表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺たちの複合球技戦  作者: 木村竜一
2/3

~バトルボール【2】~

BB讃歌

第10章 世紀のゴング

 不二巻建設の陰の新フランチャイズに、新旧GBRC統一戦を戦う池上・蒲田両陣営が到着したのは午後1時過ぎだった。ファンの前に颯爽とその勇姿を見せた池上健史だったが、やはり、その顔色はすぐれなかった。不安がたちまち膨らむ。前夜祭の過酷な前哨戦を消化した新GBRC王者・池上の疲労は、肉体的にも精神的にもピークに達していた。

事実、彼は四ッ谷巌十郎老人との四つ球決戦の直後、ほんのわずかの間ではあったが医務室で検査を受けている。その時、前夜祭に駆けつけた大学時代の友人達が池上に呼ばれたのか、その同じ医務室へ消えていくのを女マネージャー・庄司香織は不思議な気持ちで見守っていた。

「イケガミはなんともない。彼は我々の仲間、あれしきの事ではまいらない!」

やがて、出てきた彼らの様子をうかがいながら、どうしたのかと尋ねる女マネージャーの心配を、外人独特の明るさが包む。

 「ビタミン剤を一本打ってもらっただけだよ」

 池上自身も女マネージャーには少々そっけない返事だった。無論、頭のいい彼女は池上の言葉を鵜呑みにはしていないが、彼らの真意を計りかねるもどかしさに締めつけられた。

 この日、秋に竣工を控える幕張メッセの前から、世紀の一戦を一目見ようという観客の列が続いていた。無論、徹夜組も少なくない。JR京葉線・海浜幕張駅はおろか、ひと駅向こうからも観客が数珠つなぎとなり、千葉市中瀬の一帯は呼吸困難をもよおすほどの人波に埋まっていた。東京湾に流れ込む浜田・花見の両河川敷や堤防にも人が溢れ、東関東自動車道は開通以来最大の渋滞に見舞われ、周囲の交通網も完全に麻痺していた。

 1~4戦が組まれている国際展示場の観戦料相場だが、テーブルサイドは30万円、一般席は20万円である。ところが、イベントホールの5~7戦では決着のつく可能性があるため、テーブルサイドが60万円、一般アリーナ席が最低でも40万円は下らない。恐らく、不二巻建設のまわし者と見られるダフ屋が釣り上げた最高値に至っては、100万円のプレミアがつくだろう。

ちなみに、池上―辰巳の東京ドーム新GBRCタイトル戦ですら、S席が50万円だったというから、この新旧GBRC統一戦の人気はまさに凄まじいの一語に尽きる。8~10戦目の行われる大阪のメッカ・帝国ビラードへの入場料は今のところ流動的だが、イベントホールでの結果いかんによっては、それこそ破格の値がつくだろう。私達はあらためて、新旧GBRC統一戦の持つ意味の大きさに驚愕の念を禁じ得ない。

 統一戦開催を祝う無数のアドバルーンが晴天に浮かび、その間を縫うように取材ヘリが飛び交い、あわや衝突というきわどい場面まで見られた。また、人波に押され将棋倒しとなった負傷者を、救急隊が病院へ搬送する事すらままならない。この阿鼻叫喚の地獄絵を見た千葉県警は、警視庁へ協力を求め自衛隊に出動を要請した。しかし、屈強な隊員達も統一戦見たさの暴徒を鎮圧することはできなかった。万策尽きた当局がアメリカ軍基地へのSOS発信を検討している頃、立錐の余地もない国際展示場では、世紀の一戦を彩るビックセレモニーがその幕を切って落とさんとしていた。

 午後6時、全世界が固唾をのむ中、ビクトリー・タダ国際ビリヤード協会々長が、真っ暗な会場でひとりピンスポットを浴び、統一戦開催へこぎつけた長い道のりを切々と語り始めた。あちこちからすすり泣きが聞こえ、やがてそれは激しい嗚咽へと変わっていった。ビクトリー・タダ会長自らも声を詰まらせ、それでも、流暢な日本語で語り終えると会場は割れんばかりの拍手に包まれた。その音ははるか頭上の大鉄骨架構に木霊した。

やがて、そのざわめきが静まるのを待っていたかのように、ビクトリー・タダ会長が両選手入場の時を告げた。唯一の光源だった会長のピンスポットも消え、会場が漆黒の闇に包まれたかと思う間もなく、大海原を連想させる琥珀色の光が満場を包み、七色のレーザー光線が猛スピードで場内を嘗める中、突然、耳を聾する大音響がうなりを上げた。この日のためにと、ワルシャワの大作曲家・ショペンより贈られた池上健史の入場テーマ曲「ミラクルヒーロー」であった。そのアップテンポなリズムに乗って登場した池上は、エンブレムが目にも鮮やかなプラチナ製のブレザーを羽織り、右手にプライベートキュー「パーフェクトブレイク」を握り締めている。生家の玉突き屋で作られたパーフェクトブレイクは、池上の血と汗を吸収し、彼の全てを見てきた。

会場中央に置かれた純金のビリヤードテーブルへの花道は人で埋まり、早くも池上コール一色に塗りつぶされていた。かなり苦労して彼がテーブルへたどりついた刹那、再び場内は暗転しミラクルヒーローとはうって変わった曲が流れ始めた。ミキ・蒲田の入場行進曲「他人の関係」であった。いつもよりほんのちょっぴり厚化粧の帝国ビラードのおばちゃん達が、渋いハーモニーのバックコーラスを務めている。

往年のヒット曲をアレンジした、その雅楽とも能楽ともつかぬおどろおどろしき調べに乗って登場したミキ・蒲田の姿に、人々は唖然とせずにはいられなかった。彼のいでたちは江戸時代の武士の礼装として知られる肩衣と袴の裃である。背中には毛筆体の「みき・かまた」の刺繍が金糸銀糸と縫い取られてあり、紅白の毒々しい髪の毛を振り乱した般若の面から放たれる鋭い眼光は、人々をたじろがせ不気味な静寂を誘う。大相撲の横綱よろしく右に名匠・織田染之進の太刀持ち、左に雇われ工作員・川崎三平の露払いを従えて、花道を行く様は一種幻想的ですらあった。

その後、最初で最後になるであろう「大決戦」で刃を交える池上・蒲田の両雄は、共にチャンピオンの誇りを全身に湛え、ビリヤードテ-ブル越しに対峙していた。それは誰もが待ちに待った瞬間であった。満感身に迫る思いとはこんなことを表現したのだろう。だが、互いの表情をうかがい知るのは不可能だった。テーブルに敷かれたビロードの上には統一王者の証し、金色に輝く雲突く巨大トロフィーが置かれ、彼らの視線を遮っていた。

 アナウンサーが両チャンピオンをコールすると、それまで静かだった会場はまた興奮のるつぼと化し、紙テープが虹のように弧を描いて乱れ飛んだ。その中のひとつが川崎の顔面を直撃し、怒った川崎が鼻血を流しながら客席になだれ込む一幕もあったが、そんな法外漢の逆上を尻目に、統一戦のセレモニーは粛々と進行する。両チャンピオンはプラチナのブレザーと黄金色の肩衣をそれぞれ脱ぎ捨て、その下に隠されていたベルトを腰から外すと、それらは新旧GBRCの特別連合コミッショナーに預けられ、いつか見た“宝石箱”に納めらた。その間も、係員の注意を無視して紙テープが乱舞していた。

(不二巻玄造は立ち会わないのか? さしずめ、司令室でモニターでも眺めているんだろう…)

東京ドーム同様、幕張メッセは巨大な“密室”だった。しかも、この閉ざされた空間は、悪事を働くにはすこぶる都合がよかった。多目的ホールとしての本来の役割から完全に逸脱した、恐るべき仕掛けが施されているに違いない。しかし、池上の覚悟は揺るがなかった。

ふと見ると、ミキ・蒲田サイドにまたしても奇妙な儀式が勃発した。それまで太刀持ちとして控えていた織田染之進がミキ・蒲田の前に片膝をつき、烏帽子の頭を深々と下げる。高く差し上げられた彼の両手にはビリヤードキューのケースが乗っている。言うまでもなく、そのケースの中にはミキ・蒲田のプライベートキュー「法螺不帰丸」が眠っている。鎌倉時代の名人刀鍛冶・織田正宗の血を引く織田染之進が精根込めた、いわば血統書付きのプライベートキューである。世界の列強がことごとく、この法螺不帰丸の前に敗れ去っている。

ミキ・蒲田は今、その法螺不帰丸を幕張メッセで目覚めさせようとしている。織田染之進の掌に捧げ上げられたケースに自らも両手をかざすと、呪文とも祝詞ともつかない摩訶不思議な言葉を、口辺に泡しながら唱える様は一種神秘的ですらあった。ミキ・蒲田はゆっくりとケースの蓋を開き、赤ん坊を抱くような手つきで法螺不帰丸を取り出し、十分にその感触を確かめた。そして、今度はビュンビュンと風切る音も凄まじく薙刀のように振り回し、最後に長い息を吐き出した。

彼はその殺陣師の意合斬りを思わせる一連の動作に、池上への威圧とチャンピオンとしての威信を漲らせていた。相当の稽古を積んだに違いない。池上健史は相変らず疲労し切った冴えない顔でミキ・蒲田の儀式を見守っていた。始終、無表情を貫き、何かにとり憑かれたように虚ろな目は、逆に期するものの大きさを物語っていた。

 やがて、日の丸が掲揚され、アナウンサーが大観衆に起立を促す。国歌「君が代」の斉唱に場は厳粛な空気に支配され、日の丸を仰ぐ両チャンピオン、統一戦ならではの風物詩に人々は陶酔する。そして、その余韻を破るかの様に、大決戦の始まりを告げるゴングが打ち鳴らされた。



Episode―4 発想

久々に会う辰也と瀧沢は、ファミレスのテーブル越しに座っていた。

「この間、会社のボウリング大会があってさ、東京タワーの近くに行ったんだ」

「ほう、で、どうだったの?」

 「自慢するわけじゃないけど、優勝しちゃったよ! 一ノ瀬君!」

瀧沢雄太のこんないきいきとした顔を見るのは久しぶりだった。彼は生きているのがやっとといった風情で、身だしなみにも頓着がない。年中よれよれの背広やコートは、どこか金田一耕助をイメージさせる。白くやつれたようなこの男の、どこにあのようなパワーがあるのか? 辰也には未だに不思議でならなかった。

 「何が優勝しちゃったよ…だ、気持ち悪いよ。でもやるね。自慢していいよ」

「まあ、ボウリングじゃ、誰かさんにゃ到底かなわないけど」

「よくわかってるじゃん」

辰也は腕組みをし、ふんぞり返る真似をしてみせた。

「ちぇっ。結局、この言葉を言っちゃうんだな、俺は。ところで、例のスポーツヒルズ東京の話、あれから何か閃いたか?」

「ああ、閃いたとも。俺たちが主役の座に踊り出る番だ」

辰也の目つきが変わった。

「主役の座って?」

「ま、これを読めばわかるよ」

「大衆複合球技、バトルボール?」

「そう。おまえに借りた、ロマン堂さんの小説を大いに参考にした。プラス、スクールでのこども達とのふれあいってやつかな、その辺をヒントにして思いついたんだ」

 ホッチキスで無造作に留められた、二枚の紙には次のような文章が綴られていた。


大衆複合球技 ~バトルボール~

発想の原点

10年ほど前、私と仲間三人は、2泊3日の予定で箱根旅行に出かけました。宿泊する保養所には全天候型のテニスコートが2面完備しており、建物内には温泉宿によくある遊戯室の中に、卓球台も用意されていました。また、保養所に隣接してゴルフコースも拡がっていました。これらの施設を使ってある計画を実現させるのが、この休暇中の最終目標でした。

その計画とはゴルフ、テニス、卓球を行ない、それぞれの勝ち点合計で最高点を獲得した者が優勝者するという、小さなスポーツイベントでした。得意とするスポーツが違っていた四人の「スポーツの接点」だったわけです。しかし、結局は全員が勝ち点同点となり、引き分けに終わりました。この時の経験から思いついたのが、バトルボールというゲームです。ゴルフ、テニス、卓球に、ボウリングとビリヤードを競技種目として加え、内容の充実を図りました。


複合スポーツの提案(解説)

古くから、陸上競技界では多くの混成競技が行なわれており、「男子十種」や「女子七種」はオリンピックの正式種目にもなっています。また、スキーでは「ノルディック複合」といったスポーツがあり、最近ではアイアンマンレースと呼ばれる「トライアスロン」が盛んです。しかし、これらの混成・複合競技は、いずれも競技者を限定する傾向にあり、極めて非一般的です。一般大衆には受け容れにくい側面が存在します。

