第二百四十四話 逃げるが勝ち
そういえばこの海の神、野放しになっている悪魔を見ても『何か変なのが居る』程度の反応で殆ど気にしていなかったではないか。
その時点で相当おかしいのに何故気付かなかった、とサタンは虚無の顔になり考える。
悪魔、それも魔王と知りつつ行動を共にする女神も大概だが、こっちは冥界に所属しているらしいからまだ分からないでもない。
しかし人々から崇められ信仰されている海の神は、悪魔を無視したら駄目だろう。
悪魔が居るぞ穢らわしい、とか何とか言われて騒ぎになった所で、どさくさに紛れてオモシロ魂を食うつもりだったのに。
まさか全員が魔王を無視して魚介に夢中になり、完全な無防備状態になるなんて誰が思うだろうか。
そんな意味不明だが千載一遇の好機に、強制的な契約と、魔力を与えて頭が上がらん状態を作る、という2段構えの作戦を実行したのだ。これで失敗すると思う方がおかしい。
でも実際しくじった。
だからこれら一連の動きは、こうなるよう仕向ける為の巧妙な罠だったのではないか、と疑ったが、残念ながら違う。
あの能天気な考え方を聞いて分かった。
奴らは海の神を筆頭に全員、本気で魔王の存在を忘れていたのだ、腹立たしい事に。
神々はともかく人の身で、そばに居る悪魔をすっかり忘れるなど本来あってはならないし、有り得ない。
そうなってしまった原因は神に貰った力にあるのだろうが、そんな勘違いを生む程の強さを人に与えるとは、どこかの創造神とやらは加減を知らないアホなのか。神が人の生存本能を爆睡させてどうするのだ。
加減といえば、最初に殴られた時、このオモシロ魂を怒らせると危険だと警告してきた奴が居た気がする。
そうだ、腹に穴が空くと言われたのだ。
たがあの段階ではまだ魔王の力は持っていなかったのだから、流石に無理だろう。
本人だって先程までなら負けていたと言っているのに、大袈裟な猫だ。
ああそうか、猫だった。
猫だから人と悪魔の力関係がよく分かっていなかったのだ。まだ魔王だと名乗る前だったし。
何にせよ、ネジが何本か飛んでいるとしか思えない海の神とこれ以上関わるのは御免だ。
オモシロ魂の味は気になるが、得体の知れない不気味さの方が今は上回っている。
いや別に恐れて逃げる訳ではない。もう暫く熟成させるだけだ。
その頃には正体も判明しているかもしれないし。
よし、帰ろう。
帰ってルシファーでもからかって遊ぼう。
これは敗走ではない。
飽くまでも戦略的撤退だ。
僅か1秒程で考えを纏め上げ、サタンは頷いた。
この心の声がもし聞こえていたなら、虎吉は溜息を吐いてこう言っただろう。
『誰が力関係分からん猫やねん。鈴音キレさして殴らしといたらよかった』
虎吉の実力を知らずズレた考察をしたサタンだったが、悪運の強さを発揮してか、腹に穴が空く事も、腹を壊す程度では済まないだろう魂を食べる事も無く、無事に魔界へ帰れそうだ。
ただ、自分の呪いに掛かったり、魔力を丸めて潰されたり、天使達に碌でもない場面ばかり見られているとこの期に及んで気付いてしまった。
何か尤もらしい台詞のひとつでも放ってから帰らないと、サタンが神の使いに恐れをなして逃げ帰った、等という許し難い誤報を広められかねない。
「あー……、どうすっかな」
腕組みして唸るサタンを見やり、鈴音もワタツミも怪訝な顔をする。
「何をだ?俺とやり合うかどうかか?だったら受けて立つぞ」
さあ来い、と海をザワザワと騒がせ始めるワタツミに『何故そうなる!』とサタンは内心頭を抱えた。
「いやいや、今日の所はやめとくわ。せっかく面白ぇ事になりそうなんだからよ」
「んんー?俺と、偉大な海を司るこの俺と!戦う以上に面白い事なんかあるかー?無いだろー。さ、遠慮するな」
「してねぇ!遠慮してねぇ!ちげーんだよ、コイツ、コイツが育つのを待とうと思ってんだって!」
サタンに指差され、何の話だと鈴音は首を傾げる。ワタツミも同じく。
「いやほらコイツ、俺の力を取り込んでんだろ?使いこなせるようになりゃ、俺ともやり合える強さを手に入れるじゃねぇか。そこでガツンと行きてぇワケよ。神とやり合った後だと、流石に俺も無傷とは行かねぇ。イマイチな俺と戦ったって面白くねぇだろ」
どうよ、と話を振られた鈴音だが、悩む素振りも見せず即座に首を振った。
「バトルに興味ないねん。平和主義者。そないバトル好きなんやったらワタツミ様に相手して貰い?折角やる気になってくれてはるねんし」
