第二百八十九話 ここはどこ
駅へ向かう鬼とお辞儀して別れた鈴音は、茨木童子を連れて夜の街を跳んだ。
屋根の上から骨董屋の場所を教え、次いで自宅へと向かう。
人目が無い事を確認してから玄関先へ降り立ち、明日の指示を出した。
「朝の9時前に骨董屋の前で待っといてくれる?」
「うっす!」
「上司に紹介するから、ナメた態度取らんように」
「うっす!」
他に何か言っておく事はあるだろうか、と考えた所で、ふよふよと空を飛んで帰ってきた骸骨が視界に入る。
「おかえりー」
手を振る鈴音に釣られて空を見上げた茨木童子は、闇夜に浮かぶ死神としか思えない骸骨の姿に驚いて固まった。
「あ……姐さん、死神とも知り合いやったんすか」
降下してくる骸骨と鈴音を見比べながら、茨木童子はちょっと引いている。
「死神ちゃうよ。骸骨さんは異世界の地獄の使者。私の友達やし、めっっっちゃ強いから喧嘩売らんように。死ぬで」
「異世界の地獄?ほなさっきの鬼みたいなもんすか?えー……マジっすかー。何でやろな、急に俺の周り俺より強い存在ばっかりになっとる」
納得してから遠い目になる茨木童子を手で示し、骸骨が首を傾げた。
鈴音は微笑んで紹介する。
「茨木童子いう悪鬼。私んトコで人の社会で生きる為の修行する事になってん」
成る程と頷いた骸骨は、茨木童子にペコリとお辞儀した。
「うっす!ご丁寧にあざっす!茨木童子っす!」
慌てて直角のお辞儀を返す茨木童子。鈴音が友達だと言ったので最敬礼だ。
そんな対応をされる事に慣れておらずびっくりした骸骨が、『頭を上げて』とばかり両手を振っている。
「あはは、骸骨さんが困ってるから頭上げて。取り敢えず今日はもう遅いし、明日上司交えて話しよか」
「うっす!」
勢い良く顔を上げた茨木童子が鈴音の方を向いて頷き、骸骨はホッと胸を撫で下ろした。
「ほなお疲れ様、また明日な。おやすみ」
「うっす!おやすみなさいっす!」
鈴音と骸骨に直角のお辞儀をかまし、茨木童子は風のように走り去る。
一瞬で遥か遠くまで移動している背中を見つめつつ、鈴音は首を傾げた。
「んー、なんや時間経つごとに体育会系なノリが酷なってんねん。なんでやろ?」
その疑問に肩を揺らした骸骨は石板を出し、サラサラと指を滑らせる。
そこには徐々にオーラが増している鈴音と、それに合わせてちょっとビックリしている茨木童子、かなりビックリしている茨木童子、物凄くビックリしている茨木童子が描かれていた。
「いやー……?今回は猫神様や高位の神様方の威を借りてビビらしはしたけど、神力では脅してへんねんけどなぁ。……あ。魔力の方やろか。魔王殺ったんすか、とか言うてたし」
首を傾げる骸骨に事情を話すと、多分それだと頷かれる。
「やっぱこっちかぁ。殺してへんとは言うてあるけど信じたか分からへんし、明日もっかいちゃんと説明しとこ」
それがいい、と頷いた骸骨と共に家へ入り、猫達に2日連続で遅くなった事を心配されつつ鈴音はリビングへ。
既に母から餌を貰っている猫達はひとしきり匂いを確認すると、もういいやとばかり2階へ上がる骸骨へついて行く。
「くぅ、切ない!でもそのつれなさもまた可愛い!」
「アホな事言うとらんと早よご飯食べ」
「うっす」
2日連続夕食当番を押し付けてしまった母には逆らえず、誰かさんのような返事をしてから手を洗いに洗面所へ向かう。
ドタバタと2階で運動会を繰り広げる猫達の足音に目を細めながら、鈴音はありがたく遅めの夕食を取った。
さて翌朝。
パーカーではなくテーラードジャケットに着替えさせた茨木童子と共に、鈴音は現在骨董屋の中、事務スペースの前に居る。
奥から聞こえるバシャバシャという水音は、言わずもがな綱木が立てているそれだ。
「人て混乱したら顔洗うんすか」
「んんー、頭冷やしてくる、とか言うて席外す人は居てるけど、実際にああやって顔洗う人はあんま知らんなぁ」
きょとんとした茨木童子に問われ、困り顔の鈴音が答える。
何せその面白行動を取らせた原因が自分にあるので、『やってもうたー』と反省中なのだ。
ほんの数分前、目の前のイケメンが悪鬼だと聞いた途端、綱木は笑顔のままスッと立ち上がり物凄い早さで奥に消えた。