一般大衆が参加するためには、「レジャー」というキーワードが不可欠です。レジャーの意味は娯楽であり、スポーツならば「楽しむ」要素が大切です。しかし、たとえ気の合う仲間同志でも、好きなスポーツが違っていたりします。「楽しむ」スポーツではあっても、スポーツである以上、スポーツマンは勝負にこだわります。そこで、どの競技を選択するかに仲間同志に意識のずれが生じるのです。仲間同志でも勝負にこだわる場所が欲しい。こういった観点に立って、しかも、「みんなで楽しむ」ためには、複合種目で勝ち点を競うスポーツが最適であると考えます。

ここで、みんなで楽しむ複合スポーツの「要件」を、あらためて整理してみます。


・大衆に親しまれていること。

・手軽にできること。

・競技人口が多いこと。

・個人戦が可能であること。

・比較的近隣の施設で行なえること。


以上の要件から、球技が最適であると考えました。そして、各要件を満たすものとして、やはり、ゴルフ、テニス、卓球、ボウリング、ビリヤードの5つの球技が導き出されます。      

この5つの球技を結びつける事によって、誰でもが「勝利者」になりうる可能性が生まれます。仲間同志がお互いの得意とする競技を、一つの「種目」と捉える事によって、全員の連帯感が保たれます。特定の競技に対して誰かが常に抱いていた、無意味とも言えるコンプレックスが解消されます。


「なるほど、宇津木俊介会長のスポーツウォーズだな!」

「よくわかったね。ただ、小説に出てくるスポーツウォーズってえのは、こんなもんじゃないだろうがな…」

「なかなか、いい企画だと思うけど、もうちょっと何か欲しいな」

「何かって?」

「そんな事、俺に聞いたってわかんないよ!」

「なんだよ、それ。でも、きっとそう言われると思ってた。これじゃ、まだ企画書とは呼べないし。兄さんに相談してみようと思うんだ。きっと、いい知恵を貸してくれそうな気がするんだ」

「俺もその方がいいと思うよ。あの兄さん、頼りになりそうだからな。ところで、これからいっちょどうだ?」

「いっちょって、何?」

「ボウリング!」

瀧沢は投球フォームをして見せた。

「優勝者の勢いってか」

「そういうこと」

「じゃあ、受けて立つか。俺はスペシャルクラウンでいくわ」

「おっ、第2部ボウリング編だな。なんだ、一番いいの先に言われたな。うーん、弱ったな。よしっ、じゃ俺はタイトルハンターで我慢するよ」

ふたりはオールナイト営業の「新宿マッドボウル」に車を飛ばした。

「BB讃歌に出てくる、池上健史とジョー・真理谷、どっちが凄いと思う?」

ハンドルを握る瀧沢が、不意にそう言った。

「そりゃ池上じゃない!? ジョー・真理谷に関してはそもそも情報量が足りないよ。でも、凄いよな。5000ゲームやってアベレージが275なんだろ? 普通の人間じゃない事だけは確かだな」

「まったく。話変わるけど、池上健史の人物描写が一切ないのに気づいたか?」

「言われてみれば、そんな気が。なんでだろうな?」

「俺はこう推理するんだ。あれだけの英雄だから、なんか書いちゃうとその途端、俗っぽくなってしまう。そこで、作者は敢えて読者の想像に任せたんじゃないかと」

「いいとこ突いてんじゃないか、うん。そう言えば、ジョー・真理谷も」

「そうだな。やっぱ、第2部の主人公だからだよ。世界最強の座に登りつめたボウリング王なんて、どう描いたらいいかわかんないよ、実際」

「なに、真剣に言ってんだよ」

「でもさ、ジョー・真理谷の本当の野望って、Vフェニックスかキングオブボウルか、それともスポーツウォーズ制覇か、一体どれなんだろうな?」

「瀧沢、おまえ感情移入し過ぎだろ、それ」

 だが、辰也も絶筆に終わっている『BB讃歌』第2部の展開には興味があった。廃墟の描写から始まる第1章、その廃墟で育ったジョー・真理谷の底知れぬ寂寥感。池上を応援していた彼の明るさとは一線を画している。スペシャルクラウンの名を借りる辰也は、瀧沢以上に『BB讃歌』の作品世界に感情移入していたのかもしれない。

 「一ノ瀬、もうすぐ第2部ボウリング編が始まるぞ」

 だから、瀧沢のこの言葉が冗談とわかるまで、かなりの間があった。明け方まで打ち興じたボウリング。完璧なストライクを決めるたびに、辰也は世界最強の幻想に酔った。そして、闘志を呼び覚ますためには、瀧沢と過ごす時間が必要だと、あらためて感じた。



BB讃歌

第11章 史上最大の決戦【前編】

1.パーフェクトゲームショー

第1戦 ○蒲田―池上●  幕張メッセ(国際展示場) ※〇勝ち ●負け

第2戦 ○蒲田―池上● 幕張メッセ(国際展示場)


ミキ・蒲田はゴング早々恐るべき豹変を遂げ、池上に向かって豪語する。般若の面を取り去ったその形相は、なまはげのように物凄く、詰めかけた観客を震え上がらせた。

「手加減せんぞ! 俺はスゴウデスキーや四ッ谷の爺さんのようにはいかん。この幕張メッセが貴様の墓場だ。さあ、葬送行進曲の始まりだ!」

葬送行進曲の始まり……ミキ・蒲田の言い放った言葉どおり、それはもはや、私達の考えるローテーションゲームではなかった。まるで大昔の拷問を見ているようであった。先制こそしたものの疲労の極にあった池上は、その後、素人顔負けのミスショットを連発した。たまりかねた観客からは雨の様な野次が飛ぶ。まるで夢遊病者のように立っているのがやっとといった池上の様子に、女マネージャーは思わず顔を覆う。

 「先生、しっかりー!!」

 彼女のこの懸命の声援を嘲笑うかのように、ミキ・蒲田は全くのワンサイドで池上を痛ぶり、セミパーフェクトの完勝を収めた。

 「なんだ、この試合は? 簡単に終ったぞ。素人のゲームじゃねえか、馬鹿馬鹿しい!」

 国際展示場のあちこちでこんな会話が交わされていた。池上は試合中、誰もが唖然とする体たらくで、新旧GBRC統一戦の名を汚し、帝王の名に泥を塗るミスショットに終始した。

 「金返せ、いい加減にしやがれ!」

 神聖なビリヤード台に心ない観客から物が投げ込まれ、池上の体にもそれらは容赦なくぶつけられた。だが、彼はその痛みを感じないほど疲れていた。いや、もはや単なる疲れではなかったに違いない。

「はっはっはっ、我々不二巻建設の力を思い知ったか!」

 ミキ・蒲田の勝ち誇ったような罵声に対して、何の反応も示さず立ち尽くす池上。これほどまでに彼が無力に見えたのは初めてだった。その姿はあたかもボロ布を身にまとい、ナザレの町をさまようキリストのようであった。そして、彼は新旧GBRC第2戦でミキ・蒲田に屈辱のパーフェクトゲームを喫し、ついにゴルゴダの十字架にかけられてしまった。

だが、この時、国際展示場ではすでに、池上の息の根を止める恐るべき化学兵器・CGコラージュを作り出す準備が着々と進行していた。二種類の怪しい霧が充満し始め、館内が飽和状態に達した時、その時こそ池上健史の最期である!


2. 危険なギャンブル

第3戦 ○池上―蒲田●  幕張メッセ(国際展示場)


 第1戦、第2戦と池上健史は霞む目にミキ・蒲田の映像を焼き付け、澱んだ思考回路をフル回転してその手の内を分析していた。彼に関するデータはほとんどない。唯一、紺野青年の証言だけが頼りだったが、それも古く、やはり、実戦を分析するしかない。彼は国際展示場に怪しい霧の不快を感じながら、敢えてそれにも順応しようと努めた。攻撃を受け続け、必ずある相手の弱点を探り出す。しかし、タイミングを逸すれば命とりだ。

少なくとも2ゲームまでのデータから攻略法を構築しなければならない。普通の相手ならば先手必勝が鉄則だが、無法者退治にこの鉄則をあてはめることはできない。ミキ・蒲田が相手では、少なくとも3ゲームを落とす覚悟で情報を収集しなければならない。しかし、それはあまりにも危険であった。今回の連敗は作戦のためばかりではなく、やはり集中力の低下にも起因する。

これ以上取りこぼすような事があっては、相手の罠になす術もなく玉砕してしまうだろう。まだ、ミキ・蒲田の作戦に関するデータは皆無に等しかった。肉を切らせて骨を断つ…この戦法以外に攻略の道は残されていないだろう。 

池上健史の疲れ切ったコンピュータはミキ・蒲田の楽勝ムードを破壊し、真剣勝負を仕掛けるのがこの第3戦であると結論付けた。彼はミキ・蒲田の油断を誘うと、ここぞとばかりにたたみかけていった。大観衆がざわめき、ミキ・蒲田の鉄面皮が驚愕に歪む!

 (な、なんということだ! 奴のどこにこれほどのエネルギーが残っていたと?……)

 「死んだふり」の池上健史がそのベールを脱いだ。ミキ・蒲田は己が豪語した通り、幕張メッセで決着をつけるため、一戦たりとも落とせない。そう思ったに違いない。しかし、池上はミキ・蒲田の表情から確信した。第4戦にミキ・蒲田が不二巻建設得意の化学兵器を繰り出すであろうことを。事実、彼のこの確信は現実となり、池上は三度目の苦杯をなめることになる。

 この3戦目に池上がせり勝った瞬間のことであった。鉄道管制レーダーが不気味な影を捉えたのは……。しかし、その影がこの世紀のイベントと結びつき、あのような「怪事」を巻き起こそうなどと、誰がこの時想像し得たであろうか?


3. 怪奇!CGコラージュ

第4戦 ○蒲田―池上●  幕張メッセ(国際展示場)


 池上がそれと悟った時は、もうミキ・蒲田の術中にはまっていた。

(こ、これは辰巳が…使いこなせなかったCGコラージュの別バージョンか?! し、しかし、時空断裂ガスは一体どこから?…おのれ!)

CGコラージュは噂に聞いていたより遥かに恐ろしかった。本来、ポケットビリヤードに用いられるボールの直径は57ミリ、重さは180グラム前後である。プレイヤーなら、いや、初めてキューを握る初心者にもその質感からおおよその見当はつく。ビリヤードに限らず、私達はスポーツにおいて視覚を最大の拠り所として身体の動きを制御する。ひとたび視覚が麻痺すれば、もう動けなくなってしまうだろう。CGコラージュは池上から視覚を奪い去ったのだ。

テーブルのボールははっきり見えているにも関わらず、その大きさが異様なのである。すぐ眼下のボールがゴルフボール大なのに比べ、向こう側のボールがバレーボ-ル大に見える。ポッカリ口をあけたポケットの数倍は大きく、とてもポケットインできる大きさには見えない。

(これは全て、錯覚なんだ!……)

いくら心の中で唱えてみても、不二巻建設が社運を託した最終兵器の眩感には抗し難い。国際展示場そのものが歪んで見える。大鉄骨架構は飴のようにグニャグニャとねじ曲がり、円形の柱がかげろうのようにユラユラと揺れている。ミキ・蒲田のプライベートキュー・法螺不帰丸がまるで如意棒のように長く伸びている。

第3戦によもやの星を落としたミキ・蒲田の総力戦であった。だが、池上健史はこの時を待っていた。何処かにCGコラージュ攻略の糸口があるに違いない。それを探り出すために、敢えてその中に身を投じたのだ。そのために、この第4戦はミキ・蒲田に半ば「献上」したに等しい。この時点で星勘定は1勝3敗、これから先、何が待ち構えているのか知る術はないが、今は罠に墮ちながらじっと耐えるしかない。

 「どうだ、思い知ったか? 我らの実力を! 貴様のビリヤード生命ももはや風前の灯。イベントホールで散ってもらおう! はっはっはっ」

 ミキ・蒲田の自信に満ち溢れた言葉は、勝者の奢りに満ちていた。だが、池上はこの嘲笑の前に返す言葉もない。誰もが池上神話崩壊を肌で感じ取っていた。これが“リアルワールドチャンピオンシップ”を唱え続けてきた男の末路か? この男が果たして池上健史その人なのかどうかも、その信憑性が疑われる。世界中が途方に暮れ、新旧GBRC統一戦に寄せる熱き思いも早急に冷めていった。


4. 廃線鉄道の残党

第5戦 □池上―蒲田□  幕張メッセ(イベントホール) ※□(没収試合(引き分け))


 国際展示場での4戦を終え控室に帰ってきた池上・蒲田の両選手は、東西に分かれて30分間のインターバルをとる。女マネージャー・庄司香織は池上の顔を見ると、開口一番切なげに訴えた。

「先生、大丈夫ですか!? ミキ・蒲田サイドはお祭り騒ぎです。決着はもうついたなんて言ってます。私、何がなんだかわからなくて……先生、なんとかおっしゃって下さい!」

