ指示して別宅前に停めさせ、早足で敷地内へ入って行く。
玄関脇の置物に隠された鍵で扉を開けると、素早く屋内へ消えた。
その様子を窺っていた治安維持部隊の私服隊員は、正面と裏口に見張りを残し1人が近くの詰所へ走る。
強化魔法を得意とする私服隊員の足は速く、物の5分で詰所に到着。『別宅を持つならこの地区であろう』というウルス侯爵の予想により、準備万端整え待機中だった分隊が即座に出動した。
家の中へ入った元伯爵は、真っ直ぐ寝室へ向かう。
大き目のベッドが載っているカーペットの端をめくると、木造の床に四角い切れ込みが入っていた。
小さな金具が嵌っている部分を押すと取っ手が立ち上がり、それを引く事で床下収納が現れる。
つっかえ棒で蓋を固定してから、元伯爵は中身を取り出し始めた。
大金貨が詰まった革袋が複数に、宝石が収められた箱が多数。有名宝飾品店の箱も出てきた。
没収された財産には及ばぬものの、豪邸を買って悠々自適に暮らせるくらいの金額はありそうだ。
これら全てを入れる為の旅行鞄を2つ用意し、せっせと詰めて行く。
「今に見ておれ。帝国で力を蓄え、奪われた物は必ず取り返してくれよう。有りもしない罪を被せたのは王家なのだから、その通りとなるよう行動してやらねばな」
自分を陥れた王家への怒りを燃やしながら全て詰め終えると、両手に重い重い鞄を提げて家を出た。
馬車へ2つの鞄と一緒に乗り込んで、御者に行き先を告げる。
向かうは用心棒が集まる下町だ。
裏社会の連中に狙われている以上、雇っておかねば危ない。
彼らは損得勘定で動くから、御者のような事にはなるまいと楽観視し、馬車に揺られた。
ところがと言うべきか、案の定と言うべきか。
下町にある、用心棒の組合のような小屋に着いて既に30分ばかり経過したが、話は未だ纏まっていない。
「あー、今からじゃ帝国側の閉門に間に合わんから、出発は明日の朝になるなあ。暗殺者に狙われてるとなりゃ寝ずの番が必要だなあ」
「1人じゃ無理だ。最低2人だ」
「夜は危険度が上がる。夜間手当が要るぞ」
こんな調子で、延々と報酬を引き上げられているのだ。
「一体いくら毟り取るつもりだ!」
苛立った元伯爵が声を荒らげると、彼らは顔を見合わせ肩をすくめた。
「嫌なら他所へ行けばいい」
「俺らも出来れば暗殺者なんかと当たりたくない」
「依頼なら引っ切り無しでな」
「神の使いに嫌われてる奴の依頼なんぞ受けんでも困らん」
これは強がりでも何でもなく事実で、この30分の間にも何件か依頼は来ている。繁盛しているのだ。
確かこの街にはもう1カ所、用心棒の集まる場所はあった筈だが、恐らく同じようなものだろう。
「ええい忌々しい。望み通りの金をくれてやるから、死ぬ気で働け!」
「死んでたまるか、生きる為に働くんだ」
「そうだぞ、元貴族はそんな事も知らんのか?」
呆れ顔で契約書を差し出す用心棒達を睨みつつ、元伯爵は金額を確認し署名した。
「口には気を付ける事だ。……今から城門近くの宿へ移動する、ついて参れ」
偉そうに告げて出て行く背中を、2人の用心棒が追う。
馬に乗って馬車と並走し、帝国との国境側の城門方面へ向かった。
その後ろから私服隊員がついて行き、制服隊員の分隊は気付かれぬよう隣の通りでやり過ごす。
分隊長が『別邸は1つか?』と疑問を抱いたので、ギリギリまで泳がせようという話になったのだ。
本当に宿へ入ったら、部屋へ踏み込んで手荷物検査をする段取りである。
作戦通り観察を続けていると、元伯爵一行は城門付近の宿の何軒かに断られていた。
「満室です」
お決まりのセリフを何度も聞かされ、元伯爵の顔は怒りに染まっている。
「いい加減にしろ……!領主が泊まってやると言っているのに、何だその態度は!」
「領主は侯爵様だ。罪を犯した平民が何を偉そうに」
フンと鼻で笑われ、さっさと立ち去れとあしらわれていた。
こんな状況でも宿を探し続けているところを見る限り、他に別邸はないか、あっても金目の物は置いていないのだろう。
少し安目の宿が仕方なさそうに受け入れたのを見届け、治安維持部隊は『ここで手荷物検査だな』と頷き合った。




