表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺たちの複合球技戦  作者: 木村竜一
1/3

~バトルボール【1】~

目 次

Episode―1 友情

BB讃歌

誰も知らないBilliard&Bowling

第1部 ビリヤード編

プロローグ ~遥かなる理想をめざして~

第1章 闇からの贈り物

第2章 大河の流れのごとく

第3章 救世主再臨

第4章 スポーツ馬鹿前夜

1. ああ…地獄千尋のもくず

2. 困ったちゃん怪気炎

Episode―2 師弟

第5章 ビッグエッグの撞球対決

 1. 時空断裂ガスの罠

 2. 強すぎる者の最期

第6章 望まれし十字架

第7章 帝王と皇帝の再会

Episode―3 愛情

第8章 ビリヤード王への果たし状

1. 暗黒世界の秘蔵っ子達

 2. 復讐鬼・凄腕スキー

 3. 「四」は殺しの符号

 4. 切り札・無頼アン

第9章 恐るべき策謀

第10章 世紀のゴング

Episode―4 発想

第11章 史上最大の決戦【前編】

1. パーフェクトゲームショー

2. 危険なギャンブル

3. 怪奇!CGコラージュ

 4. 廃線鉄道の残党

第12章 史上最大の決戦【後編】

1. 幽玄!異次元オペラ

2. 虚しき連勝

3. 待ち続けた時

Episode―5 家族

第13章 災い転じて弟子となる

第14章 GBRCとの訣別

第15章 慟哭の再出発

Episode―6 複合

第16章 大魔術の種あかし

第17章 輪廻転生ものがたり

第18章 富士だけが見ていた復活祭

エピローグ ~第0章 いま、闘いが始まった~

Episode―7 暗躍

第2部 ボウリング編

プロローグ ~世界最強を名乗るために~

第1章 野望果てず

Episode―8 革命






Episode―1 友情

いつもは眩しい陽の光が、ふたりのうちのどちらかを目覚めさせていた。しかし、今日は激しい雨音が目覚まし時計のかわりだった。風はなく、大粒の雨が雲から一直線に降り注いでいた。

「やな天気だな、まったく」

ベランダのガラス障子に掛かった厚い生地のカーテンを少しめくり、一ノ瀬辰也は目を二、三度こする。そして、独り言をつぶやいた。

「こんな日でも…練習…あんのか?」

並んで寝ていた瀧沢雄太も起きていたらしく、布団を頭からスッポリかぶったまま、やっと言葉を搾り出した。

「なんだ、お目覚めか? ああ、滑れなくても練習はある。たぶん、室内で超一流の美技を鑑賞するはずだ。最近、甲斐さんがデジカメにはまっててさ、雨の日は決まって新作の発表会だ」

辰也はあくびをしながら半身を布団に起こし、大きな伸びをした後、カーテンを半開きにした。一向にやむ気配のない雨と真っ黒な雨雲を見比べていた。真正面に見える東京都庁も雨の帳に霞んで見える。

「甲斐さんて…あの大怪我した?」

瀧沢は相変わらず布団の中から言葉を搾り出す。

「そうだ。まあ、甲斐さんが怪我しなけりゃ、今の俺もなかったろうよ」

「もう…だいぶいいのか?」

「うん。もう滑れないかもしれないって、医者に言われたみたいだけど……」

「そうか……。よかったら…乗っけてくぞ」

「徹夜続きの猛烈サラリーマンが何言ってるんだよ。買ったばかりの新車を、居眠り運転で凹ましたお兄さんにさ、今度は帰り道に事故られでもしたら、おふくろさんに申し訳ないよ」

「…遠慮するなって」

「い・い・よ。せっかくの土曜日じゃないか。ゆっくり休めよ。シャワー借りるぞ」

「どうぞ」

一ノ瀬辰也と瀧沢雄太が、高校で机を並べてから今年でちょうど10年が経とうとしていた。ふたりは全く正反対の性格だった。お互いの第一印象はあまり芳しいものではなかった。特に辰也の最初の瀧沢評は、絵に描いたような虚弱体質のガリ勉で、3年間目立ちそうにない存在だった。また、瀧沢も辰也とは住む世界の違いを感じていた。

そんなふたりが共に硬式テニス部の門を叩いたのは、入学して間もない頃だった。クラスには何人か同じ部に入部した仲間もいたが、何故かふたりは気が合った。天性のセンスで腕を上げる瀧沢に辰也は驚いた。印象とは違う、あまりのギャップが埋まらない。油断ではないが、運動神経に絶対の自信を持つ辰也が、次第に瀧沢の上達振りに焦るようになり、ふたりの差はどんどん開いていった。シングルスでの生涯対戦成績は、瀧沢の勝率が実に7割を超えていた。

「おい、一ノ瀬知ってたか? 今年のプロ野球日本シリーズはON対決だってさ」

シャワーを浴びてバスタオルで髪の毛を拭く辰也に、すっかり目覚めた瀧沢がテレビを食い入るように観ながら、大きな声をかけた。

「瀧沢、何寝ぼけた事言ってんだよ。もうみんな知ってるよ。早々に優勝を決めた巨人がずっとダイエーに待たされてたんじゃん」

あきれ顔で瀧沢の方を見ると、彼の頭越しに王監督の胴上げがリプレイされていた。その映像と重なって“今世紀最後の日本シリーズは夢のON対決!!”の字幕が踊っている。

「へえー、知らなかったよ。ついに実現か…」

「そう感心するな、奇跡が起きたわけじゃあるまいし。そんな何日も前の事がわかんないほど疲れてんだな? もうちょっと寝た方がいいんじゃねえの?」

「そう年寄り扱いするなって。こう見えたって、俺はおまえより一歳若いんだからな」

「一万回聞いたわ、そのせりふ。年が明けて誕生日が来りゃ、すぐ追いつくんだろ」

「まあな。あっ、冷蔵庫に昨日の夜中買っといたコーヒー入ってるぞ」

「サンキュー。よく気がつくな。いい嫁さんになれるよ」

「嫁さんと言やあ、おまえの嫁さん候補の彼女、若かりし頃の志穂美悦子からアクションを引いた感じだな。よっく似てる。昔の映画観た時、おやおやって感じだったよ」

「会う人間、みんなに言われるよ。本人もすっかりその気になっちゃって。最近、自分の事をエツコって言ったり、女必殺拳だぁ~なんてやってるよ。まったく、悪ノリが過ぎるから誰か助けてくんねぇかな」

「いいじゃねえか。で、今日は彼女来んのか?」

「なんでここに泊まったか、想像つくだろう?」

「おおよそはな」

「いつもと違って、派手にやっちゃってさ。あなたの夢にはついていけないって言われたよ」

そう言うと、辰也は冷えた缶コーヒーを一気に飲み干した。

「やっぱり、一緒に暮らしていると色々あるんだな。でも、いつまでも一人にしておいたら悪い虫がつくんじゃないか? あんな可愛い子、世間のやつら放っておかないぜ」

「どっかのおやじみたいな事言ってるよ。雨の日はもともと、あいつは出歩かないし、さしずめプレステやり放題ってとこだよ。それに、俺の汚れたスケート靴磨かなくていいから、内心喜んでるよ、今頃」

「おまえ、彼女にそんな事させてんのか?!」

「おいおい、人聞き悪い事言うな。あいつがやらせてくれって言ったんだよ。手が油だらけになるからよせって言ってもきかないんだ」

「幸せもんだよ、おまえは。未だに女のできないこの俺の目から見りゃ、人も羨む甘い生活だ」

「逆だよ。時々、一人の方がすごく楽な時がある。誰でもそんな時ってあるだろうけどな。それに仕事に疲れてボロボロになった瀧沢君の生態もたまには観察に来ないとね」

「ほんと、ボロボロだよ。それに引き換え、おまえは青春真っ只中って感じだよな」

「俺より一歳若いんだろ。まっ、そのうちおまえにも春が…」

「おい、ケータイ鳴ってるぞ」

「…来るさ。青春はまだまだこれから……」

辰也は言いながらメッセージを確かめた。

「なんて?」

「(帰って来ていいよ。でも、三日は口きかないよ…)か。瀧沢、今晩はなんとか世話にならずに済みそうだ」

「だから、幸せもんだって言うんだよ」

「だから、それはどうかって言うんだよ。第一、なんのためのケータイなんだかな? ポケベルからケータイに切り替えた意味がないよ、これじゃ」

「はははっ」

「だろ? ドライヤーどこだっけ?」

父親を納得させるために、大学の経済学部に渋々進んだ辰也と、学業成績では主席の常連だったが、家庭の事情で建設会社に就職した瀧沢。高校卒業後の進路も対照的だった。だからこそ、現在も彼らの関係は続いているのかも知れない。しかし、その当時の状況は、決して現在のふたりを象徴するものではなかった。

結局、辰也は大学を2年で中退した。彼は敷かれたレールに疑問を感じ、父親との間に越えられそうにない厚い壁を感じながらも、自分らしい人生を送ろうと決めた。そして、自分の興味が趣くままにニュースポーツにのめり込んでいった。特にスノーボードやインラインスケートに惹かれていく。潤沢な仕送りを打ち切られた後は、ショップでアルバイトをしながら、その日暮しの生活費をなんとか稼いでいた。

そんな辰也にも、5年前転機が巡って来た。インラインスケートインストラクターの資格取得である。父・一ノ瀬信祐には、遊びにしか映らなかったスケートが、辰也の生き方が、やっと理解されようとしていた。一方、瀧沢は会社での責任の重さに悩んでいた。会社内では既に中堅の域に達しつつある彼には、やはり、今まで以上に期待が集まる。同様の境遇にあるサラリーマンにとっては、避けて通る事の許されない重圧である。ふたりはお互いの身の上話をあまりしなかったが、顔を見れば何を考えているかわかった。

「じゃ、そろそろ行くわ。ちょっと早いけど、次の電車で行く」

身支度を整えた辰也は、テレビ画面を目で追う瀧沢に声をかけた。

「あれっ、メシ食ってかないの? ゆうべ、朝食べるだろうと思って、お好み焼き買っといたんだけど…。チンするだけのやつ」

「悪い、二枚食べといて。それよりさ、何かヒマつぶしになるような面白い本ない?」

壁の本棚にはインテリアと成り果てた国内外の、いわゆる文豪の全集が並んでいた。その隙間には何年も前の週刊誌が無造作にねじ込まれていた。

「あっ、そうだ! 忘れてた」

そう叫ぶと瀧沢は、部屋の片隅に置いてある古新聞の上から、大きなクリップでとめられた紙の束を持ってきた。同じ紙の束は3つあった。

「言わなかったっけ? ここは5年ほど前、つまり、俺の先輩の黒谷さんが入居する前は、小さな出版社だったって話」

「確か聞いたような気がする。で、その会社が倒産だか解散だかして、おまえの会社が寮として借り上げたんだったよな。それがどうした?」

「いや、別にそれはいいんだけど。この間の休みに荷物を整理してたら、押入れの中からこんなの見つけちゃってさ」

瀧沢はクリップ留めの紙の束をひとつ手に取った。

「その出版社が忘れていった、と言うより置いていったらしいんだ。“壮大ロマン堂”って胡散臭い大層な名前が書いてあるけど、さっきご指摘のとおり潰れちゃってて、所有者も著者もわからないんだ。黒谷さんは個人的に探しているらしいんだけど。会社に相談したら、もらっとけって。だから、まあいいかって読んでみたんだ」

「ふ~ん。で?」

「なんて言えばいいか…要するにドタバタで、正式には“スラップスティック”ってジャンルなんだ。パロディ満載のハチャメチャな話で、やたら大袈裟でスケールがでかい! まあ、ツボにはまったら結構ウケるわ。これは、どうやら印刷前の印画紙のコピーらしい。一冊持ってけよ。まるで、俺達の事が書いてあるみたいだぜ」

瀧沢はこみ上げるおかしさを抑えられなかった。

「なに、ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪い。タイトルは…なになに『BB讃歌』か。よくわかんないけど、持ってくよ。眠くならなけりゃ、電車乗り過ごす心配ないしな。じゃあな」

「ああ、彼女によろしくな」

「三日間、口きけないから、手紙でも書くわ」

「はははっ」

著者不詳『BB讃歌』の“BB”、すなわち、作中で語られる“ビリヤードとボウリング”が、後に大きな意味を持つ事になろうとは、この時、辰也と瀧沢が知る由もなかった。

マンションのエントランスホールを抜けて表へ出ると、相変わらず激しい雨が歩道から跳ね返っていた。コンビニの大きな袋をさげた若い女性三人が、辰也とすれ違った時、その一際響く笑い声が一瞬止んだ。甘いマスクに無造作に流したロングヘア。長身を包むGジャンとジーンズ、そして、Tシャツの胸元に光るペンダント。トレンディ俳優を彷彿とさせる辰也の姿が角を曲がるまで、彼女達は視線をそらさなかった。

「カッコいい!! ねえ、ゆかり、あの人ここの人?」

「み、見たことないけど…」

「知り合いでもいるんじゃないの?」

雑誌モデルに起用された事もある辰也のファンは多い。細い路地を何度も抜け、手作り弁当屋の店先を左に折れると、水道道路が東西に走っている。ちょうど、目の前を新宿駅西口行きの京王バスが、凄まじい水飛沫を巻き上げながら通り過ぎて行った。信号を渡ると六号坂商店街が甲州街道まで続いている。

辰也はコンビニでスポーツ新聞とフリスクを買うと、京王線・幡ヶ谷駅の改札へとおりていった。土曜日の早朝、大雨のせいもあってか、人影はまばらだった。駅のホームを新宿方面に30メートルほど進み、寒々としたライトグリーンのベンチに腰を降ろした。スポーツ紙には、日本シリーズの展開があらゆる角度から分析されていた。

「とうとうON対決か…」

辰也はつぶやいた。

「ABCD……LMNOPQ…。NとOは隣合わせだ」

辰也はずっと思っていた。高校時代、同じテニス部に敵はただ一人だった。一番身近にいる瀧沢ただ一人だった。他の者が相手なら、それほど勝敗にこだわらなかった。

「そう言えば、いつかふたりで『IT革命』を起こそうなんて言ってたな」

辰也と瀧沢は、時として哲学的な話をする事があった。若さゆえの青い人生論だったが、最後はいつもお互いを認め合っていた。と同時に、だからこそ、目の前の相手にだけは負けるわけにはいかなかった。ライバルと呼ぶには近過ぎ、同志と呼ぶには遠過ぎた。そんなふたりが“一ノ瀬・瀧沢”のIT革命という言葉を口にしたのは、高校卒業が間近に迫った頃だった。しかし、当の辰也にもその革命の意味が思い出せない。あまりにもお互いが身近にいるせいなのかも知れない。

「みんなと同じじゃつまらない……くらいの意味だったっけなぁ?」

何気なく、さっき瀧沢からもらった紙の束の表紙をめくった。

「『BB讃歌』…か? ん、なるほど、ボウリングとビリヤードの頭文字か?」

『BB讃歌』と書かれた表紙の次のページに「誰も知らないBilliard&Bowling」とある。

「まるで俺たちの事が書いてあるみたいだって言ってたのは、この事か? ふーん」

辰也の脳裏に高校卒業後しばらく夢中になった、ボウリングとビリヤードが蘇ってきた。週末や休日には瀧沢と徹夜で打ち興じた。

「全く熱病にうなされたようだった。でも、楽しかったな」

疲れを知らないふたりは、時間を忘れて没頭した。その頃の情景が辰也のまぶたに浮かんでは消える。

「今の時代には合っちゃいないよな…うん。でも、誰も知らないなら、知りたい気も…」

新宿で乗り継いだ西武新宿線の所沢行き電車が、東村山駅の4番ホームに滑り込んでいく。東口ロータリーの噴水に「核兵器廃絶平和都市宣言」の看板が立っている。

ニュースポーツに次第に傾倒していった辰也が、その看板を眩しそうに見上げ、深呼吸で新鮮な空気をおなか一杯吸い込んだ時、彼の心に微妙な変化が生じ始めていた。見えないリセットボタンに手をかけていたのかも知れない。何が彼をそんな気持ちにさせたのか、本人にもわからなかった。







BB讃歌

誰も知らないBilliard&Bowling


壮大ロマン堂



BB讃歌

第1部 ビリヤード編

プロローグ ~遥かなる理想をめざして~

下町の場末にひっそり看板を出す玉突き屋。経営がうまくいかず酒に溺れていった父。暴れる父の目から逃れて玉突き台でおしめをかえた母。団らんなき家庭で育った「彼」は、3歳のとき初めてキューを手にする。学校から帰ると、太陽の光を避けるように、薄暗い部屋の片隅で来る日も来る日も玉を突いた。感覚を失った腕にキューを縛りつけ、突いて突いて突きまくった。ブリッジに血が滲みキューを赤く染めた。

彼は日本中の玉突き屋を荒ら回った。家計を助ける賞金稼ぎ……いや、そんな甘い感傷などとっくの昔に捨て去った。ただ、強くなりたかった。それだけだった。組織に身を投じ、自分を追い詰め、逃げ道を絶った。そして、世界中に敵がいなくなった。やがて、彼はパワー・テクニック・スピード・インサイドワークに加え、修行で身につけた“破邪魂はじゃこんを兼ね備えた者、“ミラクルファイブ”と呼ばれるようになった。世界最高峰とされるGBRC(グランド・ビリヤード・リアル・チャンピオンシップ:“玉突き屋の総本山”日本撞球によって創設)獲得によって、富と名声をも手に入れた。

そんな絶頂期のある日、運命が大きく動いた。得体の知れない敵・辰巳の挑戦を受けなければならなかった。辰巳はあまりにも強かった。何かが狂っていた。信じられない幕切れ……あり得ない敗北が彼を待っていた。そして、辰巳が失った。GBRCを失った。辰巳より強い男は蒲田と言った。辰巳も蒲田も何かに支配されていた。

人々は信じていた…彼の王座奪還を。だが、果たせなかった。どうしても、果たせなかった。陰の支配者・不二巻はすべてを拒み続けた。拒み続けたが故に君臨し続けた。稀に見る不条理だった。GBRCは……死んだ。そして、全く別のGBRC(ゴッド・ビリヤード・リアル・チャンピオンシップ:“前衛プールバーチェーン本部” BilliardVentureビリヤードベンチャーによって新設)…「新GBRC」が生まれた。しかし、そのチャンピオンベルトはまたしても、どうしようもなく強い辰巳の腰に巻かれた。芽生える期待と奈落の底の落胆…再び喫したあり得ない敗北に、彼は不条理を操る巨悪の存在を感じた。

しかし、彼はやがて、新GBRCのベルトを腰に巻いた。憶えていた感触に似ていた。それでも、彼の目はうつろだった。かつて愛したGBRC…「旧GBRC」がどうしても忘れられなかった。わが子のように思えてならなかった。できる事なら、もう一度抱きしめてやりたかった。この時、“新旧GBRC統一戦”に選手生命を賭けようと決めた。

彼は不二巻に挑んだ。いばらの道を裸足で歩いた。何度も何度も倒れ、傷だらけになった。残されているのは精神力だけだった。その精神力を破邪魂に昇華させた彼の力は、常人のそれを完全に凌駕していた。やがて、彼は愛しいわが子を抱きしめた。全ての逆境を乗り越えた再会だった。遂に新旧GBRCは統一された。その瞬間、彼は遙か彼方を見つめた。

池上健史……それは、彼の名前だった。



BB讃歌

第1章 闇からの贈り物

激動「昭和」を象徴した裕仁天皇が崩御した。1989年1月7日。4ヶ月にもわたった病魔との壮絶な闘いに終止符が打たれた。無言のまま立ち尽くす皇太子御一家。ベッドの陛下に深々と頭を下げ臨終を告げる侍医長。早朝から臨時閣議を重ねていた政府は、新天皇の御座所などを次々と決定した後、新元号の選定作業に入っていた。各界の有識者や衆参両院議長、各閣僚らの意見を踏まえ首相の判断を経て、新しい元号は「平成」と決定された。                      

 昭和天皇崩御の報は瞬時に日本列島に広がり、衝撃が走りぬけて行った。そして、たちまち国民生活に波紋を投げかけた。テレビはすべて特別番組となり、民放からCMが消えた。政府の服喪呼びかけに呼応し、官庁や大企業の玄関には弔旗が掲げられた。歌舞音曲自粛の要請に従って、街はひっそりと水を打ったように静まり返り、各地で予定されていたイベントは相次いで中止・延期を余儀なくされた。

 しかし、天皇崩御が本当の意味で国民生活へ影響を及ぼし始めたのは、この昭和最後の日を境として、翌1月8日に幕を開けた新しい時代「平成元年」であった事は言うまでもない。その様々な影響についての記述は他誌に譲り、ここではビリヤード界の主な動きについて触れる。先ず、私達は「恩赦」や「特赦」を危惧した。何らかの罪で投獄されている者、あるいはこれから裁きを受けようとする者に与えられるこの特別な計らいが、ビリヤード界とどう結びつくのか?

