第五百四十九話 女神様のお戯れ
警察から連絡を受けた所属事務所が弁護士を派遣し、茶谷は翌日釈放されている。
事件当初の逃亡は気が動転したせいで、落ち着き反省している今、その心配はないと認められた為だ。傷害と言っても被害が軽微であった事と、それなりに顔が知られた人物である事も、判断材料になった。
警察署を出た所で、マスコミのカメラへお辞儀してから迎えの車に乗り込み、ホッと息を吐く。
「あー、酷ぇ目に遭った。でもこれで無罪か」
「は?何言ってるんだ、在宅捜査に切り替わっただけだぞ?」
呆れ顔で諭すのは弁護士だ。
「とっとと示談を成立させて検察官にアピールしなきゃ、サクッと有罪だよ」
「え……」
愕然とした茶谷は直ぐに思い出す。警官が『被害者の女性は示談に応じるつもりがあるから、弁護士を寄越せ言うてたよ』と教えてくれた事を。
「その示談はどうやったら……」
「私が向こうの弁護士と会って交渉する。被害者が示談に応じると言ったんだから、問題はないだろう」
「なんだ、脅かすなよ」
「いや、門前払いされないというだけだぞ?金銭面はともかく、面倒な条件を出されるかもしれない。向こうに所属してるタレントとの接触禁止は当然として、あと1つ2つ。あそこの法務部と提携してる弁護士事務所、剛腕で有名だからなぁ」
無茶な内容は突っ撥ねるが、悪いのはこちらなのである程度の事は呑まねばならない。
難しい顔で唸る弁護士を、茶谷が不安そうに見つめていた。
その日の夜。
自宅謹慎を言い渡され、暇潰しに自身の件がどう扱われているかチェックしていた茶谷は、パソコンのモニターを憎々しげに睨みながら溜息を吐く。
テレビの情報番組では、警察署から出た時の映像を背景に、『逃亡した事で逮捕はされたが、直ぐに釈放されたし、恐らく示談して起訴猶予になるだろう』等とタレント弁護士が話して終わりだった。
問題は動画投稿サイトやSNSの方だ。
ホテルのロビーでやらかした流れが様々な人物によりアップされ、それはもう祭りのような騒ぎになっている。
女優へ恋人気取りで近付いてバッサリやられる男を嘲笑い、女性を突き飛ばすとは何事かと全力で罵り。
日頃のストレスを吐き出すのに丁度いいクズを見つけたとばかり、人々は好き放題叩きに叩いた。
「クソが。法的措置を検討しているとか脅しとくか」
脅すのではなく、実際に行動に移さなければ意味はないのだが、不愉快なコメントに苛立っている彼はそこまで頭が回らない。
怒りに任せ自身のSNSを開こうとした所で、コココンというノックのような音が耳に届いた。
「……ん?」
玄関からではない。ベランダへ続く窓からだ。
因みに茶谷の部屋は、マンションの7階である。
外は風が強いのかと思いながらモニターへ視線を戻すと、再びコココンと窓が鳴った。
「風で何か飛んできたのか?」
その何かが当たり続けて、もしガラスが割れたら厄介だ。
面倒臭そうに立ち上がりカーテンを開けて見てみるも、暗くてよく分からない。
仕方なく窓を開けてベランダへ出たが、室外機がせっせと働いているだけで、何も落ちてはいなかった。
どこかへ飛んで行ったんだろうと判断し、部屋へ戻る。
椅子に腰を下ろし、マウスに手をやりながら視線を上げると、暗転したモニターに映る自身の顔の横に、眼球がなく耳まで避けた口を持つ女の顔が並んでいた。
「うぁあ!?」
大きく身体を震わせて悲鳴を上げ、反射的に振り返る。
しかしそこには誰も居ない。
静かな部屋に響くのは、自身の乱れた呼吸音のみ。
いや、誰も居なくて当たり前なのだ。独りなのだから。
では今見えたモノは何だ。
こうなると、今度こそ何か居るんじゃないかと疑い、後ろどころか横を向くのも怖くなる。
玄関へ続く廊下が暗いのも駄目だ。何でライトをつけておかなかったのかと後悔した。
ただ、明るい所から普通に誰か出てきても、それはそれで怖い。
以前見せられたあの細長く真っ黒い手のせいで、自然とオカルト系を想像したが、ストーカー化した女が部屋に入り込んでいたという方が有り得そうだ。
幽霊とストーカーどちらが危険かと言えば、間違いなくストーカーだろう。
武器があった方が安心だと考え、手の届く範囲に何かないかと探した。長さがあり、ある程度の距離を取って応戦出来る物。
