第二百八十一話 開演
エレベーターから出てきた歌也を見るなり、茨木童子が化けた良子オバちゃんはソファから立ち上がってクワッと目を見開く。
予想通りの反応だったので、鈴音は慌てる事なく極微量の神力を出して威嚇した。
『いらん事言いなや?』
瞳孔開き気味の目にそんなメッセージを乗せて見つめると、良子オバちゃんは一瞬青い顔をしたものの、即座に人の良さそうな笑みを浮かべ歌也達に会釈する。
背後で歌也達が会釈を返す気配を感じながら、ひょろりと立ち上がり微笑む鬼の方へ歩を進めた。
「お待たせしました、こちらが歌也さんで、そちらがマネージャーの山本さんです」
鈴音が2人を紹介すると、まず良子オバちゃんが口を開く。
「あらー、えらいべっぴんさんや、私の若い時分そっくり。茨木ですぅ、仲良うしたってね」
オバちゃんジョークを挟みつつの自己紹介に歌也は楽しげな笑顔で頷き、山本は苦笑いしている。
「鬼ですー。そのまんま節分の鬼と同じ字を書きますー。でもいい鬼なので豆は投げないで下さいねー」
珍名さんで通すらしい鬼の自己紹介には、歌也も山本も『へぇー』と感心していた。
「ほな茨木さんは予定通り、歌也さんと一緒に行動して下さい。鬼さんは私と一緒に劇場全体を巡回して、怪しい気配が無いか探りましょう」
鈴音の指示に鬼と良子オバちゃんが頷き、歌也達は『お願いします』と頭を下げる。
いそいそと歌也のそばへ寄った良子オバちゃんに殿を任せ、鈴音達が先頭を歩き劇場へと向かった。
劇場側の責任者にだけは本当の事を伝え口裏合わせを頼んだそうで、鈴音の名刺を提出すると『本当にこういう仕事があるんですね』と驚かれた。
安全対策課自体が都市伝説化しているのでは、と遠い目になりつつ、渡された取材許可証を首から下げて楽屋口へ移動する。
今回の演目で歌也は重要な悪役を務めている為、一人部屋が与えられていた。
異常なしと鈴音が頷くと、安心した顔で2人が室内へ入って行く。良子オバちゃんも続く。
「茨木さん、私らは劇場内を見回って来ますんで、お2人をよろしく」
「はーい、任しといて下さーい」
手を振る良子オバちゃんに軽く手を挙げ歌也達に会釈してから、鈴音は鬼と連れ立って劇場内の調査に出た。
妙な気配の元は呪いだと分かっているので、探すのは妖怪や悪霊ではなく負の感情を大量に放出している人物だ。
そんな人物が居れば澱も出来やすいので直ぐに分かるだろう。
だが許可されている範囲を見て回った限り、頭から黒い靄を出しているような人は居らず、澱も存在しなかった。
「やっぱり御本人さんは、遠い場所で吉報を待ってる感じですかね」
「そのようですねー。後でお客さんも見てみる必要はありますがー」
鬼と頷き合い、人が増えて賑やかになってきたので邪魔にならぬよう歌也の楽屋へ戻る。
加湿器のそばでストレッチしている歌也を良子オバちゃんが見守る中、鈴音は山本に今の所は劇場内に異常がない事を報告した。
「因みに、過去も含めて歌也さんにストーカー被害はありませんか?あとは熱狂的過ぎるファンとか」
鈴音が尋ねると、山本は首を振る。
「熱心に応援して下さる方々はいらっしゃいますが、度が過ぎた方は居ませんね。勿論ストーカーも居ません」
「ネット上ではどうですか?」
「ある程度しつこいアンチは居ましたが、あまりに酷い書き込みには法的措置も検討する、と事務所として表明したら慌てて謝罪して大人しくなりました。叩ければ誰でもよかったらしいですよ」
嫌そうに顔を歪めてから、ハッと何かに気付いた様子で山本は鈴音を見た。
「もしかして、撃退したアンチの嫌がらせという可能性があるんですか?」
「んー、まだ何とも……。夏姫さんみたいに、妖怪がストーカーのパターンもあるやないですか。あれにはビックリしましたけど」
事務所の先輩女優の名前が聞こえた事で、歌也が顔を上げる。
「夏姫さんも『天狗は居るし鳥は喋るし鈴音さんは魔法使いだし、ビックリな体験だったよ』って笑ってました」
笑う辺りがあの女優の凄い所である。
鈴音が感心していると、歌也は強い光を宿した目で拳を握った。
「私も今回の体験を活かせるように頑張らないと。だから犯人……犯妖怪?が分かったら教えて下さいね!」
こっちもか女優魂怖い、と遠い目の鈴音が頷いた所で、スタッフに呼ばれて歌也が楽屋から顔を出す。すると良子オバちゃんが音も無くそばに寄り、それとなく見守った。
鉄壁の守りに安心した鈴音は、鬼と一緒に入口の方を見に行く事にする。
外へ出ると、開場までまだ1時間以上あるのにもう客の姿があった。
社会人はまだ仕事中だからか、高校生から大学生くらいの女性が殆どに見える。