 女マネージャーの声は今にも泣き出しそうに語尾が震える。彼女にとってこれほどまでに打ちのめされ、追い込まれた池上を見るのは初めてだった。

 「香織君、それよりプロジェクトの方はどうなっている?」

 池上は女マネージャーの心配をよそに、首筋をさすりながら平然としている。

「順調ですよ。でも先生、何を呑気な事言ってるんですか! こんな深刻で切羽詰った時に」

 「おいおい、それじゃまるで僕が負けてしまうみたいじゃないか?」

 「いくら私だって意気消沈です。どう考えたって先生がここから逆転できるなんて…」

 「はっはっ、随分厳しいな」

 「だって……」

 「君には悲しい顔より笑顔が似合う。君の笑顔を取り戻すためにもいっちょう頑張るとするか!」

 「もうっ、真面目にやって下さい! ビリヤード界の運命がかかっているんですから!」

「わ、わかりましたよ」

 「先生、私が愛情込めて作ったスペシャルドリンクを飲んで、早く元気を出して下さい。もうあとがないんだから」

女マネージャーはそう言うと、ポットからコップに野菜ジュースのようなものを注いだ。

「先生がこの統一戦に勝ってもらわなくちゃ、例のプロジェクトは始まりませんよ。私の苦労話

もそれからにさせてもらいます」

 「これは一本取られたな、はっはっ。じゃあ、君の苦労話とやらを無にしないように、せいぜい発奮させてもらおう」

 池上健史はジュースを一気に飲み干すと、両腕を大きく拡げて深呼吸をひとつする。この時、ドアにノックがあった。SWOの宇津木会長であった。

 「ちょうどよかった、会長からもなんとかおっしゃって下さい。私からいくら言ってもダメなんです」

 「うん、私も心配だ。池上君、君は前夜祭の戦いで相当疲れていたはずだ。それに引きかえミキ・蒲田は余裕満々だ。幕張メッセにはこの先、何があるか判らん。私自身は君に限ってと、そう思っているが…」

 宇津木会長にとっても恐らく、国際展示場での光景は胃に穴のあくほど直視し難きものであったに違いない。彼が心血を注ぐスポーツウォーズもまた、池上の新旧GBRC統一なくしては始まらないのだ。

 「ご心配かけて申し訳ありません。しかし、ミキ・蒲田は彼に有利な条件を差し引いたとしても、間違いなく最強の相手です。私が敗れた事を疲れのせいだと言えば、言い訳になります。ただ、国際展示場で私は私なりのヒントを探り当てたつもりです。それが吉と出るか凶と出るか、やってみなければわかりませんが……」

 宇津木会長は池上健史の目に漲る、ある種の勝負師魂を見て取り、ゆっくりと頷いてみせた。

「マネージャー、どうやら心配無用だ。インターバルはあと10分しかない。私は一足先にイベントホールに向かうが、君はせいぜい主役の心を和ませてやって下さい」

 そう言って立ち去る宇津木会長の顔は晴ればれとしていた。彼は池上を誰よりも信じている。事実、第5戦の池上はその言葉通り、まるで別人であるかのように化学兵器の魔手をものともせず、ミキ・蒲田を崖っぷちに追い込んでいった。

 なんと、彼は一旦キューボールの憧点を見定めると目を閉じた。そして、異様な大きさに見えたオブジェクトボールの残像からラインを割り出し、迷うことなくキューを突き出した。入るはずのない巨大なボールが、小さなポケットに面白いように落ちていく。その狙いは実に100パーセントの的中率だった。彼はCGコラージュの眩惑に屈する事なく、ひたすらビリヤードの力学を、物理の法則を信じたのだ。

 この第5戦は完全に池上のペースが戻り、「CGコラージュ、破れたり!」を人々に印象づけるには十分だった。だが、あと一歩で池上が勝利を収めるという、実にその瞬間の事であった! はるか30メートル頭上の大鉄骨架構から、突如館内を揺るがす人声が木霊したかと思うと、ビュッと風を切る音と共に一本の大きな矢が放たれ、テーブルのサイドレールに突き刺った。見ると、それはグリップに龍の彫り物を施した、紛れもない卓球のラケットだった。

 「その勝負待ったぁ!! 世紀のスポーツイベントと知っての狼藉はご容赦願おう。だがしかし、この巧と戦わずしてスポーツ王決定とはなんたる暴挙、断じて許し難し!」

 その大天井の怪人物は一気にまくしたてた後、ムチのような物を素早く鉄骨に巻き付けると、ターザンさながらの動作で次第に低い位置に飛び移りながら、呆然とする池上健史とミキ・蒲田の鼻先にその怪奇な姿を現わした。“指差し歓呼”のポーズで静止した手には白い手袋がはめられ、鉄道員の帽子を目深にかぶっている。注意して見ると、今では廃線となっているはずのさいはて荒野鉄道の駅員帽ではないか! しかも、怪人物が身にまとっているのは、なんと中国人の人民服だった!

「き、きさまー、こう、巧、品本コウピンポンだな!?」

 ミキ・蒲田が目に憎悪の光を湛えながら、こう叫ぶのに池上はハッと我にかえり、9000人の大観衆は水を打ったように静まりかえる。

 「その通りだ! 私の名は巧品本。私の挑戦を受けていただこう!」

もう間違いない。鉄道管制レーダーが捉えた不気味な影、そして忽然と幕張イベントホールに現われたこの怪人物こそ、謎の中国人卓球プレイヤー・巧品本であった。彼は1975年頃、この日のように彗星の如く中国の卓球界にデビューするや、一躍「超人的卓球夫」にのぼりつめ、以来、中国では並ぶ者なき天才プレイヤーの名をほしいままにしていたが、彼の素性、経歴は闇に包まれたまま、今もなお明らかにされていない。ただ、その駅員帽だけが彼の正体を探る上で唯一の手掛かりになると言われていた。

 やがて、彼は中国でも屈指の大雑技団の団長として迎えられ、今日の地位を不動のものとした。巧品本の名は池上の耳にも入っていたが、その実力のほどは彼にも未知数であった。大胆不敵にも世紀の一戦へ道場破りを敢行するあたり、相当の達人と見て先ず間違いあるまい。

 「今世紀最大の番外戦か? 面白い、受けて立ってやる! ピンポンも悪くない」

 巧品本の挑戦を受諾したミキ・蒲田は、己の劣勢を棚に上げ池上を完全無視し、第5戦の“没収試合”扱いに望みを託そうと懸命だった。

 「汚ねえぞ、蒲田! てめえ、統一戦をなんだと思ってんだ、この野郎!!」

 大観衆の罵声に聞こえないフリを決め込み、ミキ・蒲田はヌケヌケと巧品本への臨戦態勢を固める。こうして、このべらぼうな野放図は新旧GBRC特別連合コミッショナーも手をこまねく中、巧の思い通り事が運び、彼が持参した卓球台でスポーツ倫理ぶち壊しの対戦が実現してしまった。

 だが、数分と過たぬ内に、巧品本は象に踏み潰された哀れな虫けらと化していた。不二巻建設の恐ろしさを知らぬ巧はCGコラージュの餌食となり果て、発狂寸前になりながら、なにやらうわごとのように叫び始めた。

 「さいはて荒野鉄道を返せ! 働く場を……返せ!」

 その声は背筋の冷たくなるような痛切さに満ち、遠い過去を呪うかのような響きを帯びている。当の巧品本はその間中ずっと無意識だった。さいはて荒野鉄道――それは、沿線の過疎化によって廃止されたローカル鉄道である。なぜ、この名が巧品本の口から洩れるのか? しかも、さいはて荒野鉄道と言えば、多くの鉄道ファンを悲しませた世にも不幸な特急「疾風号」の大脱線事故で有名である。

そして、この時、殉職した若き運転手の骨は、今もなお、疾風号を呑み込んだ谷底から拾い上げられていない。その後、幾度となく彼の捜索は行なわれたが、不思議な事にとうとうその遺体は発見されずじまいになっている。そして、巧品本という風変わりな名前の意味は? それでは…もしや? と、かつての大惨事と巧品本のうわごとを結びつける事に、ようやく私たちが思い至った時、観客席の一隅から期せずして頓狂な叫び声が起こった。

 「お、叔父さん!! 徹道叔父さん!!」

 それは観客のひとりで、がっしりした体格の青年であった。彼は座席から身を乗り出すようにして、巧品本に呼びかけているのだ。一瞬、それまで跳びはねていた巧はハッとばかりに立ち止り、まじまじと青年の顔をのぞき込む。錆ついた記憶をたぐり寄せるような表情をつくっていたが、やがてはじかれたように叫んだ。

 「ゆたか…豊か!? そうだ叔父さんだ! いつかおまえを疾風号に乗せてやると約束した徹道叔父さんだよ!! よく覚えていてくれたな。し、しかし済まない。もう私はお前を疾風号に乗せてやることはできない。疾風号はもうないし、私の再就職も叶わなかった。何度も鉄道清算事業団へ足を運んだが、全く取り合ってもらえなかった。ここはそんな甘い所ではないの一点張りだった! 私には一体なんのことか……」

 頬をつたう涙をぬぐおうともせず立ち尽くす巧品本は、観客席から思わず走り寄る甥をしっかりと抱きしめながら、一言一言搾り出すようにやっとそれだけ言うことができた。おお、なんという運命のいたずら! なんという「それは秘密です」! あの百戦練磨の桂小金治すら、かつて見たことのない衝撃的な再会であった。もう間違いない。疾風号大脱線事故で死んだものと信じられていた田淵徹道運転手こそ、謎の中国人卓球プレイヤー・巧品本の正体だったのだ! 

彼は記憶喪失となり中国に流れ着くと、放浪の旅の末に第二の人生を着実に歩んでいたのだが、自らの意志に反する望郷の念は、彼に再び日本の土を踏めと命じた。やがて、記憶の一部を取り戻した彼は、元の鉄道マンとして新たなスタートを切ろうと決意した。しかし、その前にどうしても成し遂げなければならないのは、日本の卓球界への挑戦だった。

グアム島から横井庄一元二等兵が、はたまた、ルバング島から小野田寛郎元少尉が日本国民にあたたかく見守られながら帰還してきたように、巧もまたセンセーショナルな帰還を果たそうとした。ところが、廃線処理にあたっていた鉄道清算事業団の、巧に対する仕打ちは筆舌に尽し難いものであった。仮面ライダーの敵組織・ブラック将軍率いるゲルショッカーが、不要となったショッカーの戦闘員を問答無用と処刑したように、事業団は巧の、いや田淵徹道運転手の訴えを全て退け、彼を“さいはて荒野鉄道の残党”として闇から闇へ葬り去ろうとしたのである。

 やけになった田淵が、日本の卓球界に紳士的な挑戦を試みるなどは、もはや、まどろっこしい手段であった。結果的にそれはミキ・蒲田の窮地を救うことになってしまった。新旧GBRC特別連合コミッショナーがミキ・蒲田の思惑通り、この第5戦に前代未聞の“没収試合”の裁定を下したのである。

 「池上さん、済まない! 私のせいでとんだことになってしまって……」

 田淵徹道の心中は複雑であった。

 「なあに、構うことはない。それよりあなた方がこうして再会できたことを心より祝福します。これからは力を合わせて生きていって下さい」

 慈愛に満ちた池上の言葉に、田淵は感謝してもし切れない。

 「ありがとうございます!」

 青年も深々と頭を下げる。

 「礼なんていりません。そんなことより君は先ず、叔父さんの再就職に尽力してあげた方がいい。私もできるだけのことはさせてもらいます」

 「わかりました。池上さんも必ず帝国ビラードに来て下さい。信じています!」

 青年の言葉に池上は力強く頷いた。第5戦に没収試合の裁定が下ったことによって、池上とミキ・蒲田にはそれぞれ勝ち星がつく。これで星勘定は池上の2勝4敗となる。幕張イベントホールで残る2戦に池上が連敗すれば、8~10戦目の帝国ビラード対決はなくなり、ミキ・蒲田の新旧GBRC統一が決まる。池上が首尾よく連勝してやっと五分に持ち込めるのだ。とにかく、統一戦の舞台を帝国ビラードに移すためには、あと星一つものにしなければならない。

ミキ・蒲田の必殺化学兵器・CGコラージュは、池上健史の理詰めのビリヤード力学の前に木端微塵と砕け散った。しかし、ミキ・蒲田の恐るべき機転に私達はむしろ敬服すべきなのかも知れない。巧品本の乱入を見事に利用すると、その巧を一蹴し、即席と酷評される特別連合コミッショナーの目を撹乱した。あたかも統一戦を優勢に進めていたかのような印象を植えつけ、老獪にも没収試合に持ち込むあたりはさすがである。池上をして最強の相手と言わしめる所以であろう。

だが、6戦目以降にそんなハプニングを期待することはできない。CGコラージュが敗れ去った以上、誰の目にも勝負あったかに見える。「第6戦」と書かれたプラカードを持ってビリヤードテーブルを一周するバニーガールも、池上に微笑みかける。断崖絶壁に立たされたミキ・蒲田は、帝国ビラードで地獄に墮ちると誰もが考えた。