残念ながら、スポーツをしないのでゴルフクラブもバットもない。傘なら一応持っているが、玄関脇に置いてある。
その玄関へ行くには、トイレやバスルームの前を通らなければならない。もしそこに誰か潜んでいたら。
「いやいや……」
冷静に考えれば、今しがた背後に居た人物が、音も立てずにバスルームへ隠れられる訳がないと分かる。
どうも衆人環視の中で赤っ恥を掻いた挙げ句、警官に連行され警察署で一夜を明かすという、自分史上初の出来事が立て続けに起きたせいで、そこそこ追い詰められているようだ。
ゆっくり、恐る恐るといった風に周囲を見回し、ハッと何かに気付いた様子で固まる。
茶谷の視線が固定されているのは、ベッドの下の闇だ。
こんな時に、“ベッドの下に潜む刃物を持った男”の都市伝説を思い出してしまった。
ゴクリと喉を鳴らし、そろりと立ち上がる。
あの話は怖いが、今ここに居るとしたら男ではなく女だし、這い出て攻撃するには時間が掛かる筈だから、まずは確認した方がいいのでは。逃げるのはその後でも出来るのだし。
自身にそう言い聞かせ、静かに深呼吸した茶谷は、覚悟を決め素早く両手両膝をついてベッド下を覗き込んだ。
誰も居ない。
「……そりゃそうか。良かっ……たのか?」
じゃああの女はどこへ、と思いながら立ち上がり、振り向いた先に女の顔。
眼球のない目を細め、ニタリと笑った口からは、剣山のような歯が覗く。
「ッギャアァア!」
悲鳴を上げ、飛び退った際に足を滑らせて尻餅をついた茶谷が、どうにか距離を取ろうと藻掻きつつ女を見上げた。
女は椅子の上に立っており、愉快そうにこちらを見下ろしている。
「ずっと見てたけどさぁ、アンタぜーんぜん反省してないよねぇー。だからぁ、人前で本性晒してくんなぁーい?」
音もなく床へ下りた女が一歩ずつ近付いてきて、茶谷は必死に後退った。
「そしたらさぁー、ざまぁみろって思ってぇ、女のコ達もアンタの事なんか考えなくて済むよぉになるでしょぉー?」
フッと女の姿が消えたと思ったら、今度は後ろから声が聞こえてくる。
「アンタみたいなのの事で怒るとか悩むとかぁ、時間の無駄だもんねぇー」
「ヒィィ」
真上から顔を覗き込まれ、後ろではなく前へ逃げなければと思うのだが、抜けた腰が言う事を聞かず足にも力が入らない。
「もぉさー、『クズでもいいのアタシが食べさしたげるぅ!』とか言う女以外に手ぇ出すの、なしねぇー?」
黒く尖った金属のような爪の生えた手で、ガッチリと頭を掴まれた。
「じゃないとぉ、引っこ抜いちゃうよぉ?あ、ナニを?とか聞いちゃダメだからねぇー!キャハハハハハ!」
幽霊ではなく実体のある化け物だと知った途端、剣山のような歯を剥き出しにした高笑いが響き、恐怖のあまり茶谷は失神する。
「……あれぇ?やぁだ寝ちゃったじゃん」
力の抜けた茶谷をポイと捨て、化け物こと黄泉醜女は改めて室内を見回した。
「ここにも誰か連れ込んでんのかなぁー」
デートなどした事がないと言っていた白詰の声や、似たような証言をしていた女性達の記事を思い出し溜息を吐く。
「っとに、何でこんなクズに騙されちゃうんだろ。男女のドロドロは楽しいけどさー、ここまで行くと引くよねぇー。女運ゼロにする祟りとか誰か持ってなかったっけ……?」
怖い事を呟きつつ、ベランダへ向かった。
「さてとぉ、後は仕上げかぁー」
どうやらまだ何かするつもりらしい黄泉醜女は、無様に伸びている男を振り返る。
「アタシの声、ちゃんと覚えといてねぇー」
ニタリと笑いベランダへ出て、きっちり窓を閉めてから姿を消した。
それから数日後。
示談が成立し予想通り不起訴となった茶谷が、事務所の玄関前で囲み取材を受けていた。
何故そんな事をする必要がとゴネたが、『示談内容に含まれてるから。聞かれた事には答えるように』と言われてしまっては逆らえない。
ビルの2階という、微妙に面倒な場所にある事務所前には、週刊誌やスポーツ新聞の記者とカメラマン、民放各局のテレビカメラ1台ずつ、ネットの動画メディア複数が集まった。
20人程という多くはないが少なくもない人数に囲まれ、お決まりの謝罪から始まり事件に関する質問を受ける。