 日本撞球は先日、詳細な調査の末、大会規約に違反しているとして、蒲田幹男の王座剥奪措置を断行した。これで、金に目がくらんだ日本撞球幹部と不二巻建設の癒着が生んだ悲劇も清算されるかに思われた。日本撞球側は既に各地で予選リーグを組み、次期王者候補の選定作業を始めていただけに「昭和逝く」の報はまさに衝撃だった。そして、その危惧は見事に的中してしまった。

 蒲田幹男王座復権――スポーツ界では前例のない「大赦」の恩恵が降って湧いたのである。飛び交う怒号と悲鳴は、まだ人々の耳朶を震えさせている。だが、驚くのはまだ早い。実は昭和最後の日、偶然にもある人物が、静かに息を引き取ったのだ。その人物…建設界に絶大なる影響力を誇り、全世界の地図が、彼によって塗り替わるとまで言われた。その超大物は無類のビリヤード好きで知られた。会社の地下に独自の養成塾“玉突き課”を設置し、妖術に長けたハスラー達を育てた。しかし、そんな彼も病魔には勝てなかった。

さきほど開封されたその超大物の遺言状の中に、目を見張るばかりの一条が発見された。その内容を見た瞬間、親類縁者一同はあまりの事にひしと互いを抱きしめ慄いた。一体いかなる記述があったのか? 私達はその原文を見ることはできないが、関係筋はその概要を「辞世のお言葉」と題して次のような一文を公にしている。

 「おかげさまで私はそこそこ成功した。でも、欲張り過ぎたのかなぁ? 土建屋としても玉突きの裏方としても…まだまだ夢はあったが、叶いそうもない。どうやら、私の命はそう長くはなさそうだ。だが、この生涯にあって良き妻や子、そして、良き社員に恵まれた私は世界一の果報者だ。本当にありがとう。みんなの幸福を遠くから願っている。では……あっ、ひとつだけお願いがあります。みんな、辰巳耕志君を応援して欲しい。彼はメッチャ強いでしょ? もう、私がいなくても…私の魂は耕志君が受け継いでくれる。彼には数々の秘策を授けてきた。その集大成『命の父G~付録:解明処方箋~』も贈った。だから、もっと強くなってちょうだい。では、バイビー!」

 なんという事であろうか! あの建設界の超大物がビリヤード界の放蕩漢・辰巳耕志の熱烈な支援者だったとは?! まさに、昭和史の隠された真実と言えよう。側近の話では、生前、彼はビリヤードの必殺技開発に凄まじいばかりの情熱を燃しており、この時の無理が祟って死期を早めたという。病床でまとめあげた『命の父G』を辰巳に手渡した時に、彼の頬を大粒の涙がつたった。しかも、臨終の間際、自由の全くきかないはずの体でありながら、自ら立ち上がって辰巳耕志を抱き寄せたという。恐るべき執念と言わざるを得ない。

 遡ること1年以上前、辰巳が池上健史を料亭に招待した事があった。この時、辰巳は玄関の引き戸を開けた瞬間、確かにこう言ったのである。

「命の……命の父…Gさえ…あれば……」

取材にあたっていた『ビリヤードマガジン』の敏腕記者は、この辰巳のつぶやきを速記メモに残していた。だが、ずっと後になって、その場に立っていられないほどの衝撃を受けたと回想している。それもそのはずである! 建設界の超大物が命と引き替えに産み落とした必殺武器「命の父G」なる名称を、辰巳が既に唱えていたのだから! そして、超大物が自らの死を悟って綴った遺言状の中に、辰巳を後継者として迎えようとしていたのだから!

 辰巳耕志によって相続された謎の遺産「命の父G」とはいかなるものなのか? 辰巳耕志の肉体と建設界の超大物の魂は果たしてどのようにランデブーするのか? 池上健史の破邪魂にどこまで対抗しうるのか? そして、ふたりの戦いの結末は!?



BB讃歌

第2章 大河の流れのごとく

 企業グループ挙げての大規模再開発工事が大成功裡に終わり、“ブラックゼネコン”と揶揄され、あらゆる疑惑を一身にまとう不二巻建設は狂喜乱舞した。

「不二巻建設バンザーイ!! エイエイオー!!」

人の世から隔絶された暗黒世界に嬌声が木霊する。怪しげな地下の遊技場で肩を抱き合う社員達。いかに頑強な体の持ち主でもそこに足を踏み入れたならば、一瞬のうちに意識が遠のいていったに違いない。所詮、常人とは相容れぬ体の仕組みなのか? 彼らのさまよい歩く先には必ず禁断の果実が盛られていた。それを食べなければ生きられない悲しいさだめを彼らは背負っていた。

やがて、その刹那的な恍惚が肉体を蝕み、全てを崩壊させていく。盲目の人間獣達は、人として産まれたことへの感謝などこれっぽっちも感じない。のほほんとした厚顔無知な堕落の徒として、倫理を平然と踏みにじり正義に牙をむく。

 祝賀パーティーも宴たけなわとなった頃、蝶ネクタイの進行係が一人の男に歩み寄ると、まるで内緒話をするようにそっと耳打ちをした。と、その瞬間、男の顔が蒼白になったかと思うと、ビールの入ったジョッキがその硬直した手から滑り落ち、凄まじい音を響かせて砕け散った。ジョッキの主は主賓の一人、蒲田幹男だった。その目は眼窩から飛び出さんばかりに見開かれ、唇は色を失いブルブルと無様に打ち震えている。

「そ、そんな、そんな馬鹿な!?………つ、つばめちゃぁあん!!」

それだけ言うのがやっとだった。彼はビールの海にひざまずきながら、溢れる涙を拭おうともしなかった。やがて、ジョッキの破片に血が滲む。運び込まれた担架の上で、栄転の決まっていた主賓は喉がかき切れんばかりに号泣した。

内緒話は「青空つばめ逝く」の報であった。1989年初夏。歌謡界の女王・青空つばめ、亨年52歳の若さだった。敗戦の混乱のさなか、1946年に初舞台を踏み、1948年に歌手デビューを果たしたつばめは、翌1949年には映画にも主演する。その年、早くも「悲しき犬笛」で大ヒットをとばし、続いて「大阪キッド」、「丹後獅子の唄」など、歌に映画に矢継ぎ早に大ヒットを放つ。

天才少女歌手・つばめの明るい歌声とその姿は、敗戦の失意に未だ癒えぬ人々の心に癒し水のように溶けていった。以来40年、青空つばめは銀幕にステージに歌い続けた。しかし、その大スター・つばめに病魔の影は音もなく忍び寄っていた。病魔の正体は不治の病いガンだった。

 蒲田幹男と青空つばめの出会いは、今を遡ることちょうど2年前の秋だった。当時、ビリヤードで連戦連勝、破竹の勢いだった蒲田は、10年来の念願が叶って青空つばめを試合に招待する。つばめはあっという間に、蒲田の芸術的なキューさばきに魅せられた。以後、蒲田とつばめは「つばめちゃん」、「ミキちゃん」と呼び合うまでの仲になった。蒲田の援護もあり、彼女は自宅療養を経てコンサート活動を再開、“奇跡のカムバック”と騒がれた。しかし、再び病状が悪化し苦しい闘病生活の後、遂に帰らぬ人となった。

 「ミキちゃん頑張って……また、チャンピオンになってちょうだいな……」

 つばめは薄れゆく意識の中、まるで搾り出すようにこの言葉を繰り返していたという。

 「つばめちゃん、なんで死んじまったんだよ?! 俺達、これからじゃなかったのか?!」

 栄転を機に新たな航海への出帆準備をしていた蒲田幹男は、生きる支えを失って絶望の淵に叩き落とされてしまった。

 青空つばめはその溢れる才能ゆえか、人並みの幸福を手にすることはなかった。そんな彼女の人生が半世紀の峠を越えた時、差し込んできた一条の希望の光が蒲田幹男だった。マスコミ、とりわけ芸能誌や憧球誌にスクープされなかった理由は、やはり、芸能界と撞球界との間に立ちはだかる壁だろう。その目に見えない壁によって遮られたふたりの仲は、どちらかが第一線を退いて初めて、真に通じ合うものだったのかも知れない。

つまり、お互いの世界がお互いの宝を刺激せず、最悪の事態を回避し続けたのだ。ゴシップによって青空つばめを失えば、それは芸能界の一大損失となる。と同時に、撞球界にとって蒲田幹男には、“池上健史の好敵手”としての商品価値があり、要らぬ雑音は興行面における大きな痛手となる。だが、その蒲田が身を引こうとした、その日に青空つばめがこの世を去ってしまおうとは…。心の支えだったつばめが、美しい啼き声だけを記憶に残して、星に姿を変えてしまおうとは……なんという運命の皮肉だったろう。

 「勝つと思うな。思えば負けよ……」

蒲田幹男は青空つばめの教えを、愚直に守り続けていた。「勝つ!」と思う心と「勝てる!」とはやる気持ちに支配されそうな時、念仏を唱えるかのように己を戒めた。だから、彼は負けなかった。しかし、そんな彼がつばめの教えを忘れ、自らに課した戒めを破ってしまった。悔やんでも悔やみ切れない「あの日」の心の緩みが、愛する人の死を招いてしまったのか?! 

地獄の懊悩に責めさいなまれる蒲田の脳裏を、愚か者と化した自分自身の幻影が、今の自分をあざけり笑っている。その愚か者は“ミキ・蒲田”を名乗り、手に馴染んだプライベートキューを握りしめた。いざ、新旧GBRC統一戦! 冴えよ、吠えよ、法螺不帰丸! 池上健史の破邪魂など敵ではない! 揺るぎない勝利をミキ・蒲田は確信してしまった。その時、リンゴの花びらは風に散り、大河の水面に身をまかせた。



BB讃歌

第3章 救世主再臨

「君しかいない……」

神様は池上健史の手を握りしめそうつぶやいた。神様の目は祈りに満ち溢れ、願いを託す小さな力が指先に込められていた。池上の頬を一筋の涙がつたい、重ね合わせたふたりの手に落ちた。神様が自らの命を賭けて、最後の夢を託す相手は“無冠の帝王”だった。日本プロポケットビリヤード連盟(JPBA)、日本プロビリヤード連盟(JPBF)等、我が国のいずれのビリヤード団体にも、無冠の帝王・池上健史は籍を置かなかった。いわゆる“孤高の一匹狼”として、幼い頃から玉突き屋荒しに明け暮れた池上に、そんな肩書きは無意味だった。彼が唯一、価値を見い出したタイトルこそ、GBRCだったのだ。

1989年こどもの日。その池上に訃報が届いた。劇画界の巨星落つ…。日本中のこども達、いや全ての人々に希望をくれた劇画の神様・小塚勇実こづかいさみがこの世を去った。信じられない、信じたくない! だが、現実を直視しなければならない。後の劇画家達は小塚の遺志を受け継いでいかなければならない。小塚が生涯を通じて訴えてきた生と死、愛と正義、そして語り尽せぬ大きなテーマを。

小塚作品が私達にくれたメッセージは計り知れない。読み返すたびに感動を喚起する。例えば、代表作のひとつ、『ボンボンの棋士』は華族の家庭で英才教育を受けた天才将棋さし・銀次郎の波乱に満ちた一生を見事に描き切った。絶縁状態にあった父を「おとっつぁん!!」と呼び、その父を火事の業火から助けるため、自ら炎に包まれるラストシーンには、あのフランダースの犬もしっぽを巻いた。

偉大な劇画家と不世出のハスラー・池上健史の出会い…それは偶然の出来事だった。数ヶ月前まで、池上は世界中のあらゆるビリヤード記録を塗り替え、また、樹立していた。馬鹿げたたとえだが、地球上をくまなく捜索しても、池上の敵はいなかった。そう、あの辰巳耕志が現れるまでは…。

一年にたった一日許されたオフの日だった。池上が馴染みの店「昭和パルティ」でキューを握っていた時、小塚が雑誌の編集長と共に現われた。小塚はたちまち池上の華麗なキューさばきに魅せられた。以来、彼はビリヤードに取り憑かれ、やがて、ある決心をする。ビリヤードをテーマにしたスポーツ根性劇画、いわゆるスポ根ものを手がけようと。新旧GBRC統一戦の苦難の道程を“逆境の人生訓”として、主人公・池上健史に語らせようとした。

取材を進める小塚は、やがて、“浮世の鬼”不二巻建設の傍若無人な弾圧、スポーツ界の風上にも風下にも置けない極悪非道ぶりを知る。その不二巻建設に素手で立ち向かう池上の姿に、感動を抑えきれない小塚は、遂に池上健史の伝説『鉄腕大帝・ハスラーキング』を発表する。劇画界に大センセーショナルが巻き起こり、「小塚劇画、新分野開拓!!」、「天才、新境地開眼!!」といった活字が、連日各誌のトップを埋め尽くした。だが、この作品の中でも新旧GBRC統一戦は、やはり夢物語であった。また、池上健史の“破邪魂”が一切描かれていない事も大きな謎とされてきた。

 その真意をはかりかねたビリヤードファンから、様々な非難、罵声が小塚に浴びせられ、彼の劇画家生命を危ぶむ声さえ聞かれた。だが、そのような声に応え、新作発表の緊急記者会見の席上、小塚はこう語った。

「池上健史君は稀代の勝負師。彼の破邪魂、すなわち、一種の“神秘性”を安易に取り上げる事はできなかった。一劇画家にはまだまだ解き明かせない。もうしばらく、時間が欲しい…『鉄腕大帝』だけでは足りない…」と。

小塚自らライフワークと呼ぶ作品『覇の鳥』抜きに、彼の業績は語れない。この時、既におぼろげな超大作の輪郭が小塚の心を支配していた。

あらゆる「闘い」は、全てひとつの根源的闘争の種から始まり、覇の鳥は勝負の行方を左右するもの、絶対的勝利を象徴するものとして描かれている。覇の鳥は物語の随所に登場し、闘いの展開を見守り、時には惑う者を導く愛の使者として羽ばたく。「戦争編」を筆頭に、「喧嘩編」「博打編」「もめ事編」「裁判編」ほか、どれひとつを取っても優れた作品である。しかし、『覇の鳥』が羽を休める場所はない。いくら筆を費やし、構想を練っても『覇の鳥』に託したテーマを語り尽くすことは決してできない。永遠のテーマはどこまでも永遠であり、決して終わる事はない。絶対普遍のテーマを表現し切れない小塚は、己の非力に喘ぎ続けた。

『鉄腕大帝・ハスラーキング』発表により巨匠の地位を不動にした小塚は、池上健史との出会いを回想し、かつて味わったことのない電撃が全身を駆け巡ったと語っている。小塚は池上の“破邪魂”に奇跡を見た。やがて、この奇跡と、勝負をテーマとする「覇の鳥」が結びつく。奇跡と勝負……小塚は即座にイエスキリストの復活を思い浮かべた。人類の救い主として、この世に生を受けた神の子・イエス。しかし、彼は世を惑わす者としてゴルゴダの丘で十字架にかけられてしまう。彼は死に瀕しながらも再臨を約束した。そのキリストの最期から、2000年の時が経とうとしている。

小塚はキリストの誕生した2000年前に遡り、物語の舞台をイエスが育ったナザレに置いて『覇の鳥』「決闘編」を描くべく筆を執った。今では観光客や物売り達の喧騒に満ちているナザレだが、半面、物乞いをするこども達、観光客の手を引く乞食…いたる所に惨めな人生が垣間見える。イエスの生きた時代は、今より更に貧しかった。彼が毎日見たものは、そんな生活の辛さや貧しさだけではなかった。昼間の暑さと夜の冷たさの差が激しく、肺炎で命を落とす者が後を絶たない。また、マラリヤが猛威を振るい、人々は次々と死んでいった。

そんな生き地獄の前に、イエスはあまりにも無力であった。飢餓や貧困、そして病魔に“決闘”を挑むにはあまりにもちっぽけな存在だった。小塚はナザレに羽ばたく覇の鳥を空想した。覇の鳥はやがて神の遣いとしてイエスの眼前に舞い降りる。しかし、池上健史の破邪魂をバックボーンに、キリストの生涯と社会が熱望して止まない救世主の再臨を、永遠の生命を通して描こうとした小塚の志しはとうとう「決闘編」として実を結ぶ事はなかった。

 君しかいない……小塚のこの言葉は一体何を意味するのか? 小塚はライフワークの完成を池上に託したのではない。それは、劇画界が担うべき問題である。池上は指先に伝わる小塚のかすかな力にすべてを悟った。ビリヤード界の救世主となって奇跡を起こせ……つまり、己の破邪魂で新旧GBRC統一戦を制覇せよ、そう小塚は池上に訴えたかったに違いない。不二巻建設こそ、ナザレの飢餓や病魔であり、救世主・イエスは池上建史なのだ。「決闘編」は限りなく大きなメッセージを残し、日本劇画史上最大の絶筆となった。

 池上の心は小塚を失った悲しみに暮れ、ナザレの町でボロ布を身にまとい、己の無力を呪うイエス同様打ちひしがれていた。だが、池上は人々の期待と夢を、そして、人生を背負っていた。史上空前のビリヤードブームに火をつけ、かつて王座に君臨した無敵の帝王が、このまま終わるはずはない。池上健史が“神の子”として再臨する時、新旧GBRC統一という奇跡は必ず実現する。



