プロローグ
あの時、小さな俺の手をぎゅっと握り締めるその手を離さなかったら、綾は苦しむことなく青春を楽しんでいたのだろう。
あれはセミがミーンミーンとうるさい夏だった。俺の家は一戸建ての家で、五人きょうだいと暮らしている。リビングで、クーラーをつけて兄達が机に教材を広げていた。俺はそんなことおかまいなしに、彼らにあることを訴えつづけた。
「ねぇ、はやくこうえんいこうよ~ 」
当時の俺は、まだ遊び盛りできょうだいと遊ぶことが大好きな六歳だった。我ながら、呆れるほどの生意気でクソガキだと思う。
「ごめんな。これ終わったら連れててやるから」
「まさる、それさっきもいった! 」
「ごめんな、俺がバカだから」
さっきから自分のことをバカと言っているのは、長男の政流。俺より七つ年上なのに、本人が言う通りのバカだけど、家族のなかで一番運動神経が良い。
「みつるは? 」
「すみません。僕は政流くんの宿題をみないといけません。そして、僕の膝のところで寝ている孝太くんがいるので静かにして待っててください」
敬語で申し訳なさそうに話すのは、次男の満流。俺より七つ年上なのに、誰に対しても敬語で話すけど、家族のなかで一番頭が賢い。ちなみに満流は政流の双子の弟でもある。
そして満流の膝の上で寝ているのは、四男で末っ子の孝太。俺より二つ年下なのに、のんびりだけど、家族のなかで一番満流のことが好きで懐いている。
「いやだ!だって、こうえんであそびたいもん」
それでも俺は自分の欲望を言い続けた。
「ダメでしょ、優太。政ちゃんたちを困らせたら」
洗濯物を干し終わった姉がリビングに戻り、俺を叱る。
「あや。おれはこうえんにいきたいの」
「だからって、政ちゃんたちを困らせていい理由にならないでしょ」
「うん」
「優太は、いい子」
俺の頭を撫でてくれているのは、長女の綾。俺より六つ年上で、家事を全てこなして、俺は家族のなかで一番綾のことが好きだ。
「そうだ!誰か綾の手伝いをしてくれる人はいないかな〜?もし、手伝ってくれたら公園に連れてってあげるのにな〜 」
綾は、そう言いながら俺の方をチラチラっとわざとらしく見てきた。
「はーい!おれやる! 」
「優、手伝ってくれるの? 」
「うん! 」
「ありがとう!すごく助かるよ! 」
公園に行きたかった俺は、その提案に飛びついた。上のきょうだいの双子が公園に連れてってくれないなら、綾の手伝いをした方がマシだった。
「綾、いつも家事を任せきてごめんな」
「大丈夫だよ。優に手伝ってもらうから家事が早く終わるよ」
「そうだな」
「政ちゃんは、宿題を頑張ってね」
「綾、ありがとうな! 」
ニカっと笑う政流が憎らしかった。どこかのバカのせいでなかなか公園に行けなかったと思っているんだよ。俺は、綾の家事のお手伝いをやった。
「優が、手伝ってくれたから早く終わっちゃった。じゃあ、準備して公園に行こう! 」
「うん!! 」
俺は、急いで行く準備をした。
「綾さん、いつも助かっています。ありがとうございます」
「みっちゃん、私は自分がしたいことだけをしてるの。それにきょうだいが多いし、お母さんたちがいないぶん、手分けした方がやりやすいでしょ」
「そうですね。でも、無理はしないでくださいね」
「うん! 」
「あや!はやくいこう! 」
準備を終えた俺は、綾のスカートを引っ張った。
「優太、そこを引っ張らないでよ」
「だって、はやくいきたいもん」
「ハイハイ」
綾はショルダーバッグを肩にかけて、俺の左手をぎゅっと握った。
「優太、少し落ち着け。外は、危ないから絶対に綾の手を離すなよ」
「わかった」
「優太くん、綾さん、車に気をつけて公園に行ってください」
「「はーい! 」」
「よし、俺は早く宿題を終わらせて追いかけるからな」
「うん、分かった。満ちゃん、政ちゃんと孝ちゃんをお願いね」
「分かりました」
「じゃあ、行ってきまーす! 」
俺は、綾の手を握って家を出て行った。俺たちが住んでいる家から歩いて十分の距離に公園がある。歩行者用に整備されたところを二人で歩く。必ず綾は俺を車から遠ざけるために、自分が車道側で歩くようにしていた。
「優、何して遊ぶ? 」
「え~とな、ジャングリュジムとブランコと……」
俺は、繋いでない右手の指で数えながら言った。公園が好きな俺ははしゃいでいた。
「やりたいこと全部やろう! 」
「うん! 」
「優、ジャングルジムって言ってみて」
「ジャングリュジム」
「おしい! 」
「いえてるもん」