そこでやっと鈴音は思い出す。
酒呑童子ほどではないにしろ、茨木童子もかなりのビッグネームだった事を。
ゲームで言えば酒呑童子がラスボスの最終形態、茨木童子は第一形態くらいだろうか。
いくら安全対策課で監視しているとはいえ、いきなりそんな化け物が目の前に現れたらそりゃあ驚くに決まっている。
「事前連絡て大事よね。ホンマ気ぃつけよ。歌舞伎の演目になるような有名人……人ちゃうわ有名オニ、急に連れてったらアカン」
「え、俺、歌舞伎なってんすか?」
「うん。腕斬られて取り戻すあの件な」
「ぐぬぬ渡辺綱ぁぁぁ」
茨木童子が悔しげにギリリと牙を鳴らした所へ綱木が戻ってきて、悪鬼丸出しな顔を見るやもう一度洗面所へ戻るべきか逡巡している。
「顔戻して早よ戻して直ぐ戻して。綱木さーん、大丈夫ですからー、噛み付いたりしませんのでー」
急いで牙を引っ込める茨木童子と、大型犬を連れた人のように笑う鈴音。
ひとつ息を吐いて、漸く綱木がふたりの前へ戻った。
「あー、悪かったね、ちょっと動揺してしもて。ゴメンやけど座らして貰うで?」
椅子に腰を下ろす綱木へ『どうぞどうぞ』と微笑む鈴音を見やり、茨木童子は不思議そうだ。
その表情に気付いた綱木が苦笑いを浮かべる。
「頼むで茨木童子。殴って俺の実力を確かめようなんて思わんといてくれよ?確かめるまでもなく鈴音さんより弱いから」
「え。弱いんすか」
では何故神の眷属が従うのか、と驚いた茨木童子は鈴音を見た。
「ん?あー、人の社会は腕っぷしの強さだけで上下は決まらへんねん。頭の良さやら過去の実績やら、色々あって立場が決まるんよ」
「そうなんすか」
一応頷きつつも納得していないような顔をしているので、鈴音は分かり易い例を出す。
「歌也さん。酒呑童子の子孫やとしても人やから、弱いで。やっつけて上に立とうと思う?」
「思わへんっすよ!兄貴っすよ?俺は別に兄貴の強さだけに憧れとった訳やないし…………あ、成る程」
どうやら今度はきちんと納得したようで、鈴音と綱木を見比べ幾度も頷いている。
「分かって貰えて何より。安全対策課の人はみんな私より立場が上やから、丁寧に対応するように」
「うっす」
鈴音の言う事なら素直に聞く茨木童子を見やり、綱木は少し警戒を緩めた。
「ほな、茨木童子がここに居る理由を教えて貰てええかな」
「はい。実は……」
頷いた鈴音は、人界に存在するだけではなく、人の社会に馴染みたいのだという茨木童子の望みを伝える。
「私が暫く面倒見ますんで、問題起こさんかったらそのうち誰かの助手か何かいう形で、便宜を図って貰えませんか」
勿論、難しいのは分かっている。遥か昔の事とはいえ人殺しもしている悪鬼だ。
ただ、そんな悪鬼が自ら、制約の多い人の世に馴染みたいと言うのである。
これを逃す手は無いとも思うのだ。
綱木も似たような事を考えているのか、腕組みをして唸っている。
「俺の一存ではどないもならんから、上に相談するわ。取り敢えずは鈴音さんの仕事に連れて行っといて?それこそ助手いう形で」
「分かりました。何にせよ、問題起こしたらアウトですもんね」
「うん。そこはかなりシビアや思てな。神使とは訳がちゃうから」
真剣な顔で頷き合う綱木と鈴音を眺め、とにかく問題とやらを起こさなければ良いのだなと茨木童子は理解した。
「ほな今日はご指名もないし、好きに動いてもうてかまへんよ」
「はい。まずは鞍馬天狗んトコ行こ思てます」
「あ、そうなんや。ほな一緒に出よか」
「今日は綱木さんもお出かけなんですね」
車のキーを手に立ち上がった綱木に続き、鈴音と茨木童子も店を出る。
シャッターを閉めて施錠する綱木の傍らで、鈴音は茨木童子に大切な事を聞いていた。
「そういやあんた鞍馬天狗とはどうなん?縄張りに入れて貰えそう?」
「どうなんすかね?別に嫌われてへん思いますけど、人から産まれた鬼やいうて馬鹿にしとるかも?」
「あ、魔界に居場所ない言うてたんはそれかぁ。てっきり誰かと大喧嘩でもして、暴れ過ぎて出禁食ろたんか思てたわ」
出自の問題だったかと納得した鈴音に、茨木童子が心配そうな向ける。
