第四百六十一話 トンネルを抜けて
迷い家の結界へ入った鈴音は、連日のキュウリフィーバーに首を傾げている河童へ、もう勇斗を無理に連れ帰らなくてよくなったと伝える。
驚き飛び上がって喜んだ河童が、『宴会や!』と叫びドタドタ走って行く姿を眺め、茨木童子と顔を見合わせ笑った。
庭を抜け母屋へ入ると、畳の上にずらりとお膳が並んでおり、座敷童子も含め子供達は昼食の真っ最中。少し早く来すぎたらしい。
時代劇でしか見ないような漆塗りのお膳の上には、いかにもな和食ではなく子供が好きそうな唐揚げ定食が載っている。
「おー、凄い。みんな美味しそうに食べてる。けど、あれってどっから仕入れたレシピなんやろ?迷い家はもの食べへんやん?」
鈴音が疑問を口にすると、茨木童子も確かにと頷いた。
「座敷童子らが人やった頃に食うてたメシっすかね?」
「んー、でも親に捨てられた子とか、虐待されてた子やんね?まともな食事してへんのちゃうかなぁ」
「あ、ホンマっすね。ほな食うてみたかったメシ?いやそれやと味を伝えられへんか」
深まる謎に唸るふたりの後ろから、キュウリの入ったざるを手にした河童が声を掛ける。
「どないしたんや?」
「ん?ああ、迷い家が出してくれるごはんな、美味しそうやん?どうやって味を知ったんかなぁて不思議がっててん。迷い家は食べへんのに」
すると河童は何だそんな事かといった顔で、あっさりと答えてくれた。
「迷い家は元々、ある福の神さんの遊び場でな?もう長いこと遊びには来てはらへんけど、今でも繋がってはおるんや。せやから、神さんへの捧げもんとか、縁日で出る屋台の食いもんとか、神職の弁当とか、そんなんが迷い家にも知識として降りてくるんやと。他は、座敷童子が住み着いとる家でつまみ食いしてったり」
「へぇー、そうか縁日かー。……て、いやいやいや、迷い家の持ち主の神様、縁日が開けるような神社に祀られてはんの?大きい神社の福の神……めっちゃビッグネームな気がしてった」
「名前は聞かん方が良さそうっすね」
鈴音と茨木童子が顔を引き攣らせる中、愉快そうに笑った河童は土間を抜けて裏庭へ出て行く。川でキュウリを冷やすらしい。
お陰で謎は解けたものの、神使と悪鬼には微妙な緊張感が生まれた。
そんな、高位の神の影にビビり倒すふたりの耳に、子供達の元気な『ごちそうさまでした』が届く。
「あ、夏梅さんに茨木さんや」
次いで聞こえた智の声で我に返り、何をしにここへ来たのか思い出した。
「レシピの謎を解きに来たんやのうて、答え合わせやら今の状況やらを伝えに来たんやったわ」
そうだったと頷き合い、広間へ上がる。
いつの間にかお膳は片付き、子供達は満足そうに微笑んでいた。
「こんにちは。しょうもない人らがどないなったか、答え合わせに来たよ」
近くに勇斗と座敷童子が居るので、クソ親だのクズ親だのといった単語は控える。
それを理解して頷く智のそばに腰を下ろし、鈴音は事の顛末を伝えた。
話を聞き終えた智は、外した眼鏡を拭きながら溜息を吐く。
「想像通りな部分と、想像の上を行く部分がありましたね」
「うん。ダメさ加減がね?ビックリやんね」
「ビックリです。座敷童子がついて行かんかったら、ホンマに危なかったんやな思いますもん」
「ショッピングモールで置き去りとか、何が起きてもおかしないもんね」
鈴音と智の会話に頷きつつ、茨木童子がふと他の子供達に目をやると、耳をそばだてていた彼らは視線を交わし、顔を顰めていた。
ここに残っているのは保護者から虐待された子供達なので、皆それぞれ似たような経験があるのかもしれない。
彼らにも、自分にとっての酒呑童子のような存在が現れればいいのにな、と思う茨木童子を、智の素っ頓狂な声が現実へ引き戻した。
「座敷童子になる!?」
大声を出してから慌てて口元を押さえた智は、目をぱちくりとさせながら改めて訊ねる。
「勇斗君はもう、人の世界には戻らへんいう事ですか」
「そういう事」
あっさりと認めてから、鈴音は智へ柔らかな笑みを向けた。
「せやから、自分のせいでここへ呼んでしもたんやし、とか責任感じて、最後まで見届けようなんて思わんでええよ」
「……え。うわ、バレてたんか」
恥ずかしそうに視線を外した智だったが、直ぐに復活して確認する。
