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第四百三十八話 犬も食わない

 帆を畳んだ漁船が並ぶ岸壁で、網の手入れや掃除等それぞれ作業する漁師達。

 その中で、何やらお取り込み中らしい男性の後ろにある船が、魚屋の店主に聞いたそれだった。

「んー、夫婦喧嘩の真っ最中?」

「おう、そんな感じやな」

 遠い目で鈴音と虎吉が見る先では、迫力美人な中年女性が、日焼けした筋肉質のイケオジにガオーッと吠えている。


「今度という今度は赦さないからね!!」

「誤解だって言ってんだろ誰だよフィオレって!」

「こっちが聞いてんだよこの浮気者ッ!!」

「いや落ち着け俺は何もしてねえ!」


 この調子で、猫の耳でなくても充分聞こえる大声が辺りに響いているのに、他の漁師達は気にも留めていない。

「あははー、日常茶飯事なんやねー」

「せやな」

「ここに割って入らなアカンの?しんどいわー」

「喧しいんは嫌やな」

 鈴音と虎吉がスナギツネ化し、プローデとアーリアは村でも見慣れているのか『大変そう』と他人事で見守り、プリムスは『いつの時代も同じだね』と呆れ、興味がないらしい骸骨はカモメ風の鳥をスケッチし始めた。

 唯一ディナトだけが、ハラハラした様子で夫婦へ交互に視線をやっている。

 直ぐに終わったりしないかな、と暫しその場で待機してみたものの、妻と思しき女性の怒りが収まる気配は無い。

「放っといたらまだ続きそうやし、突撃しよか」

「おう、しゃあないな」

 鈴音は覚悟を決め、溜息と共に夫婦のもとへ歩を進めた。少し離れて皆もついて来る。


「すんませーん、ちょっとお話を伺いたいんですが」

 声を掛け夫婦喧嘩に割り込んだ鈴音へ、周囲の漁師達は『心臓強いな!?』という視線を向けた。

 喧嘩の当事者達からは、天の助けとでも言いたそうな視線と、鬼の形相が返ってくる。

「おお、どうしたん……」

「誰だいアンタ!?まさかアンタも、ウチのと愛し合ってるとか言い出すんじゃないだろうね!?」

「げ、変な流れ弾飛んでったで」

「全力で回避や」

 鈴音と虎吉がミミズク顔で固まった途端、後ろからディナトがすっ飛んできた。


「待て!我々は今この時が初対面だ。初めて会ったというのに、愛し合っている訳がなかろう。落ち着け」

 明らかに格の違う大男に圧倒され、夫婦は揃って黙る。

「よし、分かってくれたようだな」

 ホッと胸を撫で下ろすディナトを見上げた鈴音は、原因は違えど自分も妻を怒らせているから、他人事とは思えなかったのだろうな、と珍しい行動に感謝しつつも小さく笑った。

「ふふ、ありがとうございますディナト様。えーと、私は旅の探検家で魔法使いの鈴音。魚屋さんに、デッカいトゥーンが欲しいなら漁師さんに頼むしかない、言われてここに来ました。お話伺ってもええですか」

 鈴音の営業用スマイルを見た妻は、魔法使いが夫へ仕事の話を持ってきただけだと知り、恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔を真っ赤にする。