「姐さんこそ大丈夫なんすか。魔王ぶっ殺してんのに魔界なんか行って」
「あっはっは、やっぱり信じてなかったな。殺してへんから。魔王ちゃんと生きてるから」
「いや魔力奪っといてそら無理っすよ。魔王て悪魔の事っすよ?アイツら俺らよりタチ悪いやないすか」
「だぁーれが鬼よりタチ悪ぃだコノヤロー」
何の気配も無く突如聞こえた声に茨木童子がギョッとし、総毛立った綱木が思わず飛び退る。
声の主、鈴音の背後に立つ眠い目をした不健康そうな顔色の男は、5月も下旬だというのに黒いロングコートにレザーパンツにエンジニアブーツという暑苦しい出で立ちだ。
「今度こそ貰ったぁ!!」
勝ち誇った悪い笑みを浮かべた男が、鈴音の背中、心臓の辺りを狙って手刀を突き出す。
ドス、という鈍い音に続いて上がる悲鳴。
「いっっってぇぇぇえええ!!」
手刀の形のままの右手を左手で押さえながら、男がプルプルと震えている。
攻撃を受けた鈴音は涼しい顔だ。
「モヤシの突きなんか効くワケないやん」
「モヤシじゃねぇっつってんだろ!んな事より、つ、突き指って引っ張って良かったか!?」
「アカン。冷やすねん。筋やら骨やらに異常無かったらそれで後は日にち薬や。あ、万能薬ならあるけど?」
「マジか!」
ポケットにある無限袋に手を伸ばした鈴音は、はたと気付く。
「待って?万能薬て神様の御力がギュッと詰まった感じやん。悪魔にかけて大丈夫なん?」
「え?あー、言われてみりゃ確かにヤベェか?溶けたり死んだりしそうな気もするな」
「そうなん!?」
「うわ嬉しそうー。って待て出すな殺る気満々か落ち着けやゴルァ!!」
光る小瓶を手に目をキラキラさせる鈴音と、右手を庇いながら逃げ場を探す男。
取り残された茨木童子はポカンとしているだけだが、綱木は飛び退いた先で身構え青い顔をしている。
小瓶を仕舞って男に氷の塊を渡した鈴音は、綱木の様子に目を丸くした。
「あれ!?え?コイツから魔力出てませんよね?天使来てへんし」
「出す訳ねぇべ、また吸い取られたらバカみてぇだろうがよ」
氷で右手指を冷やしつつの男を見つめ、綱木はゴクリと喉を鳴らす。
「こうも格が違うと、魔力出とるか出てへんかはあんまり関係ないみたいやね。大嶽は平気やったんかな?」
「あー……そういえば大嶽さんも警戒してましたね」
男の正体に気付いているらしい綱木に対し、茨木童子は首を傾げていた。
「姐さん、誰っすかソイツ」
「ん?ああ、これが……」
「コレ言うな!魔王様だぞ恐れろ!泣く子も黙るサタン様だサタン様!」
手刀の右手をブンブン振りながらの自己紹介に、綱木はやっぱりかという顔をし、茨木童子は心底驚いた顔になる。
そして鈴音はといえば。
「あの中二病全開な自己紹介やのうて良かったけど、それでも近所の目ぇいうんがあるからさぁ。ナンボ今んとこ人通り無いいうても、声もうちょい落とそか」
呆れ顔で周囲の目を気にしていた。
「誰が中二病だ!魔王様の名乗りをディスるたぁいい度胸じゃねぇか、やんのかゴルァ!」
「よっしゃ!」
「出すな!仕舞えそのヤベェ薬!」
「チッ」
「何だその、次は不意を突こう、みてぇなツラ!それでも神の眷属かテメェ!」
「ふふん、猫は待ち伏せて不意打ちが基本やから問題無いねんで。寧ろ褒めて貰えるわ」
「うわドヤられた!クソが!」
何だかよく分からないが魔王がダメージを受けたらしい、と茨木童子は鈴音に拍手する。
「流石っす姐さん」
「ありがとう!」
「負ぁーけーてーねーえーしぃー!」
魔王とも思えぬ口を突き出しながらの子供じみた負け惜しみに、茨木童子が温かい眼差しを向けた。
「……ははーん、さては信じてねぇな?よし分かった、格の違いを見せてやるからじっとしとけ」
眠そうな半眼を更に細くしたサタンを見て、何をする気か分かった鈴音が大いに慌てる。
「ちょ、アカンで!?囲ってもないのに魔力なんか……」
悪魔が人界に出る時は、地面に円を描く等して囲っておかなければならない。その中だけは魔界とみなす、というルールだ。
それをせずに人界で魔力を出すと、天使による討伐の対象となる。
