第一話 ヘンタイと子猫
関西地方に位置する、ファッションとブランド牛と異国情緒が売りの港町。
その港町の西寄りにある、丘陵地を拓いて作った住宅街の坂道を、パンツスーツ姿の女性が気怠げな足取りで上って来る。
トートバッグを肩から提げ、セミロングの黒髪を揺らしつつ歩く彼女は、夏梅鈴音23歳。
本日付けで失業者の仲間入りを果たした、気の毒な新卒二年目である。
現在は、最後の荷物整理を終えた帰り道だ。
「いや、解るよ景気がエライ事なってんのは。けど四月に潰れるとかある?フツー」
俯き加減のうんざりした顔で呟き、よっこいしょ、とバッグを提げ直して大きな溜め息を吐いた。
平日昼下がりの住宅街に人気は少なく、独り言にギョッとされる事がないのがせめてもの救いか。
「まあ、そんな会社にしか入れて貰われへん私もどないやねん言う話よなー。誕生日までには次の仕事見つけたいけど……趣味はマラソンです、飼ってる猫達を溺愛してます、くらいしか言われへん何の資格も無い二年目なんて需要無いな」
バイト生活に逆戻りかなぁ、と二度目の溜め息を吐いた所で、ふと視線を上げ立ち止まる。
何か気になる音でもしたのか、きょろきょろと辺りを見回し、首を傾げた。
「気のせいかな……?」
そう呟いた時、それは今度こそはっきりと鈴音の耳に届いた。
子猫の鳴き声だ。まるで悲鳴のような。
「ちょ、どこ!?何なん、カラスにでも襲われてんの!?」
瞬時に血相を変えると、先程までの気怠い足取りと覇気のない顔が嘘のような力強さで、鳴き声がする方へと風のように駆けて行った。
「……ありゃー、降りられへんようになったん?つか、そのチビッ子っぷりでようそんなトコまで登れたなぁ」
鳴き声を頼りに辿り着いた公園のど真ん中、立派な枝振りの大きな木の上に、声の主は居た。
高さ4~5メートル程の位置にある枝にちょこんと乗り、ニャーを通り越してキャーに近い声を上げる白地に黒いハチワレ模様のある子猫。
その大きさからして、生後二ヶ月を過ぎたくらいか。
何かに追われたか驚いたかして、まだ弱い爪を必死に使って登ったのだろう。そして、降りられなくなった、と。
悲鳴に聞こえた声は『お母ちゃーーん!!』もしくは『誰かーー!!たぁすけてぇぇえ!!』とでも言っていたに違いない。
想像した姿の切なさと可愛らしさに、鈴音に流れる無類の猫好きの血が騒ぐが、理性を総動員してどうにか抑え込む。
「くぁー、可愛すぎるぅ……てアカンアカン」
今は子猫の愛くるしさに、ドゥフフなどと不気味な笑い声を漏らし身悶えている場合ではない。
急いで助けねばそれこそ烏のような、子猫を餌にする天敵が来てしまう、と両頬を軽く叩いて気合いを入れた。
「おっしゃ。何年振りやろ木登り。頑張るよー?」
小さく笑いながら、バッグを置きジャケットを脱ぐ。パンプスも脱ぎシャツの袖を捲くって、何の躊躇いも無くヒョイと幹に取り付いた。
一歩目でストッキングが見事に伝線するもお構い無し。枝に手が届いてからは、猿も感心しそうな素早さでするすると登り、あっという間に目的の地点まで到達した。
「さて。ぅおっほん」
子猫に近付く前に、小さく咳払いをして喉の調子を整える。
直後に鈴音の口からでた声は、先程までの独り言で聞こえていたアルトではなく、余所行きメゾソプラノによる“ザ・猫なで声”だった。
「おちびにゃーん、元気ー?助けに来たよー」
高い声に加え、歯を見せたり目を合わせたりしないよう気を付け、敵じゃないよアピールをしつつじりじりと距離を詰める鈴音。
