第五百四十五話 開き直ると強い
白詰は思う。
この、醜く口元を歪めて嗤う男は誰だと。
流石に自分が初めての一般女性だとは思ってはいなかったけれど、まさか複数同時進行だったなんて。
自分が訪れていたあの部屋で、後何人と関係を持っていたのだろう。
もしや、『ちゃんと発表出来るようになるまでバレたくないから、絶対に来ちゃだめだよ』とか言っていたツアー先のホテルには、別の誰かを呼んでいたのか。
尤もらしい理由をつけて写真も動画も撮らせなかったのは、いつでも切り捨てられるようにする為。
それはつまり、最初から最後まで、愛情なんて一欠片もなかったと。
只の性欲処理でしかなかったと。
そういう事なのか。
無意識に腹部へ手を当てた白詰は、気付けば鈴音に声を掛けていた。
「子供の事を聞いて下さい」
感情のないその声を耳にした鈴音が、ニヤニヤ笑いの茶谷へさらりと尋ねる。
「因みに子供は何で堕ろさしたん?」
「は?何でって、要らないから以外の理由あんの?」
何を当たり前の事を、と言いたげな顔だ。
うっかり殴り飛ばさないよう理性を総動員しつつ、鈴音は会話を続行する。
「中絶手術は身体に負担掛かるんやで?要らん言うんやったらゴム使わんかいな」
「何で俺が。ピル飲めばいいだろ」
「よっぽど生理痛が酷いとか、生理不順がえげつないとかでもない限り、まず飲まへんよピルなんか」
「だったらヤバそうな日は断わりゃいいだけじゃね?どいつもこいつもピルも飲まずにナマでヤっといて、俺だけに責任押し付けんの?」
これ以上は余計だと思ったらしい茨木童子が、白詰へ向け、頭を掻く振りで右手を耳に当てるジェスチャーをした。聞くな、耳を塞げ。
けれど白詰はそれに従わず、よく動く茶谷の口を見つめ続ける。
「そもそもさぁ、イケメン有名人とヤりたいだけの股ユルに子供出来たとか言われて、結婚しよう!とか言う訳ねぇじゃん。誰の子よ?同意書に名前書いてやっただけでも感謝しろっつの」
「うわ、自分をイケメン言うヤツお笑い芸人以外で初めて見たわ。世間との評価ズレ過ぎててビビる。雰囲気イケメンと本物のイケメンは違うて知らんのやろか。目の前に本物が居てるのに、まさかの同レベルや思てる?あ、分かった。そのダッサい髪型のせいで見えてへんのや、気ぃ付かへんかったわゴメンゴメン」
本気を出した関西人のマシンガン口撃をまともに食らい、茶谷も隣のマネージャーもポカーンだ。
ツッコみどころが違うのは分かっているが、こうでも言わなければ鈴音は危うくこの男を殴り殺す所だった。
そこへ、白詰の静かな声が届く。
「私、この人を破滅させる証拠、持ってます」
先程の硬い声とは違い、明らかに怒りを含んだ声だ。漸くクズをクズと認識出来るようになったらしい。
そうなればもうここに用はないので、とっとと帰り仕上げに掛かかるのが正解だ。
鈴音は、まだ何を言われたか理解出来ずにいるらしいクズへ、最上級の営業用スマイルを向ける。
「勘違いナルシストと喋るんしんどいし、帰るわ。もう生霊が睡蓮さんを襲う心配ものうなったしね」
物凄く晴れ晴れとした笑顔を見せられ、茶谷もマネージャーも怪訝な顔になった。
「何でこの意味のないやり取りで、睡蓮が襲われなくなんだよ」
「生霊が出なくなれば向こうの怒りも収まりますよね?雷斗と元カノ達の繋がりを証明する物は何もないから、記事になる心配もないんだし」
何やら不穏な気配を感じ取ったらしい茶谷と、事務所が無事ならそれでいいらしいマネージャー。
ここまで黙っていた綱木が、尤もらしい顔で大きく頷く。
「クズ……茶谷さんと睡蓮さんが別れれば、生霊の主達は睡蓮さんを攻撃する理由がなくなるのでね、彼女には平和が訪れます。なので向こうの怒りも、若干ほんのり薄っすら気持ち程度には、収まるかもしれませんね」
「は?何で俺と睡蓮が別れる事になってんの?アイツ俺にベタ惚れだから別れるワケねぇし」
馬鹿にしたようにそう言ってから、茶谷はハッと目を見開いた。
「あんた達まさか、撮ってたのか!?」
「え、役人がそんな盗撮みたいな……」
驚くマネージャーへ、綱木が代表して頷く。