ところがどうだ、焦りにさいなまれているはずの彼の表情は、眉根ひとつ曇らず平静を保っているではないか!? それに対し、池上の顔は依然として険しいままだ。この両者のコントラストが意味するものはなんなのか? 張り詰めた緊張感のうちに第6戦のゴングは打ち鳴らされた。

これは余談になるが、この幕張での大一番をスポーツウォーズと勘違いし、颯爽と殴り込み、いや飛び入りを敢行しようとした男は巧品本一人ではなかった。しかし、悲しい事にその男は幕張メッセへの道順がわからず、迷子として最寄りの派出所に保護されてしまう。ゴルフ界の困ったちゃんこと、シャー・ナイ・ヤッチャナが重いフルセットを担いで目的地に到着した頃には、すべてが終わっていた。



BB讃歌

第12章 史上最大の決戦【後編】

1. 幽玄!異次元オペラ

第6戦 ○蒲田―池上●  幕張メッセ(イベントホール)


 九死に一生を得たミキ・蒲田は傍らに雇われ工作員・川崎を呼び寄せると、何やら指令を与える。その川崎の目配せによって集まった帝国ビラードのおばちゃん達が、ミキ・蒲田の腕や肩を揉みほぐしお茶を入れる。フーフー吹きながらすするミキ・蒲田の表情は湯気に隠れて見えないが、右手に握りしめられた法螺不帰丸のグリップには汗が滲んでいる。彼はある重大な決意を持って、これからのゲームに臨もうとしているのだ。事実、第6戦立ち上がりの彼は、彼本来のテクニックをいかんなく発揮する、いわば、正統派ストロングスタイルで池上を翻弄した。面喰う池上にとって、むしろ、それはCGコラージュ以上の脅威だったのかも知れない。

だが、ストロングスタイルこそはビリヤードの神随。その神随を極めたハスラーは、やはり、池上を置いて他にはいない。池上の本当の凄味は、その“基礎”の上層に築かれた破邪魂にある。あっという間に逆転すると、またしてもゲームを決めんとしたその瞬間、イベントホール9000人の大観衆は世にも不思議な蜃気楼に遭遇し、慄然として言葉を失った。

 川崎が不二巻建設のロゴを染めぬいた旗を、チェッカーフラッグのように振り回した。それが合図だったのか、ビリヤードテーブルの四隅を遠巻きに固めていた帝国ビラードのおばちゃん達が一斉に「ソーレ!」とかけ声をかけ、両手を万歳の恰好で頭上高く差し上げた。すると、何処からともなく妖艶なクラシック音楽が流れ、大観衆の眼前に忽然とファンタジックな舞台装置が出現した。やがて、眠れる森の美女を演じる十数人の麗人が所狭しと踊り回る。彼らは手に手にビリヤードのオブジェクトボールを持っている。ふと見ると、池上優位の第6戦のテーブルがからっぽになっているではないか!?

三次元の現実に四次元の幻影が渾然と融合している!! 想像を絶する魔法の国から遣わされた化学兵器「異次元オペラ」であった。彼らこそ禁断の果実の妖精なのだ! それを見た途端、イベントホールを埋めた大観衆は震え慄き、ある者は気絶し、ある者は卒倒し、またある者は発狂した。さしもの池上も、この異様な光景にパーフェクトブレイクを取り落とす。あとは異次元オペラを指揮するミキ・蒲田の独壇場であった。池上の考えた通り、ミキ・蒲田の必殺武器はCGコラージュだけではなかった。

しかも、ミキ・蒲田はその切り札の持って行きどころに抜群の妙を発揮した。相手に研究する隙を与えず正統派の戦術でゲームを引っ張り、ここぞという時にあっと言わせる策に転じる。推理小説なら、さしずめ、最後の最後に待っている大どんでん返しだ。わけもなく再逆転すると、濡れ手で粟の勝ち星を強奪した。

 星勘定はこれでミキ・蒲田の5勝2敗となり、遂に彼は新旧GBRC統一の悲願に王手をかけた。ミキ・蒲田サイドは勝利を確信し、ハチの巣をつついたように湧き返っている。雇われ工作員・川崎は応援団長よろしく先頭に立つと、異次元オペラの引き金を引いた旗を片手に大はしゃぎだ。その馬鹿騒ぎぶりを見るに見兼ねた観客が、川崎の顔面めがけてナマ卵を投げつけた。怒った川崎が顔面を黄味だらけにしながら客席になだれこむ一幕もあったが、警備員の制止によって事なきを得ている。彼は警備員に悪態をつきわめきちらしていたが、意外にもすぐにおとなしくなった。ミキ・蒲田が新旧GBRC統一に王手をかけたことで気分は上々だったのだ。

ミキ・蒲田も己の勝利を確信し、その表情が余裕綽々とほころぶ。一方、池上は極度の疲労を実戦で癒しながら、ここまでの修羅場をくぐり抜けて来たが、ミキ・蒲田の超次元殺法の前にはなす術もなく、一転、迫り来る敗北を待つだけの身となってしまった。

 異次元オペラは恐るべき技だった。禁断の果実の妖精達が手にするボールは、実はちゃんとテーブルの上に乗っているのだ。それでいてテーブルはからっぽなのである。このパラドックスはアインシュタインの相対性理論を持ってしても解けまい。CGコラージュに通用したビリヤード力学など異次元オペラの前では砂上の楼閣にも等しかった。

しかし、池上は全てを承知の上でこの茨の道を選んだ。むしろ、それは誰の目にも敗北を前提とした選択としか映らなかった。もう、何も思い残してはならないのかも知れない。たとえ、統一戦に敗れても、池上健史は変わらぬ英雄であり続けるだろう。女マネージャー・庄司香織は込み上げる嗚咽を懸命にこらえながら、池上と共に歩んでこれた幸福に感謝した。また、自己の半生を賭け、スポーツウォーズの夢を追い続けた宇津木俊介も、目の前で敗れ去っていく池上健史に、惜しみない拍手を送っている。その他、池上をとりまく全ての人々、全世界の多くのファンもきっと彼の健闘を讃えていることだろう。  

遂に実現しなかったが、新旧GBRC統一という夢を見せてくれた池上の雄姿は、まぶたに焼きついたまま、永遠に生き続けるだろう。ありがとう、われらのヒーロー!!


2.虚しき連勝

第7戦 ○池上―蒲田●  幕張メッセ(イベントホール)

第8戦 ○池上―蒲田● 帝国ビラード


 大決戦を帝国ビラード対決どころか、イベントホールでの第7戦を待たずにミキ・蒲田が事実上制した時、ビリヤードの覇権は不二巻建設の手に落ちた。それは同時に、長い長い歴史に育まれたGBRCの終焉に他ならなかった。池上が生涯提唱し続けた“リアルワールドチャンピオンシップ”は夢と潰え、私達の希望の灯は完全に消え去った。そして、第7戦の冷めたゴングが打ち鳴らされんとする寸前、息せき切ってホールに飛び込んできたのは、池上の大学時代の友人、フランチェスコであった。

 「グッドタイミングだ! 間に合ったぜ。イケガミ、これを早く飲んでみて」

 フランチェスコが池上に手渡したものは、何の変哲もない錠剤の様なものであった。池上はかたじけないといった表情でそれを口に投げ入れた。実に短い幕間のやりとりだったが、この直後に起こった事が奇跡でないならば、もはや、この世に奇跡など存在しないと言っても過言ではあるまい。

なんと、異次元オペラに引導を渡されたはずの池上が復活したのである。彼がボールのないテーブルにパーフェクトブレイクを突き出すと、ボールとボールのぶつかり合う音が響くではないか! 池上の目には、四次元に連れ去られた三次元の現実がはっきりと見えているのである。死の淵からの生還であった。絶体絶命の第7戦を破邪魂の池上が、ミキ・蒲田からもぎ取ったのである!

それから、3日後…。大阪の街は、万国博覧会以来の熱気に包まれていた。統一戦の舞台は、大阪のメッカ・帝国ビラードに移された。収容人員2万人のメッカには、100台を超えるビリヤードテーブルがすり鉢状に配置されている。統一戦のために新調された特別なビリヤードテーブルが、すり鉢最下部の谷底に鎮座していた。

疲れ果て異次元オペラに叩きのめされた池上が、土壇場で奇跡を起こしここまで来た……それだけで私達の胸は感動に塞がれる。幕張メッセ決戦を3勝5敗で終えた池上が統一戦を制するには、この“不二巻建設の総本山”で3連勝するしかない。だが、どう考えてもそれは不可能だった。これまでの状況に鑑みて、池上の勝機は0.1%もなかった。ところがである! いざ蓋を開けてみると全く別人のような池上が、辛勝ながらも帝国ビラードでの初戦、通算8戦目をものにしたのである! 恐るべき破邪魂はここでも健在であった。

 「な、な、なぜだぁ?!」

顔面を蒼白にして目を見張るミキ・蒲田だったが、それでも余裕が垣間見える。無論、異次元オペラが池上の破邪魂の前に破れ去ったのは確かである。ミキ・蒲田自身がそれは一番よく判っていた。だが、ミキ・蒲田が王手をかけている事実に依然変わりはない。そこから来る余裕なのか? いやいや、どうやら彼には残る2戦に絶対連敗しないという自信があるのだ。それでは、まさか第3の必殺技をこの帝国ビラードという、これ以上ない恰好の舞台で繰り出そうというのか? そのまさかが起こった時、その時こそ池上健史の最期である!


3.待ち続けた時

第9戦 △池上―蒲田▲  帝国ビラード ※△反則勝ち ▲反則負け

第10戦 ○池上―蒲田● 帝国ビラード 


 二転、三転、大荒れ、大波乱、コラージュ、オペラ……“筋書きのないドラマ”という言葉は、新旧GBRC統一戦の中にもしっかりと生きていた。光と闇の果てしない攻防、神の叡知と悪魔の知恵のぶつかり合いが、絢爛として展開された幕張メッセ。そして、帝国ビラードの決戦は、もはやビリヤードというゲームの枠を完全に超越したものとなっていった。そこには人間の底知れぬ力への賞賛が込められている。どんな逆境に立っても決して希望を捨てない勇気の尊さ、どんなに離れていても断ち切れない人間の絆、それを優しく包み込む慈愛……私達は新旧GBRC統一戦を観戦し、学んであまりある人生の教訓を得た。

池上健史は何度も諦めかけた私達を、ずっとずっと高い彼方から見守り励ましている。窮地を顧みず、彼がつかみ取ろうとしたものは、統一王者の称号だけではない……そんな気がしてならない。彼の目指す理想の傍らに、その称号が添えられているに過ぎないのではないか? その理想への真摯な姿勢がCGコラージュを粉砕し、異次元オペラを滅ぼしたのだ。

 池上が第8戦を制した時、帝国ビラードのおばちゃん達はそそくさと身支度を始めると、「ミキちゃん、さいなら」の言葉を残し、長年勤めた帝国ビラードを去った。追いすがる川崎が足蹴にされ、全身に青あざをこしらえる一幕もあったが、一旦こうと決めたおばちゃん達を引き止めることはできなかった。これはミキ・蒲田にとって相当に痛かったに違いない。それでもなお、彼は余裕の表情を崩さなかった。

 「川崎、ご苦労だった。しかし、もういい。元々おばちゃん達は気まぐれなんだ。なあにまた帰って来るさ。どんまい、どんまい」

 帝国ビラードで1勝をあげ、ホッと胸を撫で下ろす池上を横目に、ミキ・蒲田はなぜか口辺に不気味な微笑みを浮かべている。世紀のビッグイベントも2戦を残すのみとなった。絶対に連勝しなければならない池上に、ミキ・蒲田の表情を観察する余裕などない。第9戦のゴングが鳴ったのは、それから5分後の事であった。

 試合に先立ち、ミキ・蒲田は幕張メッセでの入場式に見せた例の儀式を、帝国ビラードで再び披露した。名人刀鍛冶の末裔・織田染之進が捧げ持つ法螺不帰丸に両手をかざすと、ややあって、最後にそれを力一杯振り回し長い息を吐き出す。池上を一刀両断にせんとする凄まじいばかりの気迫であった。帝国ビラードに帰って来た法螺不帰丸は、明らかに躍動していた。

 (やはり、不二巻玄造がいない…。東京から大阪へ向かう途中で何かあったのか?…)

 この、大決戦の雌雄が決しようという土壇場に、それを誰よりも見届けたいであろう不二巻建設・総帥の姿が見えない。池上のみならず、居合わせた関係者は一様に不可解であった。