「ああー、その、ごめんよぅ?この人が浮気したってんで頭にきてたもんだから、とんでもない勘違いしちゃったよ」

「だぁーからしてねえっつってんだろ」

「ああん!?じゃあ何で女がアタシんとこ殴り込んでくんのさ!!」

 どうにか鎮火しそうだった所へ、夫が要らぬひと言を投入し再び炎上。

 埒が明かないので、鈴音は消防士になるしかなかった。

「め組か。いや、火付盗賊改として取り調べや」

「鈴音、早よ」

「あ、ごめんごめん。はい奥さん落ち着いて!まず、誰がいつどこへ殴り込んできたんか、ハッキリさせましょ。そないせな話が進まへん」

 夫婦の間を右腕で仕切り、鈴音は妻へ言い聞かせる。

 すると妻は呼吸を整えながら首を傾げた。

「ふーっ、ふーっ、誰がいつ……?フィオレって若い女が昨日の夜、うちの店に来たのよ」

「ふんふん、昨日の夜に。何をしに?」

「喧嘩売りに来たのさ!アナタの旦那が好きなのは私よーさっさと別れてーとか何とか……ムキーッ!!」

 思い出し笑いならぬ思い出し激怒。妻は両拳を握り締め、ダンダンと右足で地面を強く踏み鳴らす。


「旦那さん、心当たりは」

 問われた夫は額に拳を当て、渋い顔で記憶を辿った。

「若い女なんかにゃ手ぇ出さねえのに……」

「アンタ30過ぎぐらいが好きだもんね」

「おぉ、ちょっと落ち着きが出たぐらいが丁度……。いやいやいや今のナシ」

 過去の浮気を思い出したか、妻の背後に地獄の業火が見える。

「奥さん、とっちめるのは後で。とにかく今は旦那さんに、若い女が何者か思い出して貰わな」

 宥められ、幾度も頷いて我慢する妻。だが夫は中々思い出さない。そんな夫へ、鈴音はじっとりとした視線を送った。

「旦那さん?女性と見たら取り敢えず褒めたり、何ぞ勘違いさせるような事とか言うてません?」

「ええ?無えだろ。今日も可愛いな、は挨拶だし……俺がもうちょい若けりゃな、は礼儀だし」

「はい駄目ーーーっ!」

 険しい顔で手を振る鈴音と、少し離れた位置でバツ印を作る骸骨、頭を抱えるプリムスに、顔を寄せ合いヒソヒソやるプローデとアーリア、愕然とするディナトを見て、夫は目をぱちくりとさせる。


「駄目?どの辺が?」

「全体的に」

「嘘だろ何でだ」

 本当に全く分からないという顔の夫を横目に、鈴音は大きな溜息を吐いた。

「苦労しますね奥さん」

「分かってくれるかい」

「ええ。……あのね旦那さん。その手の挨拶してええんは、旦那さんの性格を知ってる女性か、接客業の女性だけです」

 不思議そうに首を傾げる夫を見やり、ディナトが呆然と零す。

「何故、妻以外の女性を褒める?妻より美しい存在なぞ、どこにも居ないだろうに」

 真顔で何言ってんだこの人、と夫はもとより周囲の漁師達も目を丸くして固まったが、女性陣には好評だ。

「その通り。奥さん以外を口説く必要はないんです」

「いや別に口説いてるわけじゃ……」

「まあね、挨拶ですもんね?けど、あなたの性格を知らん素人女性は、素敵なオジサマに口説かれちゃった!思うんですよ。まあ、やたら軽いオッサンに口説かれたウヘェ、て思う人のが多いやろけど」

 軽いオッサン呼ばわりが地味にダメージを与えたようで、夫は胸に手を当て痛そうにしている。


「そういう訳で今回の件は恐らく、旦那さんの“挨拶”及び“礼儀”を真に受けたウブな女性の、思い込みによる暴走」

 人差し指を立てて尤もらしく言う鈴音を見やり、妻は成る程と納得した。

 夫は口をへの字にして不満を表す。

「思い込みなら俺は悪くないだろ」

「不用意な“挨拶”が招いた結果やのに?それで奥さんが狙われるとしても?」

「へっ?」

 不穏な空気を醸し出す鈴音に、夫婦揃って何の話だと驚いた。

「だって、『可愛いな、俺が若かったらな』言われただけであの人は私を好き!て思い込んで、奥さんのとこに乗り込んで別れろとか言う人ですよ?奥さんが無理に旦那さんを縛り付けてるから私と結婚出来ひんねん、よし殺そ!とか思てもおかしないでしょ」

 サラッと恐ろしい事を言われ、夫は唖然とし妻は青褪める。


「いや、そこまで思われる程のもんじゃねえよ俺は」

「それは旦那さんが決める事ちゃいますやん。向こうには、女神様が導いて下さった相手に見えてるかもしらんでしょ」

「ええぇ……」

 顔を引き攣らせる夫を見ながら、妻は幾度も頷いた。

「あるよそれ、あるある。アタシも田舎から出て来た時にはさぁ、都会の男はみぃんな格好良く見えたもん。そんなフワフワした気分の時に口説かれりゃ、ああ女神様が決めてくれた人はここに居た!って思うよねぇ」

「そこに立ち塞がる奥さんという障害。排除しようと動く可能性はありますよね?何せ思い込み激しいから」

「そういう人、話が通じないからホントに大変ですよ」

 鈴音の説を裏付けるような事を言うのは、プローデと一緒にプリムスの後ろにくっついているアーリアだ。


「その人にとっては、思い込んでる事だけが本当の事だから、どんなにそれは違うって否定しても聞いてくれないですもん」

 経験者アーリアの言葉には重みがあった。

「きっと、旦那さんがどれだけ『口説いてないよ、挨拶だよ』って言っても信じませんよ。ああ可哀相に、その性悪女に言わされてるのね!大丈夫よ私が助けてあげる!とか言います多分。それと、お嬢様……じゃないや、思い込み激しい人ってしつこいんで、何度追っ払ってもまた来ますよ」