BB讃歌

第4章 スポーツ馬鹿前夜

1. ああ…地獄千尋のもくず

 豪雨の帳と漆黒の闇を切り裂く光の矢と化して、夜行特急「疾風号」は一路北を目指していた。さいはて荒野鉄道――周辺地域の抗し難い過疎のあおりを受け、近く廃止される典型的なローカル鉄道だった。疾風号はそんなさいはて荒野鉄道を支える唯一の主役として、連日鉄道マニアのカメラに最後の勇姿を誇っていた。

今夜も沿線に陣取る熱心な鉄道マニアは凄まじい豪雨に打たれながら、疾風号の通るのを今か今かと待ち構えていた。これほどまでに人々に愛され、惜しまれつつ消えていく鉄道はかつて一本もなかった。大雨洪水警報くそくらえ、強風波浪警報なんのそのとばかりに飛び出した疾風号は、そんな人々の心意気が嬉しかった。一途なファンの期待に応えたくて居てもたってもいられなかった。

 「疾風号止りなさい! 危険だ! 聞こえないのか!? ただちに止りなさい!!」

 管制官の命令を無視し、時刻表のダイヤをぶち壊して突っ走る疾風号は、もう誰にも止められない。疾風号と鉄道ファンの固い絆を絶ち切る事は、もはや総裁にもできない。朝から降り続く豪雨に山間の地盤は緩み、はけ口のない雨水は滝と波を打って軌道を塞ぐ。それでも、ウォータージェットさながらに水柱を上げて突っ走る疾風号は、まさに、鉄道史上最強の列車を幻想させる。疾風号の果敢な挑戦は猛り狂う嵐を向こうに回し、果てしなく続くかにみえた。だがしかし、大自然の猛威の前では、この鉄道史上最強の列車も所詮非力な走る機械に過ぎなかった。

 突然、まばゆいばかりの閃光がきらめいたかと思うと、もの狂おしい轟音を響かせて落下した雷は、はがねの道を寸断し緩んだ地盤を土石流へと変貌させた。土地の人々が“地獄千尋”と称して恐れる底なしの谷に、哀れな走る機械はなす術もなく吸い込まれていった。断崖絶壁の岩肌に砕ける“鉄製”のもの悲しげな音だけを残して……。

1960年代半ばの某月某日。回送だった疾風号に乗客はなかった。それがせめてもの救いだったが、この大事故は日本鉄道史に陰惨な影を落とした。その後、廃止されるさいはて荒野鉄道には復旧作業の手も差しのべられず、谷底からは疾風号のプレートと、不可解にも卓球のラケット一本とボール数個が回収された。いずれのアイテムにも、見慣れぬ龍の彫り物が施されていた。しかし、それらが恐らく意味したであろう若い命の灯火は、とうとう砕け散った疾風号の残骸から見つけることはできなかった。地獄千尋には今も花束がたむけられ、訪れるかつての同僚達は、殉職の勇者に“指差し喚呼”と敬礼を決して忘れない。


2. 困ったちゃん怪気炎

 未だ歴史の浅いプロゴルフの「ボランティアオープン」は、各国の一流ゴルファーが凌ぎを削る白熱した戦いを展開した。結局、セベ・バレステロスの遠縁にあたる、第1シードのドベ・バレステロスが格の違いを見せつけ優勝をさらった。さて、この風変わりなお祭り大会に降って湧いた、ちょっとした珍事が関係者の失笑を買っている。

今回、ボランティアオープンが世界初の「素人名人会制」を導入し、大いに盛り上がったのをご存知だろうか? 予選にすら参加を許されていない弱小選手に開かれた門戸として、これまでにも注目を集めてきた制度で、その内容は極めて単純だった。ギャラリーに混じってこっそり観戦する、そういった卑屈な選手をクラブハウスに整列させ、ジャンケンで最後まで勝ち残った選手に参加資格を与える、いわゆる飛び入り参加である。

 そして、なんと今年の素人名人会制に勝ち上がったのが、ゴルフ界の大問題児ことシャー・ナイ・ヤッチャナだったのである。ゴルフ協会がその対処に苦慮する“最悪の困ったちゃん”である。ちなみに、彼は現在、世界素人ランキングでも完全に観測不能な大圏外の存在だ。どうやら、ベトナム国籍を持つプレイヤーらしいが、その詳細については不明だ。もっとも、誰もそれを真剣に調べようとはしない。ただ、地元ハイスクールが唱える一説、すなわち、太古のゴルフコースに迷い込んだ犬に“ゴルフの妖精”が取り憑き、人間に化けた姿がシャー・ナイ・ヤッチャナだ…との説が、都市伝説的に支持されている。しかし、こんな説には当然のごとく、根も葉もない無責任な尾ひれがつき、とんでもない異説も浮上している。それがまた、ギャラリーの笑いを誘う。

太古の当時、日本から出張していた花咲か爺さんが、コースに桜の木を植樹し、花を咲かせていた時だった。“グリーンにカップを切る侵入者”を樹上から発見した爺さんが、花を咲かせる手を一旦休め、その侵入者を犬に変えてしまったというのだ! その後、ポチと名付けられた犬には重たい罰が科せられた。ポチは爺さんの「ここ掘れ、ワンワン!」の言葉に踊らされ、来る日も来る日も穴を掘るしかなかった。

その、ポチの無念が“ゴルフ場の地縛霊”と結びつき、再び人間の姿を取り戻した…それが、ナイ・ヤッチャナだと言うのだ! 元ポチのナイ・ヤッチャナは、自分の意志に反する穴掘りを放り出し、大好きだったカップ切りに、ずっとずっと精を出しましたとさ。めでたし、めでたし…。

 余談はさておき、飛び入り参加を決めて有頂天になるナイ・ヤッチャナを横目に、頭を抱え込んだのは、彼と同じ組で回ることになった三人の選手である。彼らは大会前のわずかな時間を利用して、最寄りの神社に参拝しお互いの無事を祈り合った。そして、お守りを授けた巫子さんのさりげない言葉は、三人の選手を不安のどん底に叩き落とした。

「お守り、ひとつでいいんですか?」

彼らは後刻、それがひとつでは到底足りなかった事を思い知ったが、すべては後の祭りだった。変則ルールに則って、最終組がラウンドを開始しようとしている時、第1組はパー3の5番ホールでナイ・ヤッチャナの第98打目を待っていた。この、カップまでわずか5センチのイージーパットに対し、誰ひとりOKを出す者はいない。結局、ナイ・ヤッチャナはこのホールを100ジャストでホールアウトし、6番ホールに歩みを進めた時、待たされた三人の憤怒は頂点に達していた。

 「100か、はっはっはっ、三桁はちょっといただけないな……でも、まあまあじゃん」

 と、小首をかしげながらスコアを記入するナイ・ヤッチャナ。その背後に忍び寄ると、神も仏も恨むしかない同じ組の三選手は渾身の力を込めて、手にしたクラブを振り降ろした。

「グゴ…」

「グサ…」

「メキ…」

鈍い音の三重奏が響いたかと思うと、「ウッ……ワン!」と一声呻いたヤッチャナは、ボロぎれの様にその場に崩れ落ちた。ハッと息を呑むギャラリー、目を見張る関係者。しかし、次の瞬間、最終組のプレーを見守っていた人々の「ナイスショット!」の歓声に緊張はほぐれ、それきり、ヤッチャナを気にとめる者はいなかった。ヤッチャナはこの時一命こそとりとめたものの、ここのところ第一線を退いたと噂される。ただ、身の程知らずの愚かにも、己のゴルフ理論を『勝つためのマイゴルフ』などといった、ふざけた著書にまとめようと張り切っているらしい。



Episode―2 師弟

スケートスクールに集まったこども達が、やや緊張気味にインストラクターの顔を見上げている。インストラクターも何かを胸に期していた。

「今日は入門編です。あまり面白くないし、そんなの知ってるよって事もたくさんあると思うけど、おさらいのつもりで聞いて下さい。いい? みんな」 

ジュニアの指導は、辰也自身が初心に帰る貴重な時間でもあった。このあどけないこども達のキラキラした瞳の奥に、まだ少年だった自分の姿が垣間見える。教える立場でありながら、教えられる事の方が多い。汚れを知らないこの子らに、幾度となく勇気づけられた。

「はーい!!」

 教室全体に無垢で元気な声が木霊する。

「元気いいな! 安心しました。じゃあ、早速基本的な事からやっていこう」

「お願いしまーす!!」

こども達の透明な声が揃う。

「こちらこそ、お願いしまーす!!」

辰也もその元気を分けてもらう。

「みんな、転ばぬ先の杖と言うことわざ知ってるかな?」

「………」

「ちょっと難しいかもしれませんが、家に帰ったらお父さんやお母さんに聞いてみて下さい。とにかく、インラインの杖はこのセーフティーギアだと憶えておく事、いいね。セーフティーギアは君たちが転んだ時にきっと役に立ってくれます。体を守るための大切な道具です。みんなの前にちゃんとあるよね、いい?」

「はーい!!」

「じゃね、実際につけてみよう。見本を見せるからその通りにやってみて下さい。それから、みんなが待ちに待ったシューズも一気に履いてしまおう!!」

「わーい!!」

セーフティーギア一式とインラインスケートシューズの装着方法をこども達に指導する辰也の手に力が入る。全ての基本がここにあるからだ。

「みんな履けたね。今日はあいにくの雨だから外には出れないけど、いつもお日様を一杯浴びてやっている事があります。さて、何でしょうか? わかる人」

自信なさげに二、三人の手が挙がる。

「じゃあ、広明君」

「スケート!!」

「はっはっ! そのままだな。面白いけど、スケート滑る前にやる事です。はいっ、それじゃ誠君」

「深呼吸!!」

「近い! はいっ、美由紀ちゃん」

「体操!!」

「正解! そうなんだ、体操なんだ。もっと正確に言うと準備体操です。ストレッチとも言いますが、みんな学校の体育の授業でやらない? いくらセーフティーギアをつけていても、体をほぐしておく事が大切です。シューズが履けたからと言って、いきなり滑り出すのはとっても危険です。滑る前に必ずストレッチをして下さい。インラインは一見簡単そうに見えますが、実際は体全体を使う激しいスポーツです。だから、時間をかけて全身をしっかり伸ばしてから始めよう。いいね!!」

「はーい!!」

辰也はまだデリケートなこども達の体を、絶対に傷つけたくなかった。恩師・甲斐晋作の選手生命を絶った、あの忌まわしい大怪我を誰にもさせたくなかった。恐怖すら、そして、全てが終わったとすら感じた師の大怪我……。それだけに、健康なこども達が本当に愛しかった。辰也は愛情を込めてストレッチを教えた。

「はい、基本姿勢。インラインを滑るとき、この基本姿勢はとても大事です。今日はベストポジションを覚えよう。インラインの車輪は自動車のように左右にはありません。一列に並んでいます。だから、安定していることがとても重要です。みんな、足をがに股に開いてみて下さい。Vポジションと言います。ちゃんと出来ていれば、ウィールは回転しにくいはずです。どうかな?」

「先生、がに股ってこう?」

「そうそう、それでいいんだ!」

辰也は3年前、アメリカに本部を置くインターナショナル・インラインスケーティング・アソシエーション(IISA)のインストラクター認定講習会を受講して、公認インストラクターの資格を取得した。IISAはアメリカの業界関係者と熱心なスケーター達によって、1991年に創立された。優秀な教育プログラムを開発し、安全なスケーティングを確立した事で知られる。日本の組織は、日本インラインスケート協会に加え、日本アイスホッケー連盟傘下の日本ローラーホッケー協会、プロ・アグレッシブ・スケーターの育成を目指す日本アグレッシブ・スケーティング・プロフェッショナル・アソシエーションなどがある。

辰也はインラインスケートの基本を、手取り足取り丁寧にこども達に教えた。そして、楽しい時間は瞬く間に過ぎていった。

「今日はこれでおしまいです。次回はいよいよ実践です。補助なしでも大丈夫になったら、コースでの練習に切り替えます。ただし、今日習ったV字ウォークは、滑らさずに歩くんだという事を忘れないように。じゃ、みんなスケートを脱いで、セーフティーギアを外して下さい」

 「はーい!!」

 辰也の脳裏をふっとかすめる想いがあった。こども達はインラインスケートに乗って何処へ行くのだろう? ただ、風と戯れるだけなのだろうか?

「ところでさ、みんなスケート以外に何かスポーツしたことある?」

自分でも思いがけない言葉だった。

「野球!」

「バスケ!」

「運動会!!」

緊張のほぐれたこども達が、大はしゃぎで叫ぶ。

 「はっはっはっ。武司君、うまいな!」

 「運動会って、スポーツだよね?」

 「ああ、立派なスポーツさ! でも待てよ、パン食い競争はどうかな?」

ちょうど、そこへ甲斐晋作が様子を見に来た。すっかり手に馴染んだ金属製の松葉杖に、こども達の視線が集まるのは承知の上だった。普段の彼に暗さは微塵もない。今もその目に宿る辰也を育てていた頃の鋭い眼光は、こども達を見る時はサッと和らぐ。時代遅れのトレーナー姿が醸し出す、彼の朴とつとした雰囲気はこども達の固さを自然とほぐす。

「いや、たっちゃん、パン食い競争だって立派なスポーツだよ。そうか、運動会か? 面白い事言うな!」

「みんな、このお兄さんは、先生の先生で甲斐先生です」

「甲斐です、よろしく。みんな、一ノ瀬先生の言う事をよく聞いて、スケートうまくなってな。僕は大会で怪我しちゃったけど、みんなは僕のようになっちゃ絶対ダメです! でも、僕はまた、みんなのように滑ろうと張り切っています!」

甲斐晋作は敢えてここに来たのだろう。今の自分の姿をこども達の目に焼き付けるために。しかし、ぎこちなくスケートを滑る格好をした甲斐に、こども達の顔がほころぶ。

「先生の先生だったら、偉い人?」

こどもの一人が無邪気に質問した。

「そう、とっても偉い人だよ」

「おいおい、たっちゃん」

「なに照れてんの。あっ、そろそろ時間だ。こども達送ってきます」

「よっしゃ! 頼んだ」

辰也はこども達を近くの駅まで送り届けた。車の中の会話は、運動会でどの種目が一番得意かに絞られ大いに盛り上がった。屈託のない笑顔が輝いていた。辰也が帰ってくると、甲斐がテレビを熱心に見ていた。デジカメがつながっている。映像の中から檄が聞こえる。

(おい、何やってんだ!! 腹にすいかが入るくらい背中を丸めろって言ったろ! そうだ、その調子、真横に最後まで蹴るんだ。膝とウィールが一直線になるように。そう、蹴りと同じくらいの強さで腕を振れ!!)

(クロスした足に完全に乗る! 視線はそう、真っ直ぐ前を見て! こら、円の内側を見てちゃ右肩が入って、クロスできないぞ! 外側に向かって……そう、蹴る蹴る! そう、そのまま、片足にしっかり乗っていないと遠心力に負けるぞ。膝を深く曲げて!)

中級者の滑りを指導する、辰也の声に思わず力が入る。大会が迫っていた。

「俺も随分、焦ってるな。みっともないな」

傘をたたみながら、辰也は自分の鬼コーチぶりを笑った。

「お帰り。いや、たっちゃんが怒鳴るの無理ないよ。あいつら期待されてるのに、ちょっと緊張感足りなかったし」

「やっぱわかる?! だよね。さすがは甲斐さんだ」

「わかるよ。僕だって、教えていた頃は…」

「まさに鬼!!」

「忘れたな。それよりさ、たっちゃん、これ見てみ。なんだか面白そうだぞ」

そう言って、甲斐が辰也に示したのは、売れ筋ゴルフ雑誌の一ページだった。

「なに? スポーツヒルズ東京……企画コンペ募集要項…へえー」

そこには次のような記事が載っていた。


スポーツヒルズ東京 企画コンペ

募集要項

スポーツヒルズ東京は、箱根からもほど近い○○山の山頂にあります。夜ともなれば東京の街を一望できる夜景は絶品です。100万ドルにも匹敵します。東京・神奈川どちらからの来客も見込める最高の立地が自慢の、ゴルフコースを核とした総合スポーツ施設です。周辺に競合する施設もありません。

スポーツヒルズ東京のゴルフコースは、池やバンカーをレイアウトしたアイアンコースと本格天然芝のパターコースをはじめ、プロゴルファーをも唸らせた設備が整っています。また、最新のブランドが並ぶプロショップ、ナイター設備もあります。

しかし、ここで宝の持ち腐れだという話をします。現在、実は年間7億円の売上に満足し切っていたのです。キャンペーン等の企画も女性社員が仕事の合間に考えていました。設備は立派でも、「仏作って魂いれず」とはまさにこの事かも知れません。何とかしなければという思いが強まりました。

もっともっと売上は伸ばせると私達は考えています。例えば、今まで怠ってきた来場者プロフィールの分析、近隣の大学の学生さんに練習場やデートスポットとしてご案内する、全く新しいスポーツを採り入れるなど、○○山頂にあるこの宝、アイデアと実行力さえあれば、軽く10億円を生み出す力があると思っています。

そこで、あなたに支配人級の権限を差し上げます。そして、スポーツヒルズ東京の施設をあなたに委ねます。この施設の改革に取り組んで欲しいのです。集客倍増となる企画を立案していただきたいのです。出来れば何かのスポーツに情熱を傾けた事がある、そんな方が理想です。私達が欲しいのは、あなたの企画力と実行力なのです。


「なんだか夢のある話だな」

「なにか考えてみなよ、たっちゃん」

「急に言われてもな。甲斐さんこそどうなの?」

「僕はもうだめだよ。今はこんな体だし、説得力ないよ。それに僕は滑る事しかできなかったし、これからもそれしか考えられないよ」

「できなかったって…なんで過去形になってんの? さっき、こども達にみんなのように滑ろうと張り切っていますって言ってたじゃん!?」

「あの子らには僕が医者から言われた事は、そのまま言えないさ」

甲斐晋作の目に暗い影が宿る。

「まだ、絶対ってわけじゃないよ! それに俺だって同じだよ。やっぱ、滑る事しか考えられない」

「たっちゃんはスポーツ万能だから、この企画コンペをさ…。スケート以外の事も考えていいと思うよ。だって、もう頂点極めたわけだし」

「甲斐さんじゃあるまいし、頂点なんて極めてないよ」

「あっ、さっきの武司君の話」

「えっ? ああ…運動会?」

「そう、運動会。こども達はそれぞれ自分の好きな種目、自信のある種目を選ぶけど、最後は赤組と白組の総合得点を競う。個人戦だけど団体戦だよな。僕達が参加したXゲームも、考えてみりゃ運動会みたいなものだな……」

だが、甲斐はそのXゲームで選手生命を失ったのだ。Xゲームという言葉を口にする時、努めて明るく振舞う彼を、辰也はいつも心の何処かで気遣っていた。

「だから?」

だから、逆にそっけなくなる。

「だから、ヒントになるんじゃないか?」

「この記事の?」

「そうだよ!」

辰也はもう一度、ゴルフ雑誌の記事に目を落とした。



BB讃歌

第5章 ビッグエッグの撞球対決

1. 時空断裂ガスの罠

新GBRC公開ゲーム(ローテーション)