それはさておき、試合に目を転じよう。CGコラージュも異次元オペラも失ったミキ・蒲田にとって、法螺不帰丸だけが頼りであった。だが、さしもの法螺不帰丸も完全復活を果たした池上健史の前に、ついに快音を響かせる事はなかった。中盤まで接戦を続けていた両者だったが、終盤、池上の破邪魂が燃え盛る炎と化して、またしてもミキ・蒲田を追い込んでいった。

ところが、池上が幕張~帝国と破竹の3連勝を収めんとした時、その異変は起こった。雇われ工作員・川崎三平が観客席を飛び出し、脱兔の如く池上に襲いかかったのである。たちまち観内が騒然となる。

「こら、やめなさい!」

緊急アナウンスが唸る。背後から不意をつかれた池上が、強烈な裸絞めに遭い失神寸前となった時、女マネージャー・庄司香織が師を救った。彼女は川崎の両肩をむんずとつかんで正面を向かせると、往復ビンタをお見舞いした後、みぞおちに膝蹴りを入れる。そして、仕上げとばかりに合気道の投げで川崎を仰向けにのしてしまったのである。そして、どんなもんだと腕組みして川崎を見下ろす。

 「先生、大丈夫ですか?」

 我に返った彼女は、まるで何事もなかったかのように池上に駆け寄る。

 「あれっ、ちっとも心配そうじゃないな? 少し助けに来るのが遅かったような気が…」

 「だって先生の事だし、あんな男、簡単に料理すると思ったんですもの。でもがっかりだわ」

 「はっはっはっ、しかし、そりゃないよ、あの態勢じゃいくらなんでも」

 「それもそうね、ふふっ。でもお怪我がなくて本当によかったわ!」

 女マネージャーはヤンヤの拍手喝采に女性らしく照れながら、それでも安堵の表情を浮かべていた。川崎の前代未聞の暴挙には、宇津木会長や昭和パルティのマスターらも押っ取り刀で駆けつけ、池上を気遣う。彼らが揃って池上の無事を確かめている間、中断を余儀なくされた第9戦の裁定について、特別連合コミッショナーが協議を重ねていたが、結局、下った裁定は池上の反則勝ちというものだった。

 「それはおかしい。あのまま試合を続けていれば、池上君の完勝ではないのか?」

 レフェリーにそう言って詰め寄る宇津木会長だったが、一度下った裁定を覆す事はルール上できない。

 「いいんですよ、会長。勝ちは勝ちですから」

 「しかし池上君、それではあんまり君が……」

 大観衆も会長に呼応するかのように、帰れコールをミキ・蒲田サイドに浴びせる。

 「川崎も焦っていたんでしょう。それで咄嗟に飛び込んできた。まあ。香織君に痛い目に遭わされた訳ですから、大目にみるとしましょう」

 「君はいつも寛大なんだな。本当に頭の下がる思いだよ、ねえ、マスター」

 「彼はうちにいる時からそうだった。後輩の失敗に愚痴一つ言わず慰めていたよ。ここはひとつ彼の気持ちを汲んで、反則勝ちで目をつぶりましょう」

 昭和パルティのマスターは、さすがに年の功といった風情で構えている。それは池上に対する信頼のあらわれであった。こうして池上を囲む一団が和やかなムードにある時、突然地獄の底から込み上げてくるかのような陰惨で、しかも耳朶を揺るがすほど大きな笑い声が、そのムードを掻き消した。

 「ハーハッハッハッ!! ガーフッフッフッ!! ヒーヒッヒッヒッ!!」

 びっくりして振り返ると、その大胆不敵な笑い声の主はなんと、ミキ・蒲田その人であった。彼は女マネージャーに投げ飛ばされて、気を失ってしまった川崎の上半身を膝の上に抱き起こしながら、肩を震わせるように笑っている。

 「何がおかしい! 気でも狂ったか!」

 そう叫んだのは、池上サイドに陣取る逞しい青年の一人であった。

 「これが笑わずにいられるか、愚か者どもめ! それで勝ったつもりか? 時計を見ろ、時計を! ここまで追い上げてきたのは立派だが、もう時間がないわ! 忘れたのか? 新旧GBRC統一戦の試合時間は90分だけだ! 両の目を開いてしっかり見るがいい。残り試合時間は5秒を切っている。もう1ゲーム消化するのは不可能なのだ。つまり5勝5敗の引き分けという事になる。あいにくだったな!!」

 迂闊であった! ミキ・蒲田の言葉を聞いた途端、池上陣営は水を打ったように静まり返り、頭のてっぺんから鉄杭を打ち込まれたようなショックに見舞われた。まるで金縛りにあったかのように、誰一人身動きできなかった。ミキ・蒲田の言う通り、この新旧GBRC統一戦は90分の間に決着がつかない場合は無効試合となるのだ。

帝国ビラードでの第9戦を終わった時点で、正式なタイムは、実に1時間29分57秒。つまり、残された時間は3秒という事になる。第10戦が時間切れになるのは確実だった。関係者の全てが呆然と立ち尽くす池上陣営から、やがてすすり泣きが聞こえ、次第にそれは咽鳴へと変わっていった。終わった…。新旧GBRC統一戦は終わった。全世界が落胆の溜息をついたその時、息せき切ってホールに飛び込んできたのは、池上の大学時代の友人にして、元恋人と噂されるナタリーであった。

 「待って、待って! よかった、間に合ったわ! ケンジ、ちょっと耳を貸して」

ナタリーは手垢に汚れたノートに何度か視線を落とし、池上にその回数分の耳打ちをした。最期にふたりは見つめ合い、お互いを確認するように頷き合った。少々時間を要した幕間のやりとりだったが、この直後の最終戦に起こった事が奇跡でないならば、もはや、この世に奇跡など存在しないと言っても過言ではあるまい。

振り出しに戻った新旧GBRC統一戦が永遠の振り出し、つまり、二度と再び行なわれる事なく、凍結されてしまおうという刹那にそれは起こった。なんと、ブレイク権を得た池上は、そのブレイクショット一発で15個のボールを全てポケットインしてしまったのである!! あの辰巳耕志しか成し得なかった神業が、今まさに池上の手によって再現されたのである! その瞬間、時間が止った。全宇宙の営みが確かに停止した。そんな実感を見る者全てに抱かせるほど、そら恐ろしく信じ難い光景であった。

 試合終了時間、1時間29分59秒――世界中の何百億という目が奇跡を目撃した。新旧GBRCが池上健史の手によって、統一されたのである。

 「あ、ア、ぁァー…アぅー!!」

 カタカナとも平仮名ともつかぬ狂ったケダモノの声を発して、のたうち回るミキ・蒲田の姿こそ凄惨そのものだった! 目は血走り、髪の毛を掻きむしりながら、法螺不帰丸をメッタやたらと振り回す様は、怨念に取り憑かれた者の断末魔そのものであった。

 「つ、つばめぇ!!」

 ミキ・蒲田は最後に、渾身の力を振り絞って叫ぶとバッタリとその場に倒れてしまった。そこにはもはや勝負師の面影はなく、限りない悔恨の色だけが深い皺を刻んでいた。

 勝つと思うな、思えば負けよ……病床に臥せる親友の真実は蒲田には届かなかった。心の緩みがその尊い戒めを破ってしまった。負けるなどとは夢にも思わなかった。ミキ・蒲田は消えゆく意識に最後の明滅を覚えながら必死に誓った。今後一切、禁断の果実を断ち“蒲田幹男”に戻って一人前の建築家を目指そうと……。

 だが、これで不二巻建設が滅びた訳ではない。蒲田幹男が誓いをあっさり破って、禁断の果実に再び手を染めるのに三日とかからなかった。彼がまことに悔い改めるには、歌謡界に女王として君臨し続けた親友・青空つばめの死を待つ以外になかった。

 愚かなミキ・浦田が川崎をはじめ、不二巻建設の関係者らに担がれて運ばれていく傍ら、“新旧GBRC統一世界チャンピオン” 池上健史は、GBRCのベルトを腰にしっかりと巻きつけた。愛おしいベルトの感触だった。そして、新GBRCのベルトを肩に掛けたまま、次々と手渡される花束に埋もれていた。彼の横に聳える巨大トロフィーが降り注ぐフラッシュを金色に照り返し、眩しく目を射る。  

それは遠い彼方にあった栄光の証しである。悪の敵陣深く踏み込んでもぎ取った輝かしき勝利であった。神秘な破邪魂は全ての逆境をエネルギーとして吸収し、遂に奇跡を起こしたのである。新旧GBRCのベルトを優しく撫でながら、池上は心の中でこうつぶやいていた。

 (小塚先生、遂にやりました。そして、宇津木会長、やっとスタートラインに立てました)と。



Episode―5 家族

東急池上線・戸越銀座駅から徒歩で数分、閑静な戸建て区画の中に一ノ瀬辰也の実家がある。何ヶ月振りかでその敷居をまたぐ。二世帯住宅に改築した時、お祝いを持ってきて以来だった。玄関には「一ノ瀬」と「松下」の二枚の表札が掛かっている。

「ただいまー」

「あら、辰也、どうしたの急に?」

今は松下姓になった辰也の姉、乃理子が出迎えた。父に似た顔立ちの彼女は、近所でも評判になるほどの美人だった。今でも原宿や四ッ谷でよく声をかけられる。俗に言う箱入り娘で、世間知らずのお嬢様と映るのをいつも気にしていた。

「どうもしないよ。あれっ、父さん達は?」

「お母さんとふたりで、今ごろはゆっくり温泉にでもつかってるわ」

「なんだ、旅行中なの。タイミング悪いな、俺も。せっかく父さんの好きな和菓子買ってきたのに。じゃあ、兄さんと食べてよ」

「潤平さん、いつも帰りが遅いの。今コーヒーでも入れるわ、座って」

「ありがと。兄さんも忙しい人なんだな。まさか父さん、自分の仕事、兄さんに押しつけて旅行に行ったんじゃないだろうな?」

「全然部署が違うから。それに潤平さんは、きっと自分の論文をまとめてるのよ。家に居ると何かと気が散るし。特にあんたみたいな弟が遊びに来たりしたらね」

「なんだよ、それ」

「お砂糖ひとつだったわね」

「うん。おーい、ケン坊、元気だったか!!」

辰也の姿を見ると、愛猫のケンが足にじゃれついてきた。頭を撫でて抱き上げると、顔に頭を押しつけてきた。

「相変わらず凄い力だな、おまえは。よしよし」

「近所の人も、とても15歳に見えないって驚いてたわ」

「どう、新しい環境になれたみたい?」

「改築したての頃は不安みたいだったけど、最近はすっかり」

「そう、そりゃよかった」

「それより、あんた、エツコちゃんとうまくいってんの」

「ああ、ぼちぼち。それにエツコじゃなくてミチコだから」

「何がぼちぼちよ。スケートショップの方もイマイチみたいだし」

「よく知ってるね。姉さんもだんだん母さんに似てきたな、言う事が」

「あんたの事、心配してあげてんじゃないの」

「心配ご無用。それより、姉さん達こそ大丈夫かよ? すれ違い夫婦になりかけてんじゃないの?」

「内助の功ってやつよ。きのうも論文が仕上がったら、のんびり美味しいものでも食べに行こうって話し合ってたとこなの」

「兄さんのその論文って、期限は?」

「今月末って言ってた。だから、今追い込みなのよ」

「今月末か…」

「どうしたの? 考え込んじゃって」

「いや、兄さんにちょっと頼みたい事があってさ」

「頼みたい事って何?」

「それが俺にもよくわかんないんだ」

「ヘンな人ねぇ。また、前みたいにスケートの会報誌、鑑定所に回さないでよ。お父さんに怒られたでしょ」

「父さんは、ただ兄さんに頼むなって言っただけだよ。スケートの普及活動くらい自分でやれってね」

「とにかく、潤平さんはお人好しなんだから、頼まれたらイヤと言えない性格なの。なんだか知らないけど、まず、姉さんに相談しなさい。わかった?」

「姉さんに言ってもたぶん無駄だよ。男の気持ちはわかんないでしょうから」

「今、本人にもよくわかんないって言ったばっかりじゃない」

「男の気持ちってゆうか、男の魂が入るって事だけはわかってるんだ」

「とにかく、ややこしい話はしないでよ」

「わかってるって。仕事の邪魔になるような事はしないよ。それより、姉さん、新聞たまってる?」

「部屋の机の上に置いてあるわ。そんなに沢山ないから、まだ切り抜いてないけど」

「いつも悪いな。もっと、こまめに来なくちゃって思うんだけど、何かと忙しくて」

二階の辰也の部屋に、乃理子が半年間取っておいてくれた新聞のスクラップがある。スポーツ新聞以外目を通さない辰也だったが、ごく稀に一般紙にニュースポーツが紹介される事がある。実家では仕事の関係上一般紙数紙を購読しているので、姉に頼んで記事をスクラップしてもらっている。