何かを交換していたり、『リアルでは初めましてー』等と挨拶していたり。みんなキラキラとした表情で、この日をとても楽しみにしていたのがよく分かった。
「負の感情出してるような人は1人も居ませんね」
「ですねー。正の感情で溢れてますー。でもお客さんは女性ばかりですねー?」
不思議そうな鬼へどう説明しようか鈴音は悩む。
このミュージカルは所謂“乙女ゲーム”というものが原作となっていて、簡単に言えばファンタジー世界で繰り広げられる、主人公の少女と見目麗しき男性達との恋物語だ。
そこに少しの謎解きと少しの冒険要素が加わっている。
歌也が演じるのは、主人公達の前に立ち塞がる魔女の役だ。
ゲーム内では只々世界を破滅させる悪の存在として描かれた魔女だったが、ミュージカルでは彼女が何故そこまで世界を恨むのかが描かれ好評を博しているそうな。
鈴音なら聞く耳を持たずブッ飛ばしてしまうだろうが、優しい主人公は魔女すら救おうとするらしい。
乙女ゲームが原作という事で、主人公が誰か1人とくっついてしまうと『何で〇〇じゃないの!?』と他のキャラクターのファンから不満が出る為、全員と良い雰囲気になりつつハッキリ誰かとは決めないまま終わるようだ。
この手のゲームをやった事がない鈴音からすると、あちこちに気を遣って大変だなという感想しか出ない。
「んーと、恋愛物のお話で素敵な男性が大勢出るんで、女性客が殆どなんや思います」
結局大雑把な説明をした鈴音を見やり、鬼は幾度か頷く。
「そうなんですかー。皆さん素敵な男性目当てなんですねー」
そう言ってポスターを見上げた鬼の目に、カラフルな髪と西洋風な衣装を着た出演者の姿が映っている。
「歌也さんは良い方なので、あんな怖い顔をする役ではなく、真ん中の女の子のような役の方がいいと思いますー」
猫の耳でしか拾えないような独り言に、鈴音は小さく笑った。主演女優には聞かせられない。
「鬼さん、もう暫くここで怪しい人が来ぇへんか見張ってから戻りましょか」
「はいー、そうしましょうー」
そうして、開場するまでは劇場周辺をぐるりと回ったりしつつ徐々に増える客の様子をチェックし、開場後は取材を装いメモ片手に入口近くで目を光らせた。
「うん、おかしい人は居てませんでしたね」
「皆さんお芝居を楽しみにしてる方でしたねー」
やはり呪いを依頼した犯人は遠方でアリバイを確保しているのだろうか。
そうなると、問題行動で目を付けられているファンやアンチはいないそうだから、歌也達の身内の可能性が高まってしまう。
せっかく客のキラキラした空気で良い気分になっていたのに、一気に現実へ引き戻され鈴音はどんよりとした気分で肩を落とした。
「ふー。楽屋行って茨木さんと情報共有しましょか」
「そうですねー」
開演時間が迫っている為、必死の形相で駆け込んで来る人もいるが皆慌てているだけで負の感情は出ていない。
ここはもういいだろうと判断し、楽屋口へ向かった。
楽屋では、まだ出番が来ない歌也が首から上だけ仕上げた状態で、良子オバちゃんにパンフレットを見せてストーリーの説明をしている。
「……で、王子の裏切りにあった姫は全てを呪いながら破滅の魔女になるの。その時代の賢者達がどうにか封印したんだけど、100年後に復活しちゃって、大変だーってなってる時に神様のお告げがあるのね。1人の少女に聖なる乙女としての力を授けたから、彼女をみんなで助けながら成長させて、魔女をやっつけなさいねーって」
「えぇー?そんなんするぐらいやったら、神様がやっつけてくれたらええのにねぇ。面倒臭い」
尤もだ、と鈴音が力強く頷き、歌也は大笑いした。
「ホントだよね!でもそれやっちゃうと、物語が始まんないから!」
手を叩いて大ウケの歌也を、良子オバちゃんが眩しそうに見ている。酒呑童子を重ねているのだろう。
兄貴なんて言い出したらややこしいので、鈴音はにこやかに声を掛ける。
「茨木さん、ちょっとよろしい?」
「え?あー、はいはい」
歌也に微笑んでから立ち上がった良子オバちゃんが、のんびりした動きで鈴音達のもとへやって来る。
楽屋の外へ出て、怪しい人物はいなかった事を伝えた。
「今日中にまた呪いかけてくるんか分からんけど、お芝居の最中は歌也さんに引っ付いてられへんし山本さんと一緒におってくれる?」
「えー」
「しゃあないやん。舞台に呪いが現れたら私が取りに行くしかないし」
「俺が行くっす」
茨木童子の声で言う良子オバちゃんに鈴音は首を振る。
「アカン。姿隠しのペンダントは貸されへん」
貴重な神器を悪鬼に貸したなんて事が上にバレたら、大目玉では済まないだろう。そんな危ない橋を渡るつもりは毛頭ない。
「ぐぬぬ……分かったっす」