第1戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム ※○勝ち ●負け

第2戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム

第3戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム

第4戦 ●池上―辰巳○  東京ドーム

第5戦 ●池上―辰巳○   東京ドーム

第6戦 ●池上―辰巳○  東京ドーム

第7戦 ●池上―辰巳○  東京ドーム

第8戦 ●池上―辰巳○  東京ドーム

第9戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム

第10戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム

第11戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム


 広大な人工芝のど真ん中に、たった一台置かれたビリヤードテーブル…銘板には「1961 不二巻建設製」と掘られている。この得体の知れない古色蒼然たる撞球台は、まるで湖面に浮かぶ木の葉のように儚く見える。東京ドームの人工芝が、胎内に波打つ神々しき羊水のように照り映える。その中心に対峠する池上健史と辰巳耕志の両雄。新GBRCタイトル戦に先立つ公開ゲームの緊張は、最高潮に達していた。

池上健史が“無冠の帝王”と異名をとるのは、目の前にいる辰巳耕志と彼の所属していた不二巻建設の世にも稀なる不条理がまかり通ったため。GBRCは辰巳の手から不二巻建設の支配下に落ちた。GBRCの理想を継承した新GBRCだったが、辰巳はまたしても、いとも簡単にその王座に就いた。無冠の帝王がビリヤードテーブルに沈んだあの日……池上信者にとってのこの世は終わった。人造人間・キカイダーの宿敵だったハカイダーが、最強にして最後のダークロボット・白骨ムササビに一瞬にして敗れ去ったように、池上はあっけなく辰巳の軍門に下った。

かつて、池上の代名詞だったGBRCに暗い闇が訪れた。何もさせてもらえなかった。辰巳は恐ろしく変わっていた。それまで無名に近かった彼の突然の変貌。その謎は解けない。しかし、池上健史は確信していた。どんな秘密がそこに潜んでいようとも、辰巳の妖力には必ず限界があるに違いないと…。

辰巳サイドが条件として突きつけた東京ドームという場所。この事が池上の確信を深めた。確かに不利だが、それを百も承知で呑んだ。逆につけ込む余地があるに違いない。やっとつかんだチャンス。もう逃がすわけにはいかない。東京ドームは超満員の観客ではち切れんばかりの熱気に包まれていた。その熱気はまさに、澄まし顔の現代に吹きかけられた魂の吐息だった。

科学万能の現代は全てが機械制御され、合理的に計算し尽くされている。しかし、人間の造った機械に管理される世の中には、一抹の寂寥感がつきまとう。平和ではあるが何故か空しい。今日は決して諦める事のできなかった、遠い日のロマンに再びたぎる血の温かさを感じる。池上がそのロマンをきっと叶えてくれる、誰もが堅く信じて疑わなかった。しかし、こんな声も上がった。

 「おかしいぞ、これは罠だ!!」

全て覚悟の上だった。静まり返る場内に試合開始のゴングが鳴り響く。それは池上のブレイクショットで始まった。ボールは面白い様にポケットに落ちていった。池上はいとも簡単に、公開ゲーム3連勝を決めた。しかし、辰巳には戦慄に値する、恐るべき底力が眠っていた! なんと、5戦連続して、ブレイクショット一発で全てのボールをポケットインして見せたのだ!! まさに、それは神業以外のなにものでもなかった。たちまち、星勘定を自身の5-3とし、世界の度肝を抜いた。東京ドームの天蓋膜が観客のどよめきに揺れ、しばらくの間、異様な空気が場内を支配した。

 「嘘だ、嘘だぁ! こんなのイリュージョンだよ!」

「こ、こんな事、信じられない!! 僕の目はどうかしてる…」

「こ、こわいよ、パパ~! プー(放屁)」

 「ば、ばあさん、血圧の薬ねぇだか?」

 「んな、アホなぁ~!!」

多くの観客が目の前の超常現象に、感情をうまく表現できない。しかし、池上はそれでも、終始冷静さを貫いた。いわば、想定内だったのかも知れない。

「さすがだ、辰巳君。私の完敗だ。私には最初から挑戦者の資格がなかったようだ」

決して皮肉ではない。池上にそんな心の余裕などあろうはずはなかった。

「まだ、終わっちゃいない! お楽しみはこれからだ」

迎えた9回戦、得点経過はまたしても辰巳絶対優位。敢えてブレイクショット一発で決めず、池上を生殺しにする作戦だった。6ゲーム先取制のルールにおいて、辰巳の勝利はもはや動かし難かった。ここから池上が逆転するのは、天地がひっくり返っても不可能だった。期せずして起こる大池上コール。それはたちまち、東京ドーム5万観衆の耳を聾する大合唱へと変わっていった。手にハンカチを握り締めて泣いていた多くの女性ファンも、池上の生き方に学ぶ熱烈な信者も、そして、老若男女全てのファンが総立ちとなった。とても、大一番前の公開ゲームとは思えない。

「イーケガミ!! イーケガミ!!」

 しかし、それはあまりにも悲痛な叫びだった。池上の背負うあまりにも大きな重圧だった。いかなる苦境に立とうとも勝つことを義務づけられ、その重責を強靭な精神力と神秘的な破邪魂の力で果たしてきた池上健史。だが、大観衆の見守る大舞台で、同一対戦相手にまたしても屈辱的な惨敗を喫しようとしていた。

じっと目を閉じ精神を集中する池上。辰巳の横顔には不敵な微笑が浮かんでいる。そして、池上の哀れな抵抗とも言える最後のショットを、もどかしげに待っていた。と同時に、辰巳は過去の日々をゆっくり振り返った。

(明らかに格上の自分が、なぜこの男から逃げ続けなければならなかったのか? どこに相手不利の条件を突きつける必要があったのか?)

そう思うと、池上が間抜けに見えた。しかし、その傲慢な思い上がりがへし折られ、叩き潰されるのに大した時間はかからなかった。池上は9回戦を大逆転で飾ると、神がかり的に3ゲームを連取したのだ! 終わってみれば6―5の大逆転勝利であった。池上の破邪魂を侮り、己の力を過信した愚か者の末路であった。辰巳の顔面は色を失い醜く歪む。見開かれた驚愕のまなこは、池上の表情を見据えて凝固していた。

 「こ、これは?……そんなはずはない!!」

辰巳はチョッキのポケットから何やらノートの様な物を取り出し、慌ててページをめくり始めた。

 「あの局面からこんな事になるなどと、ここには書かれ…!! む、難し過ぎる……」

 打ち震える手に握り締められたまがまがしいノート。表紙に書かれた直筆のタイトルはしたたるあぶら汗に滲んでいたが、辛うじてこう読めた。

『〇の父G~付録:〇〇処方箋~』と。

 後でわかった事だが、トップアイの促えていたドーム内の映像は、まるで、シュールレアリスムの巨匠・サルバドールダリの絵画のように、私達の理解を超えた奇っ怪なものだった。池上は今まで見た事もない異次元空間で戦っていたのだ! 不二巻建設から既に独立した辰巳の私設組織・東京プロフェッショナルハスラー協会(TPHK)が、不二巻建設の技術ノウハウをベースに開発した「時空断裂ガス」。だが、辰巳の不手際か、ガスの比重が軽すぎたためにドーム空間の一部を歪めることしかできなかった。

そして、これも後になってわかったことであるが、4~8回戦に見せた辰巳のブレイクショットこそ、彼が建設界の超大物から授かった秘技「命の父G」の恐るべき正体だったのである! しかし、この卑劣千万な作戦を嘲笑うかのように東京ドームの巨大なオーロラビジョンには“池上勝利!!”の文字が眩しく映し出されていた。

 その頃、東京ドームの空調室を徘徊する怪しげな影に、誰一人気づく者はいなかった。その人物は足元の大きな缶に長いチューブを入れ、その反対の端を空調設備の吸排気口とおぼしき場所に差し込んで、チューブの中間に取りつけられた金属製のバルブを慣れた手つきで調節している。辰巳耕志と常に行動を共にする、屈強のオランダ人青年・ナンバには、己のアテンダント生命、いや、師と共に築いてきたTPHKの命運がその双肩に委ねられている。

だが、たった今、目前で師匠は池上の破邪魂に屈した。このまさかの逆転負けは、たとえ公開ゲームとはいえ、用意周到にして万全の道具立てで臨んだだけに、当の辰巳のみならず、一心同体のナンバをも大きく動揺させた。

「あの強い師匠が、なんで俺にこんな事まで……」

大きな疑問符のついた空しい思いがナンバを襲う。

「…ナ…ンバ、ナンバ、ま、まずい事になってしまった。み、見ていただろうが、ちょっと信じられん。時空断裂ガスを最大限補充して援護してくれ!!」

この時、池上・辰巳両選手は3塁側と1塁側のベンチに設けられた休憩所に分れ、15分間のインターバルをとっていた。公開ゲーム終了後、3塁側のベンチに引き揚げるや否や、辰巳は目を血走らせ、焦りにさいなまれる神経を必死に鎮めながら、小型トランシーバーを通して、空調室に忍ぶナンバに呼びかけた。

 「……ラジャー!!」

 狼狽ぶりを露わにする師匠の涙声に、こちらまで弱気になるまいとするナンバ。たった一言元気よく応答すると、自分の気持ちを鼓舞するかのように、くだんのバルブを力一杯開いた。トップアイの促えたドーム内の映像は、それまでまだ三次元の面影を残していたが、時空断裂ガスの供給量が最大となった途端、人知想像の域を越えた奇怪なコラージュが、身の毛もよだつコンピュータグラフィックスの映像として出現した。

不気味な光を放つ旧式のジェットコースターが、東京タワーの大鉄骨を猛スピードで滑り下りて来る。そこにはなんと、茶髪でパンチパーマのよく似た顔の青年ばかりが大勢乗っている! 青年達は誰一人シートベルトをしておらず、野球場の観客がよくやる“ウェーブ”を全員一丸で決めているではないか! この危険極まりないパフォーマンスは“異様”としか表現出来ない。

そんな馬鹿な……と絶句するのはまだ早い。ジェットコースターが霧の彼方に消え去っていくや否や、いきなり場面は一変する。身を切るように冷たい風が川面をひとなめしたかと見ると、江戸時代の風情を宿す一隻の屋形船が、巧みな船頭の棹に操られて流れてきた。あたりがたちまち暗くなり、時を同じくして灯った行灯が、屋形船の障子に驚くべきものを映し出した。数珠を握り締めて一心不乱に拝む老婆の影が、ろうそくの火に伸び縮みする様子は“戦慄”としか表現できない。

しかも、それらの幻影全てがただならぬ幽気を漂わせて宙に浮かんでいる。だが、ドーム5万観衆、10万個の目はこの怪奇なコラージュを目撃することはなかった。しかし、池上だけは邪悪な気配を感じ取っていた。辰巳の作戦は歯車が噛み合わず、またしても、大失敗に終わったが…。

(たかが公開ゲームと……それにしても辰巳は手を抜き過ぎたのでは?)

池上は大きな疑問符のついた安堵感に浸っていた。素直にこの幸運を神に感謝するとともに、今日までの決して平坦ではなかったビリヤード人生に思いを馳せていた。だが、ハッと我に返った池上に休息の時はない。彼にはまだ果たすべき使命が残されている。この勢いを駆って、新GBRCのタイトルを奪還しなければならない。それが成し遂げられなかったならば、全てが水泡に帰すことを深く胸に刻んで、この危険な戦いに敢えて身を投じたのである。

辰巳耕志はかつて、あの魔人の巣窟、外界から閉ざされた闇の空間・不二巻建設で洗礼を受け、あらゆる技術を叩き込まれた。今まさに辰巳の仕掛ける総力戦の渦中に、池上健史は引きずり込まれようとしている。公開ゲームこそ辰巳が繰り出した秘技「命の父G」に追い詰められながらも、破邪魂の力で窮地を脱した池上だったが、これで終わる辰巳ではあるまい。

 (辰巳は自ら開発した“時空断裂ガス”とやらの使い方を誤ったな? ナンバとの連携ミスかもしれんが?…。とすれば、用心すべきはたった一つ、あの恐るべき神業だ。これまでの敗戦は参考にならない。だが、辰巳はまた失敗するはずだ…)

池上の胸中に去来するものはなんなのか? 全世界の注目を集める中、辰巳との長き戦いにピリオドが打たれようとしていた。


2. 強すぎる者の最期

   新GBRCタイトルローテーション

第1戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム ※○勝ち ●負け

第2戦 ○池上―辰巳●  東京ドーム

第3戦 ☆池上―辰巳★ 東京ドーム ※☆ドクターストップ勝ち ★ドクターストップ負け


 池上は無名の日本人選手に、日本撞球の至宝・GBRC(旧GBRC)タイトルを奪われた。その無名の日本人選手こそ、不二巻建設の刺客として初めて対戦した辰巳耕志だった。表向きには前評判を覆すあまりにも強い辰巳に、池上は全く刃が立たなかった。そう、あくまでも、“表向きには”である。しかし、神のみぞ知る真実は違っていた。その“異変”に気づいた池上は、一切クレームをつけず、誰にもその事を語ってはいない。これからも、彼はその真実を胸に秘めるだろう。

実は、辰巳との初対戦に使われたビリヤード台や球には、明らかに不可解な点があった。撞点によって変化するボールの回転が、まるで、地軸が狂った天体のように定まらないのだ。恐らく球の中に鉛が仕込まれていたのだろう。いわゆる、イカサマである。無論、辰巳はあらかじめ「取扱い説明書」を熟読し、球の重心やビリヤード台の“傾斜”を把握していたに違いない。当然、池上のショットだけが制御不能となってしまったのだ。

前代未聞のイカサマによる“王座強奪事件”が、GBRC破局の始まりだった。その後、辰巳は不二巻建設の先輩・蒲田に敗れ、同タイトルは遂に帰らぬものとなってしまった。不二巻建設が私物化したGBRC。その行く末を憂いたビリヤードベンチャーが、真の世界王者の理想を追い求めてタイトルを新設した。それこそ「新GBRC」である。第1シード権を辞退し、一介の選手として予選を勝ち上がった池上は無類の強さを見せつけた。当時、疑惑の的だった蒲田幹男をはるかに凌ぐ力量の前に、多くの選手が敗れ去った。しかし、辰巳との王座決定戦に、池上は再び惨敗を喫したのだ。一般紙の一面をも飾ったこの“事件”に、全ての関係者は再び驚愕を禁じ得なかった。辰巳、いや、不二巻建設の手口は初対戦時と同じだった。

辰巳は新たな理想に燃える池上の前に、またしても立ち塞がったのである。新GBRC初代王者誕生!! 黄金のベルトを腰に巻き、不敵な笑みを浮かべる辰巳。池上は潔く辰巳を祝福し握手を求めたが、どこか生気のない辰巳はそれに応じる気配もなく、オランダ人アテンダント・ナンバと共に試合会場をあとにしている。この時、池上はまだ黒幕・不二巻建設を知らない。

 その後、新GBRC戦はしばらくの間、辰巳の防衛戦ではなく“王座決定戦”と呼ばれ続けた経緯がある。ここに、辰巳をチャンピオンと認めたくない関係者の憂いが表われている。東京におけるエキジビションマッチで挑戦者となった池上が、どういうわけか辰巳を簡単に一蹴した事がある。

「タイトルがかかっていない試合になど興味ないわ!」

こう吐き捨てた辰巳は、ただ権威に溺れるチャンピオンの殻を脱いでいた。それが単なる強がりである事を池上は見抜いていた。

「私の目的はもっと他にある…」

 試合後の取材に対して池上はこう答えた。新旧GBRC統一戦制覇がその目的であることは確信できるが、果たしてそれだけだろうか? “最終目標”への道のりは長く険しいものに違いない。いくつもの壁が池上の夢を、いや全ビリヤードファンの夢を阻むだろう。しかし、池上は今その固い壁の一角を確実に崩そうとしている。

 公開ゲームを勝利で飾り安堵したのも束の間、新GBRC戦の開始を告げるゴングが鳴り響いた。ゴング直後、背広姿がその場には不似合いな紳士が、足元のボストンバックから双眼鏡を取り出した。ソフト帽を目深にかぶり、黒いサングラスの下の表情は判らない。まるで、バードウォッチングのように双眼鏡を覗き、グリップボードにはさまれたスコアカードらしきものに、ペンを走らせる熱心さはただ者のそれではない。

 それはさておき、ブレイクショット一発で全てのボールをポケットインする神業が、世界中の目を欺く欺瞞である事に疑いの余地はなかった。しかし、辰巳は愚かにもその神業に自らを見失い、公開ゲームで苦杯を舐めた。この本戦、すなわち、短期決戦の新GBRC戦には、更なる攻勢を仕掛けて来るに違いない。

だが、池上の中に潜む破邪魂はおよそ理屈では割り切れない。滝の水が上から下へ流れるという自明の理を、池上にあてはめることはできないのだ。池上のブレイクで始まった第1戦がそのことを全て物語っている。なんと、池上は目を閉じたままテーブルの四辺を回ったのだ。スタンスアンドストロークからは、まるで生き物のようなボールが量産されていき、色とりどりのオブジェクトボールは目にも止らぬ早さでポケットインしていく! 

研ぎ澄まされた獣の嗅覚なのか? 心のイメージゾーンにゾッとするようなコンビネーションを繰り出し、満場の観客に息つく暇すら与えようとはしない。まるで、ビリヤードの教科書を見ているかのような絶妙な魔球のポジションプレーは、辰巳耕志の全身を冷汗でぐっしょりと濡らし、顔面を真っ青に染めた。やがて、辰巳の冷汗は凍てつき、顔面は無惨な紫色に変色した。

水を打ったように静まり返る東京ドーム。呆然として立ち尽くす観客達。視覚を放棄した池上の破邪魂が緻密に仕上げた、パーフェクトゲームの完成だ! 長い静寂を破って巻き起こる怒涛の拍手、そして声援、雄叫び……絶望の淵にがっくりと膝をつく辰巳耕志。

「さ、さ、さすがだ……」

彼のそのつぶやきも、サングラスの紳士がわななく手から鉛筆を取り落とす音も、この大音響の中からは聞き分ける術がない。第2戦もバンキングでブレイク権を落とした辰巳の焦燥と怒りは頂点に達し、今にもはち切れんばかりに張り詰めていた。

 (ええい、ナンバのやつ、一体何をしているんだ!? このままでは……)

 しかし、辰巳耕志のこの予感は見事に的中する。池上が2連続パーフェクトゲームを完成させたのである!! 東京ドームを歓喜よりもむしろ戦慄が駆け抜けていく。

 「目ぇつぶったまま……人間技とは思えない!」

「こりゃ、何かの間違いだ! 俺の頭がおかしいんだ!」

「こ、こわいよ、ママ~! プー(放屁)」

 「ば、ばあさん、オシッコちびっただよ!」

 「ピヨピヨ、パオーン!」

 人々が漏らす驚愕の言葉に埋め尽くされるように、辰巳耕志は泡を吹き、人口芝に大の字に倒れたまま動かない。10分以上が経過し、駆けつけた救急隊がこの惨めな敗者を担架に乗せ運び去ろうとする。

「お、降ろせ、降ろしてくれ!」

しかし、その瞬間、意識を取り戻した辰巳は、往生際の悪いだだっ子のように叫び出した。叫び続ける辰巳を哀れむように見下ろしながら、なおも歩みを進めようとする救急隊に声をかけたのは、池上健史であった。

 「どうか、降ろしてやって下さい。まだ、試合は終わったわけではないんです」

 「しかし…あの電光掲示板を。あなたが新チャンピオンに決定したんじゃ?」

 と言って池上の背後を指差したのは主任の医師らしい人物。確かにドームのオーロラビジョンには“新GBRC王者・池上!!”の文字が読み取れた。だが、まだ電飾のスイッチは入っていなかった。

 「コミッショナーがあなたのドクターストップ勝ちを決めたんでは?」

 「いや、辰巳君にさえ、まだやる気があれば……」

 担架に横たわる辰巳を池上は慈悲深く見守っている。

 「もう一度、彼に聞いてみて下さい」

 池上の切実な様子に打たれた医師は、自ら辰巳の脈をとり、そのうつろな目を覗き込む。

 「辰巳さん、試合を続行しますか?」

「は、はい…」

 医師は頷く辰巳を抱き起こし、そっと背中を押してやった。こうして、再び辰巳は池上の目を睨み返す気力を奮い立たせた。期せずして湧き起こる拍手、拍手。まさに憧球史に残る感動的な場面であった。

 「岡崎君、念のためついていてあげなさい」

 医師は傍らの看護婦に声をかけると、医務室へと引き揚げていった。

こうして、オーロラビジョンの文字は消え、新GBRC東京ドーム決戦は再開された。執念のバンキングでブレイク権をものにした辰巳先攻の第3戦であった。新GBRCルールでは3ゲーム先取で王座は移動する。このゲームを辰巳が落とせば、もう誰も彼を救う事が出来なくなってしまう。ファンは一縷の望みを胸に抱き、辰巳の反撃を待った。思えば彼はこの戦いにおいてまだ一度もボールを突いていない。

「い、命の…父……G!!」

 うわずった声にムチを打ち満身に力を込めての絶叫は、辰巳耕志のもの悲しい最後の気合いだったのか!?

