第五百三十一話 キャラ変は大変
どうしたどうした、と右へ左へ動きながら見上げてくる犬を手で制し、ヘカテは気合で笑いを引っ込め鈴音へ顔を向ける。
「ふぅー……、すまない。メランから、『猫神の眷属は猫を抱いている』と聞いていたのに……ブフッ、何か、くふっ、違う生き物を連れているのかと……っ」
メランと呼んだ犬の頭を撫でつつ話すヘカテだったが、途中でうっかり虎吉を見てしまい、笑いを堪らえようとして失敗した。また口元を覆って俯き、プルプルと震えている。
唖然としていた鈴音は、何だそういう事かと胸を撫で下ろした。
「猫は興奮したり恐怖を覚えると、こんな感じになりまして。耳が伏せられて髭が顔に引っ付いてるんで、今は恐怖の方ですね。動物としての本能が、死を司るヘカテ様に怯えてるんやと思います」
「そうか、それは気の毒な事をした……っふふ。いや、笑い事ではないのだろうが、何とも愛嬌があって……っ、確かにフクロウにも似ているな、ぷふ」
笑ってはいけないと思えば思う程、どんどん笑えてきてしまう罠に嵌ったヘカテ。
その姿を眺めつつ、鈴音は猫の耳専用の声量で呟く。
「聞いてたんと違う。ヘカテ様、もしかしてゲラ?」
ゲラとは、ちょっとした事でも大ウケしてゲラゲラ笑ってくれる、関西人にとってはありがたい存在だ。
なので、無表情と無愛想が標準装備だと聞いていた女神には、最も相応しくない単語である。とはいえ、現状それを疑うのも仕方がないくらいの笑いっぷり。
どう思うかと問われた虎吉は、ホーと鳴きそうな姿のまま応じる。
「知らん」
今はそれどころではない、といった所か。
死を司っていようともイザナミより格下の神なら怖くない、等と豪語した手前、黄泉の国でやったように鈴音の脇に顔を突っ込んで毛玉と化す訳にもいかず、プライドと本能の板挟みで身動きが取れないようだ。
「うーん、虎ちゃんがカワイソ可愛い。怖いの我慢すんのしんどいやろし、縄張りに戻っとく?」
猫の耳専用な声量で問い掛ける鈴音に対し、色々いっぱいいっぱいな虎吉はとても大きな声で返事をした。
「怖ないわい!平気や!」
瞳孔全開で総毛立っているのに、思い切り強がるフクロウっぽい猫。
猫飼いからすれば猫らしいなとしか思わない反応だが、初めて見るヘカテには史上稀に見る面白動物と映る。
「こ、怖くないか、それは良かっ……、ぅくくく」
もはや両手で口を押さえねば堪えられない様子のヘカテに、『ホンマは大口開けて思っ切り笑いたいんやろなぁ。私が居るから出来ひんのかなぁ』と鈴音は気遣うような目を向けた。
それに気付いたヘカテが、慌てて手を下げ首を振る。
「待て、違う、そんな目で見ないでくれ……っふふふ」
何がどう違うのかは分からないが、このままでは埒が明かないのはよく分かったので、虎吉を撫でながら鈴音はゆっくりと後退した。
「申し訳ありませんヘカテ様、諸事情により少し後ろに下がらせて頂きますね」
「諸事情……っ!そうだな、良い考えだ……っ」
心配顔のメランを撫でて呼吸を整えるヘカテから、少しずつ遠ざかり虎吉の反応を見る。
5メートルばかり離れた辺りで、伏せられていた耳が前を向き、膨らんでいた毛が戻り始めた。
確かにイザナミ相手の時よりは、かなり余裕がありそうだと鈴音は安心する。
その場で立ち止まって様子を見ると、物の数秒で虎吉は本来の姿を取り戻した。
「おかえり虎ちゃん」
「どっこも行ってへんで」
顔を覗き込む鈴音へ、ムスッとした半眼にへの字口で返す虎吉。犬のメランも鈴音も平気なのに、自分だけ怖がったのが悔しいらしい。
「んふふ、可愛いなあもう」
尻尾で腕をビシバシ叩かれながら目尻を下げ、さてあちらはどうかなと鈴音が顔を上げると。
「お前は本当に可愛いな」
ヘカテもまた愛犬の頭を撫でながらデレデレしていた。
「誰や無表情が標準装備とか言うたヤツ」
どこかの海の神が縄張り中に轟くクシャミをしそうな呟きを零し、表情を営業用に整えた鈴音は女神から声が掛かるのを待つ。