「ギリギリ言えてませーん」
綾は、隙あらば俺がうまく言えないことばを直してくる。俺はその度にふてくされた。
「あっ、この信号を渡ると公園すぐだよ」
「ほんとうだ! 」
信号はもう少ししたら、歩行者側が青になる。信号のところまで走ったら、青になった途端に渡れると思った俺は、自分の気持ちが前に出て、綾の手を離して道路に飛び出してた。俺に向かって走ってくる車に気が付かずに。
「優!ダメ! 」
「えっ? 」
綾に名前を呼ばれ、振り返ろうとした途端に、背中に衝撃を感じて道路にに倒れた。すぐ後ろでけたたましい音が聞こえた。
「あや?あやは? 」
俺は倒れた時に怪我をしたところが痛かったけど、泣きながら綾を探した。近く人が俺に気がついて綾のところに連れてってくれた。
「あや? 」
綾は、少し離れたところで血を流して倒れていた。
「ゆ……た? 」
「あや! 」
「だ…じょ……ぶ? 」
「うん 」
綾はニコッと笑うと目を閉じた。
「あや!? 」
救急車のサイレンの音が、聞こえてきた。そして、もう一つの音が聞こえた。
「綾!優太!大丈夫か!? 」
政流は嫌な予感がして、宿題そっちのけで追いかけて来たらしい。そして、俺たちの方へ駆け寄ってきた。
「優太、大丈夫だからな」
政流は俺をぎゅっと抱きしめてくれた。俺はその温もりを感じて目を閉じた。
俺の左手に温もりを感じた。俺が離したはずの手よりも大きくて温かった。目を開けると、俺の手を握っているのは寝息を立てている政流だった。俺は、病院のベッドで横になっていて政流のそれを見て、まだクソガキの俺でも心配をかけたのは分かった。
「まさる? 」
俺は、寝ている政流のボサボサ頭をポンポンと叩いた。
「ん? 」
政流は、まだ起きない。もう一度同じことをした。今度は、目を覚ました。
「優太、おはよう」
「まさる、おはよう」
俺の顔を見てニカッと笑った。
「まさる、あやは? 」
政流は、わかりやすいぐらいに表情が変わった。
「大丈夫」
政流は、俺にじゃなくて自分自身に言い聞かしているようだった。
ガラガラと病室のドアが開いた。
「優太くん、目が覚めたんですね。これでひと安心です」
孝太を抱いた満流は、ホッとため息をした。
「みつる、あやは? 」
「綾さんは……寝ていますよ」
満流は、何か隠すような言い方をする。
「どういうこと? 」
満流は、政流を見て二人しか分からない会話を交わした。
「優太くん、落ち着いて聞いてください。綾さんは、生きています。そして、先程目を覚ましたのですが……」
「綾は、優太と公園に行ったことや事故にあったこと覚えてないんだ」
満流の言葉を繋いで政流は話した。
「綾さんは、優太くんが公園に行きたかっているところまでは覚えています」
「うん? 」
当時の俺は、分かったようで分からなかった。少し考えて導き出したことを話した。
「おれとこうえんにいってること、おぼえてない? 」
「そうだな」
「おれのせい? 」
「違う。車が信号を無視したせいだ」
「でも、おれがあやのて、はなして、とびだしたかったら」
「優太、違うからな!お前は悪くないから」
「おれのせい」
「違う! 」
「二人とも、落ち着きなさい」
言い合う俺たちを満流は、酷く辛そうな顔で止めた顔を今でも俺は覚えている。
「「ごめんなさい」」
満流は涙を堪えて、抱いている孝太を落とさないように必死に抱きしめていた。
「今は誰が悪いって、決めることじゃないです」
「そうだな」
政流は反省を表すように下を向いた。
「みつる」
「はい、どうしましたか? 」
「あや、いつおもいだすの? 」
「それは分かりません」
「そうなの? 」
「はい」
俺は、綾のおかげで擦り傷と打撲ですんだ。でも、綾は記憶のことや頭をぶつけて怪我をしているから、しばらくの間入院することになったのだ。
「優、ごめんね。私、よくわからないけど、怪我して入院することになったみたい。だから、公園に連れて行けなくなっちゃった」
病室に行ってどこか他人事のように話す綾に会った時に、本当に記憶が無いことを実感した。
俺が綾の手を離さなかったら、もう少し周りを見ていたら、事故が起こらなかったはずだ。そうしなかったら、綾の記憶は無くならなった。ガキの俺は、初めて後悔をした。
この時の俺は知らなかった。まだこれが後悔をするきっかけで、その後の俺が十年間の後悔するということを。
読んでいただき、ありがとうございました。
十年間後悔した意味とはどういうことでしょう。