「ええ、してませんよ。レコーダー的なもんは持ってきてへんし、スマホに録音できるようなアプリは入れてへんし、カメラも起動してへんし。何なら確認しますか?」
綱木と鈴音がスマートフォンをテーブルに出し、茨木童子は家に置き忘れたと告げ、全員でジャケットを脱いでマネージャーへ渡した。
おまけに、靴下にICレコーダーを入れるという方法もあるな、と揃って立ち上がりパンツの裾を引っ張り上げる念の入れよう。
盗撮用のカメラやレコーダー類がないのは、一目瞭然だった。
ではこちらをと本人の許可を取り、マネージャーがスマートフォンのフォルダ内までも確認したが、綱木はそもそも写真や動画を保存しておらず、鈴音のフォルダには言うまでもなく猫しかいない。
どこにも、先程までの胸糞悪い会話は残されていなかった。
「はー、ビビって損したわ。やっぱ俺と睡蓮が別れる理由、どこにもないんだけど?説得すんの?アイツはヤバいよーとかって?ププッ信じて貰えるといいねー」
またしても勝ち誇った顔をする茶谷へ、立ってジャケットを着直した茨木童子が憐れみの目を向ける。
「お前、生霊がどんだけヤバいか何にも分かってへんねんな。アホは幸せやな」
「っんだとコラ……」
凄んで立ち上がろうとした茶谷だったが、間一髪、生存本能が仕事をした。
自分を見下ろす茨木童子の目が、人に向けるものではなく、害虫か何かに向けるそれに思えたのだ。
下手な事をすると躊躇いなく殺しにくるぞ、と本能は訴えていた。
「あれ?喧嘩せぇへんの?ふーん、強いモノを察知する能力はあるんや。それのお陰でロクな才能もないのにここまで来られたんかな」
スマートフォンをポケットへ仕舞いつつ首を傾げた鈴音を、茶谷はギラリと睨み付ける。
「才能がない?思ハウは俺のお陰で売れてんのに?メンバーが持ってくるツマンネー曲に歌詞付けてやってる俺のお陰で、あいつらもスタッフも食っていけてんのに?音楽知らねぇ素人は黙ってろよ」
「あ、訂正。ホンマにヤバい相手には作動せぇへんポンコツやった。依ってここで終了!あと、歌詞しか書いてへんらしい奴に音楽知らん素人とか言われるん、なんでやろー?詩家かもしらんけど音楽家ではないやんねぇ」
鈴音が、馬鹿にしていますと顔に出して不思議がれば、綱木と茨木童子が笑いを押し殺し、黄泉醜女が手を叩いて大笑いした。何故かマネージャーまでプルプルしている。本音では同じ思いだったのかもしれない。
「歌ってんだろうが!俺がボーカルやってなきゃここまで売れてねぇわ!」
「いや売れてる売れてる言うけど、私アンタらの曲知らんで?CMにでも使われとったら聞いた事あったかもやけど、ないやんね?動画再生回数上位でも見た事あらへんし、どの界隈で売れてんの?」
若い女性に大人気と言ったって、ほぼ10代女子限定。テレビCMに使われたり、億の動画再生回数を叩き出すアーティスト達は、もっと幅広い世代に支持されている。端から勝負にならないのだ。
恐らく、まともな恋愛なぞしていない男の、リアリティのない幼稚な妄想を書いた歌詞が曲の足を引っ張り、社会の荒波に揉まれた大人の心には刺さらないし響かないのだろう。いっそスキャットにした方が受けるかもしれない。
そんな鈴音の指摘を受け、マネージャーはそっと視線を逸らし、茶谷は忌々しそうに歯を食いしばる。
「1回でもホンマの恋愛しとけば、大人にも『分かるー』言うて貰える詞ぃ書けたかもしらんのにねぇ。アンタの場合、睡蓮さんすら自分が売れる為の踏み台やろ?」
チッと舌打ちされ、図星かと鈴音は笑った。
「けど残念ながら、こっから広まるのは悪名や。アンタがホンマに才能あるアーティストやったら、それでもファンはついて来るやろけど。アイドル紛いの……いや、アイドルもやらへんような売り方しとった上に、作詞の能力もアレではね。ご愁傷さまー」
全開の笑顔で告げる鈴音へ、茨木童子が笑いながらツッコむ。
「ちょ、ご愁傷さまて笑顔で言うたらアカンすよ」
「あ、ホンマやね。野垂れ死ぬんかなて想像したら楽しなってしもて」
「いやー、野垂れ死にはないんちゃうっすか?食わしたるいう女は居りそうっすよ?ほら、コイツに纏わり付く女の執念、エグいやないすか。見せたったらどないです?」
ニヤリと悪い笑みを浮かべ、茨木童子が鈴音顔負けのハッタリをかました。
