第二百八十七話 クズ達の競演
鬼を見上げた男性は、慌てた様子で名乗る。
「すみません、藤原昌乃のマネージャーの、藤原真誠と申します。本人からこちらに居ると連絡があったんですが」
それに応えたのは鬼ではなく昌乃だ。
「居るよー、こっちこっち」
妙に楽しげな昌乃の声とマネージャーの名字からして、ここからが本当の修羅場なのかと理解した鈴音が遠い目をして鬼に頷く。
すると鬼は何とも言えない表情で真誠を招き入れた。
何故そんな、呆れたような憐れむような目をしているのだろうと訝りながらリハーサル室へ入った真誠は、直ぐに鬼が見せた表情の意味を悟り青褪める。
「昌乃……えー……こちらの方々は?」
嫌な汗を掻きつつもどうにかそう尋ねた真誠に、昌乃は笑顔で答える。
「渡辺歌也さんのマネージャーさんと、厚労省の人達と不思議な力の持ち主」
手で山本を示し鈴音と鬼を示し、茨木童子を示した。
「厚労省?なんで役人が昌乃に?」
鈴音と鬼を見やって警戒する真誠を昌乃が笑う。
「やっぱ麻取かと思うよね?でも違うんだって。呪いとか調べる人達みたいよ?」
「呪い?」
真誠が困惑すると昌乃は満面の笑みで頷いた。
「私が山本さんを呪ってたから、それを調べに来たみたいだねー」
「……は……、はい?昌乃が?のろ、呪ってた?」
昌乃と山本を見比べ、鈴音達にも視線をやり、また昌乃を見て、と真誠は大混乱に陥っている。
それがまた愉快なのか昌乃はニコニコだ。
「ちゃーんと調べて、プロに頼んだから。素人が丑の刻参りとかしても、効かないどころか自分が危ないんだってよ?ムカつく相手呪って自分が死んでちゃ意味無いもんねぇ。ちょっと高かったけど、命懸けなら仕方無いよね」
家事代行サービスでも頼んだかのような軽さで語った昌乃は、そのまま笑顔で続けた。
「ねえ、そんなにこの人が好きなら何で言ってくれなかったの?言ってくれたら別れてあげたのに。何も言わないから浮気かと思って、ムカついて殺そうとしちゃったじゃない」
昌乃の笑顔と凍り付いた空気の差がとんでもない事になっている。
冷や汗だか脂汗だかわからないもので顔を濡らした真誠が口を開くより先に、バッグから折り畳まれた紙を取り出した昌乃がそれを広げて見せた。
「じゃじゃーん、離婚届ぇー。もう判子も押してあるから、後は社長達にでも証人になって貰って、そっちの名前書いて出すだけでいいよ。はい、あげる。何なら2人で出しに行けば?そのまま婚姻届出せるし一石二鳥だよね」
本人の言う通り、綺麗な字で必要事項全てが記入されている離婚届。中々の迫力だ。
昌乃が差し出す紙切れを見つめショックを隠し切れない顔で立ち尽くす真誠に、苛立った山本が詰め寄る。
「ちょっと、何で受け取らないの?まさか未練があるとか言わないよね!?夫婦関係は破綻してて別居中なんだよね!?」
鬱陶しそうに視線を逸らす不倫相手へ山本は更に迫った。
「どういうつもり!?騙してたの!?別れる気なんかないのに嘘吐いて口説いたわけ!?」
目を剥いて吠える山本に舌打ちした真誠は、大きな溜息を吐いて髪を掻き上げる。
「……ああはいはい、その通りです。欲しかったのはお前じゃなくて渡辺歌也の方だけどな」
「は!?」
「ウチの事務所は昌乃の後がいないんだよ。何か作ったと思ったら使い捨ての量産型アイドル、鳴り物入りでデビューさせたと思ったら棒演技のモデル崩れ、社長もスカウトも馬鹿なんじゃないかと思うよね。それに比べてお前んとこはダイヤの原石で溢れ返ってるだろ?特に凄いのが渡辺歌也だ」
自分に酔っているのか、うっとりとした表情で真誠は続けた。
「顔もスタイルも演技力もトップクラス、歌唱力に至っては国宝級。とんでもない逸材だ。海外進出だって夢じゃない」
そこで真顔に戻り、冷たい目で山本を見やる。