 「カリン!」

俗に“ナンジャソリャ”などと茶化される、そして、幼稚園児も度肝を抜かれる無様な大ミスショットだった。ベテランハスラーには全く弁解の余地は残っていない。コンセントを不意に抜かれた家電のように辰巳は止まった。作戦失敗のショックだけでは説明がつかない。

「カリン! カリン! カリン! カリン!……」

秘技「命の父G」の断末魔なのか? 反則ショットの哀れな響きは鳴り止まない。セコンドから投入されたタオルが辰巳耕志の頭と顔をすっぽりと覆った。ドクターストップの後、“新GBRC王者・池上!!”の文字が、オーロラビジョンに色鮮やかに映し出された。

「T……TP…HK…ばんざーい!!」

 辰巳耕志の咆哮がタオルの下からドームに木霊した。その表情は読み取れないが、池上だけは感じていた。桁外れに強かったチャンピオンの仮面を取った、本来の人間らしい辰巳耕志が戻って来たことを。「命の父G」の「解明処方箋」を解明し切れなかった辰巳耕志は、やがて、人間として自分自身の力を磨き始めるに違いない。だが、逆境をバネにした神秘な破邪魂に勝るものは、もう何処にも存在しない。



BB讃歌

第6章 望まれし十字架

そこには、かつて誰も経験したことのない異様な雰囲気が漲っていた。壇上に交差して飾られた二つの重々しい旗が、張り詰めた緊張感を象徴するかのようにそよともなびかない。その前に置かれた黄金色の光を湛えた巨大トロフィーは、何かしら新興宗教のシンボルを連想させる。更にその前には二つの細長い宝箱のようなものが据えられている。中にはただならぬ権威をうかがわせる、豪奢なベルトがそれぞれ納められている。

視線を転じると、目もかすむ大広間は東西に大きく二分され、何百というテーブルも計ったように二分されている。その間には真紅の絨毯が大理石の床に敷きつめられているが、今まさに、入り口とおぼしきコールテン地の帳りをくぐって現われた人物がいた。ひとしきり起こるざわめきを縫う様に、その人物はゆっくりと歩を進める。渋いよそいきのダブルを小太りの体にうまく着こなし、こげ茶色のスラックスとよくコーディネートされて、爽やかな印象を与える。表情は険しいが、どこか穏やかでもあり、生来の人間味を醸し出している。堂々たる体躯を上座にしつらえられた貴賓席に沈めると、軽い咳払いをひとつ残したきり、その人物は無言であった。そしてまた、異様な雰囲気に場は落ち込んでいく。

 東側には濃紺のブレザーを、そして西側にはワインレッドのブレザーをそれぞれ身につけた数十人の青年達が、真紅の絨毯をはさんで睨み合う恰好で立ち尽くしていた。それはまるで、大イベントのレセプションで一堂に会した二ヶ国の選手団のようであったが、本来あるべき歓談の気配は皆無であり、ここが彼らの親睦の場でないことは一目瞭然であった。双方のブレザーには、その胸元に色鮮やかなエンブレムが縫い付けてあったが、その中心には同じスペルのアルファベットが4文字書かれていた。「GBRC」と読める。しかも、ワインレッドのそれには「GBRC」の文字の上に小さく「BilliardVenture」とある。明らかにビリヤードベンチャーの新GBRCのエンブレムであった。とすれば、もうひとつの「GBRC」が、日本撞球の旧GBRCであることは紛れもない。

さきほどの小太りの男は、濃紺のブレザーの青年達が陣取る東側の貴賓席に座っている。昭和天皇崩御により、王座帰り咲きの恩恵に浴した蒲田幹男の晴れ姿であった。西側の貴賓席には、はたして池上健史の凛々しい背広姿がある。池上と蒲田のふたりにとって、互いは最強にして最後の敵に感じられる。殊に、池上にとって蒲田ほど己の運命を大きく変えた人物はいない。彼が池上の前に立ちはだかったからこそ、ビリヤード界はわが世の春を謳歌したとも言えよう。

 だが、ここ「新宿摩天楼」のロイヤルルームは、ビリヤード界の隆盛を祝うためではなく、10日後に行なわれるGBRC統一戦の調印式のために用意されたのだ。全世界のマスコミが“世紀の一戦”と書き立てた統一戦実現の報は、スポーツ界にとどまらず、社会的な一大事件としてもクローズアップされた。あまつさえ、事態が思わぬ経緯をたどった事にもこのニュースの特異性がある。重大な規約違反を犯し、GBRC王座を追われた蒲田幹男。すなわち、池上と蒲田が共に無冠となった時点から、私達はタイトルの行方について様々な予想を展開した。

新GBRC王者・辰巳耕志が、池上の挑戦を条件つきで受諾したことが、池上に明確な方向性を与えた。だが、辰巳絶対有利のこの条件下では、新旧GBRC統一戦が実現不可能という、私達の観測はまだまだ覆らなかった。この戦いにおいては、池上が己のプライドをドブに捨てる結果になるだけだと誰もが思った。また、蒲田の王座転落によって、新チャンピオンを待望するGBRCサイドの池上への態度は、不二巻建設が背中に突き付ける銃口によって硬化せざるを得なかった。

そして、予想だにしなかった蒲田の王座返り咲きによって、その門戸は固く閉ざされ、私達の抱く一縷の望みも完全に断たれてしまった。万が一、池上が奇跡的な勝利を収め、再び新GBRCのタイトルを手にしても、それはやはり統一戦への片道切符に過ぎないと考えられていた。

しかし、神は時として人の英知のあずかり知らぬ彼方へ、運命を導かれるのであろうか? 池上健史は遂に、新旧GBRC統一戦実現にこぎつけたのである。池上の神がかり的な破邪魂は、いかなる不可能をも可能にするというのか? いやいや、決してそうではなかった。調印式のプログラムが進行するに従って、この統一戦実現の舞台裏が徐々に見えてきたのである。場面をちょっとプレイバックしてみよう。

初めて見る蒲田幹男の入場を、池上は静かに見守っていた。不二巻建設の実質的なNo.2とも噂される蒲田は、池上にとって不二巻建設そのものであった。辰巳耕志を決死の覚悟で救い出した今、二度と再び彼のような犠牲者を出してはならない…池上の胸はその思いで一杯だった。不二巻建設を潰滅に追い込まなければならない。かつて共に歩んだGBRCを腐食の構造から解放しなければならない。新旧GBRC統一戦は池上の中では今、個人的なレベルで考えるべき問題ではなく、いかなる枷を嵌められようとも、成し遂げねばならぬ使命にまで昇華していた。

蒲田幹男はダブルのふところに一通の封筒を携えていた。その中に日本撞球側、というよりむしろ不二巻建設の統一戦に先立つ要求事項が綿々と綴られていた。池上にも同様の権利があることは説明するまでもない。ふたりは互いに一瞥をくれると、手にした各々の封筒をモーニング姿の司会進行係に手渡した。この大役をおおせつかったのは、日系二世のビクトリー・タダ国際ビリヤード協会々長だった。白髪をオールバックになでつけ、見事な口髭と顎髭をたくわえた、それでも肌の色艶から推してまだ初老のガッシリした紳士であった。彼はふたりから封筒を受け取ると、それを一旦胸ポケットにしまい、一段高い壇上へ昇り、いかにも場慣れした手つきでおごそかにマイクを取った。

 「えー、本日はご多忙中、かくも盛大に御参集下さいました皆様方、そして、この新旧GBRC統一戦実現のために御尽力頂きました関係者の方々に、心より感謝致します。協会々長の職にありましても、私がこの生涯稀にみる大役をお引受けするにあたり、大変な決心を要しました。すこぶる緊張気味ではありますが、最後まで本日の司会を務めさせて頂きます。お見苦しい点は平に御容赦願いまして、統一戦調印の儀、最後まで見守って下さいますよう重ねてお願い申し上げます」

 ビクトリー・タダ会長の流暢な日本語は嫌味がなく、そのスピーチも板についてなかなか見事であった。会場には割れんばかりの拍手がまき起こったが、それも一瞬の出来事であった。

 「さて、ただいま蒲田、池上両選手よりそれぞれの要望書を預かりました。内容については双方が十分に吟味され、互いに納得のいく回答を以て誠意を示され、最終的な判断のもとに調印されるのが理想的であります。私は今からその内容を読み上げますが、ひとつだけお断りしておきたいのは、あくまでも選手の気持ちを第一に尊重して頂きたいということです。統一戦を戦うにあたっては共に相当の覚悟、これは生半可なものでは決してありません。と同時に、蒲田、池上両選手は不利な条件に対しては、はっきりとした意志表示を以てこれに対処することを忘れないように」

 蒲田は我が意を得たというように頷いた。だが、池上は微動だにせず、内心期するところのあるような目を前方に据えたきりである。

 「殊に、先日の東京ドームでの前例は、ビリヤード界の信用を失墜させると評価する筋もあったとか。スポーツはあくまで公平でなければなりません」

 ビクトリー・タダ会長はここで言葉を切ると、池上の表情を読み取ろうとするかのように、その横顔を見つめた。彼は池上が危険な罠と知りながら承諾した、辰巳耕志の新GBRCに絡む一方的な条件をこころよしとしないのである。だが、彼は池上がただ単なるタイトル欲しさの衝動に駆られたのではないことを見抜いている。とすれば今日、蒲田幹男がいかに狡猾な要求を突きつけようとも、池上は拒むはずはない。それをタダ会長は恐れているのである。

もし、蒲田が統一戦を制するような事になれば、ビリヤード界は再び暗黒の世界と化してしまう。だが、新GBRCのタイトルを池上が保持している限りは大丈夫と、タダ会長は考えているのである。彼は池上に決して無理するなと視線を投げたが、すぐに無駄な努力と悟った。池上は真一文字に結んだ唇の端に悲壮な決意を秘め、目前の空間を凝視したまま、まるでマネキン人形のように動かない。 

タダ会長は、もはや池上の決意に全てを賭けるしかないと諦め言葉を続ける。

 「……それでは開封致しますが、さきほど申しました様に両選手におかれましては、その内容をよく吟味された上、調印を行なって下さい。では先ず、蒲田幹男……おや、失礼致しました。ミキ・蒲田選手側からの要求です…ひとつ、試合会場を千葉幕張の日本コンベンションセンター・幕張メッセおよび大阪のメッカ・帝国ビラードの二会場とする」

 このタダ会長の言葉が終わるか終わらぬうちに、ビリヤードベンチャー陣営が蜂の巣をつついたような騒ぎになったのは道理である。帝国ビラードは不二巻建設と姉妹提携を結んでいる間柄である。それ以後、不二巻建設所属のハスラーは帝国ビラードにおいて一度も敗れた事がない。やがて、ビリヤード界全体が不審を抱くようになったのは周知の事実だ。

ビリヤードベンチャー・タイトル戦調査会(TMR)の報告によると、帝国ビラードこそは禁断の果実の貯蔵庫であり、卑劣傍若無人の巣であることが判明している。あまつさえ、そこで働く数名の婦人は蒲田幹男、いや、ミキ・蒲田の意のままに動くロボット同然なのだ。それだけではない。帝国ビラードにはミキ・蒲田のいわゆる伝家の宝刀「法螺不帰丸」が格納されている。そして、数多くの強豪ハスラーが餌食となった。事態を重く見たビリヤードベンチャーは、以来、公式戦会場のリストから帝国ビラードを除外している。また、幕張メッセに関しても、以前、不二巻建設と絡む黒い噂が飛び交った事がある。

「じょ、冗談じゃない!! それは勝手過ぎる。もっと公平な決め方があるだろう!」

「帝国ビラードや幕張メッセが疑惑の的だって事を、蒲田さん、あんただって知ってるだろう!」

 ワインレッドのブレザーに身を固めた青年達は口々に罵声を発したが、蒲田はそれに応えて、ただ不敵な微笑を浮かべているだけだった。

「静粛に! 勝手な発言は慎むように!」 

 ビクトリー・タダ会長の一喝によってビリヤードベンチャー陣営の興奮は一時おさまったが、続けて読み上げられたミキ・蒲田の要求には、全ての関係者が愕然とせざるを得なかった。

「……ひとつ、統一戦前夜祭の前哨戦として、四つ球、スヌーカー、スリークッションの三種目について池上健史選手は、国際招待選手と戦うものとする。ひとつ、統一戦はGBRCルールに則った全10ゲームを行ない、6ゲーム先取を以て勝ちとし、5対5の引き分けの際はタイトルの移動はなきものとする。ひとつ、試合時間は正味90分間とし、理由を問わずこれを1秒でも超えたる場合は全ゲームを無効とする。以上」

 タダ会長が語尾を震わせて発表し終わるが早いか、ビリヤードベンチャー陣営からは烈火の如き憤怒の声が上がった。

 「い、いい加減にしろ!! それがチャンピオンのやることか!」

 握りこぶしを振り上げた青年は、辛うじて両脇のふたりに制止されていたが、彼はみんなの気持ちを代弁しているに過ぎない。

 「どのように解釈していただこうと結構。要求を呑んでもらえないのならベルトを賭ける気はない……」

 ミキ・蒲田は勝ち誇ったような表情を崩さない。

 「スポーツマンのやることじゃない! すぐに撤回して下さい!!」

 業を煮やした別の青年が脱兎の如く蒲田の前に躍り出た。胸ぐらを掴みかからんばかりの剣幕でまくし立てるのも無理はない。

「紺野君、何も法外な要求ではない。ましてや君達がむきになることはないよ」

 「し、しかし……」

 池上健史は今日はじめて口を開き、若者をいさめたが、この紺野と呼ばれた若者にはどこか見覚えがあった。そう、1年前、ビリヤードベンチャーのハスラー養成所からの帰途、今目の前にいる蒲田自らが不二巻建設への引き抜きを図った有望株の練習生だった。ミキ・蒲田もそれと悟ったらしく、一瞬ギクリとたじろいだが、すぐ元の平静を取り戻すと居ずまいを正した。今から考えると、あの事件があったからこそ、TMRが動き、不二巻建設の悪のベールが徐々に剥がされることになったのである。

 「しかし、本当にこれでいいのかね?」

たまりかねたタダ会長が自分の立場を忘れて口をはさんだが、池上は彼の目を見据えたまま首を縦にひとつ振ったきりだった。

 「それでは続いて、池上健史選手側からの要求を読み上げます」

 そう言って池上から手渡された封筒にハサミを入れ、中の紙片を開いたタダ会長はあまりの事に目を丸くした。なんと、その紙片は白紙だったのである。

 「こ、これはいったい……池上選手、書き忘れたのなら取り急ぎ口頭でも……」

 タダ会長は判っていた、池上が何も要求しないのを。しかし、それではあまりにも彼が不利になるではないか? タダ会長は手を差し伸べずにはいられなかった。

 「いや、それでいいんです」

 「し、しかし、これではあまりにも………」

 「なんと書いてあるんです。早く読んで……」

 ビリヤードベンチャー陣営の焦りは頂点に達していた。

 「それが、読めないんだよ。この通りだ!」

 タダ会長の拡げた紙片を見て、びっくりしたのはビリヤードベンチャー陣営ばかりではない。会場に詰めかけた全ての人々があっけにとられたのである。

 「そ、そんな、無茶苦茶だ! 池上さん!」

 一人の若者の叫びに呼応するかのように、場は再び喧騒のるつぼと化した。

 「これで双方の要求提示は終わりました。不服がなければ速やかに署名を行なって下さい。双方の署名、捺印が確認され次第、統一戦調印の儀を終了致します」

 タダ会長のこの説明は人々のざわめきでかき消され、会長にうながされてペンを取る蒲田、池上両選手は終始無言であった。池上は茨の道を自ら選んだ。行く手にどんな罠が待ち構えていようとも、もう後へは引けない。ビリヤード界の将来のため、いや全スポーツ界の秩序のために戦わなくてはならない。そう自分に言い聞かせる彼の決意ははがねのように固かった。

 「蒲田さん、私が勝った場合、その時は要求を聞き入れてもらいたい」

 池上はミキ・蒲田と握手を交わし、記者団のカメラのフラッシュに晒されている間に一言だけそう言った。

 「よかろう……」

 ミキ・蒲田も池上の決意に応え、そうつぶやいた。しかし、それはふたりにだけ聞こえる束の間のやり取りだった。

 「池上君は、選手生命とビリヤード界の命運を背負って立とうとしているんだ」

 「その通りだ。まったく頭が下がる。我々もこの年になって勉強させられるよ」 

会場の隅でふたりの男がそんな会話を交わしていた。昭和パルティのマスターとビリヤードマガジンの敏腕記者であった。会場には他にも、日本撞球・ビリヤードベンチャー両幹部や不二巻建設の関係者らが数多く詰めかけていたが、彼らは出る幕のない事をよく心得ていた。

 「これでビリヤード界も終りだ。日撞ばかりかBVも不二巻建設の意のままだ。大変なことをやってくれたよ、池上さんは!」

 「まったくだ! BVのおえら方も黙って見ているんだからあきれるよな!」

 各マスコミの記者達は、池上の行動に対して甚だ批判的であった。ミキ・蒲田の要求は、池上をがんじがらめに縛る恐るべきものである。辰巳耕志の惨敗劇をつぶさに観察したミキ・蒲田の作戦は、非の打ちどころのないほど綿密に練り上げられていた。試合会場が帝国ビラードと幕張メッセというのも不気味な話であるが、更に、“国際招待選手”とは名ばかりの腹心の部下を使い、池上のスタミナをロスさせようというのである。