「初対面でいきなりブン殴って来た奴が何か言ってやがる!!あのな、俺と神がやり合ったらこの辺まとめて吹っ飛ぶぞ、いいのか!?」
「アンタと私がやり合うても同じやん。特に今より強なった私なんか危ないでー」
「自分を危険物扱い。いやあれよ、俺とお前なら魔界でやり合やいいだろうが」
サタンの提案にはワタツミも黄泉醜女も骸骨も『うわー』とドン引きだ。
「魔界消滅させるつもりか、やっぱり悪魔ってのはえげつないなー」
「魔王クラスでも生き残れるかビミョーっしょー」
2柱の言葉に頷く骸骨。
「天狗には結構お世話になったし、魔界ごと消すんはちょっとなぁ」
鈴音も『ないわー』という困り顔だ。
「あー、うん、そうか。そりゃ悪かった悪かった。そっか魔界消えちゃうかーコマッタナー」
頭を掻き、サタンはとても良い笑顔を作る。
「よし、場所については俺の方で考えといてやるからお前は気にすんな。っつーワケで帰るわ」
「別に戦いたないからええで?」
「いやいや、まあまあ、フハハ。じゃあなー」
「何やよう分からんけどお疲れー」
ヒラヒラと手を振って笑顔のまま消えるサタンへ、鈴音も手を振り返し見送った。
魔界へ戻ったサタンが『乗り切ったぞ俺の勝ちだ!』と拳を突き上げ吠えているが、流石に猫の耳でも異界の声は聞こえない。
全世界へ悪名を轟かせている魔王に『ヤベェ奴』認定された神々と神使達は、不思議そうに顔を見合わせた。
「結局何しに来たんや……変な悪魔」
うんうんと頷く骸骨。
「鈴音のストーカーになるかと思ったのにさぁ、意外とあっさり帰ったねぇー?」
「悪魔の考える事はわかんねーなー。ちぇー、軽く遊んでやろうと思ったのに」
不満そうな2柱に笑った鈴音は、ハッと気付いて手を叩く。
「そうや、変な悪魔やったけど、結構役に立つ事言うてくれたんですよ」
「役に立つ事?」
思い切り首を傾げるワタツミに、鈴音は影を使って人の姿を複製する方法を話して聞かせた。
「はー、成る程。俺じゃ思いつかないな。悪魔も意外と役に立つもんだ。けどそうなると、奇跡的に街なかで犯人と同じ顔を見つけても、意味は無いって事か」
「そうなんですよ。影が人混みに紛れてても、犯罪者の魂の気配を感じ取らん限り分からへんし」
髪を弄りながら眉根を寄せるワタツミと、口を尖らせる鈴音。
「これはもう、人海戦術を使わないと厳しくないか?」
「やっぱりそうなりますよねぇ」
自然と皆の目が骸骨に向く。
困った空気を出しつつせっせと絵を描いた骸骨は、申し訳無さそうに石板を見せた。
「えーと、人手不足。そっか、逃げた魂追っかける組と、残って施設直して地獄の運営管理する組に別れてる時点でギリギリなんか」
気の毒そうな皆の視線に力無く頷く骸骨。
「ほなやっぱり鞍馬天狗煽っ……頼って、子分達を全国に飛ばして貰いましょか」
「うわ煽ってって言おうとした!煽ってって言おうとしたぞ怖ッ!」
海水で壁を作り、そこから顔を覗かせて騒ぐワタツミを見て黄泉醜女が大笑いしている。
「ま、煽るよねぇ実際ねぇ?不可侵条約で大人しくしてる天狗にぃ、他所から来た奴が影使って勝手してるよぉーって教えてあげるワケだしぃー」
「改めて聞くとかなりエグい煽りですね。キレませんかね?大妖怪がキレると話がややこしなるんですけど」
顎に手をやって悩む鈴音へ、海水の壁を消したワタツミがヒラリと手を振る。
「俺の名を出せばいい。異世界の神使にワタツミが協力している、とか言っとけば大丈夫だろ。事実だし。黄泉醜女の名も使えば更に効果的じゃないか?」
「あぁ、そぉですね。いーよぉー、黄泉醜女も魂回収のついでに探してるって言ってぇー。カタチだけじゃなくてホントに探すしぃ」
2柱の言葉に感激した骸骨がくるくると回り、微笑んだ鈴音はお辞儀した。
「ありがとうございます。お陰様で安全に話が進められそうです」
鞍馬天狗が協力してくれるか微妙な所だったが、神どころか神使を恐れている者が大綿津見神や黄泉醜女の名を聞いて平然と断れる筈もないので、これはもう成功したと言っていいだろうと鈴音はほくそ笑む。
「ほな、明日にでも鞍馬山に行ってみます」
「おー、気をつけろよ。天狗によろしくな」
「じゃぁアタシ帰ってナミ様にワタツミ様のこと伝えますねぇー。あとカレー作んなきゃ」
「肉の代わりにホタテとイカとエビあたりで、シーフードカレーなんてのも出来ますよ」
カッ、と目を見開いた黄泉醜女は大きく頷く。