神の眷属に逆らえる筈もなく、良子オバちゃんは悔しそうに頷いた。
「ほな私らは客席の方に居るから、もし呪い捕まえたら持ってってな」
「うっす」
部外者が3人も居ては気が散るだろうと、良子オバちゃんを残し鈴音と鬼は客席へと移動する。
上演中の注意事項がアナウンスされる中、客席最後方の扉近くに陣取った鈴音は鬼を見上げた。
「まだ歌也さんは出て来ぇへんので何も起きひん思いますけど、一応警戒しといて下さいね?」
客席や緞帳の下りたステージを興味深そうに見ていた鬼は、ハッとした様子で鈴音へ視線を移す。
「も、勿論ですー。お芝居に夢中になったりしませんよー?」
「あはは、お願いしますよ?」
多分ダメだな、とワクワクが隠せない鬼を見ながら笑った鈴音は、ホール中の気配が察知出来るよう集中力を高めた。
開演を告げる音と共に幕が上がり、中世ヨーロッパの宮殿風セットが照らし出される。
そこへ主人公の少女が現れ、道に迷った先でいかにも王子様な男性と出会った。
「おおー」
鬼は吐息を零し、既に引き込まれている様子だ。
鈴音は芝居パートなら大丈夫かと思っていたのだが、『ああっ、ごめんなさいっ』『きゃっ』『どうしましょう私ったらっ』辺りで脱落した。
「いつの時代の少女漫画やねんこの子普通の家の子やろそんな喋り方せぇへんやろなんやねん私ったらてそんなドジっ子現実におってみぃ鬱陶しいて苛つくで実際」
猫の耳でしか拾えない声量な上にマスクを着用しているので、念仏のようなツッコミは誰にも聞こえない。
「うー……キツい」
ミュージカル以前に古い少女漫画的なノリとも相性が悪かったようだ。
そして始まる王子様と主人公の歌唱パート。
「ひぃー」
くるくると踊りながら、出会いに運命を感じる2人の思いが歌われる。
遠い目をした鈴音から魂が抜けそうだ。
可愛らしい歌が終わると拍手が起き、暗転して場面転換が行われた。
主人公が男性陣との出会いを済ませ開始から40分程経った頃、瀕死の鈴音が横に立つ鬼を見上げると、食い入るように見入っているのが分かる。
「ま、こっちが普通やわな」
やはり自分にミュージカルは合わないと再確認した鈴音が、失礼だから仕事だとしてもなるべく断ろうと考えている内に拍手と場面転換が終わり、新たなシーンに切り替わっていた。
夜の庭園にある噴水のようだ。
そこへ、髪を結い上げうなじとデコルテを綺麗に出し、プリンセスラインのドレスに身を包んだ歌也が現れた。
誰かを待つように周囲を窺い、胸に手を当て息を吐く仕草をする。
華奢で可憐な姫君に、鬼は目をキラキラさせていた。
そこへ、主人公を取り巻くのとは別の王子様が現れる。
「まあ……!来て下さったのね、王子!」
とても嬉しそうな姫が小走りで近付くも、王子様の反応はいまひとつだ。
「どっかで聞いたようなセリフやなー……」
歌也の演技の上手さで精神力を回復させつつ首を傾げる鈴音の視界で、王子様は姫を振った。
横で鬼が息を呑んでいる。
「両家の了承も得た。陛下もお許し下さった。すまない、彼女には私が必要なのだ。あなたなら私などより良い伴侶に出会えるだろう。だからどうか、幸せになってくれ」
「な……何をおっしゃって……」
一方的に喋り背を向け立ち去る王子様を、姫はただ呆然と見送った。
物悲しい音楽が流れ出し、歌也のソロが始まる。
恋人に裏切られた哀れな姫君の、涙混じりの悲しい歌。
そこから段々と曲調が変わり照明が変わり、力強い低音で王子を呪い始めたかと思うと、一気に音階を駆け上がり相手の女や周囲の大人達への怒りを伸びやかな高音でぶちまける。
真っ赤な明かりに照らされた歌也は、可憐な姫君から狂気に満ちた魔女へと変貌していた。
赦さないと繰り返し、全て壊してやると結んで高笑いを響かせると、割れんばかりの拍手が不敵な笑みを浮かべる歌也を包んだ。
圧巻の歌声に自然と拍手していた鈴音を見やり、場面転換中に鬼が鼻息も荒く声を掛ける。
「歌也さん凄かったですー!!王子殴ってきていいですかー!?」
「駄目です。お芝居ですからね、お芝居。あの人は王子様役で、姫を振ったんであって、歌也さんを振った訳じゃないですから。それに多分、王子様は魔女に呪われて破滅します」
「破滅!そうですか、だったらいいです我慢しますー」
フンッと鼻から息を吐く鬼のハマりっぷりに笑いながら舞台を見ていると、次のシーンではやはり魔女となった姫によって王子様やその婚約者や家族が破滅させられていた。
「伯爵の娘が魔女だったなんて!」
王子様の婚約者に罪を被せる姫の名演技に見惚れていると、関係者用の通用口から良子オバちゃんがコソコソと出てきて、鈴音の方へやって来る。
そのぽっちゃりした手には、黒い靄が握られていた。