その上、90分という時間内では到底10ゲームを消化することは出来ない。出来るとすれば、結果はミキ・蒲田の統一戦制覇しか考えられない。ストレート勝ちかそれに準ずる星勘定でしか、開催実績のない幕張メッセで池上が勝つ可能性はない。しかし、その可能性は限りなくゼロに等しかった。池上は果たしてこの絶体絶命の危機に瀕して、再び奇跡を起こせるというのだろうか? 彼が自ら背負った十字架は、取り巻く状況のいかなる断面を切って見ても、あまりにも重いと言わざるを得なかった。



BB讃歌

第7章 帝王と皇帝の再会

 頭上を圧するシャンデリアが優しい光を降り注ぐ、ホテル「オーシャンクイーン」のスペシャルルーム。耳には心地よいピアノの調べが途切れない。シルクで覆われたテーブルには豪華料理の皿と年代ものの酒が所狭しと置かれている。センターには美しい花々が心休まる色彩を誇っている。これだけ贅を尽くし、手をかけた宴の場がかつてあっただろうか? それは栄耀栄雅を極めた王朝時代の宮廷の晩餐を思わせる。

 今世紀最大の決戦を明日に控えた前夜祭。その模様が全世界に衛星中継されるとあって、放送受信用のパラボラアンテナがここ一週間で飛ぶように売れ、メーカーは嬉しい悲鳴を上げた。それはともかく、このスペシャルルームに列席した顔ぶれに、私達は先ず度肝を抜かれずにはいられなかった。

ビリヤード界をはじめスポーツ界全般は言うに及ばず、政・財・官界の重鎮がとるものもとりあえず、続々と駆けつける様はまさに圧巻であった。

池上健史の周りには、久々に公の場に出席した彼の女マネージャー・庄司香織の姿があった。彼女は一橋大学法学部を首席で卒業した後、フランス留学を経て今日に至っている。合気道三段の猛者でもある彼女は、いつか池上が暴漢に襲撃された際、素早い機転を利かせて彼を救った武勇伝を持つ。

しかも街を歩けば、まずたいていの男が振り返る美貌を備えていた。まさに絵に描いたような才色兼備だった。細身ながら出るべき部分の出たナイスバディからは、大人の女の色香が漂う。普段はあるプロジェクトの激務にとり紛れて、なかなか池上と行動を共できない。超難関を突破してつかんだマネージャーの座。しかし、池上への感情は憧れから次第に愛情へと変わりつつあった。

池上の傍には他に、大学時代の友人達、スポーツウォーズ機構(SWO)会長・宇津木俊介などの姿も見えた。池上はかつて、スタンフォード大学で環境工学を専攻したと言われている。また、スポーツウォーズについては後に触れる機会があろう。少し離れた所では、一度池上に辞退された国民栄誉賞を携えた日本の海部首相がブッシュ大統領と親交をあたためる一幕を垣間見せるなど、酒の勢いも手伝ってか、場はすこぶる和やかなムードに包まれていた。

 一方、ミキ・蒲田の周りには親友・青空つばめの縁者を筆頭に、帝国ビラードのおばちゃん達をはじめとした従業員の一団、それに伝家の宝刀「法螺不帰丸」を産んだ名匠・織田染之進、いきつけの焼鳥屋「とり善」のおやじ・舟橋小吉など、こちらもそうそうたる顔ぶれであった。だが、一番に私達が注目しなければならないのは、ミキ・蒲田の脇に立ち、時折彼の耳に何事かをささやいている、年の頃なら還暦前後と見える恰幅のいい紋付き袴の男であった。この男こそ、今日まで謎に包まれていた不二巻建設の総帥・不二巻玄造その人なのである。

池上はまだそれと気付いていなかったが、その池上を盗み見る不二巻玄造の油断ならない目は、何かしら鬼気迫る光を放っていた。彼が時々、ミキ・蒲田に耳打ちする瞬間にその光は一層輝きを増す。しかし、暗黒魔界の総帥ともなると、さすがに圧倒される貫禄を備え、何者をも寄せつけない妖気じみた空気を身に纏っている。

今まで表舞台に一切姿を見せなかった彼が、この前夜祭にわざわざ出向いたということは、彼がミキ・蒲田に全ビリヤード界支配の夢を託しているからなのか? GBRCのベルトは不二巻建設にとって、今や「資本」であり、会社の政治戦略の大切な道具である。何億の資本金より“GBRCチャンピオン所属”と銘打てば、業績も上がり、優秀な人材のヘッドハンティングもすんなり運ぶ。

 と、この時、不意にステージを囲むテーブルのあちこちから歓声が湧き上がった。流行の歌謡曲の前奏が始まったかと思うと、マイクを持ってステージに登場したのは松田聖子嬢だった。どうやら、前夜祭のプログラムもたけなわとなってきたようである。彼女のヒットメドレーが終わると、続いて人気グループ米米CLUBの面々が奇抜な衣装でステージ上を縦横無尽と暴れまわり、最後に村田英雄がいぶし銀の喉を聴かせている時のことだった。

 「池上君、明日いい試合を期待していますよ。うちの蒲田もなかなかのものだが、あなたも相当できると聞いている。年甲斐もなく興奮しています」

 と池上に歩み寄り、にこやかに話しかけて来たのは不二巻玄造だった。顔は笑っているが、目はやっぱり油断なく光っている。

 「と、おっしゃると、あなたは………」

 「さよう、不二巻建設グループ、会長の不二巻です」

 (この男が不二巻玄造か!?)

彼こそ強い辰巳を育て上げた人物だと言われている。また、一説には10年前、交通事故で若くして命を落とした不二巻の一粒種が、辰巳耕志に生きうつしだったとも言われている。その辰巳耕志は東京ドームの新GBRCタイトル戦に敗れて以来、慈恵医大病院の病床にある。今、テレビにかじりついている事だろうが、池上健史と不二巻玄造のこの大接近を、一体どんな気持ちで見つめているのだろうか?

 「私もいい試合をやりたいと思っています」

 池上の頭には様々な思いがよぎったが、努めてさりげなく答えた。

 「楽しみにしていますよ。おや、こちらは?」

 「私のマネージャーの庄司です」

 「はじめまして、池上のマネージャーの庄司香織です。池上がいつもお世話になっております」

 女マネージャーは理知的な口許に皮肉を込めてそう挨拶した。

 「はっはっ、それはこちらのせりふですよ。それにしても、あなたのようなお美しい女性にお目にかかれて光栄です。では、では、ごゆっくり」

 さすがは不二巻建設グループのドンである。皮肉を軽く受け流すと袴の裾を払って引き揚げていった。

 女マネージャーは少しばかりプライドを傷つけられて、フンという表情をしてみせたが、池上はそれがおかしくてならなかった。

 「はっはっはっ、香織君、君の努力は買うがとても通じる相手じゃないよ」

 「で、でも、先生……」

 「それより香織君、辰巳君の様子はどうだった? 元気そうにしていたかね?」

 女マネージャーは池上を見送った後、慈恵医大病院の辰巳を見舞い、一足遅れで会場入りしたのである。

 「ええ、とっても元気そうでした。お見舞いに行った時、ちょうど看護婦さんが流動食を食べさせているところでした。私が花を替えている時にナンバさんもいらして、しもの世話をしてらっしゃいました」

 女マネージャーはそう言うと、なぜかクスクス笑いだした。

 「香織君、何がそんなに面白いんだね?」

 「だって先生、辰巳さんたら、先生に負けたショックでまだトイレにもお一人で行けないんですよ。ふふふっ」

 「しょうがないじゃないか」

 「まだお若いのに、あれじゃまるで寝たきり老人みたいなんだもの。私、おかしくって、おかしくって、病院を出た途端、お腹かかえて笑っちゃった」

 彼女は喋っている最中にまたおかしさが込み上げてきたのか、こらえるのに懸命だった。

 「今は彼にとって一番大事な時なんだ。いろんな意味でリフレッシュしないとね」

 「そうですね先生。気をつけます」

そこへ、池上が大学で机を並べたナタリーとフランチェスコ、そして、ハリーが姿を見せた。彼ら三人の行動が、この前夜祭の10日ほど前から活発になったと言われている。池上の密命が届いたとする説も流れているが、その事に関してはいずれ明らかになる時が来る。

 「イケガミ、安心したよ、元気そうで」

 「ボクらも見舞いに行ったが、先生の話だとタツミはあと1ヶ月もすればキューを握れるようになるらしい」

 「しかし、イケガミ、今はタツミのことより、君の事の方が心配だ。本当に大丈夫なのか? ボクらは自分の事のように気が気じゃないんだよ。いくら君でも、あれじゃ手足をもがれたダルマさんも同然……」

「皆さん、心配無用です。私が太鼓判を押します。きっと先生はやってくれます。みんなで信じましょ!」

女マネージャー・庄司香織はきっぱり言い切った。

 「その通りだよ、みんな!」

 昭和パルティのマスターも加勢する。

 「池上君は不死身だ。マネージャーの言った通り、彼はきっと統一戦を制する。今日はスパーリングも兼ねているから、後でふたりの腕前を比較できる。そこで、ミキ・蒲田と池上君のどっちが上か、とくと見れる。無論、池上君の方が上に決まっているがね」

 「先生、スパーリングって、ボクシングとかでやるあれでしょ。ビリヤードの試合にそんなのがあるんですか?」

 女マネージャーは怪訝そうな顔で池上をみつめている。

 「それはね、香織さん、たぶんミキ・蒲田が突きつけた前哨戦の事だと思うがね」

 一同のうしろから突然現われ、女マネージャーの質問に答えた人物は、池上の顔をのぞきこむと、懐かしそうな笑みを満面に浮かべて握手を求めた。

 「ジョー! い、いつ日本に?……」

 それはボウリング界の皇帝ことジョー・真理谷その人であった。引退まで取り沙汰されたどん底から蘇り、その健在ぶりを多くのファンにみせつけた不死鳥は、今や池上の無二の親友としても知られている。

 「少々、ハードスケジュールが組まれていたので無理かと思ったが、なんとか知り合いの自家用機がつかまえられたんだ。いや、間に合ってよかったよ。あまり顔色が良くないが、大丈夫か?」

 親友の体調を気遣うジョー・真理谷ではあったが、その表情に刻みつけられた疲労の色はおおうべくもなかった。彼は今、招待選手として全世界をサーキットし、各国の超一流を相手に連日苦戦に次ぐ苦戦に喘いでいた。それはとりもなおさず、世界のレベルがジョーの牙城に迫りつつあることを物語っている。それだけに皇帝の責任は、ともすれば押し潰されそうになるほど重かった。池上健史はそんなジョーの宿命を我が事のようにひしひしと感じ取っている。

 「ああ、俺の事なら心配いらない。それよりおまえこそ、こんな所に来ている暇があるのか? そりゃ、俺はおまえに会えて心強いが……」

 「ありがとう。実は今言ったようにスケジュールがぎっちりで、統一戦はリアルタイムでは見れない。それで今日は是が非でもと思って飛んで来たが、そうゆっくりもしておれん、すぐとんぼがえりだ」

 群雄割拠のボウリング界はすでに、“ジョー・真理谷完全包囲網”を固め、彼の到着を手ぐすね引いて待っている。まさに地球規模のボウリング戦争が全世界を巻き込んで鳴動し始めている。

 「そうか、すまなかった。おまえには色々と心配かける」

 「何を言っているんだ。俺が復活できたのもおまえのお陰だ。こんなことを言っちゃ怒られるかも知れないが、おまえが静かにしていた間は随分目立たせてもらった」

ジョー・真理谷は心底、自分がスポーツマンであることに誇りを抱き、感謝の気持ちで一杯だった。そして、彼は一人の人物に向き直った。

「宇津木会長、しばらくです」

「しばらく、ジョー」

ジョー・真理谷はSWO会長の宇津木俊介を振り返ると、人なつっこい笑顔で挨拶すると、握手の手を握ったまま、うって変わった真剣な眼差しを会長に注ぐ。

「私はボウリング界の人間です。あなたのスポーツウォーズ構想によって、歴史的、そして、物理的にもずっと一線を画してきたスポーツが、その枠を越えて融合し得ることを教えられました」

ジョー・真理谷と宇津木俊介の付き合いは古く、それだけに、スポーツウォーズへの思い入れは深かった。

「以来、相容れることのなかったスポーツが、互いに理解し合う日が来ると信じてきました。そう信じたからこそ、世間の風説を吹き飛ばす気概に燃えて、立ち上がる事が出来たのです」

「君の不屈の精神力には頭が下がる」

宇津木俊介もジョー・真理谷の一貫した心意気には、いつも勇気をもらっていた。

「会長、私にスポーツウォーズ出場を要請するお話をいただいた時、大変光栄に思いました。しかし、だからこそ、私のボウリングへの情熱は一層燃え上がったのです。それは、池上のビリヤードへの情熱も同じだと思います」

 ジョー・真理谷の視線の先で、池上健史も大きく頷く。

「だが、今そのビリヤード界は真っ二つになっている。そのことを一番憂いておられるのは他ならぬ会長だとお察しします……ボウリングやビリヤードに限らず、日本の、いや、世界中のスポーツが岐路に立っています。どうか、スポーツの未来を救って下さい」

 ジョー・真理谷の訴えかけるような眼差しに射すくめられた宇津木俊介は、しばらく無言でその目を見返していたが、やがて深く頷いた。

 「…その通りだ、ジョー。新旧GBRCが統一されないかぎり、君の言うとおり、私達の目指すスポーツ界統一、すなわち、スポーツウォーズのひとつの柱として、ビリヤードという競技を考えることは難しい。周りはスポーツウォーズの開催を時期尚早だと猛反対した。しかし、私は半ば自分の地位を利用して開催準備を推し進めている。今、あらゆる種目がプログラムを賑わせている。しかし、ビリヤードとボウリングはそこには載っていない」

 「つまり、池上と私…」

 「そう。統一されないビリヤード界から池上君は名乗りを上げまい。すなわち、彼抜きにビリヤードを競技種目に挙げる事はできない。一方、ボウリング界から選ばれるべき君が、完全復活を遂げていないという事実も気がかりだった。私は池上君や君の奮起に賭けてみたい。無論、他の種目に関しても世界の一流が参加してくれなければ、本当の意味においてスポーツ界の王者を決定することはできない」

 宇津木会長が初めて語る真実に、居合わせた人々は息を殺して聴き入っていた。ジョー・真理谷は宇津木会長のスポーツウォーズに込めた愛情の深さに、耐え難き感銘を禁じ得なかった。

 「会長、池上はあなたの情熱に応え、今ビリヤード界を統一しようとしています。私はこれからすぐオーストラリアへ飛んで、復活の証しを立てようと思っています。スポーツウォーズ開催が本当に楽しみになってきました」

 ジョーは言い終わると、また元の笑顔に戻った。

 「おい、ジョー、もう行ってしまうのか?……」

 池上の表情がふっと翳る。

 「ああ、もう時間がない。飛行機を待たせてあるんだ。なに、おまえなら大丈夫だ。きっとやってくれると信じている。じゃ、香織さん、池上を頼んだよ」

 「はい、ジョー。任せて下さい」

 それは、慌ただしい出発だった。追いすがる報道陣を蹴散らすように会場を飛び出したジョー・真理谷は、最後にもう一度、池上健史を振り返り笑顔で大きく手を振った。池上は胸が詰まる思いで、うまくそれに応える事ができなかった。世界の強豪を相手に血のにじむような連戦に疲れ果てながら、自分を気遣って駆けつけた友。池上はその友情に報いようと固く心に誓った。そしていつか、互いの活躍を讃え合いながら、刃を交える日の来る事をただひたすら祈った。



Episode―3 愛情

新宿で西武電車の切符を買おうとしている時、辰也のケータイにメッセージが入った。

(ねえ、いまどこにいるの?)

右手で券売機に小銭を押し込みながら、左手で応答のメッセージを打つ。

(西武新宿に着いたとこ)

もうほとんどの人達が傘をたたんでいる。さっきまでの雨がウソのように雲が切れ、晴れ間がのぞいていた。改札を入ると本川越行きの急行がホームに待機していた。傘を手摺にひっかけると、疲労で重い体をシートに預ける。『BB讃歌』に挟んだ栞を抜き取ると同時に、ケータイのバイブがうなった。

(いつもの店で買い物してる)

田無から一駅で目的の花小金井に着いた。この駅は倫子との想い出をいくつもディスプレイしている。ふたりがいつもどこに行こうか迷っている時に見上げる沿線マップ。辰也が倫子の手を引いて走る緩やかなスロープ。「天然温泉 華の湯」の看板。電車に乗る時、目印にしている派手な自販機。ふたりの行動は常にこの駅から始まっていた。

駅前の商店が立ち並ぶ通りには、秋らしい紅葉の繭玉が揺れていた。通りを隔てた向かい側に、常連として買い物をするスーパーマーケットがある。そこに入るハンバーガーショップ横のエスカレータで二階を目指しながらメッセージを打つ。

(いま、花小金井に着いた)

自動ドアの向こうでは、大勢の客が夕食の食材を買い物かごに投げ入れている。店内に流れる大黒摩季のBGMに負けまいと、若い男性店員がタイムサービスの特売品を頭上高く差し上げながら、メガホンで声を嗄らしている。熱気に包まれた店内に視線を走らせる辰也。しかし、倫子はなかなか見つからない。ふたりがよく足を運ぶ売場を何度も往復した。

(おつかれ! ラブの二階でお茶してるよ)

その辰也のあわてぶりを見ているかのようなメッセージが入った。

「いっぱい食わされたか? まるで鬼ごっこだな」

西武線の踏切をまたいで少し歩くと、商店の軒が途切れる。その少し手前に純喫茶「ラブ」がある。雑誌でも紹介されたコーヒーのうまいお洒落な店だ。見上げると二階の窓際の席から倫子が手を振っていた。

(どういうつもりなんだ?)