だがこのハッタリ、実現出来る人物が隣りに居るからこそのそれである。
「ええね、見た方が早いもんね、自分がどんだけ女に恨まれてるか、執着されてるか」
意図を理解した鈴音が嗜虐的な笑顔になり、茶谷は思わず身構えた。
「執着は分かるけど、恨まれる?俺が?」
「そらそうやろー。自分という女がありながら、女優と交際宣言て何事よ!ホンマやったら赦さへんで!て。ビックリするぐらいの怨念が渦巻いてるわ」
そう言った鈴音が指を差すと、茶谷の身体に何本も何本も巻き付いた、人の物とは思えぬ真っ黒で細長い手が皆の目に映る。
「う、うわあぁぁぁあああ!?」
己の身体へ視線をやった茶谷は大混乱に陥り、立ち上がって必死に払おうとした。
マネージャーはソファから飛び退いて、青褪めながら呆然と見つめている。
綱木も実は大変驚いているが、頑張って『当然見えていましたよ』という表情を作った。
「あはははは!霊力ないもんがどないか出来る訳ないやん。ソレ今は実体あらへんけど、アンタがクズやったてバレた後、物凄い勢いで締め付けてきたりしてなー?知らんけど」
パチンと鈴音が指を鳴らした途端、蠢く細長い手は消えてなくなる。
身体をペタペタと触り、周囲を見回し、荒い呼吸を繰り返しながら、茶谷は一行を見た。
化け物を見る目で。
「そんなもんで怯えてたらアカンて。睡蓮さんはもっと怖い思いしてんから。ぜーんぶアンタのせいや」
この手の視線なら異世界で散々浴びているので、鼻で笑い飛ばして鈴音は立ち上がる。
離れた位置からそれを目で追いつつ、茶谷は震える声で尋ねた。
「ま、待てよ。俺の事はバレねぇんだから、何も起こる訳ねぇよな?」
「知らんし。生霊出てまう人は思い詰めるタイプやから、自分を放ったらかしにして女優と結婚しよった!てキレる思わへん?どっちにしろ、生霊を引っ込めて貰うには本人さんに納得して貰わなアカンから、自然消滅なんてムリムリ。修羅場は避けられへんよね」
再度、ご愁傷さまと笑う鈴音。
立ち上がった綱木も微笑んで会釈する。
「ほな用事は済みましたんで、我々は帰ります。向こうの事務所には聞いたままを報告しますけど、どんな対応されるかは我々に関係ないんでね。事務所を守りたかったら、早めに上と話した方がええんちゃいますかとだけ言うときます」
煽り倒す鈴音や茨木童子と違い、穏やかだが威圧感たっぷりな綱木の言葉は、マネージャーに重くのし掛かった。
彼は、証拠がないだとか、事務所が事務所を潰すなど有り得ないだとか、茶谷のような甘い考え方が出来ない程度には、この業界の闇を知っている。
虎の尾を踏んだ今、何を守り何を切り捨てるべきか、一刻も早く協議すべきだと理解していた。
幸い、音楽部門にまだそこまで力は入れていないし、彼らが事務所の稼ぎ頭という訳でもない。自分を含め、スタッフが茶谷の女性関係で何か協力したという事もない。
迅速に行動すれば、最悪の事態だけは避けられるのではないか。
そう結論付けたマネージャーの目は、もう茶谷を見てはいなかった。
「おい!生霊とかいうのに襲われたら、睡蓮みたいに助けてくれるんだろうな!?」
「原因が自分にある人は自分で解決してクダサイー。睡蓮さんは原因が分からんかったから見に行っただけー」
綱木の後を追って扉へ向かいながら、鈴音は茶谷へヒラヒラと手を振る。その後ろに白詰と黄泉醜女、そして茨木童子が続いた。
ふたり分の隙間が不自然にならぬよう、足を止めた茨木童子が茶谷を振り返って笑う。
「綺麗に別れるまでが遊びやでなぁ?俺もそれなりに場数踏んできたけど、女に恨まれた事なんかないで?お前はホンマどないしょうもない……いや、しょうもない男やなぁ」
同年代とは思えぬとんでもない色気と、余裕の笑み。
反論しようにも圧倒されて言葉が出ない茶谷は、ただ悔しそうに顔を顰めるだけだった。
それを鼻で笑い、扉を開けて待っていた鈴音へ『あざっす!』と色気の欠片もない礼を告げて、茨木童子も出て行く。
部屋に残された2人の間には、とても気不味く重い沈黙が流れていた。
そんな彼らとは対照的に、事務所を後にして戻った路地で、白詰にグイグイ迫っているのは黄泉醜女だ。
