第四話 猫の能力
坂の上の住宅地にある、二階建ての一軒家が夏梅家だ。
ドアを開けて中に入ると、廊下の先に愛猫達の姿が見える。
「ただいまニャーたんヒーたん、今朝と変わらずかんわいいぃねぇ」
鈴音を迎えに玄関へ来ていた二匹の雄、虎吉に似た雉虎猫の大柄なニャン太と、小柄な灰白猫のヒスイは、2メートルばかり離れた位置で、瞳孔全開で固まっていた。
まん丸な目はそれぞれ、鈴音の腕の中でウトウトしている子猫をじっと見つめている。
「オカエリー…………ソレダレ」
「オカエ……ナニソイツ」
「おー、やっぱり喋るね。ははは。けど、おチビとたいして変わらんレベルやな?あ、ちなみにこの子は暫くお泊りする子。家族になるかはまだわからんねん」
覚悟していたので、愛猫達が喋る事への驚きは少なかったらしい。
彼らに簡単な事情説明をし、流暢に喋るのは虎吉だけの特権か、と脳内の情報を更新しつつリビングへ向かう。
開けっ放しのドアを抜けると、たまたま仕事が休みで寛いでいた母親が、鈴音の方へ顔を向けた途端に驚愕の表情を見せた。
ただ彼女の場合は猫達と違い、驚愕からあっという間に狂喜へ変化したのだが。
「お帰り、て、子猫ぉ!?ぃやーん、どないしたんチビちゃぁぁん可愛いなぁー」
この母にしてこの娘あり。デレた顔に猫なで声は、虎吉言うところの『発作』を起こしている鈴音と瓜二つだ。
ゆっくりと立ち上がると、鈴音の腕に抱かれた子猫を手慣れた様子であやしている。
「木の上で鳴いとってさぁ……」
神界云々の話は省いた上で保護した経緯を話し、迷い猫でなかった場合は飼うつもりだと告げる鈴音に、母親は笑顔で頷く。
「うんうん、それでええよ。けど、あの子らにはちゃんと説明しぃよ?」
リビングの入り口からこちらをじっと見ている先住猫達を示し、母親は子猫を受け取る。
「はははー、納得してくれるかなぁ」
デレデレの母親と苦笑する鈴音を見比べて、寝ぼけまなこの子猫が小首を傾げる。
「ゴハン?」
「あらー、ニャーやて可愛いわぁ」
「くぁ、可愛いなぁぁ。たぶんこの子、お腹空かしてんねん。子猫用のんすぐ買うてくるから、ちょっと誤魔化しといて。軽く食べさしてから病院連れてくわ」
子猫の言葉は、当然わからない振りをする。
この後、近所のホームセンターと自宅とを駆け足で往復し、餌を与えてから動物病院で検査、警察や愛護センターへ連絡、と鈴音は文字通り走り回った。
夕方、健康体のお墨付きを貰って帰宅した子猫は、元気一杯フルパワーで家の探検を始める。
尻尾をピンと立ててちょこまかと動き回る子猫を、二匹の大人猫が心配そうに追い掛ける様子は、鈴音で無くとも目尻が下がろうというものだ。
そう、なんとこの時点で先住猫達に子猫は受け入れられている。
本来、先住と新入りの対面は時間をかけて慎重に行うべきなのだが、今回に限りその必要は無かった。
子猫からも、鈴音からも、猫神である白猫の匂いがしたからだ。
「イイニオイ」
「ヤサシイ、スキ」
鈴音に纏わり付いて匂いを確認した先住二匹は、すっかり機嫌を直し、出会って数時間しか経っていない子猫の保護者となった。
二階へと続く階段にチャレンジする子猫をハラハラと見守り、危ないから手伝ってやれと鈴音に抗議する程だ。
事情を知らない母親は目を丸くしていた。
「猫神様パワースゴい。フツーなら、この浮気者がー!!て激怒されるのに。優しいエエ匂いやて。助かるわー、よし、拝んどこ」
白猫に感謝しながら子猫を遊ばせ、電池切れで眠った隙をついて自身の食事だ風呂だと慌ただしく済ませる。
とっぷりと日も暮れた。
「ふー。さすがに疲れた。ほな、今日はもう休むわ」
「ん、色々……大変やったな。ゆっくりお休み」
敢えて仕事について言及しない母親の気遣いに笑顔を返し、子猫を抱え愛猫二匹に先導されて二階の自室へと向かった。
「ニャーちゃんヒーちゃん、この子が夜ひとりで動き回ったら危ないから、部屋のドア閉めて寝るけど、どうする?」
パジャマ代わりのジャージ姿で、部屋に飲み水やら猫トイレやらを設置しながら尋ねると、首を傾げて考えた二匹は、ここで寝ると答えた。
「そっか。ほな部屋の移動は朝まで我慢してな。……て、そこ私の枕。待って待って、そこでみんな寝られたら私寝る場所ないやんか。あー、可愛い……ちゃうちゃう、おーい、のいて?」
子猫を枕元に寝かせたのが間違いだった。二匹がしっかり添い寝し、猫団子が完成。枕回りに隙間は無い。
「ぐぬぬ。可愛い。しゃーないな、まあ、スペースはあるしな、丸まったら寝られる寝られる」