狭い急な階段を昇りながらメッセージを打つ。近づく辰也を振り返って微笑む倫子。原色のスカーフとサーフヘアの頭にのったサングラス。シックに着こなされたブラウスとスカートは、ファッションセンスの高さを物語る。それにしても、こんな女の子に一度でいいから逢ってみたい……世の男性なら必ず二度見するだろう。近づき難いエキゾチックな美人だった。

「メッセージはもういいの! 三日も口きかなかったら生活できないでしょ」

「店の中をうろうろするカッコ悪い男の姿が見たかった?」

「バーカ。こっからじゃ見える訳ないじゃん。ここに座って想像してたんじゃない。辰也が悪いのよ。てゆうか、買う物があんまりなくって、ごめんね。ご注文は?」

「ったく。それならそうと…。まあいいや。じゃあ、ブラックコーヒー」

やっと一息つけるとばかりに、椅子の背をひく辰也。

「ブラックなら冷蔵庫に入っているから、もう出よう。お金もったいないしね」

倫子は買い物袋を持ち上げると、辰也の腕を引っ張って歩き出した。

「おいおい、超マイペースなんだから。ちょっとくらい休憩させてくれたっていいだろ」

「若いのに何言ってるの? すぐそこが家なんだから。第一、ママの店じゃなきゃ寝っころべないでしょ」

倫子の母親は、東久留米市で喫茶店を切り盛りしていた。繁忙期には倫子がモーニングサービスを手伝う事もあった。輸入雑貨業を営む夫、すなわち、倫子の父とは離婚していたが、みんな友達のように仲がよかった。

「はいはい」

ふたりの行動の主導権はいつも倫子にあった。辰也にとってはその方がずっと楽だったし、間違いがないと思っていた。最近はほんの些細な事でも彼女の意見を聞く。一番素直な自分でいられるのは彼女の前だった。そんな積極的な彼女に惹かれていた。西武線の遮断機が上がると、おもちゃ屋の店先に置かれたゲーム機からいつもの声が聞こえてきた。

「きゃぁ~、このおじさん、変なんです!」

「な、なんだ、君は?」

「な、なんだ、ちみはってか? そうです。私が変なおじさんです」

ザ・ドリフターズきっての売れっ子、志村けんの名物キャラをモチーフにしたゲームだった。アニメの変なおじさんの滑稽なダンスを見ると、ストレスが嘘のように消え、腹の底から笑えた。

マンション・コスモス花小金井801号室のメールボックスには、誰はばかることなく「一ノ瀬辰也・平野倫子」と書いてある。パープルにライトアップされた田無タワーの全景が、窓から大きく見える。それが決め手となり、ふたりが暮らし始めてからもう2年になる。出会いは渋谷のクラブでよく見かけるナンパだった。そのせいでもないだろうが、周囲の全てに認められたわけではなかった。しかし、決して生半可な気持ちで始めた同棲ではない。これまでお互い助け合ってやってきたが、そろそろ「結婚」という言葉が現実味を帯びてくる時期だった。

箱入り娘で世間知らずな、いわゆる「深窓の令嬢」を絵に描いたような倫子に、専業主婦としての役割を望む辰也。だが、辰也には経済的余裕はなかった。貯金の大半をはたいてインラインスケートショップ「ストリート」を開店した。もちろん、将来の事を考えていなかったわけではない。しかし、ショップの経営は思った以上に厳しく、現実はそんなに甘いものではなかった。しかし、共働きでもいいという倫子に対してだけは素直になれなかった。

「やっぱり我が家にかぎるね。いやぁ~リラックスできるよ!」

「瀧沢さんはどうだったの?」

「瀧沢? 相変わらずだよ。仕事一筋で疲れた顔してた。きっと彼女が出来たら、私と仕事のどっちが大事なのって迫られるクチだよ」

「………」

「あっ、お、俺たちの事言ってんじゃないよ。誤解するなよ」

「何も言ってないわよ。でも辰也がいつでも泊めてもらえるのは、瀧沢さんが一人だからじゃないの。感謝しなきゃダメよ」

「わかってるよ。あいつは立派だよ。俺にはあいつみたいな生き方はできない。学生時代からそうだったけど、あいつには一目置いてた」

「ふふっ、随分今日は瀧沢さんを持ち上げるのね。いつもは格が違うとかなんとか言って威張ってるくせに。何かあったの?」

「種目によるんだよ」

「種目?」

「そう、種目。あいつは確かに勉強もできたし、テニスも抜群に上手かった。だから、勉強とテニスの2種目はあいつの勝ちだ」

「なるほどね。で、辰也が瀧沢さんにかなう種目って何なの? まさか、スケートなんて言わないでよ。もともと瀧沢さんはそんなものに興味ないんだからね」

言いながら、倫子は立ち上がって夕食の支度に取りかかった。

「そんなものとはご挨拶だな。それくらいわかってるよ」

「じゃ、なーに?」

倫子は辰也の話をうわのそらで聞いている。

「ボウリングだ」

「ボウリング? あんなダサい玉ころがし、やってられるかって馬鹿にしてたくせに」

「それは俺がスケートにはまってからの話だよ。それまでは結構あいつとやってたんだ」

「初耳ね。今日は珍しい話で盛り上がるの?」

「料理の邪魔しちゃ悪いから、晩ごはん食べたら話すよ」

「ヘンな感じ」

辰也はひじ枕をつきながら、リモコンでテレビのスイッチを入れた。シドニーオリンピックの総集編が日本人金メダリストの活躍を讃えていた。

「高橋尚子、遂に世界のスーパースターの仲間入りだな」

辰也の口からせりふとはうらはらの、どこか寂しげな響きを持った言葉が洩れる。

「今、何か言った?」

「いや、何も言ってない。テレビだよ、テレビ」

自分は果たして人生の金メダルを手に入れただろうか? この問いに対する答えはたった一言では言い表せなかった。瀧沢や倫子との出会いは紛れもなく金メダルだ。しかし、テニスでの敗北や大学中退はメダル争いもできない予選落ちだ。そして、いままでの人生を振り返ってみると、何度も金メダルを紙一重で逃してきた銀メダリストの気持ちがわかるような気がした。

「そうか、俺はやわらちゃんだ。やっぱり金メダルを獲らないと終われない……」

「ねえ、何か言った?」

「やわらちゃんは凄いって言ったんだ」

「そんな事わかってるから、静かにしてなさいよ」

「ごめん、ごめん」

シドニーオリンピックの総集編が終わる頃、夕食が出来上がった。

「お待ちどうさま。ほうら、辰也の好きなカレー。ココイチの方が上だって言われてから、随分研究したんだよ」

「相手はプロじゃないか。かないっこないよ」

「うるさいわね、食べてみなくっちゃわかんないじゃない!」

「そりゃま、そうだけど」

「さっき、高橋尚子はなんとかって言ってなかった?」

カレーライスを盛りつける倫子の手つきがだいぶさまになってきた。

「なんだ、聞こえてたのか。世界のスーパースターだって言ったんだよ」

「ほんと凄いよね」

部屋の壁には、ファッション誌の表紙が額に入れて飾ってある。トップモデルの海外ロケ取材時の写真に、偶然にも倫子の姿が写っていた。当時、この写真は一旅行客、すなわち、倫子に心奪われたカメラマンが思わず撮影したのではと噂された。

無論、そのような撮影手法だったのだろうが、なるほど、ピントはモデルではなく、小麦色に日焼けした倫子に合っている。二十歳の記念に友人達と行ったハワイでの一コマだった。いつか倫子は、未来の旦那様と二度目のハワイを満喫したい、そう辰也に言った事がある。

「ねえ、どう? 味」

「うーん、難しいな。よし、引き分けだ」

「引き分けって?」

「ココイチと倫子が。だてに料理教室通ってないな」

「なによ、それ。カレーなんて教わってないわよ」

「えっ、そうなの?」

「調子いいわね。まあ、いいか。前より進歩してるって事でしょ?」

「確実にね。負けず嫌いもここまで来れば立派だよ」

「まあね。たくさん食べて」

「うん」

「辰也、食事が終わったら散歩しよ」

「うん」

辰也は人生で最高の幸福を感じていた。倫子とこのままずっと暮らしていけたら、もう何もいらないとさえ思った。ふたりが出会った頃、辰也にはかつて恋人だった女友達がいた。倫子の誤解を招く行動をとり、別れ話ばかりしていた時期を乗り越えて来た。だからこそ、今の自分達があるんだと思える。かつての恋人との別れがなければ、倫子との出会いもなかった。

「もうすっかり秋だね。行こう」

そう言うと、倫子は辰也と腕を組んだ。

「いいね。でも、夕方は半袖じゃ寒いくらいだな」

涼しい風がふたりの頬を撫でる。夕食後、家から歩いて15分ほどの距離にある都立公園に足をのばしていた。

「いろんな事があったな」

「どうしたの? しみじみしちゃって。辰也らしくもないじゃない」

「いやあ、秋は人を詩人にしちゃうんだよ」

「詩人? 辰也が? おっかしい、ふふっ」

ここに来ると、季節のうつりかわりがよくわかる。出店をはしごしながら歓声を上げた夏祭り。レジャーシートに寝転んでいつまでも見つめていた獅子座流星群。雲に届くほど高く上がった凧。ふたりの季節を彩る想い出がいくつも刻み込まれている。

「ねえ、ところでさあ、ボウリングの話したいんじゃなかったの?」

「うん。実はね、スケート始める前、瀧沢とよくボウリングとビリヤードして遊んだんだ。ビリヤードはあいつの方がうまかったけど、ボウリングだけはどういうわけか、負けなかったんだ」

「それで?」

「そ、それでって、それだけだよ」

「なあんだ、面白くもなんともないよ。刺激なさ過ぎだよ。インライン滑ってる辰也の方がよっぽどカッコいいじゃん」

「俺もボウリングとビリヤードなんて、地味っていうか、すぐ飽きちゃってスケートの方に行っちゃったんだけど…。瀧沢に面白いから読めって、小説もらったんだ。それ読んでるうちに、またやってみたくなったんだ」

「なんていう小説なの?」

「作者はわかんないんだけど、壮大ロマン堂の『BB讃歌』」

「ロマン…ビビ…さんか?」

辰也は倫子に今までの経緯を手短かに話した。

「へえー。そんな偶然って、この世にホントにあるんだね」

「俺もびっくりしたよ。それより、ボウリングとビリヤードなんて、小説になりっこないって思ってたから、ちょっと意外だったな」

「私にも読ませて!」

「うん、いいよ」

「それと、今度ボウリングとビリヤード教えて」

「う、うん」

公園の向こう側、建設中の超高層タワーマンションに「モデルルーム公開中」の垂れ幕がかかっている。前にふたりはあんな所に住んでみたいと夢を語った。公園には広大な芝生が広がっている。生垣で囲まれたサッカー場や野球場以外の場所には「ゴルフ禁止」、「球技禁止」と赤ペンキで殴り書きされた看板が目を引く。

ふと見ると、野球場のホームベースの横に粗末な木製のスコアボードが置かれている。1回から12回までの得点とチーム名が上下に書き込めるようになっていた。

「1から12……そうだ、1月から12月。上の段が今年一年。つまり今世紀最後の年、下の段が来年一年、つまり、新世紀最初の年」

辰也は足元のチョークを拾って、チーム名の上の段に「2000」、下の段に「2001」と書いた。

「わかった! 1月から12月に起こった出来事を書いていけばいいのね」

「正解。じゃあ、2000年1月は倫子」

「えー、そんなのずるいよ。記憶が一番古いじゃん! でも、覚えてるよ。多摩湖と西武園遊園地の後だから、湘南だよね」

「あっ、そっか。江ノ島だ…」

「辰也に初めてキスされたんだ・よ・ねぇ。照れる?」

「あぁ、照れる。でも、それ言うか? ほんと、ぎこちなかった…最初の夜も」

「バカッ! 辰也こそ、それ言うかね……でさあ、ゴールデンウィークには関西までドライブしたね。私も運転したけど、ほとんど辰也の運転だった。あのポンコツのジェミニ」

「ポンコツは余計だよ。高速道路じゃ、倫子はずっとドナルドダックにしがみついてたな」

「うん、そんな事あったあった。だって、変な音するんだもん。ドナルド痛かっただろうね?」

「だろうな。で、京都と奈良も感動したろ!?」

「特に金閣寺と大仏は最高だった! 今度は大阪にしよっか?」

「ええっ!?」

ふたりは肩寄せ合い手を握り合って、スコアボードに今までの思い出と未来を書き記していった。

公園のはずれまでやって来た。時計を見ると午後8時を回っていた。

「風邪ひくといけないから、そろそろ帰ろっか?」

辰也は倫子の肩を抱いた。冷たい感触が辰也の指先に伝わる。

「え、もう帰るの? 家に帰ったらプレステ大会が待ってるんだよ」

「うそだあ!」

「ほんと。明日、日曜日なんだから。辰也も何ヶ月ぶりかの休みでしょ? とことんつきあってよ。もうちょっとで攻略できそうなの」

そんな無邪気で一生懸命な倫子が、辰也は本当に大好きだった。

「わかった、でもお手柔らかに頼むわ。それと…」

「それと?」

「ひとつだけ条件があります」

「なに?」

「久々に華の湯いこ!」

「うん! じゃ急ごう!」

ふたりに嬉しさが込み上げて来た。愛する人と過ごす最高の夜になりそうだった。



BB讃歌

第8章 ビリヤード王への果たし状

1. 暗黒世界の秘蔵っ子達

 新旧GBRC統一戦調印の条件として、ミキ・蒲田が池上健史に突きつけた前哨戦は、池上にだけ課せられたものである。ミキ・蒲田は統一戦本戦のその日まで、自らの手の内を見せなくてよい特権を与えられた。というよりも、なんと非難されようとも彼らの目的は天下を取ることにあった。もはや手段を選んではいられない。しかも、不二巻建設が前哨戦の刺客として池上にぶつけようという相手は、その道の達人ばかりである。

はるか昔、帝国ビラードの主と恐れられ、後に不二巻建設の用心棒として雇われていった四つ球名人・四ッ谷巌十郎。腰は「く」の字に折れ曲がり、足元もおぼつかない80過ぎの老人だが、節くれだったゴツゴツした指は、いかにも名人のそれを思わせてもの凄い。頭は禿げないたちと見え、真っ白な髪が鼻先まで垂れ下がり、右目が完全に隠れていた。その隠された右目は、血気にはやる若い頃に女を争って喧嘩になり、キューで突かれて光を失っている。その事が却って彼の左目を異常に発達させ、その狙いは百発百中と言われている。

肌の色の黒さが総白髪の綿帽子と見事なコントラストを成し、こけた頬が彫刻刀で抉ったような深い皺を刻んでいる。着物の前をはだけ、キューを杖がわりにしてテーブルの前に立つその姿は怪物じみて見える。池上健史ですら、その異様な雰囲気に圧倒されずにはいられない。また、少し離れた位置のミキ・蒲田と何やら頷き合っている黒いサングラスの男に、池上は名状し難い胸騒ぎを覚えた。この男こそ、後の不二巻建設祝賀パーティーの進行係、そして、雇われ工作員として東京ドームに派遣された川崎三平だった。

 東京ドームの新GBRCタイトル戦は、彼によって徹底的に分析され、池上の戦術データはことごとく不二巻建設のコンピュータにインプットされている。恐らく、肉眼で捉えることのできない池上の弱点は、微に入り細にわたって解明されているだろう。ミキ・蒲田は言うに及ばず、この奇怪な四ッ谷巌十郎老人にも池上のデータが授けられているに違いない。

 「ひっひっ、おわけぇの、ひとつこのおいぼれが相手になろう。わしゃ、先が長くない分、お前さんより玉突きの手習いにゃ時間をかけてきた。遠慮はいらねぇよ。おまえさんの噂は、ここんところめっきり遠くなっちまったこのわしの耳にも入って来るが、凄いもんだな。あの耕ちゃんがまるっきり歯がたたんらしいな。まったくおったまげたもんだ。だもんで、わしも濁った血が騒いでな、ひっひっひっ………」

 不気味に笑う四ッ谷老人。池上は言い知れぬ悪寒に打たれる。池上はビリヤードオールマイティーのハスラーであり、四つ球もチャンピオンクラスの腕前だが、この老人に勝てる気は全くしなかった。それが何故かは彼にも判らなかったが、池上は抗し難い敗北感すら抱いていた。

 だが、不二巻建設が送り込んだ刺客は四ッ谷老人一人ではない。しかも、彼らは共にワールドカップチャンピオンに輝いた実績を持つ。ロシアが誇るスリークッションの名人・イワンスゴウデスキー、イギリス随一のスヌーカーの名手・ブライアンシルバーのふたりも、莫大な契約金に目がくらみ、不二巻建設に身を墮とした強豪ハスラーである。彼らは何度か池上と対戦した経歴の持ち主だが、ふたりとも全くビリヤードをさせてもらえなかった。

その遺恨に復讐の血をたぎらせて、不二巻建設入りを決意した。しかも、イワンスゴウデスキーはなんと当時の池上よりも将来を嘱望され、エリートハスラーとして全世界にその名を轟かせた。それもそのはず、彼は世界一の倍率を誇るエリートハスラージムの出身者だった。驚くべきことに、池上健史が唯一の日本人として修行を積んだ「虎の崖」なる組織が、どうやらそのエリートハスラージムだと噂されている。つまり、スゴウデスキーと池上は、かつて同じ釜の飯を食った僚友なのだ。

一方、ブライアンシルバーもイワンスゴウデスキーに優るとも劣らぬ実力の持ち主である。GBRCを制するのも時間の問題とまで言われた。だが、今日の地位に甘んじているのが、彼を知る者にとってはむしろ不思議でならなかった。共に池上にとってはあなどれない相手だったが、過去の戦績をみる限りにおいては四ッ谷老人ほどの威圧感は受けない。ただ、不二巻建設でのふたりの成長ぶりは全くの未知数であったし、ミキ・蒲田や総帥・不二巻玄造の湖面の様に静かな表情には、底知れぬ策謀がとぐろを巻いているように見える。恐らく、スゴウデスキーやブライアンも一筋縄ではいくまい。

黒いサングラスが鈍い光を放つ雇われ工作員・川崎三平は、例によってスゴウデスキーとブライアンの近くに陣取り、何事かふたりに言葉をかけている。自ら収穫した池上のデータを授けているのか否か知る由もないが、しきりに頷くブライアンのとらえどころのない明るさに較べ、スゴウデスキーは一種絶望的な暗さを総身に湛えている。2メートル近くあろうかという背丈に、赤い蝶ネクタイと緋色のチョッキをピタリときめた姿は、均整のとれた体格と相まってどこかしら「豹」を思わせる。彫りの深いマスクに緑色の瞳とひきしまった口元、そして、真っ直ぐに筋の通った高い鼻が、鮮やかな造形美を織り成している。

だが、美青年が池上健史を見詰めて離さない視線は、背筋の凍るような暗澹たる色を宿している。彼にとって池上健史は、かつて生涯でただひとり出逢った仇敵、屈辱の惨敗を喫した唯一の相手だったのである。今、彼はその憎んでも余りある仇敵に一矢を報わんとしている。しかし、この武者ぶるいを禁じ得ぬスゴウデスキーの傍らで、ブライアンの表情はそれだけになお一層晴れやかに見える。いや、むしろ彼はリラックスしているかのようだ。大一番の前に自分を失うまいとする一流の自己暗示か、スゴウデスキーの陰性を救う生来の陽性なのか?