対する子猫はといえば、耳を後ろへ反らせる警戒態勢、通称“イカ耳”状態ではあるものの、キャーキャーと鳴くばかりで逃げる様子は無い。
「よしよし、エエ子やねー」
声を掛けながら太い枝に足を置き、身体を安定させた。そしてゆっくりと右腕を伸ばし、人差し指を子猫の鼻先へ近付ける。
すると子猫は、首を目一杯伸ばしてフンフンと匂いを嗅いだ。興味津々のようだ。
「くぁんわえぇぬぁー」
寄り目になりながら指の匂いを嗅ぐ子猫、という破壊力抜群の絵面で、総動員していた鈴音の理性が吹き飛ばされてしまったらしい。
本来はなかなかの美人に分類されるだろう顔をデレデレと崩し、怪しげな発音の言語らしき何かを繰り出すその姿は最早、紛うことなきヘンタイである。
そんな様子を不思議そうにじっと見つめる透き通った目に、現在の状況を思い出したのか鈴音も我に返った。
「あー、ごめんやでー。猫スキーな本能が前面に押し出されとったわ。けど、キミが可愛すぎんのがアカンねんで?“可愛すぎる罪”で逮捕や」
謎の言い訳を展開し、きょとんとしている子猫をこれ幸いと確保しかけて、不意にピタリと動きを止める。
「……いや待って?この子連れてどうやって降りるん?片手じゃちょっと無理やろ」
己にツッコミを入れながら、鈴音はチラリと下を見た。
二階の窓から見る高さ、が表現として一番近いように思える。さすがに、子猫を抱えて飛び降りる、という選択肢は一瞬で消えた。
「肩?乗るかな?じっとしててくれる筈ないよなぁ」
大柄な男性ならともかく、平均的な日本人女性体型である鈴音の肩幅は狭い上に、木から降りる為には腕ごと幾度も動かす。子猫は転がり落ちてしまうかもしれない。
「あー!!何でカバン置いて来たんよ私ー!!アホにも程があるやろー!!取ってくるかー?でもその間に動いて落ちたりしたらどうするよ」
子猫を驚かさないように小声で己を責め、今一度どうにかならないか視線を巡らせ考える。
すると、着ているシャツのボタンが目に付いた。
「そうか、シャツん中に入れたらオッケーちゃう!?」
言うが早いかボタンを三つ外し、ウエスト部分を少し引っ張り出して、子猫が窮屈せず留まれるスペースを確保。因みに下着はカップ一体型タンクトップの為、もしも誰かに見られても問題はない。
「おチビ、準備出来たで。ここ入ってじっとしといて」
今度こそ子猫をそっとつかまえ、シャツの中へ入れた。人肌の温もりに安心したらしい子猫は、鈴音の腹にピッタリくっついておとなしくなる。
「ワイルドな子やなくて助かったぁ。飼い猫なんかな?」
懐っこいなぁ、と鈴音もまた子猫の温もりに表情を崩しつつボタンを留め、さて降りるか、と枝を掴んだ。
次の瞬間。
空の一部がぐにゃりと歪み、虹色に揺らめき光る、テニスボール大の不思議な玉がそこを通って現れた。
まるで何かを探しているかのように不規則な動きを見せてから、突然、豪速球と呼べる勢いで斜めに降下して行く。
鈴音が立っている木に向かって真っ直ぐに。
「ん?」
何かの気配を感じ顔を上げた時にはもう、遅かった。
ゴッ、という、人の骨と別の硬い何かがぶつかる鈍い音が響くと同時に、額に痣をこしらえた鈴音がバランスを崩し背中から落ちて行く。
何が起きたのかも解らぬまま、咄嗟に腹にくっついている子猫を両手で庇い、ぎゅっと目を閉じた鈴音は、ただただ訪れる衝撃に備えるしかなかった。
待つこと数秒。
背中に何やら柔らかいものが当たったような気はするが、覚悟していた衝撃と痛みが一向に訪れない。