「あー、座敷童子になるいうんはその、ここの不思議な力に影響されてるとかではなく?」
「うん。自分で望まん限りなられへんねんて。たぶん勇斗君は、ずっとここで座敷童子や河童と遊んどきたいんやね。家に帰りたいとは全く思てへんみたいよ。寧ろ、家どこ?て聞かれたら、ここの事を喋りそう」
そう言って笑う鈴音を見て、智は肩の力が抜けて行くのを感じた。
「そうか……、うん、そうか。何か、ホンマは止めなアカンのかもしらんけど、親はあんなんやし親戚も大概やったし、祖父母は居らへんのか居ってもアレを育てたんやから結局“ダメ”っぽいし、そない思たらここが一番幸せになれそうな気がします」
これは罪の意識を軽くしたいが為の言い訳だろうか、と密かに思う智へ、鈴音が笑いながら頷く。
「一番幸せになれる思う、私も。何せここの持ち主、とある福の神様らしいからさ。座敷童子になるいう事は、福の神の使いになるんと同じ事や思うねん。神の使いやで?不幸になる要素が見当たらへんやろ?」
そんな風に言われると、罪の意識を持ち続けるのは難しくなってしまった。
実際とても凄い事だと思うし、現代っ子の智でも、神の使いになるのを不幸な事のように扱ったらバチが当たるのでは、くらいは思うのである。
つい今しがた、座敷童子を怒らせて転落人生に突入した人々の話を聞いたばかりだから余計に。
「ほんならもう、勇斗君の事は座敷童子と河童に任したらええんですね」
「うん。ないと思うけど、やっぱりやーめた、てなったら私が迎えに来るし」
「そっか……、俺が見守る必要ないんや」
肩の荷が下りたような、けれど少しだけ寂しそうな様子で言う智に、鈴音は首を傾げる。
「智君、キミもまだ子供に分類されるお年頃やからね?ギリギリ見守られる側よ?」
それを聞いた智はキョトンとしてから、心底愉快そうに声を上げて笑った。
「ハハハハハ!ほ、ホンマや!俺まだ子供やった……!」
笑いのツボが変わった所にあるんだなあ、とのんびり待つ鈴音と茨木童子の前でひとしきり笑い、すっきりした顔になった智は指先で目元を拭う。
「っあー、おもろかった。俺、ずーっと頭ん中でこの先の人生とか思い描いてたせいで、自分がまだ何にもなってへん事忘れかけてました」
「この先の人生?お医者さんになるか、ならんかとか?」
一応は医者志望だったよなと思い鈴音が尋ねると、智はその通りだと頷いた。
「はい。親父が外科医やから、俺もその道へ進むつもりで勉強して、自分でこの先の人生設計したんですけど。最近それがちょっと……。よう考えたら別に外科医になりたい訳やないんよなー、あれ?そもそも医者になりたかったか?そらそうやろ、ガキん時からの夢やん。お父さんみたいになりたい言うてたやん。そう、そうやねんけど……それはどんな親父やった……?もしかして俺、医者やなくて父親になりたいだけか?みたいな」
右へ左へ首を傾げ、困ったように笑う智のいっそ見事な迷子っぷりに、辛かったろうなと鈴音も眉を下げる。
「大混乱やねぇ。ほんでここへ来て、少し気持ちが落ち着いた事で、自分でも意識せん間にお医者さん目線やったり、父親目線やったり、色々試しながら子供らを見守るようになってた?」
「ような気がします。今、俺も子供やて気付かして貰うまで、俺がみんなをしっかり守らなアカン!とか思てましたし。最初は、俺が一番年上やからみんなを纏めな、やったのに」
いつの間にか、年上云々は関係なくなっていたようだ。
「なんやろなー、真面目が暴走してる感じ?考え過ぎるタイプなんやろねぇ。いっぺんお父ちゃんに相談してみたら良かったんちゃう?そしたら親としても医者としても、じっくり話を聞いて寄り添ってくれて、頭ん中が整理整頓出来たかもよ?」
顎に手をやった鈴音の意見に耳を傾けていた智が、何かを思い出したようにハッと目を見張る。
「それや、切っ掛け。寄り添う。ガキの頃に目の前で起きた、車と自転車の接触事故……。転けた時に足捻って不安そうな女の人に、親父が寄り添ってたんや。医者やとか言うたら後々面倒な事になるかもしらんのに……」
救急車は呼んだから大丈夫。私は医者です、痛むのは足だけですか。そう言って、穏やかな笑みを浮かべる父。
