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第百四十四話 またいつか

 溢れ出る涙と鼻水にハンカチを当て、泣きたいだけ泣いたブランシュは、まだ呼吸を震わせながらもどうにか理性を取り戻したようだ。

「ずびばぜん」

 軽く頭を下げてから化粧室へ向かい、顔を洗って戻って来た。

 ただ、号泣と呼ぶに相応しい泣きっぷりが顔面に与えたダメージは、洗顔程度でどうなるものでもない。

 目の充血と鼻の赤さは時間経過で治るだろうが、反対に瞼の腫れは酷くなるだろうし、枯れた声も暫く戻らないだろう。

 大人の女が起床と同時に『やっちまった』と後悔し、出勤前の短時間でどこまで戻せるかリンパマッサージを試み、持てるメイク技術の全てを注ぎ込んで自らの顔面に勝負を挑むあの状態だ。

 ブランシュも困っているだろうかと鈴音が見やれば、腫れぼったい顔には似合わぬ清々しい笑みを浮かべていた。


「何だがずっぎりじまじだ」

 枯れた鼻声の聞き取り難さに笑いながら、鈴音は万能薬の小瓶を取り出す。

「ブランシュさん、手ぇ出して。片方でええよ」

「……?」

 不思議そうにしながらも、ブランシュは素直に右手を出した。

 その手に万能薬を1滴垂らすと、彼女の身体が薄緑色に光り全ての不調を取り去る。

「え……、これ、飲まなくても……?」

 顔も声もすっかり元通りのブランシュが、瞬きを繰り返しポカンとした。

「飲まんでも効くんですねこれが。ただね、人前でやるとね、色々と面倒な事になりそうなんでね、ナイショいう事でどうかひとつ、ね」

 怪しげな実演販売のような口調の後、唇の前で人差し指を立てる鈴音。それを見たブランシュは緊張した様子で頷く。

「誰にも言いません」

「ありがとうございます」

 楽しげに笑う鈴音の礼を聞いて、ブランシュがハッと目を見開いた。


「なんて事!私、お礼を言っていませんでした!虎吉さんが防御障壁を張ってくれた事にも、鈴音さんが戦ってくれた事にも!」

 両手で頬を包み愕然としてから、慌てて頭を下げる。

「街を、国を守って下さって、本当にありがとうございます。……あぁ、何でこんなに当たり前で大切な事を忘れていたのか……ご無礼をお赦し下さい」

 自分が信じられないといった様子で首を振るブランシュに、鈴音は只々笑顔だ。

「私も虎ちゃんも気にしてませんから大丈夫です。そんだけ心に余裕が無かった、いう事ですよ。ギュウギュウに押し込まれて破裂寸前やったんでしょうね」

「重ね重ねありがとうございます。……確かに、この辺りに何かがつっかえているような、グルグルと渦巻いて突き上げてくる何かがあるような、そんな感じがしなくなりました」

 みぞおち辺りに手を当てて、ブランシュは少しばかり目を伏せる。

「そうでしょうね、でもまたすぐ泣けてきますから、心配せんでも大丈夫ですよ」

「え」

 驚いた様子で顔を上げたブランシュに鈴音が悪戯っぽく笑った。


「スッキリしたけど、大好きな友達への大事な思いまで消えてしもたんちゃうか、て申し訳無いようなモヤモヤっとした感じになったんでしょ?悲しいて自覚したのに、何でニコニコ出来んの私、とか」

 正にそうだったらしく、勢いよく何度も頷くブランシュ。

「まあ、泣いたら一時的にスッキリするんですよ。涙と一緒に色々流れ出るんで。でも、何気ない瞬間、例えばカップに水を注いだ時とかに、ああそういえばあの子に最初に出したんお水やったな、とかいきなり思い出してダーッと泣けたりね?会話で、小さい身体でよう頑張る、とかいう話になった途端に、あの子も小さい体でここまで飛んで来てくれてた、とか思てザバーッと涙が出たり。まあビックリするぐらい訳わからんトコで泣けて来ますから安心して下さい」

 鈴音の例え話で既に泣いているブランシュと、鼻から溜息を吐きつつ半眼になる虎吉。

「安心出来へんやないかい。仕事中でも急に泣いてまうんやろ?」

「考え事出来る暇があったら危険やね。常に頭を使い続けてなアカンような仕事やったら、その間は大丈夫かも。でも一息ついた瞬間にドバーッとなる可能性あるけどね」

 明らかに『経験者は語る』な鈴音へ、涙を拭いたブランシュが挙手して尋ねた。


「仕事中にそうなってしまったら、周囲の人に心配されませんか?その時に、理由は……はっきり言うんですか?」

「ああ、私の場合は先に宣言しときます。大事な猫が亡くなりました。急に目ぇ真っ赤んなってるかもしらんけど、どうか気にせんと放っといて下さい、て。ほんで仕事はしっかりこなします。周りに迷惑掛けた無いし、悲しぃて仕事も上手い事いかへん、とかなったら亡くなった子も心配するやろし、……たかが猫が死んだぐらいで大袈裟な、とかいう声が大きなったらムカつくんで」