「ねねね、クズを破滅させる証拠ってなーに!?リベンジっちゃうの?ポルノっちゃう?」
ゴシップ大好き女神様としては、ここからが本番なのだろう。
言い逃れ出来ない証拠が世に出て、女優とバンドマンが修羅場を迎え、芸能事務所同士が揉めまくる。まさにスキャンダル。
だが黄泉醜女が何でそんなに興奮しているのか分からない白詰は、仰け反り気味になりつつスマートフォンに手を伸ばす。
「私、スマホ2個持ちしてて。メインは彼の前でも見せてたし、彼が中を調べてたらしいのもそれなんですけど。こっちは見せた事なくて」
そう言って操作した画面に映し出されたのは、人工中絶手術の同意書だった。
白詰の署名の下に、特徴的な右上がりの角張った文字で、茶谷雷斗の名が記されている。
「うわー、凄い。けどアレがよう本名書いたなぁ。バレたら困るとかぬかして、マネージャーの名前でも書いたんか思てた」
「ホンマっすね、他人に書かせそうやのに」
鈴音と茨木童子の感想を聞き、白詰は頷いた。
「ホントはそうしたかったみたいなんですけど、今までこういう情報が漏れた事なんかないよね?それこそ病院が物凄いバッシングされるよね?って言ったんです私。別に深い意味はなかったんですけど、疑われてると思ったのかな?困りながら書いてました」
「ほんでそれを持って1人で病院行く時に……」
「はい。証拠とかじゃなくて、彼との繋がりが欲しくて撮りました。私と彼の名前が並ぶなんて初めてだったし……、結婚した後、今度こそ子供が産めるようになっても、この子の事を忘れないように」
唇を噛む白詰を見て、流石の黄泉醜女もしょんぼりする。
「私の主は子宝とかの御利益あるからさぁ、あんたにもちゃんと授かるようにお願いしといたげるよ」
不思議な力を持つ鈴音に女神様と呼ばれていたり、御利益と言ったり、ああこの女性は本物なんだなと白詰は悟った。
「ありがとうございます。今度はまともな恋愛が出来るように頑張りますね。それで、コレと他にも、動画があるんですけど。リベンジポルノに使えるようなのが沢山」
サラッとそんな事を言われ、鈴音や茨木童子は目が点になり、親世代の綱木は倒れそうになっている。
大喜びなのは黄泉醜女だ。
「キャハハハハハ!やるじゃぁーん!それも2個目のスマホで隠し撮りしたのぉ?」
「はい。バッグのポケットに小さい穴を開けて。どうしても思い出が欲しかったんですよね。他人には言えないにしても、私が彼と付き合ってるんだっていう証しみたいなのが。それに、推しのそういう顔とか絶対残しときたいじゃないですか」
力説されたが鈴音は全力で首を振った。
「いやゴメンさっぱり分からへん。けど、凄い爆弾がある事は分かりました。ただほら、それがネットに出るいう事は白詰さんの姿もね?晒されてまうから。ちゃんと顔も身体も声も加工してからやないと」
どうにか諭す鈴音へ、綱木が尊敬の眼差しを向けている。
「そっか、それは恥ずかしいから、後で弄りますね。加工が済んだらどうしたらいいですか?ネットに上げますか?」
もう事務処理か何かのように淡々と言う白詰を、鈴音は慌てて止めた。
「白詰さんのアカウントはやめた方がええわ。情報開示請求されたら身バレしてまうもん。あんなクズに名誉毀損で訴えられてお金払うとか嫌やん?」
「確かに。でもそれじゃどうしたら……」
「誰よりも効果的に使える人に渡しましょ?白詰さんの名前は伏せて、あのクズの破滅が見たいだけやから、下手に揉み消すんやったら自爆する言うてますよ、て脅しも入れながら渡したら、ドカンとやってくれる筈」
それは誰だと目で問う白詰に、鈴音は悪女の笑みで応える。
「睡蓮さんのマネージャーの山崎さん。この証拠を消すのが不可能やて理解したら、後はもう睡蓮さんのダメージを最小限にしながらクズだけをフルボッコにする方法、事務所と一緒に必死で考えるよ。渡すならまずは動画、次に同意書かな。他の同意書にクズが別の名前書いてたら、白詰さんやてバレるかもしらんし」
あの男が、女性達とどう過ごしたか詳しく覚えているとも思えないが、念には念を入れた方がいい。
顎に手をやり幾度か頷く鈴音を、白詰と茨木童子は頼もしそうに、黄泉醜女はワクワクと、綱木は遠い目で見ていた。