猫に寝床を占拠されるのは猫飼いの宿命。ど真ん中に陣取られるよりはマシだ、と己を納得させ、ベッドに腰を下ろす。
「さて。ちょっと、いやだいぶドキドキするけど、何がどないな感じなんか、教えて貰おかな。……虎ちゃーん」
小声で呼び掛けると、ベッドの空きスペースに通路が開き、虎吉が姿を現した。
ぎょっとして固まる大人猫達とすやすや眠る子猫へ歩み寄り、優しい毛繕いで安心させてから鈴音に向き直る。
「昼ん時から気になっとってんけど、その虎ちゃんてのは?俺の名前、虎吉やなかったっけ?」
とても不思議そうな虎吉に、鈴音は楽しげに笑った。
「あれやん、親愛の表現やん。仲のええもんは、愛称で呼び合うたりすんねんで?ほら、私と虎ちゃん神使仲間やし」
相手は恐れ多くも神の分身で、職業上の遥か大先輩、そして本日初対面、という重大な事実は綺麗に無視している。
「ふーん?そういうもんなんか?ほな俺もなんぞ愛称考えた方がええんか?」
「あー、それはどっちでも、虎ちゃんの好きなように」
「そうか……ほな俺は鈴音のままで。べつに親愛の情が無いとかとちゃうで?まあその内、なにか思い付くかもしらんし」
「うん、ありがとう」
多分このまま名前呼びが定着するな、と思いながら、それでも充分嬉しい鈴音はニコニコだ。
「……でね?確認したかったんは、猫神様のお力てどんなん?て事。猫の言葉わかる以外に、何か私に影響あるんやろか」
鈴音は微笑んだまま、影響ない筈がないよね、な顔を向ける。サッと視線をそらした虎吉は、痒くもない頬を後足でカカカと掻いた。
「あー、まああれや、そのー、他にも身体能力?がちょっとな」
「ちょっと?」
「猫寄りに出来たり戻せたり」
「……うん?」
意味がわからない、と不思議そうな鈴音に、鼻から小さな溜め息を吐いた虎吉が続ける。
「猫と同じ事が出来る。……眷属なってんから、言うまでもなく当たり前の事やて俺は思とってん。せやから猫神さんに、鈴音が猫語が解る言うてビビッてましたで、なんでやろかて聞いたんや。ほんなら、もしかして神界人界間の通行手形だけ貰たと思てたんちゃうか、眷属は家族みたいなもんとしか説明してないし、言われて」
まさにその通りだった鈴音は大きく頷いた。
やっぱりか、とばかり虎吉は再度溜息を吐く。
「確かに、人が猫神さんの眷属なるなんて初めての事やし、猫の能力が身に着いとるなんて、説明も無しに解るわけないか、と反省もしてな。こらちょっと『猫っぽい事が出来る』とか曖昧な感じに誤魔化したった方が衝撃少ないかな、とか色々思たんやけども。……よう考えたら別に悪い事ちゃうねんからかまへんやないか。猫の能力ゲットしたんやでラッキーやなおめでとう、でええんちゃうんか、猫好きやったら喜ぶやろ、ちゃうんか、アカンのか、おォ!?」
「うわ、なんや最後逆ギレされとる!虎ちゃんもそういうとこ猫やなー可愛いなー」
突然キレられても可愛いと感じられる、それが変態レベルの猫好きクオリティ。
「俺が威嚇のシャーかましても、可愛い言いそう」
「怖可愛いよな、シャーな!体モリッとなって、毛ぇボーンなるやつ特に可愛いな!」
キラッキラしながら思い切り肯定する鈴音に、圧倒的なレベルの差を思い知った虎吉は何らかの境地へ至った顔となった。
「ちょ、虎ちゃん、猫やのにどっかのスナギツネみたいな顔なってんで」
「誰のせいやねん。……まあええわ、取り敢えず試さへんか?鈴音の能力がどう変わるんか。なんせ、猫の力と人の力が混ざったらどないなるか、猫神さんにも予想つかんかったし」
どこかのキツネ顔から猫に戻った虎吉が問い掛けると、半眼に微笑といった表情を浮かべた鈴音は遠くを見やる。
「おー、菩薩顔で現実逃避」
「いや、しゃーないやん、だって意味わからんもん、猫の能力言われても。あれでしょ、重力が行方不明なジャンプとか、いきなりトップスピードな走りとか、意外と破壊力あるパンチとか高速連続キックとか」
「うん、意味わからんどころか、かなり詳しいな?」
「ちゃうねん、それが自分に備わってるいうのが意味不明やねん」
「猫神さんの眷属やから、やな」
大変男前な表情で実に簡潔な結論を突き付けられた鈴音は、それでもぐだぐだと往生際が悪い。
「なあ、そんなに嫌なんか?猫の能力。そんなもん欲しい言うてへん、怖い、気持ち悪い、て怒ってたらどうしよ嫌われてたらどうしよ、言うて猫神さん心配しとったけど、的中したんか」