 思い出し笑いならぬ思い出しムカつきをしている鈴音を見ながら、ブランシュはハンカチを握り締める。

「そ、そうですよね、迷惑を掛けない為にも正直に話しておくべきですよね」

 緊張している様子に、虎吉が小首を傾げた。

「それこそ、友達に協力して貰たらどないや?ひとりで皆に宣言すんの緊張するから、コソコソっと根回ししてくれへんか、いうて」

 だがその案を聞いたブランシュの顔が強張る。

「友達……ですか」

「ん?なんや?もしかして人の友達おらへんのか?鳥だけやったんか、友達」

 ドスッと槍で突かれたかのように胸を押さえるブランシュ。慌てて虎吉の口を覆った鈴音が眉根を寄せた。


「虎ちゃん、アカンで?ブランシュさんは多分、お姫様なんや思うわ。元は貴族とかの家柄や思うんですけど合うてますか?」

「え……はい、元貴族の家に生まれました。……あれ?なんで……?」

「共和制の国やのに、ブランシュ様とか呼ばれとったし。私の住んでる国も立憲く……説明めんどいな、やめとこ。殆ど共和制みたいなもんなんで、真面目に様付けて呼ぶ相手なんか限られてますもん。神様仏様、宮様」

「あー、成る程な!そういう事か」

 虎吉が納得し、宮様の意味は解らなかったが言わんとする事は理解出来たので、ブランシュも頷く。

「元貴族やのに様付けって事は、まだ共和制に移行してそんな経ってへんのかな?とにかく、周りはブランシュさんを様付けて呼ぶべき姫やと思てるいう事で、そうなると幼馴染みでもおらん限り友達は中々……」

 恐らく未だ社会に影響力のある元貴族の娘で、本人も国の防衛を一手に引き受けられる実力の持ち主。

 物心ついてから『お友達になりましょう』と言えるツワモノが、果たしてどれだけ存在するか。ブランシュの反応からして、今日に至るまで一人もいなかったのだと窺い知れる。


「……そうなんです。祖父の時代に共和制へ移行したので、まだ貴族気分が抜けない方々もいらっしゃいますけど、私は違う……つもりです。でも、魔導塔のように以前は国王の管理下にあったような施設だと、働いてる皆さんも未だに、こう……何というか」

「学校には?」

「行ってないんです。勉強は家庭教師から習うものだとかで」

 ガッツリ貴族やないかい、と呆れた鈴音は幾度も頷く。

「そのお勉強の中に、感情を抑制する方法とか表情の保ち方とかありませんでした?」

「ありました。人前で感情を露にするのは、とてもはしたない事だって」

「うん、それですね。この塔の責任者いう立場もやけど、子供の時からの感情抑制訓練が泣いたらアカンて思い込ませて、必要以上に悲しみを押さえ付けてたんやわ。飽くまでも人前での話で、一人になったら泣いてもよかったのに、真面目過ぎるブランシュさんは一人になっても泣かんかった。そのぐらい強い意思で感情を制御して、常にニコニコしてるお姫様に、お友達になりましょ、恋バナとかしましょ、言える人はまず居らん。私でも無理。畏れ多い」

 バサッと剣で斬られたかのように胸を押さえるブランシュ。弱々しい微笑みを浮かべ鈴音を見やった。


「あはは、すんません。取り敢えず原因は分かったんで、これからは人前でも声出してケラケラ笑ってみたり、腹立ったら顔に出してみたりしたらどないですか?もうちょっと、周りと打ち解けられる思いますけど。その第一歩として、初めて出来た大切な友達が亡くなって悲しい、仕事中に涙するかもしれんけど許して欲しい、て皆さんに伝えたらええんちゃいますかね?言い難かったら、友達が小鳥やいうんは伏せといて」

 鈴音の提案を聞いて、口元に手をやりつつブランシュは考え込んだ。


 確かに、親世代がまだ貴族と平民のような関係性を保つ中で育った同世代からすれば、何を言われようが姫は姫なのだろう。でも今ひとつピンと来ない。

 そうだ、理解する為に、姫を王子に置き換えてみればいい。

 自分は王族ではない、普通の男性なんだから気遣いは無用、仲良くしてくれ。そう言って常にニコニコ、何を考えているのかさっぱり解らない表情で接して来る王子。

 さて、一体何を話せば良いのだろう。王子の趣味も好みも知らないし、無礼な真似をしないようとても気を遣う。何しろ相手は王子なのだから。

 そこまで考えてブランシュは顔を上げた。


「あぁ……本当に、感情表現って大切なんですね。頭の中で、今までの自分を王子様に置き換えて考えてみたらよく解りました。あれでは仲良くなれません」

 困り顔で笑うブランシュに鈴音は微笑む。

「なので鈴音さんの仰る通り、まずは笑う事から始めようと思います。そして、あの子の事は隠さず小鳥だと伝えます。そうじゃなきゃ……あの子に失礼ですよね。毎日毎日……わざわざここまで来てくれて……」