「そんな逸材が、何でまだこんな子供騙しのミュージカルなんかに出てるんだ?」
この言葉には鬼がムッとして口を尖らせた。精神力がゼロに近付きつつある鈴音が虚無の表情でそっと宥めておく。
茨木童子はあくびが止まらず、早く歌也のそばに行きたいと目で訴えていた。こっちも宥めておく。
そんな外野をよそに、愛憎劇の主人公達はどんどんと話を進めてくれる。
「もうとっくに連ドラで主演、映画でヒロイン、レ・ミゼ級の舞台に出演、それくらいになってなきゃおかしいんだよ。なのに何でだと思ったら、マネージャーがポンコツだった」
吐き捨てるように言った真誠を、怒りで真っ赤になった山本が平手打ち。綺麗に決まった。
「痛ってぇな……。事実だろ?有能なマネージャーなら、既婚者だって分かってる男と密会してる暇があったら仕事取りに行ってるっつの」
「ぐ……っ」
「お前みたいなポンコツから引き離して、ウチに移籍させるにはどうしたらいいか考えたら、何でかあの子が懐いてるポンコツごと引っ張るのが一番簡単だったわけだ」
要するに、山本と恋人関係になった上でお前そっちの事務所やめてウチに就職しろよと誘い、それに歌也がついてくるのを期待していたという事らしい。
そんな事をしたら色々な圧力が掛かって歌也が潰されてしまうのでは、とぼんやり考える鈴音の視界では、すっかり開き直った真誠が昌乃へ両腕を広げてみせている。
「そういう訳だから、浮気でも本気でもないんだよ」
まるで潔白を主張するかのような態度に鈴音から漂い出る虚無感は増し、山本は怒りを煮えたぎらせ、昌乃は微笑んだ。
「ふーん。で?」
「え」
微笑みに石化効果でも付いているのか、真誠が固まる。
「いつ出してくれるの?コレ」
両手で摘んだ離婚届をピラピラと振って笑う妻に、夫が狼狽え始めた。
「いや、だから、ヘッドハンティング?違うなハニートラップ?いやこれも違うか?とにかく仕事みたいなもので浮気とかじゃ……」
「気持ちなんかどうでもいいんだよね。問題はあなたが、あなたの言うポンコツを抱いた汚い手で私に触って、おまけに子供にまで触る気だったって事よね」
石化効果じゃなくて凍結効果だったか、と昌乃の冷え冷えとした微笑を見て納得する鈴音。
「気持ち悪いでしょ普通に。何で赦されると思ってんのかな。私が血に強かったらとっくに刺されててもおかしくないよね、そこのあなたも」
氷の女王と化した昌乃の視線が山本にも突き刺さる。
「楽しかっただろうね。この女、自分の夫が寝取られてるとも知らないで呑気にドラマなんか出てるわー、とか笑ってたんでしょ?」
「べ、別にそんなつもりじゃ……」
「いいのいいの、事実だし。だから私も事実をありのまま、あなたの事務所とあの歌姫に教えようと思って。勿論、証拠はあるからね不倫の。みんなどんな顔するかな?すっごく楽しみー」
「は!?ちょ、嘘でしょ!?そんな事したらあっという間に噂が広まって、自分にだってダメージが……」
「そうだぞ!?藤原昌乃にサレ妻属性なんか必要無い!!」
止まらない昭和の昼ドラもどきを眺めつつ、キレた美女は怖いなだとか、どの口が言ってんだろうなクズも怖いな、だとか考えていた鈴音のスマートフォンが震えた。
「おっ、そうやったアラームセットしてたんや。ちょっと神界行って猫神様と虎ちゃんにオヤツあげてきますね」
鈴音が言うと、鬼も茨木童子も行ってらっしゃいと頷く。
「では失礼して。虎ちゃーん」
呼び掛けに応え鈴音のそばに通路が開いた。
逃げるように通路へ飛び込んだ鈴音は、靴を脱ぎ捨てるや寝転がっている白猫の腹目掛けて突進する。
ヘッドスライディングでモフモフの腹に顔を埋めた鈴音は、思い切り猫成分を補給した。
「ぷはー。生き返ったぁー」
何事かと目を丸くしていた白猫は、鈴音が元気になったと分かり笑顔になる。