いくらなんでも二階程の高さから落ちるのに、こんなに時間がかかる訳がない、と鈴音は固く閉じていた目を恐る恐る開いてみた。
その視界に広がったのは、公園の地面に横たわって見る青空、ではなく、柔らかな暖色系の光が照らす雲海のような、もこもことしている謎の景色。
「……え?あー、えぇ?」
ポカンと口を開きながら、取り敢えず身体を起こそうと地面に手を付き、その感触に驚いた。
「ぅわぉ、ふっかふかやん……なにこれ」
思わず二度三度と叩いて確認してしまった地面もまた、乳白色のもこもこである。
空も地面も、柔らかな光に照らされた雲海的もこもこ。
一体どこまで続いているのか、遥か彼方までひたすらにもこもこ。
「これはー……夢?……いや、あれか?あの世的なー、あれか、うわー」
現実ではあり得ない光景に、夢か幻か、そうではないのならもしや、と鈴音はとても残念そうに呟く。
だが、その悲しい想像を否定してくれる存在がそこには居た。
「うひょ!?こしょばい!!ちょぉ待って待って」
腹でモゾモゾと動き回る存在に、慌ててシャツのボタンを二つ開ける。
途端に胸元からニョキッと元気に顔を出したのは勿論、あの子猫だ。
「は!?なんでキミがおるん!?いやいや、私がクッションになって助かる筈やろ!?」
目を見開いて慌てふためく鈴音の顔を、フンフンと嗅ぐ子猫。
確かな温もりにふわふわの毛並み。柄といい可愛らしさといい、あの子猫で間違いない。
「どういう事?えー……もしかしてここはあの世ではないんかな?やっぱり夢?」
「ンー?ワカンナイ」
「そらそうやんな、キミに解る訳ないよな」
「ウン」
ボーイソプラノとアルトが自然に会話し笑う。
よしよし可愛い可愛い、と小さな頭を撫で。
「……えぇえ!?」
ド派手に驚いた。
その大きな声に驚いた子猫は、素早くシャツの中に隠れてしまう。
慌てたのは鈴音だ。
「うわ、ごめんごめん、ごめんやで、ビックリさしたなぁ、ホンマごめん、ねーちゃんが悪かった」
猫飼いの基本“大声を出さない”をすっかり忘れた己を責め、子猫に謝りながらそうっとシャツの中を見た。
耳を伏せ瞳孔を全開にした子猫が、体を縮こまらせて鈴音を見ている。
「コワイ。オコル?ナンデ?」
「ごめーーん!!怒ってないよ、ビックリしてん。おチビが喋れる思わんかったから。ホンッマごめん」
「ビックリ?オコラナイ?」
「怒らない怒らない、そもそも怒ってない」
人差し指を鼻先へもって行き、ご機嫌を取ってひたすら謝る。
鈴音にとっては、ここが何処なのか、だとか何故に猫が喋れるのか、だとかいった事より、猫を己の大声で驚かせてしまったという事実の方が、事件レベルの大事らしい。
「ごめんなー?ほれ、こちょこちょこちょこちょー」
「ンー。ウフフ。ウフフフー」
指先で顔回りを軽く掻いてやると、子猫は目を細めて気持ち良さそうに笑う。
生まれた時から猫と暮らす鈴音の手の動きは、子猫からすれば凄腕エステティシャン級の心地よさらしい。すっかり恐怖を忘れてくれたようだ。
「ンフフーキモチィー」
「くぁわうぃぃなぁぁー」
お互いに幸せな顔で戯れること暫し。
一人と一匹の上にふと、大きな影が差した。
「ん?なんやろ」
顔を上げた先には何もない。
ならばと振り向けば、そこには巨大な白い柱が二本建っていた。それも、もふもふの。
「…………」
黙ったまま柱に沿って視線を上げて行くと、随分と高い位置にそれはあった。
柱、いや、脚に見合った大きさの、それはそれは美しい猫の顔が。