「僕としては別れたつもりがなかったので、はい。何で邪魔するのかと、ついカッとなってしまって」
いかにも反省していますという顔で、怪我をさせるつもりはなかった等と言い訳した。
記者やレポーターも、これに関しては既に動画が上がっている為、特に突っ込んではこない。
本当に聞きたいのは別の話だな、と茶谷も勘付いていた。
するとやはり暫くして、ベテランレポーターが上手く流れを作り、あの話へと誘導する。
「恋人とお別れするきっかけになったのは、多くの女性達による証言でしたよね。あの方々に対してはどうお考えですか?」
「え、いや、それは……。お互い納得してた訳ですし、プライベートな事なので……」
困り顔を作り、事件と関係ないですよねと匂わせるも、レポーターも記者も引かない。
「納得してなかったから、ああいう行動に出たんだと思うんですけど、その辺はどうです?」
「えー……と、いやー、どうなんでしょう」
「女性達は、そのうちアナタと結婚するもんだと思っていたそうですよ?」
「は?あ、いや、僕はそんな事を言った覚えはなくて」
「ええ?言葉にしなくても、2年3年付き合ってて避妊もしてないなら、そう思っても仕方ないんじゃないですか?妊娠を機に結婚なんてよくある話ですし。まさかアナタの中では、みんな身体だけの関係だったという事ですか?」
記者の1人が、薄ら笑いを浮かべながら切り込んでくる。
茶谷の視界では、『彼女ちゃうならセフレでしょ?』と嫌味たらしく笑う鈴音の顔と記者の顔が重なり、一瞬で頭に血が上った。
「勝手な思い込みする方が悪いんだろ!長く付き合ってもそんな話が出ねぇ時点で察しろよ馬鹿なのか?それで逆恨みして週刊誌にネタ売るとか性格悪過ぎじゃね?」
一息で捲し立てた茶谷を見つめる皆の目が、どこか生温いものに変わる。
「あー、そういう考え方なんですね」
こいつ終わったな、と書いてあるような記者の顔を見て、我に返った茶谷の口元が引き攣った。
そこへ、聞き間違いであって欲しい声が届く。
「だったらそう言えばよかったじゃーん」
「ヒッ」
記者達は、『ネット媒体か?馴れ馴れしいな』と思ったが口には出さない。急に青褪めた茶谷の方が余程気になるからだ。
「結婚しないって言えばぁ、女のコ達も気を付けたかもしんないのにねぇー?」
「そ、それは」
「自分が気持ち良くなる事だけ考えててぇ、後の事なんかどーでもいいんだもんねぇ」
「や、その」
茶谷の落ち着きのなさからして、これはもしや付き合っていた女性の1人か、と記者達もそわそわし始めた。
「女のコがどんな目に遭うかなんてぇ、考えもしない。そんなだからぁ、親に愛されずに育ったとかいう嘘が平気で吐けるんだねぇ」
記者達は、何人かの女性がそれを理由に堕胎を迫られた、と書かれた記事を思い出す。しかし週刊誌の取材で、茶谷の親子関係は昔も今も良好だと判明していた。
「あれ聞いた親がさぁ、どんな気持ちになるかとかぁ、考えた事ないよねぇ?他所のお宅の大切な娘さん達にとんでもない事を、って首括ってもおかしくないと思わなーい?」
「え……」
全く考えもしていなかったのだろう。茶谷が愕然として固まるや、甲高い笑い声がフロア中に響き渡る。
「キャハハハハハ!自分の子は平気で堕ろさせんのに、親が死ぬのはダメなのー?いいじゃん、親もその方が楽でしょ。だってもう近所とか出歩けないよねぇ」
これには、週刊誌の若い記者が若干バツの悪そうな顔をした。実家へ突撃したのは彼なのかもしれない。
茶谷に至っては青を通り越して白い顔をしている。
「止めねえと、早く止めねえとヤバい!」
慌てふためき、記者達を放置して事務所内へ引っ込んでしまった。
「いやヤバいのはアンタだよ」
謎の女の勝手な想像を、まるで事実かのように信じ込んで必死になっている。
呆れた記者達は、まあ目的は果たしたし問題ないか、と撤収し始めた。
「で、さっきブッ込んだの誰?元カノ来てんの?」
「いや、居なかったと思うけどなあ。後から交ざった?」
「にしては消えんの早くね?」
「だよな。何者だったんだろう」
そんな会話を聞きながら、黄泉醜女はニンマリと笑う。
鈴音に話して聞かせてやろうと、足取りも軽く関西へ走った。