「ぎゃー可愛いぃぃぃ!!……はっ、すみません猫神様!アカン、オヤツの前にご褒美強奪してもうた。順番が逆や」
申し訳ございませんと頭を下げる鈴音へ、キャットタワーに座る虎吉が不思議そうに声を掛けた。
「猫神さんは気にしてへんけど、鈴音が順番間違えるなんて珍しいな。血の海でも見てしもたんか?」
「ちゃうねん。クズの愛憎劇見せられとってん」
オヤツの準備をせねばと立ち上がった鈴音は、きょとんとしている白猫と虎吉に何があったのかを話して聞かせる。
テーブルに置いたボウルへザラザラとオヤツを入れつつの語りに、虎吉は幾度か頷いた。
「……ホンマにクズの愛憎劇やな。まともな登場人物おらへんやないか」
「そやろー?うんざりして大きい声出してしもたり、こっちに逃げ込んでしまう気持ちも分かるやろ?はい、召し上がれ」
語尾に被さる速さでボウルへ顔を突っ込む白猫と虎吉。
オヤツを食べるカリカリという良い音がしている間は黙り、ボウルが空になったのを確かめてから鈴音は大きな溜息を吐く。
「仕事やからしゃあないねんけど、アホらし過ぎてしんどいわ」
「せやろな。オマケに今度は不倫相手の女の方が、男とそのヨメを呪いそうやし大変やな」
顔を洗いつつ同情する虎吉。
「虎ちゃんもそない思う?やっぱり実際に怪しい気配とか感じてた訳やから、山本さんは呪いに効果があるんは知ってるもんねぇ」
水の玉を宙に浮かせて中でボウルを洗いながら、鈴音はうーんと唸る。
「脅すか……でも昌乃さんのお腹におる赤ちゃんが心配やなぁ」
ボウルに付いた水滴と水の玉を消し、オヤツと共に倉庫へ片付けた。
「最終的に山本さんが1人になるやろし、その後で脅すんが正解かな?」
顎に手をやりながら戻ってきた鈴音は、さあ来いとばかり腹を見せて転がっている白猫に気付きデレッデレになる。
「かんんんわえぇー。ご褒美なら先に頂きましたやーん、おかわりしてええんですかー?」
そばにしゃがんで頭や頬を優しく撫でると、白猫は気持ち良さそうに目を細め喉を鳴らした。
「んふふふふ、嫌な事全部忘れられるわー。幸せやなー。このまま寝たいわー」
神界では眠らなくても問題無いが、眠れない訳ではない。
例え何時間眠ろうと人界の時間は経過しないので、仕事中でも好きなだけゴロゴロして構わないのだ。
しかし一度やると癖になりそうなのと、誰かしら尋ねて来て妙な事件に巻き込まれそうなのとで、鈴音はずっと我慢している。
「はー、鬱陶しいけど戻って仕事片付けるかぁ。ホンマ今回の件は私に全く向いてへん内容やったわ。仕事やねんからそんなん言うてたらアカンねんけども。殴ったら終わる系が楽でええわー」
横へ来た虎吉を左手で撫でながら愚痴を言うと、グリグリと頭を押し付けてくれた。
「よう頑張ったよう頑張った。後もうちょいや、サクッと黙らして脅してハイさいなら、や」
「うん、そうやんね。後ちょっと頑張ってくるわ」
「おう、行ってこい」
「ラジャ!」
ビシ、と敬礼した鈴音は楽しげに笑い、すっかり元気になって虎吉が開けた通路から人界へ戻って行く。
白猫と虎吉は目を細めてその姿を見送った。
「ただいまー」
戻った鈴音が顔を上げると、当たり前だが話は何も進んでいない。
「何というか、不毛ですねー。ミュージカルでは魔女も王子も救われてハッピーエンドですけどー」
鬼の呟きに『伯爵の娘!思い出してあげて!ハッピーなってないよ!』と心の中でツッコみつつ、鈴音は昌乃を見た。
華やかな演技派女優は相変わらず氷の女王状態で笑っている。
「サレ妻属性なんて、女優辞めちゃえば関係ないでしょ?テレビから消えた女の事なんか、みぃんな直ぐに忘れてくれるって。お陰様で、贅沢しなければ働かなくても済む程度の貯金はあるし」