きりりとした顔から一転、しょんぼりとした顔になってしまった虎吉に、ぐだぐだしていた鈴音は目を見開いて慌てた。
「ちゃうで!?猫の力が嫌とか違て、猫は猫やから可愛くて美しくて可愛くてカッコ良くて可愛いんであって、私が猫の真似したって、痛々しいだけやん!?子供ならまだ無邪気で可愛らしいか知らんけど、ええ大人が何しとんねんて思うやん!!それが嫌やねん」
「え?ああ、そう、うーん?それやったら別に、猫の真似せんかったら問題無いんとちゃうか?何を以って猫の真似や言うんか、俺にはわからんけど」
虎吉の困惑しながらの指摘に、興奮を一瞬で静めた鈴音は目を点にする。
「え?猫の身体能力使おうとしたら猫の耳やら尻尾やらが生えるとかじゃないん?」
「なんでやねん。どういう理屈や。耳、元々あるやん。猫の言葉わかる状態でも形変わってへんやん。ほんで、人に尻尾は無いねんから、どないもなりようがないやろ。生えるて何やねん」
「ほんなら、姿形は変わらへんの?」
「変わらへん。デカい猫になるとでも思たならともかく、何で部分的に変わる思たんかが不思議や」
勿論、鈴音のおかしな想像は漫画等の影響によるものだが、虎吉にはわからない。
鈴音は鈴音で、人の姿形のまま身体能力は猫になれると言われても、イメージが湧かなかった。
「えーと、今の私は猫と喋れる以外フツーやけど、耳と一緒で、意識せんでもいきなり他の能力が出たりするん?」
「たぶんやけど、緊張したりビックリしたり怒ったり、無意識にガッと力入る時あるやろ?そういう時に出ると思うで?知らんけど」
「知らんのかーい」
「そら初めての事やし。猫に当てはめて考えた話しか出来へん。せやから力出してみて、どんくらいの事が出来るんか知って、加減の仕方やら誤魔化し方やら練習しといた方がええんちゃうか思てんけど。どんなんか解らんからビビるんやろ?」
虎吉の尤もな意見を反芻してから漸く納得し、幾度も頷いた鈴音はよしとばかり立ち上がる。
「そっか、うん、ホンマそうやわ。虎吉センセーの言う通りや。予習しといたら何かあっても対処し易いやん。上手い事行ったら便利かもしらんし。よーし、下手なコスプレみたいになる心配もなくなったし、猫神様に安心して貰う為にも頑張って使いこなそかー。……で、何を試そかな?殴れるような物は無いし、走れる程広い家ちゃうし……ジャンプしてみよか」
言うが早いか軽く屈み込む鈴音に、瞳孔を全開にし尻尾をコップ洗い用のブラシよろしくボンッと膨らませた虎吉が、慌てに慌てる。
「待て待て待て!!ストップ!あービックリした危なー。いやもう、思い立ったらイキナリかい!」
「え?」
「え?やないー!こんなトコで跳んで何かあったらどないすんねん!」
長い尻尾でバンバンとベッドを叩く虎吉の指摘に、力を抜いた鈴音はキョトンとした顔だ。
「猫をイメージしながら軽くジャンプしてみよ思てんけど、危ないかな?」
「知らん。知らんけど、猫は、かるーく跳んで四足で立っとる時の目の高さは行くで?」
「……人の場合は四つん這いを立ってるとは言わんね……。て事は、この高さぐらい跳んでまうかもしらんのか。私が160あるからー……」
真っ直ぐ立って、目の位置で手を水平に動かし、天井を見上げる。
「うわぁ、頭ぶつけそう」
「あー、鈴音が貰たんがフツーの猫の力やったら、ゴーンぶつけてアイタターで済むかしらんけど、猫神さんの力やからな?もし加減間違うとったら、屋根ブチ抜いて遥か上まで行ってまう可能性、あるで?」
恐ろしい事を淡々と告げられて、鈴音の表情が固まる。ゆっくりとしゃがみ、そのまま床に正座した。
「虎吉センセー、止めて下さってありがとうございます。ワタクシ、浅はかでございました」
「うむ、わかればよろしい」
鈴音の師弟ごっこに付き合って、鷹揚に頷いてみせる虎吉。しかし性に合わないのか、勢いよく頭を振ってすぐさま元に戻った。
「ちなみに、俺でもフツーに地面から十階のベランダぐらいまで跳べるねん。鈴音は俺よりデカい分、全力出したらもっと跳べそうや」
「十階て……凄過ぎやん猫神家の一族」
「せやから、場所変えようや。一番安全なんは猫神さんの縄張りやけど……木ぃやビルみたいな比較対象物が無いから判りにくいか?あ、大きなった猫神さんに座っといて貰おか。ええやん、俺冴えとるわー」
名案だと自賛しながら虎吉は通路を開いて潜り、神様をそんな風に扱っていいのか、そもそも上下ダサジャージで会いに行って失礼に当たらないのか、等と自問しながら鈴音も後に続いた。