その中のひとつが一際辰也の注意をひいた。2000年6月17日の日本経済新聞夕刊である。その第9面にBMXとスケートボードのプロ選手の写真が載っている。

「次世代スポーツ旗手輝く…か?」

だが、辰也の注意をひいたのはその記事ではなかった。新聞を広げた時に、その記事と隣り合う第8面の「グラフ2000」という記事だった。そこには足の不自由なお年寄りが電動スクーターに乗っている写真と、タクシーのトランクに引っ掛けられた車椅子の写真が載っている。第9面の躍動感溢れる写真とはあまりにも対照的だった。単なる偶然に過ぎないのかも知れないが、Xゲームの事故で選手生命を失った甲斐晋作の姿が、第8面の記事とオーバーラップする。と同時に、自分は一体いつまでスケートを続けていられるのか、ふと考えてしまった。

辰也の部屋は、インラインスケートの大会で獲得した優勝トロフィーや優勝盾で埋め尽くされている。賞状や優勝した時の写真、大会でモデルに起用された時のポスターなどが壁一面に貼られている。

彼の視線は優勝トロフィーを飛び越え、その後ろで埃まみれになっているボウリングバッグとシューズバッグに注がれていた。一時期の情熱を注いだ彼の愛用品だった。ボウリング場に通い詰め、上手くなりたい一心で、たった一人で何十ゲームも投げた。握力が限界を過ぎても投げ続けた。

やがて、専属のプロボウラーに声をかけてもらって、目から鱗が落ちた記憶が鮮やかに蘇る。プロボウラーになる事も考えた。しかし、シルバー世代のお年寄り達が楽しそうに投球している牧歌的な雰囲気には、どうしても馴染めなかった。もっと、若い今しかできない激しい事がやってみたかった。次第にボウリングから遠ざかり、様々なスポーツにトライして、インラインスケートに辿り着いた。トロフィーの山からボウリングバッグを引っ張り出し、マイボールを取り出した。

「俺の作ったのも青かったんだ…。もう、色さえ忘れてたな。ジョー・真理谷のマイボールが『青い流れ星』だとしたら、これなんかさしずめ『青いビー玉』ってとこかな? 笑っちゃうな」

『BB讃歌』に登場するボウリングの皇帝を思い浮かべる。

「ジョー・真理谷はボウリング全種目制覇を目指していた…か。でも、現実はやっぱ、地味なスポーツだよな…」

どこか空しい感慨を誘う。

「辰也、入るわよ」

「どうぞ」

「どうしたの? ボウリングのボールなんか抱えちゃって」

「うん。なんとなく、昔が懐かしくなってさ」

「そう言えば、辰也、お小遣い全部つぎ込んで毎日のように練習してたわね。玉突きは分が悪いけど、ボウリングは譲れないって」

「玉突きじゃなくて、ビリヤード。でも、俺そんな事言ってたっけ? 姉さんもよくそんな大昔の事憶えてるね?」

「あんたは、ちっちゃな頃からとにかく負けず嫌いで、なんでも一番じゃなきゃ気が済まない性格だったわ。ねえねえ、憶えてる? 竹中さんちの次郎君とガキ大将の座を賭けるんだとか言っちゃって、木登り競争に勝ったまではよかったけど、あまりにも高い所まで登っちゃって、恐くて降りれなくなった事。近所のおじさんが梯子で助けてくれた時、あんたったら半ベソかいてたの。姉さん、おかしくって、おかしくって」

「血を分けた弟をよくもあんなに笑えたもんだよ、ったく。あとにも先にもあんな恥かしい姿、人に見られたの始めてだったよ。ま、父さん達に内緒にしててくれた姉さんには今でも感謝してるよ。でも、どうしても俺的に一番になれないものもあるんだ」

辰也の語尾は寂しげなつぶやきに変わる。

「どうしたの? 元気ないわね。聞いた事ないような事言っちゃって…。じゃあ、ちょっと、元気になってもらおうかな」

「えっ?」

「はい、これ!」

乃理子が後ろ手に隠していた小さな箱を辰也に渡した。

「なに? これ」

「いいから、開けてみなさいよ!」

乃理子はただ、ニコニコして辰也の様子を見つめていた。

「おーっ!! 何処にあったの? あんなに探しても見つからなかったのに」

「この間、大掃除した時、ケンが転がして遊んでたの。なんだろうと思って見ていたら、それだったの。今度、あんたが来た時驚かしてやろうと思って、ずっと待ってたのよ」

「さすが、ケン坊だな。俺が手塩にかけて育てた恩を忘れちゃいなかったんだ、はっはっはっ」

「そうみたいね、ふふふ」

辰也の掌にはボウリングのボールに似せたスーパーボールが乗っていた。彼が小学生の頃、スーパーボール集めが流行っていた。野球をはじめ、サッカー、バスケット、バレーなど、ありとあらゆるボールがスーパーボールになっていた。特にアメフトやラグビーのボールは楕円形をしており、珍しかったため人気が高かった。こどもの小遣いを超えた高値で取引されたため、当時は社会問題にまで発展した。辰也がやっとの思いで手に入れた15ポンドのボウリングボールが、このタイミングで見つかった事に、彼自身驚いていた。その時、玄関のチャイムが鳴った。

「あれっ、潤平さんかしら? 今日は早いわね」

辰也が階下に降りていくと、義兄の松下潤平が靴を脱いでいるところだった。浅黒い顔にふちなしメガネ、七三に整えられた髪形はいかにも学者然としているが、人懐っこい表情は周囲をいつも和ませる。それでいて、かつてラガーマンだった堂々たる体躯は背広では隠し切れない。

「兄さん、ご無沙汰してます」

「よう、辰也君! お久しぶり。あんまり顔見ないんで、乃理子とふたりでどうしてるのかって噂してたんだよ」

「随分今日は早いのね。もう論文終わったの?」

「まだだけど、たまにはリフレッシュしないと、この華奢な体が続かないんだ。辰也君みたいに現役じゃないからね」

「それが、辰也もなんとなく元気がないのよ」

「へえー、珍しいね。スケートのチャンピオンともあろう人が」

「チャンピオンはやめて下さい。あまりピンとこないもんで、へへ。兄さんこそ、その道じゃ第一人者の誉れ高きお方…」

「身内で褒め合いっこして何が面白いの? 辰也が潤平さんに相談したい事があるんだって」

「僕でよかったら、何なりとどうぞ」

「潤平さん、安請け合いしないでよ。忙しいんだから」

「そんな事より、兄さん、お腹すいたでしょ。玄関入る直前まで、恋女房と差し向かいの晩ごはんで頭が一杯だったんじゃないの? おじゃま虫がいるのは予想外だったろうけど」

「ご名答! さすがはチャンプ」

「チャンプもやめて下さい。あまりピンとこないもんで、へへ。兄さんこそ…」

「潤平さん、辰也、いい加減にしなさい、もう!」

「じゃあ、辰也君、晩ごはんのあと、その話はゆっくり聞くとしよう。まずは恋女房と、我々に共通の可愛い弟と三人で楽しい夕食だ!」

「そうしましょう」

「ふたりとも調子いいんだから」

夕食の食卓を囲んで、三人の話は弾んだ。辰也にとって潤平は義兄であり、また、良き相談相手でもあった。乃理子と潤平が結婚して、今年で3年になる。潤平は辰也と乃理子の父・一ノ瀬信祐が所長をしている一ノ瀬経済鑑定所の職員であった。システム開発室に所属し、コンピュータ関連企業のコンサルタントの任にあった。頭は切れるが、気取ったところがなく、誰からも信頼が厚かった。

平凡なOLだった乃理子と潤平が出逢ったのは、信祐が数人の所員を連れてホームパーティを開いた時だった。その時から辰也と潤平は不思議にウマが合った。また、潤平は次第に乃理子と親密な関係を築いていった。信祐が潤平に鑑定所の中核としての期待を寄せる一方で、一時期、潤平は乃理子への想いとの狭間で悩み抜いていた。そんな時、ふたりの仲を取り持ったのは辰也だった。

兄のように慕う潤平が、本当の兄になってくれるのは、辰也にとって何より心強かったし、ふたりの結婚は決して仕事にとってマイナスにはならないと思ったからだ。やがて、乃理子も潤平に心を許すようになってからは、話はトントン拍子に進んでいった。信祐もそうなる事を心のどこかで望んでいたのかも知れない。

そんな事があって、辰也が家を出て倫子と暮らす事を切り出した時、烈火の如き父の怒りをなだめてくれたのも、この義理の兄であった。もちろん、父は今でも辰也を全面的に許したわけではない。辰也が自分の望む人生とはあまりにもかけ離れていった事に戸惑い、育て方を間違ったとさえ思った。しかし、今では息子には息子の人生があって当然だと思っている。息子への期待は潤平への期待へと変わっていった。そんな父と息子の幾多の葛藤を、そして、ふたりの立場を最も理解してくれているのもまた潤平であった。

「兄さん、最近仕事どう? システム開発室は順調なの?」

「可もなく、不可もなくってところかな。業績的に見れば上向いている事は確かだけど、敵も多くなってきた」

「敵って?」

「IT革命が引き起こした空前のビジネスチャンスに、力のある連中はどんどん飛びついてくる。まさに群雄割拠だ。時代は本当に凄まじい勢いで変わっているんだ。そのスピードについて来れる者だけが、生き残っていける。そして、いつまでも隣人と同じ事をやっている者には明日は訪れない」

「なんだか、サバイバルレースみたいだね」

「その通りだ。そのサバイバルレースに個人戦を挑むか、団体戦を挑むかが、これからの課題なんだよ、うん」

乃理子はふたりが箸を止めて話し込むのを、興味深そうに見守っていた。個人戦と団体戦……辰也は、運動会をそう表現した甲斐晋作の言葉を思い出していた。

「で、兄さんはどっちなの?」

「どちらとも言える。基本的には個人戦だが、所詮、個人の力には限界がある。限界を越えて戦うのは一見勇気と見えるが、結果的には愚かな行為に終わる場合もある。しかし、一プラス一がゼロやマイナスになってしまうケースだってある。それならどうするか?」

「どうすんの?」

「たった一人で、団体戦を挑むんだ。つまり、一人でなんでもできる能力を身につけておくに越した事はない。要は最後は自分だって事だよ。全部、君の父さんの受け売りだけどね」

「そう言えば父さん、スペシャリストよりゼネラリストを目指せみたいな話、前やってた」

ふたりの会話はどんどんつながっていった。まるで、話したい事が山積していたかのように、言葉が堰を切って流れ出した。

午後8時過ぎ、乃理子にとっては長かった夕食の膳がやっと片付いた。彼女が洗い物をしている時、辰也がいよいよ本題を切り出した。

「兄さん、さっきの話なんだけど。その前にちょっと聞きたい事があるんだ」

辰也の顔が急に神妙になる。

「うん、どうぞ」

食後のコーヒーを飲みながら、潤平が先を促す。

「兄さん、前にラグビーより格闘技が好きだって言ってたよね」

「スポーツの話かい? うん、最近はあまり見る時間もないけどね」

「でさあ、何かスポーツに関するコンサルティングの依頼ってある?」

辰也は潤平の目を興味深そうにのぞき込んでいる。

「そうだな、特定のスポーツに関する観客の動向調査やマーケティングが依頼される事はある」

「具体的には?」

「うん、例えば、ある地域にこんなプロスポーツを誘致してスタジアムを建設したいんだが、果たして目標の観客動員は達成できるのか? また、どんな選手にどれだけの年俸を支払えばいいのか? 年間何試合組めばいいのか? 経営を永続させるためにはどのような課題をクリアしなければならないのか? といったような、非常にシビアな問題に直面する事もある」

「なるほど、なんだか大変そうだね?」

「それと、ちょっと辰也君の聞きたい事とはずれるかもしれないけど、ある企業の勝敗予想ゲームのマーケティングサイトを、うちが監修してビジネスモデル特許として出願した事がある。ユーザーが会員登録すると、チップ、つまりゲーム参加権がもらえる。そして、予想が当たると賞金が手に入る仕組みだ。一方、スポンサー企業はオプトイン、つまり、利用者選別広告メール方式で広告を配信できるってわけだ」

「なかなか、面白そうだな?」

「人によっては、結構はまるだろうね。スポンサー企業にとっては、いらない広告でユーザーに不快な思いをさせないで済むのがいい。受け手の都合を無視して一方的に情報提供すると、企業イメージに悪影響を及ぼしかねないからね。この方式だと、ユーザー側も会員登録やイベント参加費用も一切不要だし、個人情報を登録するだけで本当に欲しい情報が受け取れる」

「へえー、最先端って感じ! やっぱ兄さんに相談するしかないって確信したよ。実はさ……」

辰也はスポーツヒルズ東京の企画コンペ募集要項と、いつか瀧沢に見せた企画書をファイルの中から取り出した。スポーツへの情熱が込められた辰也の話に、潤平もまた血が騒ぐのを覚えた。