 恐ろしい程の説得力。一体どれだけ、お嬢様こと村長の娘ボーリアの暴言に耐えていたのか。悔しそうな顔になったプローデが、アーリアの背中に手を添える。

 その様子を見てやっと、夫はアーリアが体験談を語っていたのだと気付いた。


「ヤベェじゃねえか、どうしたらいい?」

 顔色が悪くなった夫の問い掛けに、鈴音は肩をすくめる。

「まずはキッパリ言うべきでしょうね、勘違いさして悪かった、自分が愛してるのは妻だけやねんゴメンな、て」

「うんうん、それで大人しくなるか?」

「なったらええけど、ならんかったら警備隊に相談ですね。警備隊から注意されたら目が覚めるかも」

「警備隊!?そんな大事になんのかよ……」

 驚く夫だったが、さっきまでの勢いを失い心細そうな妻が視界に入ると、その肩に手を置き頷いた。

「まずは、そいつが現れたら謝ってキッチリ断る、だな。悪かったよ、こんな事になるなんて思わなかったんだ」

「ああ、そうだね。アタシも勘違いして悪かったよ、出来るだけ穏便に済むよう女神様に祈ろう」

 肩に置かれた手に自身の手を重ね、妻が困り顔で笑うと、夫も眉を下げて笑いこれにて一件落着。

 ああやれやれ、と脱力する鈴音達と夫婦を見比べ、ディナトが『もう大丈夫なのか?』とソワソワしている。


「大丈夫ですよディナト様。喧嘩するほど仲がええ夫婦なんで。それにこの国の警備隊、優秀ですから」

 一部腐っていたが、既に排除済みなので問題ない。だがディナトが気になったのは、そこではなかった。

「喧嘩するほど仲が良い……?」

 意味が分からないようで、怪訝な顔をして首を傾げている。

 自力で考えて貰おうと微笑んで頷くだけにして、鈴音は漁師である夫に向き直った。

「ほんで、トゥーンについてなんですが」

 営業用スマイルでそう言われ、夫婦揃ってハッとしてから照れたように笑う。

「ごめんよぅー、そうだったねぇ」

「悪ぃ悪ぃ、すっかり忘れてたわ」

 でしょうね、と心の中でツッコみつつ鈴音は海を見た。


「この時間帯やと、どの辺に()るんかだけ教えて貰えません?後は自分で何とかしますんで」

「へ?自分で?いや、明日になったら俺が……」

「今、欲しいんです。なので大体の居場所を是非。勿論、情報料と獲れたトゥーンの代金はお支払いします」

 鈴音の妙な迫力に押され、タジタジとしつつ夫は考える。

 この時間にトゥーンが居るとされている場所は、漁業組合が管轄する漁場から外れているし、金を払ってくれるなら教えても問題はないだろう。

 今すぐ欲しい、自分で何とかする、の意味が今ひとつ分からないが、夫婦喧嘩を収めてくれた恩人に聞かれた事には、素直に答えるべきだと思う。

「……よし。トゥーンは夜行性でな、今は寝てる時間なんだ。んで寝床があの岩……見えるか?」

 夫が指差す先を見ると、尖った岩がいくつか海面に突き出ていた。

「見えます」

「あの岩礁地帯に隠れて寝てるらしい。船が近付けねえから、らしい、とかいう曖昧な言い方にゃなるんだが、ほぼ間違いねえよ」

 浮気者の夫ではなく漁師の顔で笑っているので、これは確かな情報だなと鈴音は頷く。


「因みに私が獲りに行っても、漁業法違反とかで捕まったりしませんか」

「ああ、漁師じゃなきゃ漁しちゃ駄目だって法律はねえし、あの岩礁地帯なら大丈夫だ。組合の管轄外だし、船が近付けねえんだから怒る奴もいねえ」

 かなり沖の方なので、干潮時に歩いて行けるという事もないようだ。

「ありがとうございます。よっしゃ、行ってくるわ。骸骨さん、虎ちゃんお願い」

 近付いてきた骸骨に虎吉を渡し、鈴音は軽く手を振る。

「ちょっとだけ待っとって下さいねー。ほな」

 笑顔で言い残し、岸壁からピョンと海へ跳んだ鈴音に骸骨と虎吉以外が慌てた。

「えええええ!?」

 だが、助けなければ、と一歩踏み出した時点で異様な光景が目に飛び込み、全員が固まる。

「走ってねえか?」

「走っているな」

「あっ!魔法か!魔法使いだって言ってたな!」

 手を叩いた夫の大声で皆が『そうだった』という顔になり、『何だよもうー』と安堵の溜息が漏れた。

 その中でディナトとプリムスは、そういえば神の使いだったと鈴音の立場を思い出し、“猫神の神使”は海を走れるんだなと感心する。

 勘違いしたふたりから視線を向けられた虎吉が首を傾げ、骸骨をデレデレさせている頃、鈴音は岩礁地帯に到着した。

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