 またブランシュの目から涙が零れた。

 それをハンカチで拭いながら、誰にともなく問い掛ける。

「でもどうして、あの日は帰らなかったんだろう……もう帰れる程の体力も無かったの……?」

 それに答えたのは虎吉だった。

「体力は無かったかも知らんけど、単純にお前さんのそばに居りたかったんやろ」

 あっさりと言われてブランシュは勿論、鈴音も瞬きを繰り返す。

「そうなん?」

「おう。毎日会いに来る程仲ええ奴のそばに、最期まで居りたかったんや。ごめんやけど、もう遊びには来られへん、て伝えたかったんちゃうか?知らんトコで逝ってもたら、姉ちゃんずっと待つやろ?せやから、もうサヨナラやけど楽しかったでありがとうな、て言いに来たんや」

 虎吉の解説に、鈴音の目からも涙がぽろりと零れた。ブランシュはダムを決壊させている。


「小鳥の、“優しくて心が温まる歌”は、ありがとうとサヨナラの歌やったんやね……」

「おう。……うん?待てよ……?女神さんは、姉ちゃんが死ぬたんびに生まれ変わってずっと巫女しとる言うてたな。ほな生まれ変わりがある世界やここは。っちゅう事は、もう遊びには来られへん、やのうて、暫く遊びには来られへん、かもわからんぞ?」

 鈴音はハッと目を輝かせ、ザバザバと涙を流しているブランシュはそのまま首を傾げた。

「もしかして、また生まれて、また遊びに来るつもりやったんかな!?」

「え……?」

「無いとは言えんやろ。猫らの事思たら。結構おんなじ飼い主んトコ戻って行くで?何でか柄は変わる事が多いけどな。自分の柄忘れるんか気分変えたいんか未だに謎や」

「そうやった!ほな、違う色の羽になって、またここに歌いに来るかもしらんね?」

 虎吉と鈴音の会話にブランシュは身を乗り出し、充血した目を見開く。鼻詰まり全開の声でモゴモゴ言うので、鈴音は素早く万能薬を鼻先に落としてやった。

「あ、あの子にまた会えるかもしれない……?」

「うん、サヨナラやのうて、暫くはサヨナラやでって意味の歌やったんかも」

 そう聞いたブランシュの顔が目に見えて輝く。


「そっか。そっか……。ふふ、どうしましょう、もしかしたらって思っただけで、こんなにも嬉しい」

 座り直しつつ胸に両手を当て泣き笑いの顔だ。

「会えなかったとしても、最期まで一緒に居てくれたのがあの子の意思だって思ったら、悪夢だったあの悲しい朝も違ったものに感じます。この手で埋葬まで出来たんですもんね」

 幸せそうな中に寂しさも滲ませながら、それでもやっぱり幸せそうに目を細める。

 その様子に、もう大丈夫そうだなと鈴音はホッと息を吐いた。

「窓開けて気長に待つんがええ思います」

「そうします。もし若返って帰って来たら、ここに巣を作って家族ごと住んでくれないかな」

 部屋を見回すブランシュに、『親子でも縄張り……』と言いかけた虎吉の口を覆い、鈴音はニコニコと笑う。

「小鳥達の遊び場になったら見てみたいですね」

「是非!いつでも見に来……、あ、そうか鈴音さんは旅行者でした。次、次はいつこちらに?」

 また身を乗り出し気味になるブランシュに鈴音は首を傾げた。


「さあ、いつでしょう。猫は気紛れなので」

 虎吉と揃って目を細めると、少ししょんぼりしたブランシュだったが、何を思ったかグッと拳を握って力強く頷く。

「大丈夫、待てます!世界の何処かにはいらっしゃる訳ですし!」

「え、あー……、そうー……ですね?」

「まだ他の街のお話もして頂いてませんし!」

「おおーっと、そろそろ行かな日が暮れるかも」

 笑って誤魔化しながら慌てて立ち上がる鈴音を、同じく立ち上がったブランシュがじっと見つめる。


「あの子の事を思い出すと、やっぱりまだ泣いてしまいますけど、いつかは笑顔で話せるようになると思います。その頃にはあの子が帰って来てるかもしれないし、別のお友達が出来てるかもしれない。まだまだずっと先の話です。だから、あちこちを旅した後、もしもこの塔を思い出す事があったら、きっと遊びに来て下さい。どんな子が居るにしろ、とても素敵な部屋になっている事間違い無しですから!」

 再び潤み始めた目を真っ直ぐ見つめ返し、鈴音は誤魔化しではない笑顔で頷いた。

「いつかまた、土産話と一緒に来ますね」

「……はい!お待ちしてます!」

 拳を握って気合十分なブランシュの前で魂の光を全開にし、見えるかどうかは分からないが手を振る。

「お茶、ご馳走さまでした。ほなまたー」

「今度は肉食わしてくれーさいならー」

 情緒の欠片も見当たらない気の抜ける挨拶を残し、窓から天へ駆け昇る彗星となって消えた。

 後にはふわりと柔らかな風が吹く。

「……さようなら、またいつか。約束ですよ?」

 まるで神への祈りのように呟いたブランシュは、空に消え行く導きの光を、寂しさも嬉しさも隠さぬ本物の笑顔で見送った。

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