下位の悪魔ならともかく、魔王クラスと天使が戦えば、その周囲がどうなるかなど火を見るより明らかだ。
だから鈴音は止めたのだが。
「もう遅ぇわ!」
凶悪な笑みを浮かべたサタンから魔力が迸る。
その瞬間、天使が来るより遥かに速く、地面にサタンを中心とした同心円状の光が広がった。
眩い光はサタンのそばに居た鈴音と茨木童子の足下にも及ぶ。
鈴音ですら反応出来ない速度で全員を呑み込んだ光は爆発的に輝いて柱のように天を貫き、次第に細くなって静かに消えた。
「……え?」
何が起きたのか分からず瞬きを繰り返す綱木の視界に、鈴音達の姿は無い。
「な、何や!?何が……、いや落ち着け、虎吉様に、て俺に連絡手段なんかあらへん!」
慌てふためいた綱木はハッと気付いてスマートフォンを取り出す。
「黒花や!黒花から犬神様に知らせて貰たら、猫神様にも伝わる筈や!えーと、陽彦陽彦」
もしかしたら、鈴音を可愛がっている神々の悪戯なのかもしれない。
それならそれで問題は無い。慌てて損したと笑えばいいだけだ。
だが、あの光はサタンを中心にしていた。
鈴音は何かに巻き込まれたのではないのか。
犬神の神使である大上陽彦の電話番号をタップした綱木は、無事でいてくれと願いながら呼び出し音を聞いた。
その頃、鈴音達はと言えば。
「どこだここ。何が起きた?」
深い森の中の開けた場所に建つオベリスクのような物の前で、キョロキョロと辺りを見回すサタン。
「うわー、またかー、これはどっちやろな?事故かわざとか。わざとやったら笑われへんなー」
スナギツネ顔で溜息を吐く鈴音。
「え、姐さん何が起きたか分かるんすか?」
オベリスクと鈴音を見比べ首を傾げる茨木童子。
サタンも鈴音へ視線を固定して説明を待っている。
「異世界に飛ばされたんよ。ただそれが、空間の歪み同士が影響した事故なんか、誰かが何かして無理に呼び寄せたんかは分からへん」
「へー、成る程そういう事か」
「異世界っすか。初めて来たっすわ」
流石に魔王と悪鬼なので異世界と聞いても慌てなかった。
「ま、事故だか何だか知らんけども、俺ぁ異世界に用はねぇからな。帰る」
そう言ってサタンは魔界への通路を開こうとする。
しかし、僅かな歪みは生じたものの、道は現れなかった。
「……は?」
「え?嘘やん。神に近い魔王の力やで?」
「っちゅう事は俺も無理っすかね?」
驚いて固まるサタンと目を見開いた鈴音を横目に、茨木童子も魔界への通路を開こうと試みる。
が、やはり全くの無反応。
「ありゃー、通路開く力を封じるとか、人に出来る事やないよね」
嫌そうな鈴音の声にサタンが顔を顰める。
「じゃああれか。神か」
「げ、ホンマっすか。ヤバいっすやん」
全員の眉間に皺が寄り、鈴音が再び溜息を吐いた。
「まあ、そのうち猫神様が見つけてくれはるけど、直ぐには無理やろね」
「その間はどうにかして生き残れって事だな?」
「サバイバルは問題無いっすけど、この世界の神が何考えてんのかにもよるっすよねぇ」
無理矢理に異世界人を呼び寄せるような神がまともとは思えない。
「神界経由してへんから、こっちで過ごした分の時間が日本でも経過する思うんよねぇ。ハルと黒花さんが異世界に呼ばれた時もそうやったし。せやから私、のんびりしてられへんねん」
ギラリと目を光らせる鈴音に茨木童子が息を呑む。
「何ぞ大事な用が……?」
「ウチの猫達に餌やらなあかん。今日は遅なるてお母ちゃんに連絡してへんし」
「そら、一大事ですやん!」
ここでも空気を読むスキルを発動させ、茨木童子は事無きを得た。
「成る程、猫の神に仕える者の務めか」
サタンも勘違いによって救われた。
うっかり『は?猫の餌やり?』等という反応をしていたら、今頃空の彼方へぶっ飛んでいる所だ。
「そういう訳やから、サクッと手掛かりを探そ。呼びつけたんやし何かさせたい筈や」
「うっす」
「ま、怪しいのはコレだわな」
やる気満々の鈴音と茨木童子と、やる気のなさそうなサタンが揃ってオベリスクを見上げる。
文字等は刻まれていなかったが、台座部分に明らかに触って欲しそうな丸い石が嵌め込まれていた。