「バトルボールか? カッコいいな。“格闘球技”って訳せば、ラグビーにも通じる」

潤平は興味深げに辰也の企画書を読み始めた。乃理子もまた、彼の肩越しにのぞき込んでいた。



BB讃歌

第13章 災い転じて弟子となる

 「先生、実は田淵さん達が大変なことに……」

 全世界が新旧GBRC統一のニュースに湧き返るさなか、女マネージャーから初めて巧品本こと田淵徹道の急を聞かされた池上健史は、記者団の長時間に及ぶ取材攻勢を必死の思いで振り切ると、取るものもとりあえず病院へと向かった。

 田淵が買ったばかりの愛車を快調にとばして、大阪へ向かう途中、昔話に花が咲きついつい脇見運転をしているうちに、スピードを出し過ぎ、前の車に追突してしまったのである。この事故で前の車は更に中央分離帯に激突、大破したのち炎上。幸い被害者はすんでのところで脱出したが、見たところ出血がひどかった。そればかりか、田淵の助手席に座っていた甥の青年も頭を強く打ち、気絶するというおまけつきであった。

慌てふためく田淵を落ち着け、冷静沈着にふるまった付き人の通報で、間もなく警察が駆けつけたが、田淵はただ青くなって事故の惨状を正視できなかったという。その彼自身も顔や手に全治3週間の怪我を負っていたが、事故の重大さに動転し、怪我の痛みをすっかり忘れていた。しかし、池上らが行ってみると、ベッドに横になっているはずの田淵の姿が見えない! 付き人がほんのちょっとの間、目を離した隙の出来事だった。

 「いけない! すぐに警察に連絡を取ってくれ! 我々もこの辺りを探してみよう!」

 池上はそう言い残すと、女マネージャーやナタリー達と手分けをして田淵の行方をしらみつぶしに当たってみたが、杳として彼の姿を捉えることはできなかった。池上の心は万が一の場面を描いて動揺する。心臓は早鐘を打つように鳴り、気ばかりがどうしようもなく焦る。

 (早まったマネだけはしないでくれ……)

 新旧GBRC統一の喜びよりも、虐げられてきた巧品本の安否が優先された。しかし、ただ祈るしか術はなかった。そんな彼の一途な祈りが通じたのか、警察から朗報が飛び込んできたのは、それから間もなくのことであった。

 埠頭で海面をじっとうかがっている巧品本らしい人物が、地元の人に目撃されたのだ。駆けつけた池上一行によって、巧品本の田淵徹道である事が確認された。思い詰めたような背中がかすかに震えている。

 「早まるな! わかるか、私だ、池上だ」

 「い、池上さん、どうしてここに……」

 「そんなことはどうでもいい。あなたさえ、無事でいてくれたら」

 「ありがとうございます。でも、私は償っても償い切れない事をしてしまった。だから…」

 「何を言うんだ! 早とちりをしちゃいけない! 被害者の命に別状はない。1ヶ月もすれば社会復帰ができるそうだ。そして、甥御さんもあなたの事を心配している」

 「ほ、本当ですか? 池上さん!」

 「ああ、本当だとも。だから安心して下さい。それと、私のために祝杯をあげてくれませんか?」

 「そ、それじゃ……」

 「新旧GBRC統一戦を制する事ができました。みんなの協力があったおかげです」

この言葉を聞いた途端、田淵の全身は震え、感激の涙が滝の様に頬をつたった。

 「お、おめでとうございます!! わ、私を弟子にして下さい!!」

 田淵は大きな声で叫ぶと、池上に駆け寄りその手を強く握る。

 「わかった。だが、卓球以上にビリヤード道は険しいかも知れない。あなたにその道を行く覚悟はありますか?」

 「あります!!」

「私に入門する前に、あなたの貴重な経験を全国の講演会で語って欲しい。苦境に立たされた全ての人達を救えるに違いない」

池上も「愛弟子」の手を握り返す。統一戦殴り込みと交通事故、立て続けに起こった事件が、どこか境遇の通じ合うふたりを結びつける絆となった。



BB讃歌

第14章 GBRCとの訣別

新旧GBRC統一戦の興奮さめやらぬある日、池上健史は自らのオフィスの一画に、極めて質素な記者会見の席を設けた。招かれた記者も、池上とは特に親しいベテラン十数人に限定されている。しかも、その内の誰一人として、取材用のアイテムを持っていない。それは池上の提示した条件だった。招待状も各人の自宅に届けられ、その但し書きに“取材禁止”という、首をひねらざるを得ない旨の一文が記されていた。

その意味では記者会見ではなく、密談だったのかも知れない。記者達は、すわ一大スクープとばかりに色めき立った後、最後の但し書きに打ちのめされた。しかし、このただならぬ気配の招待を、誰一人断らなかった事は言うまでもない。

 「皆さんを心から信頼できるジャーナリストと見込んで、今日は大切なお願いがあります」

 この一風変わった密談は、集まった面々の労をねぎらう前置きももどかしげな、神妙然とした池上の挨拶で始まった。

 「私には今、新旧GBRC統一を果たした特別な選手としてではなく、一人の人間として是非やらねばならないことがあります。そのために皆さんに隠密に集まっていただいたのです」

 謎めいた池上健史の言葉に、さしものベテラン記者達も息を呑み、掌にじっとりと汗を滲ませている。

 「その是非やらねばならない事を、私は『地球復興計画』と名づけ、人知れずあたためてきました。そして、同じく人知れず、しかし、これからはより一層具体的に推進していきたいと考えています。そのために私は、統一GBRCをしばらくの間封印しなければなりません」

 「……??……!」

 ベテラン記者達の間に動揺が走る。全く状況がのみ込めない。たちまち、ざわめきの渦が巻き起こった。だが、池上の口調は彼らを金縛りにかけたかのように、引き込んで離さぬ魔力を秘めていた。

 「ど、どういうことですか?! 私達にそれをどのように理解しろと?…。信じられないとしか…。それに、地球復興計画とは一体?……」

 一人の記者がそれだけ言うのがやっとだった。統一GBRCの封印! 普通なら天地がひっくり返るような騒ぎになってもおかしくはない。それほど、池上の何気ない言葉は衝撃的だった。だが、その場の雰囲気は一種催眠的な効果を醸し出し、まるで白日夢を見ているかのようであった。

 「“地球復興”は今から思えば、私が学生だった頃からの願望だったのかも知れません。幼少の頃からビリヤードに関わり、長い長い時間をかけ、様々な人の支援を受けて、GBRCをあるべき姿に戻す事ができました。そこで、ようやく地球復興の夢が現実味を帯びてきたのです」

「………」

どう反応していいものか、記者一同は顔を見合わせるしかなかった。

「いち早く、私の志しに賛同してくれた人物がいます。傘下に数百という企業グループを有する世界屈指の大財閥、水沼コンツェルン会長・水沼総司氏の一人息子、水沼拓司という人物です。しかし、東北の豪傑とまで言われた父親の生き方は、拓司氏には厚顔なエゴとしか映らず、やがて水沼家と袂を分かつ結果となりました」

「あの…水沼コンツェルンが?!…」

「封建的な家庭の拘束から解放された彼の夢は、無限に拡がっていきました。まず、彼は幼い頃からの念願であった世界一周旅行を敢行したのですが、この旅行が幸か不幸か、彼の人生観を根底からすっかり変えてしまったのです。彼の目にしたものは、楽園の島々ばかりではなく、どうしようもない貧困であり、そして、飢餓だったのです。以来、彼はアフリカやカンボジアなどでボランティア活動に精を出したのですが、所詮、焼け石に水と感じ始めます」

「そ、その話、うちで記事にした事があります!」

一誌の記者がすかさず言った。

「私も当時、御社の記事は読みました。つまり、ここまではよく知られている」

池上は一旦言葉を切り、記者諸兄の顔を見渡した。

「そんな日々に喘ぐ彼は、運命的に私と出会いました。彼はブレイクショットに宇宙創生のロマンを、つまり“ビックバン”を連想するというほどのビリヤードファンで、以前から私の名を知っていてくれました。ある日、今日みたいな内緒話をした時、たちまち『地球復興計画』の一番の理解者になってくれました。彼は私と共に世界を救いたいと言いました。私は貧困や飢餓の問題にも取り組む意向を示し、迷う事なく協力を要請しました。それから、私と彼は世界の現実について、より深く理解しようと意見交換を重ねました。生来が楽天家の私は、今更ながら愕然とせざるを得ませんでした」

「というと?」

「水沼氏にも多くの事を教えてもらいました。日頃、私が見聞きしている以上に、問題は深刻だという事を知りました。それでも、彼は新旧GBRC統一に、私を専念させようと気遣いました。そこで、逆に私はひそかに決意したのです。山積する問題の前に、『地球復興計画』は早晩暗礁に乗り上げる。その危機を孕む計画を、敢えて見切り発車させたのです。そう、水沼氏にも明かさずに……」

ここで池上はひと呼吸おくと、ゆっくりと一座を見回し、何事かを確認するかのように目を細めた。

「もっとも、水沼氏は全部お見通しでしたがね」

 「いやあ、驚きました。そんな経緯があったとは…。地球復興計画について詳しく教えて下さい。また、それを推進する事が何故、統一GBRCの封印につながるのか?」

晴天の霹靂にはそれなりに納得したい。記者ならずとも気になるところである。

「時間が欲しいのです。地球復興計画は私のマネージャーが先頭に立ってやってくれています。もちろん、水沼氏も人脈を動員してくれました。やや大袈裟に言わせてもらえば、地球救済活動です。その活動推進のために、政治の力では開拓できない世界各国の善意を結集すべく、彼らは走り回っています。私の置かれている立場もあって、スポーツ団体への呼びかけがメインです。訪れる国々で大歓迎を受けていると、マネージャーはいつも目を輝かせています」

「もっと詳しく聞かせて下さい」

もどかしげに先を促す記者に、池上はやや間を置いて語り継いだ。

 「…御存知のとおり、昨今、地球環境の危機が叫ばれています。人工衛星による地表探査や発展途上国の現地調査などで、自然破壊の潰滅的状況が明らかにされています。熱帯林の減少、工業化に伴う汚染、砂漠化の進行などがそれです。今こそ科学者も政治家も、そして、我々市民も一致協力して地球の危機に目を向けなければなりません。地球復興計画の地道な活動もやっと実を結ぶ時がやってきました」

 「あなたの新旧GBRC統一と共に?」

 「その通りです。さきほど私は、地球復興計画が地球救済活動だと言いました。だが、やはりそこにもおのずと限界はあります。はっきり言って、それは経済的問題に他なりません」

 「わかった、新旧GBRC統一によって獲得した賞金をその事業に充てると、その経済的問題というのは……」

 「ほんの一部分ですが解決できます。新旧GBRC統一によって私の手元に入ってきたお金は、ファイトマネーまで含めるとある程度の額になります。また、スポーツウォーズ機構の宇津木会長や遠征中のジョー・真理谷も協力を申し出てくれています。つまり、急務だった計画の支援者と資金の確保に目処が立ったわけです」

 「なるほど。具体的な内容について、更に詳しく教えていただけませんか?」

 集まった記者達にとって、この時ほど取材用の速記メモが恋しく思われたことはない。因果な職業の性か、彼らは掌にペン代わりの指を滑らせながら、池上の一言一句を克明に、そして正確に記憶しようと懸命だった。

 「世界には今いくつか、地球環境を監視するプロジェクトがあります。地球環境モニタリング・システム、国連環境計画などです。惑星の進化に較べ我々人類の変化は非常に早く、それに対する地球の反応を予測することは難しい。だからこそ、今日の潰滅的状況を招いています。科学の進歩は世界平和のために必要なことですが、その科学の進歩が自然破壊に宿命的につながっていく。このジレンマを打破して地球の恒久的繁栄を目指すのです」

 続けて池上はその組織や、更に具体的な事業内容について熱い胸の内を語った。ベテラン記者達は次々に語られる、壮大な計画にただただ感心するばかりであった。

 「以上が今日、あなた方にお話しておきたかった内容です。私が最も恐れるのはプロジェクトの主催者が、この私だとわかってしまうことです。だから取材をお断りしたわけです」

 池上の語気に力がこもる。

 「しかし、何故ですか? これほど素晴らしいプロジェクトを推進しているとなれば、将来はノーベル賞だって…」

 池上の言う意味が即座にのみ込めた者は、恐らくいなかったに違いない。

 「それです、それが一番まずいんです。私はあくまでスポーツウォーズの一選手権者でありたいんです。そのためには、統一王者の称号をしばらく封印し、計画推進者の肩書きも当面は秘匿しようと思います」

 全く別の意味での“無冠の帝王”像が、この偉大なチャンプの言葉に見え隠れする。世界国土征服を目論んだ不二巻玄造の「国土地理再編論」、一方、自らの全てを賭ける池上健史の「地球復興計画」――“似て非なる”ものの極致がここにある。