「チョー美味しそうじゃん!やってみるわー!!ふんじゃ、またねぇー」
「母上によろしくなー」
両手に大量のレジ袋を提げ、黄泉醜女はご機嫌で帰って行った。
「よっしゃ私らも帰……あ。ワタツミ様」
「うん?どうした?」
黄泉醜女が居なくなったので近くへ来たワタツミに向け、鈴音は両手を出す。
そして右手から真水を、左手からは塩を出して見せた。
「んな。何やってんだあああぁぁぁあああ!?」
両頬へ手を当て絶叫するワタツミと、照れたように笑う鈴音。
「真水と塩に別れへんかな、思たら別れました」
「いやテヘッじゃねーーー!!お前らも簡単に別れるなよ海水の矜持は何処へやったーーー!!」
地団駄を踏むワタツミだったが、何を思ったか不意に両手を突き出し海水を溢れさせる。
物凄く真剣な顔で暫し海水をザバザバと流した後、力無く項垂れた。
「噴水の真似……?」
「違うな!!どう見ても同じ事やろうとして失敗して凹んでる神だな!!」
「え、出来ひんのですか!?」
「出来ないね!!何故なら俺が海の神だから!!」
威張っているのか悔しがっているのかよく分からない表情でふんぞり返るワタツミに、何となく拍手する鈴音。
「海水の矜持とかいいつつ一応は試すんですね、いうツッコミは……」
「無しで!!つか、どーなってんの?真水ばっか出してたら塩が溜まりまくるとかないの?」
右に左に首を傾げながら、ワタツミは鈴音の両手をまじまじと見る。
「今んとこないですね。そこまで大量に真水だけ出した事ないんで、実際はどうか分かりませんけど」
「そうなのかー……。最初っから扱いは上手かったけど、こんな短期間でここまで使いこなされるとは思わなかった」
腕組みをして感心したように小さく息を吐くワタツミへ、鈴音は慌てて手を振った。
「いえ、実は異世界行ってまして。猫神様のお使いで。そこでガンガン使てる内に上達しました」
「成る程それでか。人の手から水が出てもおかしくない世界だったんだな。それにしても異世界に用事があるとか、猫神凄いな」
ワタツミに驚かれ、貝を手に入れに行っただけ、とは言い出し難くなったので、鈴音は曖昧な笑みを浮かべ頷いておく。
「ま、俺の力をそんだけ使えるなら、悪魔の力も簡単に使いこなせそうでよかった」
サラッと言ったワタツミの笑顔を、微妙な表情の鈴音が見やった。
「悪魔の力、言われると何やごっついアカン感じのアレに聞こえますね」
「う、確かにちょっとヤバい感じのアレだな」
ヒソヒソと交わされる会話を聞き、アレって何だとばかり骸骨が大きく肩を揺らしている。
「でも確かに上手いこと使えるようになったら便利そうなんで、地獄で特訓して来ます」
「地獄の特訓!?スポ根!?」
「いえ、地獄で、特訓です。猫を殺したり傷付けたクズ共が蠢いてる所。ボッコボコにし放題なんで」
「そっちか。地獄の亡者に悪魔の力とか、正に地獄絵図が広がるんじゃ……」
自身を抱きしめて震えてみせるワタツミへ、鈴音は悪い笑みを返した。
「ひっひっひ。死神の次は悪魔の登場ですよ。精々怯えるがいい罪人共めぇぇぇ」
わざわざ大鎌を取り出した骸骨と一緒にポーズを決める鈴音を見て、ワタツミは実に楽しげに笑う。
「盛り上がりそうだな猫神の地獄。特訓の成果で何か面白い事が出来るようになったら見せに来いよ?」
「はい!今日は魔王の相手とか色々ありがとうございました。またちょこちょこ進捗状況をご報告に上がりますね」
大鎌を仕舞った骸骨がペコリと頭を下げ、鈴音はサタンが居た場所の凹みを戻してからお辞儀をする。
「おう、母上の件もあるし、遠慮せずいつでも呼ぶといい。じゃ、パトロールして俺も帰るわ。またなー!」
笑顔で頷いたワタツミは、大きく手を振りながら海面を滑るようにして去って行った。
「んー、相変わらずええ神様」
以前優しい言葉を掛けて貰ったからか、骸骨は大きく幾度も頷いている。
「そんなええ神様の御期待に応えられるように、ガッツリ特訓や!」
よっ、とばかり拍手する骸骨に胸を張って頷き、スマートフォンで時刻を確認した鈴音は大きく伸びをした。
「んんー、早よ帰らな。もうすぐ閉店ガラガラのお時間ですよ」
それは大変、と両手を顔の横で広げる骸骨。
「ふふ、早よ帰ってカレーパン食べなアカンしね。そや、今思い出したけどウィスキーな、炭酸で割っても美味しいねんでー」
物凄い勢いで食いついた骸骨に笑いながら、帰りに駅前のスーパーで買う事を約束し、地図アプリを開いた鈴音は関西目指して走り出した。