これでもかとメランを撫でくり回していたヘカテは、暫しの後にハッと我に返り鈴音を見た。
「……待たせたな」
一瞬で冷たい死の女神の顔を作ったヘカテへ、心の中で『いや遅い遅い』とツッコむ鈴音と虎吉。
ただ、うっかり顔に出して臍を曲げられたら終わりだと思い、表情筋が緩まないよう全力を注いだ。
その間にヘカテは何やら言い訳を始めている。
「我が猫ばかり見ていたものだから、メランが嫉妬してしまってな」
「してないぞ!嫉妬じゃなくて心配したんだ!」
「んんー?そうかー?」
「そうだぞ!別に猫見ていっぱい笑ってて悔しいとか思ってない!」
「ふふ、そうかそうか、ふふふ」
言い訳ではなくイチャイチャだった。
もういいやと鈴音は遠慮なく温かい眼差しで見守り、虎吉も目を細めてニッコリ笑う。
再び我に返ったヘカテは、慈愛に満ち溢れた視線に怯むも、取り敢えず頑張ってみた。
「という訳で、見ての通り機嫌を取っていたのだ」
「ふふ、そうですかそうですか、ふふふ」
鈴音と虎吉の笑みが益々深まり、目を逸らしたヘカテが渋い顔になる。
「くっ……、機嫌を取っていたのは事実だ」
「はい。ご機嫌斜めだと心配になりますもんね。でも拗ねてる顔も可愛いから困りますよね」
「そこなのだ問題は」
同士、とばかり視線を戻したヘカテだったが、慌てて表情を取り繕う。
しかし鈴音は無視して畳み掛けた。
「拗ねてたりいじけてたりすんの見たら、申し訳ない、でも可愛い、て抑え切れへん感情が溢れ出て、やたら触りまくってウザがられるんですよねー」
「そなたもか」
「うわ嫌われたかも、て凹んでたら、知らん顔してそばに来てくれたりして、また可愛いぃぃぃ好きぃぃぃてなったり」
「分かるぞ」
「こんな可愛い生き物を思い付いた神こそ神の中の神や思うんです私!」
「異議なし!」
「広めますか犬猫教」
「広めよう!」
胸の辺りで両拳を握り、熱く同意するヘカテの外套を、メランが軽く咥えて引っ張る。
「……はっ!?我とした事が……!?」
現実に戻ってきて愕然としているヘカテと、外套を放したメランを見比べ、主の危機だと感じて助けに入ったか、と鈴音も虎吉も感心したのだが。
「何か広めるのか?そんな事したらヘカテ様忙しくなるだろ。遊ぶ時間が減るから嫌だ」
甘えているだけだった。
「ぐ……っ!可愛い……!」
ついに崩れ落ちたヘカテはメランを抱き締め、『よーしよしよし何も広めないぞ』と思う存分撫でてから、膝をついたままチラリと鈴音を見る。
他言無用だと言いたいのかな、と考えた鈴音が口を開くより先に、虎吉が喋りだした。
「まだまだやな。鈴音なんか家に居る3匹へ平等にデレデレした上で、俺にも猫神さんらにも地獄の猫らにもやからな」
「あー、虎ちゃん。ヘカテ様はデレデレ具合を競いたい訳やない思うよ?」
「ちゃうんか!?あれで!?」
困り顔の鈴音と驚愕する虎吉。
撃沈したヘカテはメランの首筋に顔を埋めている。
「えーと、そのー、他の神様に今のようなお姿を見られたくない事情がおありなんですか?因みに、猫神様を愛でる異世界の神々は、あけっぴろげにデレデレですけども。あと、犬神様ファンの神々も似たような感じやと伺ってます」
だから恥ずかしくないよ、という思いを言外に込めれば、幾度も頷きながらヘカテが立ち上がった。
「分かっている。動物は勿論、芸術などに酔いしれる神々の姿も多く見ているしな」
「やっぱりそうなんですね」
だったら何故、と目で問い掛ける鈴音へ、ヘカテは言い難そうにボソボソと答える。
「今までの我からは想像もつかないだろう。こんな、あれだ、デレデレ?しているだなんて」
「……え?」
「流石は死を司る女神、眉ひとつ動かさぬ。等と言われてきたのに、急にデレデレしたらおかしいではないか。我もまさか、己がこのような事になるとは思ってもみなかったのだ」
「ははぁ」
長年掛けて出来上がったイメージに自らも囚われているのか、と鈴音は理解した。
「神様には高校デビューとか大学デビューとかあらへんから、キャラ変すんの難しそうですね」