「親父が話を聞いてあげたら、ちょっと興奮してた女の人は段々と落ち着いてって、今度は震えだして。けど『怖かったな、生きてて良かったな』て親父が笑たら、女の人も泣きながら頷いて。あの人、救急車来るまで親父の手ぇ握って離さんかったな……。ほんで、救急車乗る時に『ありがとうございました』て言うてた」
車の運転手と一緒に歩道へ移動させた程度で、治療を施した訳でもない。けれど女性は、父にありがとうと礼を述べたのだ。
「親父凄ぇ、医者凄ぇ!話しただけで泣いてた人が笑たし、お礼言うてた!俺もあんな事したい、親父みたいになりたい、話しただけで人が笑う医者になりたい!」
幼い頃に抱いた憧れを思い出し声にした智が、憑き物が落ちたような顔を鈴音へ向ける。
「あの状況やったら、医者である必要は特になくて、そばに寄り添う方に大きい意味があったんやと今は思うんですけど。ガキの俺にしてみたら、医者の親父が患者を笑顔にしたように見えたんです。凄い手術をした訳でもないのに」
「うん。魔法みたいに見えたやんね」
「ホンマに。俺もあんなんしたい、あんな風になりたい!て、憧れたんを思い出しました」
胸に手を当て懐かしそうに笑う智の思い出話を聞き、成る程そういう事かと鈴音は納得した。
「せやから智君は、小さい勇斗君の話を根気良う聞いたんやね。クソ親……困った大人に傷付けられてへんか調べて、傷付いてたら寄り添って癒やしたらなアカン思たから。アリスさんが自分の事みんなに喋ったんも、似たような境遇の子が多かったんは勿論やけど、智君が真剣に話を聞いてくれるて分かったんが大きいんちゃうかなぁ。男の子に言うんは勇気要る内容やもん」
幾度か頷きつつ鈴音が微笑むと、智は物凄い勢いで照れる。
「いや、うーん?それはある意味そうかもやけど、いや、どうなんですかねー?」
「あはは、そない照れるか。みんなから信頼されてるし、ありがとうて思われてんねんから、間違うてへんかったんやなて素直に喜んだらええやん。お父ちゃんに一歩近付いたんちゃう?」
楽しげに言われ、ガシガシと頭を掻いた智は薄っすら赤い顔のまま小さく息を吐いた。
「確かに、みんなの役に立ったなら嬉しいですね。無意識にあの日の親父の真似しようとしてた自分も、正しい選択やて褒めてもええ気がします。けど俺、今の流れで気付いてしもたんですよね」
「ん?」
「俺がなりたいん、やっぱり外科医ちゃうかった。どっちか言うたら、内科医か精神科医です。しかもここで過ごした影響で、小児科の、が付きました」
一時の気の迷いではない事は、智の清々しい表情が物語っている。
「おー、キツい上に儲からへんから不人気やて素人でも知ってる小児科!」
「うん、言い方。最近は若干、薄っっっすらマシなったらしいですよ?」
「すんませんでした素人が調子乗りました」
畳に拳をついて頭を下げる鈴音に『武士!』とツッコんで笑い、智は縁側を見た。
「外科医もしんどいから不人気なんですけど、でもやっぱりまだ上手に喋られへん子とか、大人が信用出来ひん子とかの話を、しっかり聞いてやりたいなて思てしもたんで」
座敷童子とあやとりをして、手に紐を絡めてジタバタしている勇斗を見る智の目は優しい。
「そっか。ほなもう、心が限界っぽい感じからは抜け出せたんやね」
「はい。目標がハッキリ見えたんで、もう大丈夫です」
「そら良かった。ただ、ここ暫く勉強してへんけどそれは大丈夫なん?」
医学部を受験する人イコール毎日勉強漬け、のイメージがある鈴音が心配すると、智はあっけらかんと笑った。
「もう夏ですよ?今頃慌ててたら遅いです。頭もスッキリしたし、後は過去問をザッとやっとけばいけます」
そのザッとが普通はえげつないのだと思うのだが、もしや智は天才の部類なのかと鈴音は恐る恐る尋ねる。
「智君、お主はもしや、いわゆる全国模試的なあれで上位に名を連ねる猛者かね」
「はい。普通にやって3位以下は取った事ないです」
「雲の上ッ!普通にやってとか言うてるし!本気出したら余裕や言うてるよねそれ!?」
両頬に手を当てキーキー喚く鈴音へ、智は眼鏡を光らせニヤリと笑った。
そんな余裕も見せ始めた彼が宣言通り小児科医となり、幼い我が子と遊ぶ見えない誰かの小さな足音を聞いて、その懐かしさに思わず涙するのは、もう暫く先の話だ。