 「…………」

 さしものベテラン記者達も、とっさには別の切り口を見つけることができない。

「スポーツウォーズ……」

ある記者がそうつぶやいた。だが、半ば放心状態の彼は、そのつぶやきに感嘆符も疑問符も付けることができなかった。

「スポーツウォーズに関しては、宇津木会長からいずれ何らかの発表があるでしょう。さて、くどいようですが、今日明かした内容が世に出ても、私の名前を絶対に口外しないで下さい。でも、計画のいい点は拡散して下さい。ちょっと、虫のいい話ですが」

 池上の真剣な眼差しに呼応するかのように、居並ぶベテラン記者達はしきりに頷いている。池上のこの生き方は全員に深い感銘を与えた。事業家としての風格よりも、闘いの場を追い続ける姿が池上には似合っている。新旧GBRC統一を果たした真の帝王が、遥か彼方に新たな目標を見定めて、再び歩き始めようとしている。

打ち立てた大金字塔がセピア色に霞む時、いかに輝いた栄光でも、やがては「過去」に溶け出し、忘れ去られていく。もの淋しげでほろ苦い思い出へと姿を変えていく。だが、果てしないロマンは決して過去にはならない。その果てしないロマンの申し子こそ、池上健史なのである。



BB讃歌

第15章 慟哭の再出発

 池上健史は女マネージャーと共に、退院間近の辰巳耕志を慈恵医大の病室に見舞った。7月7日、七夕。そして、707号室。縁起のいい符号だった。ノックの音に聞き覚えのあるナンバの声が答える。ふたりは部屋の中へと招き入れられたが、辰巳は見違えるほど元気そうだった。 

彼は池上らの姿を見るとベッドの上に半身を起こし、こころもちふっくらした顔を嬉しそうにほころばせながら、そっと右手を差し出した。

 「おめでとうございます! ずっと、病院のテレビで見ていました。本当に素晴らしい試合でした」

 固い握手を交わす東京ドームの両雄。辰巳はまるで我が事のように池上の快挙を祝福する。ずっと彼はこの言葉を用意していたに違いない。

 「ありがとう。私も君から受け継いだタイトルを守ることが出来てホッとしている。随分、報告が遅れて済まなかった。ナンバ君がちょくちょく私のオフィスに来て、君の様子を知らせてくれるので安心はしていたが。本当に元気そうでよかった。元はと言えば……」

 「それは言わないで下さい。あなたのせいなんかじゃない。すべて自業自得です。今思い出しても恥ずかしい…」

 辰巳は虚ろな目をしながら、言葉を継ぐ。

 「ナンバといつも話しているんですよ。これからは、心を入れ替えて一から出直そうって。あなた達の心配りを無にしてはいけないと…」

 そう言って辰巳は、正面の壁に視線を転じた。

 「気にしないで欲しい。今は自分達だけのことを……」

 言いながら池上もなにげなく辰巳の視線の先を追っていた。

 「あれは、先生の写真だわ。何処かで見たことあると思った」

 女マネージャーが最初に気付き、更に近づいてまじまじと眺めている。

 「でも、随分以前のものね。道理で何度もここに来てるのに全然わかんなかったわ。私って注意力散漫なのかしら?」

 それは紛れもなく、池上のポスターだった。初めてGBRCのベルトを腰に巻いた当時の勇姿だった。池上は辰巳の優しい気持ちを悟り、熱いものが込み上げるのを感じていた。

 「信じていました、私もナンバも。きっと、あなたが再びあのベルトを腰に巻くのを。私達もあれを見ると、なんだか心が落ち着くようで、はっはっ」

 こうして屈託なく笑う辰巳の笑顔は、池上の遠い記憶にあるものと同じであった。

 「ありがとう、辰巳君。でも、少々照れるな」

 「でも、先生ってこうして見るとあまり変わってないわ」

 「そりゃそうさ。まだその頃から何年も経ってないんだから」

 「そうなの、じゃ当然ね。あっ、いけない! 私、お花のお水替えてきます」

 女マネージャーはそう言うと、サイドボードの花瓶を持って出ていった。一呼吸置いて、池上が口を開いた。

 「あっ、忘れないうちに言っておこう。例の、えーっと、そうそうTPHKの件だけど、ハリーの話だと順調にいっているそうだ。彼は君とは趣味が同じ温泉巡りだとかで、相当張り切っていたみたいだ」

 「ハリーとは前に温泉の効能の話で盛り上がったんです。何から何までお世話になって申し訳ありません」

 神妙になって頭を下げる辰巳には構わず、窓の外の景色を眺めながら、池上は言葉を続ける。

 「なに、本人はあれで結構楽しんでる。日本語の練習にもなるってね。彼のかたこともまんざらでない証拠に、大家さんも事情をわかってくれて、明け渡しはもう少し待ってくれるそうだ」

 「ほ、本当ですか?!」

 「ああ。それに、彼の集めた立ち退き反対署名も外人さんがやってるって事で、近所の人達にもすこぶる好評でね。特にこども達は面白半分だろうが、手伝ってくれるらしい。そんなこんなで地元住人とも和解にこぎつけたらしいんだ」

 「ありがとうございます。私達のためにそこまで…」

 「あっ、それから、嬉しい事には、町内会の役員さんがハリーの頑張りにほだされて、『TPHK保存会』をつくって応援してくれてるんだって。彼、相当やり甲斐を感じているようだ」

 言い終えて池上がベッドを振り返ると、辰巳は掛け布団を両手に強く握り締め、肩を震わせて泣いていた。ナンバも天井を仰ぎ、涙をこぼすまいとしている。感極まったのだろう。地獄に堕ちてしかるべきふたりにとって、それは慈悲深き神の恵みであった。

 ナタリーやフランチェスコと共に、東京ドームの医務室に呼ばれたハリーは池上の指令を受け、ただちにTPHK救済に乗り出した。彼らはそれぞれ、新旧GBRC前夜祭に赴く何日か前に、池上から密命を受けていた。そのひとつが、TPHK救済活動だった。池上は窓の外にあわてて目を転じると、更に言葉を続けた。

 「それから、辰巳君、君の再就職の事だが、こちらもいよいよ本決まりとなった。前から話していた赤坂の設計事務所が、君の腕を即戦力と高く評価してくれてね。いつでも来てもらって下さいと連絡があった。もうキューが握れるくらいだから、大丈夫ですと言っておいたよ」

 池上は振り向かず、暖かな陽光を眩しげに受けながら、窓枠に両手をかけたまま一息ついた。

 「本当になんとお礼を言ったらよいやら……」

 辰巳の声は消え入りそうにか細く震えている。

  「お礼なんていらないよ。先方も君が加入してくれたら大助かりだと言っているんだし、私も君の腕なら自信を持って推薦できる」

 「…………」

 「ああ、それともうひとつ、ナンバ君、これは香織君に聞いてみないと詳しい事はわからないが、どうやら君の希望も叶いそうだ」

 「えっ、では?!」

 天井を仰いで涙をこらえていたナンバは、池上の言葉に今にも飛び上がらんばかりに身を乗り出した。ちょうどそこへ女マネージャーが水を入れ替えて帰ってきた。

 「お待ちどうさま。どう、綺麗なお花でしょ? イキイキしてるわ」

 「イキイキしてるのは花ばかりじゃない、ナンバ君もだ」

 「えっ? どうかなさったの?」

 彼女は怪訝そうに池上とナンバの顔を見比べる。

 「例の専門学校の事だよ。ナンバ君に直接話すって、僕にも教えてくれなかったろ」

 「ああ、あの事。ごめんなさいね、ナンバさん。随分延び延びになっちゃって、でもバッチリよ!」

 彼女はにっこり微笑むとVサインを作って、ナンバの顔をのぞき込む。

 「やけに気を持たせるな? 早く言ってあげなさいよ」

 「もう、せっかちなんだから、先生は。話には順序ってものがあるの」

 「こりゃどうも失礼しました」

 さしもの池上も女マネージャーの気丈さにはかなわない。

 「よろしい。ねえナンバさん、あなたの志望動機は立派な付き人になるために基礎から勉強したい、それとインターナショナルなセンスを身につけたい、だったわね?」 

女マネージャーはナンバを試すように見る。

 「は、はい。そうです!」

 ナンバは彼女の視線にどきまぎしながら答える。

 「つまり、言い換えれば私のようなマネージャーになりたいって事になるのかな? ねえ、先生」

 「な、なんだよ、急に。ナンバ君、そういう事になるのか? 違うなら違うって言った方がいいぞ」

 池上は苦笑しながら切り抜けた。

 「いえ、その通りです! 私は香織さん、いや、庄司さんを目指してます!」

 ナンバは脂汗を滝のように流しながら答えた。あたかも、立候補したまではよかったが、当選してしまった身の程知らずの生徒会長が、朝礼台で初スピーチする緊張の極致にあった。

 「正直ね、ナンバさんは。でも、なんだか無理に言わしたみたい。ふっふっ。まあ、それは置いといて…そのナンバさんの志望動機にピッタリの学校があったのよ!」

 彼女は言うと、ショルダーバッグの中から大きめの封筒とパンフレットを取り出した。

 「『恵比寿ビジネススクール』と言って、私が聴講生で通ってた所の先生に紹介してもらったの。特に英語教育には力を入れてて、外国の一流講師陣が揃ってるんだって。はいっ、これがその学校案内と願書。立派な付き人目指して頑張ってね!」

 「ありがとうございます! 精一杯頑張ります!」

 学校案内を女マネージャーから受け取ったナンバは、緊張もややほぐれたのか、やる気の漲った目を輝かせながら、パンフレットに見入る。

 「そこに書いてある『トレンディクラブ』って言うのは、入会自由なんだけど、学生の交流の場なんですって。ほとんどの人が入っていて、演劇や映画を観に行ったり、パーティーを開いたり、色々楽しいイベントがあるの。ナンバさんも是非入会して、お友達をたくさん作るといいわ」

「はい!! 友達たくさん作ります!!」

 これから踏み出そうとする一歩に、ナンバが大きな期待を抱いているのがヒシヒシと伝わってくる。長く辰巳耕志に仕えながら、ろくな働きもできなかった自分を鍛え直す意気込みに燃えていた。

 「ナンバ、よかったな! 私もおまえも落着き先が決まって。これからもしっかり頼むぞ!」 

「はい、師匠! 立派な付き人になって、必ずTPHKを建て直してみせます!」

ナンバが力強く宣言した直後だった! 不意にスイッチの入ったテープレコーダーのように、それ

までの感情の起伏が消えた声色で、辰巳が淡々と語り出した。

「ナンバよ、私には見える……天皇の約200年ぶりの生前退位によって、平成は31年、すなわち、西暦2019年に終わる。新しい元号は…れいわ…だ」

「し、師匠! 何故、そんな先の事が?」

この突拍子もない予言に驚いたのは、ナンバだけではない。池上と女マネージャーも訳がわからず

ただ、顔を見合わせるしかなかった。だが、辰巳はナンバの問いには答えず、生気のないテープレコーダーの再生を続けた。

「2019年……おおさかなおみが、女子プロテニスの世界ランキング1位に登り詰める。また、数々

の金字塔を樹立するメジャーリーガー・イチローが引退する」

新元号の“れいわ”には、果たしてどのような漢字があてられるのか? また、“おおさかなおみ”と

は一体どんな選手なのか? 私達のよく知る“イチロー”の名にしか、具体性や信憑性は備わっていなかった。

「ナンバさん、辰巳さんて最近、占いでも始めた?」

「い、いえ…」

女マネージャーとナンバのやりとりに構わず、辰巳は池上の顔を仰ぎ見る。

「池上さん! 2019年…今まで想像図しか見たことのないブラックホールが、日本人によって天体観測されますよ」

予言の対象がスポーツから宇宙へ、一気に飛躍した。

「た、楽しみだね。お互い、長生きしようじゃないか!」

池上はそれだけ言うのがやっとだった。

「そうですね」

この、ほんの数分間、予言者・辰巳に何が、あるいは、何者が憑依したのか? 私達は知る術を持たない。だが、この一連の荒唐無稽な予言が、スポーツマンのそれを超越している事は明白である。無論、予言の真偽は30年後にしかわからない。

「ナンバ、聞いてたか? 私達は最低でも、これから先の30年間は元気に生きる。いいな!?」

「はい、師匠! 30年と言わず、40年でも50年でも…」

辰巳とナンバの絆は、一層強固なものとなった。大問題児の旗を傍若無人として掲げ、不埓な悪業三昧に明け暮れた二匹の“浮世の鬼”は、こうして、人間の魂を取り戻したのである。

(ふたりはこれから、がっちりスクラムを組んでTPHKの砦を守り続けるだろう……)

 池上は謎めいた予言に戸惑いながらも、ほのぼのとした感情がそこはかとなく湧きあがるのを覚えた。窓の外に掛けられた小さな笹竹には、たった一枚の短冊がそっと結び付けられていた。TPHKが再建できますように!――池上は風にそよぐふたりの願いを、決して見逃しはしなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