「デビュー?キャラ?」
「進学をええ機会にして、今までの自分とは全く違う自分に変身する、みたいな感じです」
「ああ成る程、神には無縁の話だな」
溜息を吐くヘカテへ、一応提案してみようと鈴音は微笑む。
「進学は無理でも、他所の国の神様と仲良うなって、その影響でちょっとずつ変わった、とかどうですか?我が国が誇るイザナミ様、よう笑うお方ですよ?」
「イザナミ……とは、あの?憎き夫を殺す為、死の女神になったという?」
「はい」
「笑うのか。想像も付かないし、仲良くして貰えるとも思えないが」
「あれ?普段は陽気なお姉様なんですよ?」
怖い面だけ伝わってしまっている、それでは意味がない、と困惑した鈴音の脳裏に、飴ちゃん大好きな女神の姿が浮かんだ。
「ではツシコさ……黄泉醜女様はご存知ですか?」
「ヨモツ……?いや、知らないな」
「イザナミ様の眷属神です。これまたよう笑わはるんですよ。ちょっと怠け癖のある愉快な女神様で」
「冥界の神が怠けるのはマズいだろう」
ギョッとするヘカテへ鈴音は大きく頷く。
「マズいんです。色んな人がちょいちょい大変な目に遭うてます。でも憎まれへんいうか、まあしゃあないよねみたいな感じで、ホンマに恨む人は居てません」
「そうなのか」
「はい。何やもう、本能のままに動いてるんやろな、て呆れながら笑てまうんですよね。そんな方がヘカテ様をワーッと誘いに来て、ワーッとイザナミ様のとこへ連れてってしもて、いうんを繰り返したら、メランを撫でてニコニコするようになっても、変や思われへんようになりませんかね?」
鈴音がメランへ視線をやると、もっと沢山ヘカテに撫でて貰えるのかな、と目をキラキラさせていた。
その顔を見たヘカテは、『可愛い』と呟いてから幾度か頷く。
「強烈な個性を持つ眷属神に影響されたと思われるも良し、イザナミ様に怯えた我とメランがより心を通わせたと思われるも良し、という訳か」
「そんな感じで。なるべく多くの方の目がある所で会わな意味ないですけど、冥界の中やったら他所の国の神が行き来しても問題ありませんよね?」
流石に冥王の御前は無理だろうな、と思う鈴音へ、その通りの答えが返ってきた。
「ハデス様の前で騒ぐ訳にはいかないが、ペルセポネなら大丈夫だ。彼女が知ればハデス様の知る所となるし、デメテルにも伝わって神界にも広まるだろう」
鈴音には謎の名前が出て来たものの、問題ないならそれでいいやと微笑んだ。
「では帰り次第、イザナミ様と黄泉醜女様にお願いしておきます。鈴音がお世話になったらしいじゃーん、とか言うて攫てって下さい、て」
港町が誇る洋菓子店のケーキをホールで差し出せば、黄泉醜女もイザナミも協力してくれるだろう。
そしてヒノカグツチがメランを気に入って笑顔になり、鈴音が頼むまでもなく強引に呼び寄せるようになる。
「随分と変わった話し方だな?」
モノマネに驚いたヘカテの声で思考の海から浮上し、鈴音は曖昧に笑って誤魔化した。
「と、とにかく、時間は掛かるかもしれませんが、クールなイメージは崩して行ける思いますんで」
「ああ、そうだな。ありがとう。ふふ、まさか猫神の眷属が冥界の女神達と繋がっていようとは」
冷たい無表情でもなく、止まらない笑いでもなく、柔らかな笑みを浮かべたヘカテを見て、鈴音は達成感を得る。
「それで、そなたの本来の用件は何だ?死者の魂を人界へ戻してくれ、等という無理以外なら聞くぞ」
「あ」
すっかりやり切ったつもりで帰る気満々だった鈴音を見上げ、鼻で溜息を吐いた虎吉は前を向いて半眼になった。
「忘れとったな」
「ソンナコトナイヨー?」
「ブフッ、今度は、どこかのキツネみたいな顔にっ」
呆れる虎吉、すっとぼける鈴音、スナギツネ化した猫に笑いが止まらないヘカテ、またかと主の周りを回って抗議するメラン。
混沌を作り出してしまった事を反省しつつ、ヘカテの笑いが落ち着くのを待って、鈴音は日本で起きている騒動を説明した。