「え、な、何を、辞め、辞める!?」
昌乃の爆弾発言に真誠が激しく動揺し、山本も目を見開いた。
「何で慌てるの?信頼してた夫と専属マネージャーが同時に裏切ったんだよ?辞めるでしょそりゃあ。自信無くすよ常識的に考えて」
離婚届を畳んで顔を扇ぎ、呆れたように溜息を吐く昌乃。
「これ……そうか。端から旦那をシメる気やったんか、もしかして。さっき聞くまで旦那の狙いが歌也さんやなんて知らんと、単純に不倫や思てたんやもんね」
思い直せと必死の説得に入る真誠と、他所の看板女優を引退させたりしたらクビじゃ済まないと慌てる山本を眺め、鈴音は幾度か頷く。
「恋人が死んだら不倫野郎はさぞ悲しむやろ思て、山本さんに呪いをかける。でも呪いがアカンようになった。ほな物理攻撃といきたいけど血ぃ見るんが嫌。となると残るは社会的な死」
武器は自分自身。
女優という自分を殺す事で、不貞行為を働いた夫とその相手の社会的信用に致命傷を与える。
ネット上で彼らはまるで犯罪者のように扱われ、落ち着くまで就職先を探す事もままならないだろう。
昌乃自身はそのまま本当に引退してもいいし、頃合いを見て復帰してもいい。
これが昨夜の電話で術者と会話して以降に立てた計画なのか、呪いが効かなかった場合を想定して元々用意してあった計画なのかは知らないが、想像した通りなら中々の執念だと鈴音は緩く首を振る。
「おっそろし……。なんせ呪いで人殺すん躊躇わへん辺りがヤバいやろ。けど、可愛さ余って憎さ百倍な旦那との子供なんて、あの人に育てられるんやろか」
鈴音としては何よりそれが気になった。
あの離婚届は脅しではなく本当に出すつもりだろう。
そうするとシングルマザーになる訳だが、実家に頼ったりベビーシッターを雇ったりするのだろうか。
子供に罪はないのだから、愛されて幸せになって欲しいと鈴音は思う。
「まあ、私が悩んでもしゃあない話やな……」
一つ息を吐いて昌乃へ視線をやると、負の感情が作り出す黒い靄が随分と薄くなっていた。
夫と不倫相手が追い詰められ慌てふためく様を見て、幾らか気分が良くなったらしい。
そこで鈴音は、柏手を打つ要領で手を叩き皆の注目を集めた。
「はい、もうええですかー?」
のんびりとした鈴音の声に真誠が苛立つ。
「いいわけないだろう!!何なんだアンタは、部外者は黙っててくれ!!」
「部外者ちゃうけど、離婚やら引退やらはどうでもええんですよ、こっちは。昌乃さんがもう呪いに手ぇ出す気が無いて分かれば帰れるんで」
淡々と告げる鈴音へ真誠が噛み付くより早く、昌乃がご機嫌な顔で笑った。
「呪いはもういいや。殺すより面白い状況になったし。多分だけどマシになってるでしょ?赤ちゃん大丈夫そう?」
自らの手や身体を見やって首を傾げた昌乃に問われ、鈴音は頷く。
「負の感情はかなり和らいでるから、もう問題無いんちゃうかなーと」
「そ?良かった。じゃあ帰ってもいいかな」
「はい。ただ、こちらの依頼者には事実を報告さして貰いますよ?」
「仕方無いね。でも罪には問われないんだよね?」
知っているクセにとスナギツネ化しつつ頷く鈴音に、昌乃はまた機嫌を良くして微笑んだ。
「ふふ、ありがとう。それじゃ私はこれで。鍵返しといてね?」
「はい。お疲れ様でした、ご協力に感謝します」
会釈した鈴音に昌乃は手を振り、夫も不倫相手も無視してさっさと出口へ向かう。
「ちょっ、昌乃!待ってくれ話はまだ終わってないぞ!?」
真誠は急ぎ後を追って呼び止めるも、まるで声が聞こえていないかのように完全な無視を決め込んで、昌乃はリハーサル室を出て行った。
「待て!待ってくれ!!」
蹴躓きながら真誠も出て行き、広い広い部屋に残ったのは鈴音達と山本のみ。
そして出口を睨み付けている山本からはやはり、黒い靄が溢れ出ていた。