丹精なマスクとスリムなプロポーションには、スゴウデスキーに較べ頼りなげな印象を人に抱かせるが、池上はこれが恐るべき欺瞞であることを見抜いていた。ブライアンシルバーの佇まいこそ、彼の専門とするゲームにおいて“スヌーカード”(キューボールを意図的に他のボールの蔭に隠し、次のプレイヤーがオブジェクトボールを狙いにくくすること)と呼ばれる駆け引きそのものであり、ポケットビリヤードの原点と言われるこのゲームでの彼のキューさばきは、敵の一瞬の油断を決して見逃しはしない。

イワンスゴウデスキーとブライアンシルバーはもうかつての堅気のハスラーではあるまい。ダイナミック且つ細心にクッションレールを操るスゴウデスキーの緻密さと、ビリヤードの種目の中で最も小さなボールをマシンガンのように射抜くブライアンの精巧さは、ミキ・蒲田や辰巳耕志と刃を交え、極限まで磨き上げられたに違いない。


2. 復讐鬼・凄腕スキー 

 池上健史をはじめ四ッ谷巌十郎老人、そして、イワンスゴウデスキーとブライアンシルバーは最初の数分間、そこは超一流のハスラー同士、互いを牽制し合っていたが、やはり心に通じ合うものがあるのだろうか? 談笑というにはあまりにも殺伐とした光景ではあったが、それでもそう形容していい空気をしばらくの間共有していた。あたかも、過去の様々なしがらみを越えて語り、わかり合おうとする男の意気にすら満ちていた。

殊に池上とスゴウデスキーは、虎の崖での苦しかった日々に旧懐の思いを共有していた。また、スゴウデスキーは外人独特のゼスチュアを織り交ぜ、病床の辰巳をしきりに気遣っていた。ブライアンは陽気なジョークを連発し、彼らを囲む各国の貴賓達に愛嬌を振りまいていたが、彼の話の主旨は要するに私は誰にもスヌーカーで負けた事はない。私はいずれGBRCを制するという、自信に溢れた内容ばかりだった。池上はその何気ない挑発を仕掛けるブライアンへの警戒を強めずにはいられなかった。

池上は自分の目に狂いのない事を、このしばしの歓談の中に悟り得た事を幸運に思った。しかし、四ッ谷老人の心の内を読み取る事はできなかった。何度も言葉を交わし、グラスを合わせたが、出逢った刹那のあの言い知れぬ悪寒は遂に一度も去ることはなかった。そして、彼に対する不吉な敗北感もとうとう拭い去ることのできないまま、前哨戦の開始を告げるアナウンスが轟き渡った。

 「それでは只今より、GBRC統一戦前哨戦を開始致します」

 人々の上にサッと緊張が漲ると同時に、談笑の和やかなムードは、四人のハスラーの間から雲散霧消と消え去った。スペシャルルームと隣の間を隔てていた間仕切壁が音もなく開いていったかと思うと、人々の眼前に拡がる光景はプールバーの巨大パノラマだった。

スペシャルルームとちょうど同じくらいの空間にはベンチがすり鉢型にしつらえられ、その中央にビリヤードテーブルが二つ据えられている。キャロムゲーム専用のポケットのないテーブルとスヌーカーゲーム専用の一際大きなテーブルである。一目見て、それらはいずれも公式戦に使用されるテーブルとしては最高級クラスのものと判る。

 「座席は全て指定席となっております。ご入場の際にお渡し致しました番号をお確かめの上、速やかに御着席下さいます様お願い申し上げます」

 丁重なアナウンスに突き動かされ、人々は席を移動した。会場の作りはスペシャルルームとは趣きをガラリと変え、未来都市を思わせる斬新で前衛的な装飾が四方を彩り、はるか頭上の天井からは幾何学的な照明がビリヤードテーブルを煌々と照らしていた。観客の移動が滞りなく終わると、それは目に優しい明るさになり、と同時に、部屋全体の照明が徐々に落ちていった。やがて、真っ暗な中に映画館のスクリーンの様なビリヤードテーブルだけが、光を湛えて静かにブレイクショットを待っていた。各々の席に腰を落ち着けた観客も、前哨戦のゴングを静かに待ち構えている。

 見ると、池上健史、ミキ・蒲田の関係者一同は、全てスペシャルシートに陣取り神妙な面持ちであった。宇津木会長や大学時代の友人などが池上サイドを固めている。かたや、蒲田サイドには、池上と第2ラウンド、第3ラウンドを戦う四ッ谷巌十郎老人、ブライアンシルバーの二選手をはじめ、不二巻建設の総帥・不二巻玄造らが泰然と控えている。

また、ミキ・蒲田自身も両脇に帝国ビラードのおばちゃん達を侍らせ、とり善のおやじらと言葉を交わし平静を装ってはいるものの、どこかしら緊張した表情を浮かべている。それから10分の後、別室から登場した二選手がキューを片手に持ち、ビリヤードテーブルをはさんで対峙していた。新旧GBRC統一戦前哨戦、第1ラウンドを戦う池上健史とイワンスゴウデスキーのふたりである。

 「先生、私信じてます……」

 最後まで池上の傍にいた女マネージャーは、不安を隠し切れないか細い声で言葉少なにこうつぶやいた。

 「ありがとう、香織君」

 女マネージャーは池上の目を見て頷くと、自分の席へ引き揚げていった。彼女が着席すると間もなく、第1ラウンド開始を告げるアナウンスが入り、ゴングが高らかに打ち鳴らされた。息を呑む観衆、静まり返る場内の中心には、かつてのライバル同士が睨み合う。

「池上、いや、ミラクルファイブ! きさまを虎の崖から、今度こそ突き落としてやる!」

不二巻建設によって、イワンスゴウデスキーの魂は完全に買収されていた。

「スゴウデスキー、また、君と純粋にビリヤードを楽しみたいよ…。昔みたいにな。不二巻建設からもらったものがあるなら、いますぐ捨てろ」

それはふたりにしか聞き取れなかった。届かぬ願いと知りながら、もしや…もしやに引かされて、池上は苦楽を共にした僚友に最後の言葉をかけた。

「もう遅い! それに、ミラクルファイブの言う事でもあるまい」

「わかった。じゃあ、虎の崖仕込みのビリヤードを君に見せてやる」

「その言葉、そっくりそのまま、きさまに返す!」

先攻を取った池上のショットは、第1オブジェクトボールを難なく捉え、完璧な軌跡を描いて第2オブジェクトボールを捉えた。まず無難に1点を先制する。その後、彼は虎の崖で学んだスリークッションの定石を次々と披露する。ノースピン、ファイブアンドハーフ、プラスツー……七色のスリークッションシステムを駆使し一挙に65点を取り、100点満点制のこのゲームに早くも王手をかけた。彼はスリークッションの専門家ではない。つまり、それだけで大変なハンデを負っていることになるが、この鮮やかにたたみかける攻撃はさしものスゴウデスキーをもたじろがせた。

しかし、次の瞬間、脳裏に蘇った屈辱の思い出が、スゴウデスキーを再び復讐鬼として奮い立たせた。蝶ネクタイを締め直すと、緑の瞳に闘志をたぎらせ、獲物を射すくめて忍び寄る豹の影をテーブルに落とす。それからはあっぱれ、名人の名に恥じぬ恐るべき反撃であった。池上のたった一度のミスから掴んだチャンスに、彼は人間技とは思えぬ美技を矢つぎ早に繰り出す。それは虎の崖仕込みの、まさに物理的な法則を超越した球の動きであった。観衆の間からは途切れることなく溜息が洩れる。

ラウンドテーブル、ショートアングル、ダブルレール……池上のスリークッションシステムは言うに及ばず、彼はこのゲームにおける全ての得点法を極めていた。88連続ポイントの驚異的な逆王手を池上にかける。だが、池上が次の攻撃で35点を連取し、自分がもう一度ミスを犯せばスゴウデスキーの敗北である。確率的にはかなり高い数字になろう。スゴウデスキーの顔面を冷汗がぐっしょりと濡らす。しかし、池上とてすでに先攻した時の精神状態にはない。もう一度ミスを犯せばスゴウデスキーの逆転勝利は確実である。それでも池上は慎重に球を運び、30得点を重ねた。

(あと5点……)

それは悪魔のつぶやきにも似た心の油断だったのだろうか? 96点目を挙げる寸前の第3クッションは無情にも第2オブジェクトボールをほんのわずか外れた。場内はどよめきの渦と化し、ミキ・蒲田サイドには期せずして歓声が湧き上がった。スゴウデスキーは目を閉じ天を仰いだ。この時、彼は、仇敵・池上健史への雪辱を確信した。額に玉の汗を浮かべながら、細心の注意を払ってシステムを組み立て、94得点を重ねた。そして、スゴウデスキーは頭上高くキューを突き上げ、勝利の雄叫びをあげた。やはり、名人の底力に脱帽せずにはいられなかった。池上は改めてスゴウデスキーの凄まじい執念を思い知った。だが、この直後信じられないことが起った!

(あと6点……)

それは悪魔のささやきにも似た心の油断だったのだろうか? 完全勝利に近づく95点目をあげるスゴウデスキーの渾身のストロークは、キューボールをとんでもない方向へと運んでしまったのである!! 

「カリン!」

大ミスショット、“ナンジャソリャ”の典型的な響きだった。その途端スゴウデスキーの顔は蒼ざめ、全身を震えが襲った。果たして、誰がこのような展開を予想し得たであろうか? 魔が差したとしか思えない名人のまさかのミスショットは、池上の大逆転勝利を呼び込んだのである。先に100ポイントをあげた池上に対して、あと6点取っても引き分けに終わるスゴウデスキーは、完全に気落ちしたのか、99点目を挙げるはずのキューがまたしても大ミスショットとなってしまった。

(これが、不二巻建設に魂を売り渡したスゴウデスキーの末路か? 見たくなかったよ…)

虚しさに支配された池上は、と同時に疲労困憊の極に達し、勝利の味をかみしめる余裕など残ってはいなかった。そして、彼の眼前で打ちひしがれ、その場に崩れ、悔し涙に咽びながら肩を震わせているスゴウデスキーを気の毒に思わずにはいられなかった。運命の女神はスリークッションゲームのスペシャリストにそっぽを向き、土壇場で池上に微笑んだ。この一戦は私達に勝負の恐ろしさ、非情さというものを、いやというほど思い知らしめた。


3. 「四」は殺しの符号

 沈みきった勝利者を全く無視するかのように、池上サイドには歓喜の嵐が吹き荒れていた。しかし、池上の気持ちを察したのか、やがて、場内は水を打ったように静まり返る。その異様な静けさの中で勝利のセレモニーが黙々として行なわれた。しかし、池上は認定書にサインすることも忘れ、トロフィーの感触を確かめることもなく控室へ引き揚げていった。そんな彼を第2、第3ラウンドの試練が“前門の虎、後門の狼”と待ち受ける。不二巻建設が送りこんだ刺客の中で、最もくみしやすいと考えたイワンスゴウデスキーに、ビリヤード人生でも稀にみる大苦戦を強いられた池上に、惨めな敗北の予感が這い上がる。 

与えられた30分のインターバルに、彼はたった一人瞑想に耽った。辰巳耕志との数々の戦い、共に歩んだGBRCの歴史、蒲田幹男の出現……様々な出来事が走馬灯のように彼の脳裏をよぎっては消え、また浮かぶ。しかし、今後の作戦を練ろうと焦っても、それは所詮無駄な努力だった。成す術もなく敗れ去る自分を嘲笑う不二巻建設、ミキ・蒲田の両肩に掛けられた新旧GBRCの二本のベルト……それらが絶えず幻影となってのしかかり、悪夢にうなされているかの様だ。だが、彼はそんな思いと戦いながら、ある漠然とした結論に到達しようとしていた。

(勝つことだけが全てではない。それはただの結果でしかない)

スゴウデスキーとの一戦で結果的には勝ちを納めたが、あの時、己は何よりも先ず勝利を欲しただろうか? 不二巻建設の刺客として牙を剥くかつての仲間を、救いたいという気持ちが少しでもなかっただろうか? 鬼に徹する非情さの裏に、相手を気遣う優しさを秘めたればこそ、真の勝利者と言えるのではないか? 今まで自分はそう心掛けてきた。それを実践してきた。

しかし、まだまだやり残している事がある。それは全ての憎しみと怨因を乗り越える事なのかもしれない。神はその重責を池上に背負わせようとされている。池上には新旧GBRC統一という途徹もなく大きな使命がある。この使命の達成は何かを生み、何かを滅ぼすだろう。その時、滅び行く何かに自分は手を差し伸べる事が果たしてできるだろうか? 自ら滅ぼそうとしたものをも包み込む優しさを抱く事ができるだろうか? 耐え難き心の葛藤であった。しかも、その結論に達しないまま時間は経ち、遂に時計の針はインターバルの終りを告げた。

 「先生、時間です。まもなく第2ラウンドが始まります」

 女マネージャーの声に池上は我に返る。

 「先生、やっぱり私の信じていた通りでした。さっきの試合について、みんなは実力じゃないとか、拾った勝ちだとか、ひどい事を口々に言ってます。でも、私は立派な勝利だと思います。いいえ、先生のマネージャーだから言うのじゃありません。一観客として本当にそう思うんです……だから、だから誇りを持って下さい!」

 彼女のこの言葉は、雑念に囚われていた池上を目覚めさせた。先ほどまで自分の考えていた問題は全てそこに帰結し、また、そこから始まる。勝負において、何よりも勝ちにこだわる事に、いささかの罪もない。それは、逆に相手に対する最大の思いやり、最大のマナーなのだ。暗黙の了解など決して存在しないシビアさに、スポーツの原点がある。相手に対する思いやりなど無用なのだ。

ただ、人間は野生動物のように、闘争の末に倒した相手を食べたりはしない。弱肉強食は自然の摂理であり、動物はその摂理に則った生き方をしているに過ぎない。しかし、人間には神によって、敵を倒した瞬間から、その敵に優しくなれる特権が授けられている。そして、そこから愛に満ちた真の勝利者の道が開ける。

 「ありがとう香織君、これで私も迷う事なく戦えるよ。じっくり見ていてくれ」

 池上は女マネージャーの肩を叩くと、晴れやかな気分で長い廊下を会場へと急いだ。やがて、耳に入ってくる観衆のざわめきに、彼は気合いを入れ闘魂を鼓舞する。第2ラウンドの相手は四つ球の達人・四ッ谷巌十郎老人である。池上を最も恐れさせる強豪であった。彼の名は幼い頃に耳にした記憶がある。

四ッ谷老人の出身地は、大阪の四つ橋界隈だと教えられた。実在の真偽が疑わしい「四辻町」四丁目の生家で、四人兄弟の四男坊として生を受けた。四つ球では強過ぎるため、どこを探しても彼の相手はいなかった。虎の崖での講義でもその名は語られているが、まさか、彼が不二巻建設に雇われていようとは、夢にも想像できなかった。何十年か前には四つ球のタイトルがあったらしいが、四ッ谷老人が兵隊にとられている間に、戦災に焼かれてしまった。四ッ谷老人の生死が確認されぬまま年月が過ぎ、ついに「四つ球王者、永遠なれ」と刻まれた石碑が建立されるに至り、今では幻のタイトルと言われている。

老人が復員してきた時はすでに遅く、彼がその石碑の前にひざまずき、泣き明かしている姿が何度も目撃されている。だが、誰一人その片目の復員兵がかつての四つ球王者、四ッ谷巌十郎と気づく者はいなかった。彼はタイトルへの未練をきれいさっぱり洗い流し、軍人恩給を受けながら余生を面白おかしく暮らそうと固く心に決め、大阪のメッカ・帝国ビラードに住みついた。

以来、帝国ビラードの主と恐れられながらも、そこの従業員や馴染み客達に慕われる好々爺であったが、帝国ビラードと不二巻建設の姉妹提携は彼の運命を大きく変えた。あっという間にその老人は四ッ谷巌十郎と見破られ、不二巻建設の執拗な説得は来る日も来る日も続けられた。そして、ある日とうとう老人は用心棒として身を売る決心をする。過去の栄光に対する断ち難き未練と、あの時をもう一度という見果てぬ夢だったのかもしれない。

池上は四ッ谷老人の待ち構えるテーブルにただならぬ殺気を感じながら、一歩一歩踏みしめるように近づいていった。

 「さいぜんは危なかったのう。じゃが、あれがスゴウデスキーの運命というものよのう。勝負とはああいうもんじゃ。わしゃ、きゃつに同情するなんぞ、まっぴらご免じゃて。だから、仇を討とうなどと殊勝な考えはこれっぽっちも持っとらん。ただ冥土の土産をひとつ増やそうと思うてな。ひっひっひっ」

 綿帽子の間から、四ッ谷老人の片目が血走り池上を射る。やはり試合に望む達人には、帝国ビラードの主と恐れられる貫禄が備わっている。折れ曲がった腰を杖がわりのキューが支えているが、その姿は一種名状し難い威厳に満ちていた。だが、池上も女マネージャーの言葉に励まされ、少しもひるむことはなかった。ずっと老人に抱いていた恐怖も徐々にやわらいでいった。

 「私も全力を尽くしますよ、ご老人。あなたの胸を借りるつもりで……」

と言う今の池上には、むしろ余裕さえ感じられる。

 「ひっひっ、嬉しいことを言ってくれる。じゃが、相手がおいぼれでも遠慮はいらん」

「わかっています。私はあなたを倒すためにここに立っている」

 「その意気じゃ、おわけえの……」

 その時、ふたりの会話に割って入るかのようなアナウンスが流れ、第2ラウンドを告げるゴングが高らかに打ち鳴らされた。

 四ッ谷老人が先ずオープニングブレイクの権利を獲得した。持ち点は両者300点、つまり、同イニングを消化し、先に300ポイントをマークした方が勝ちとなる。だがしかし、神が人間に与え給うた力は同じ人間には計り知れないものなのか? 先攻を取った四ッ谷巌十郎はイワンスゴウデスキー同様、ボールを生あるものの如く操り、四つ球における定石を確実に決めていく。

ダイレクトキャロム、タイムショット、縦返し、大回し……大技の数々、精巧な機械の様に研ぎ澄まされたポジションプレーと、全く非の打ちどころのないキューさばきに場内は騒然となった。四つ球の達人・四ッ谷巌十郎老人は、なんと一呼吸も置くことなく、300ポイントを連取したのである!

 「お、おい、ちょっとつねってみてくれ、俺は夢でも見ているのかなあ?」

 「夢でもなんでもない、これは紛れもなく現実だよ。ただ、ここにいない者にゃ到底信じられんだろうがな……」

 詰めかけた報道陣の間ではこんな会話が取り交わされていたが、まだ場内には今何が起こったのか理解できない人々の方が多かったに違いない。

 「す、凄い! 恐れいった! いくら池上君でもあの老人の真似はできまい……」

 昭和パルティのマスターは溜息をつき、首を横に振るだけだった。

 「私もそれは否定できません。しかし……」

 SWOの宇津木会長は呆然自失として言葉を続けることができなかった。

「しかし、なんと……池上君が奇跡でも起こしてくれるとでもおっしゃるんですか? 見てみなさい、あれを」

 マスターの目の先には石のように動かない池上健史の姿があった。

 「せ、先生……」

 女マネージャー・庄司香織も言葉を呑まずにはいられなかった。池上は今、ビリヤードテーブルを背にして化石したように仁王立ちに立ち尽くしていた。彼は四ッ谷老人のこの大偉業を最初から予期していたのだ。だからそのキューさばきを見守る事なく、ただ自分のイニングをじっと待っていたのである。昭和パルティのマスターの目には、しかし、その姿が諦め切った者のように映った。いや、池上をとりまく全ての人々がそう思ったに違いない。

 「おわけぇの、わしはひと足先に上がらせてもらった。今度はあんたの番じゃ。思う存分やるがいい」

 四ッ谷老人の言葉には、できるものならやってみろという響きが込められていた。ミキ・蒲田と雇われ工作員・川崎三平は顔を見合わせて、してやったりと嗤っている。そして、総帥・不二巻玄造も腕組みをし、顎を静かに撫でている。高みの見物を決め込む不二巻建設の愉快っぷりは盛り上がりに盛り上がり、沈む池上陣営との明暗の差がクッキリと際立っていた。

四ッ谷老人のかけた言葉に、池上はそれでもしばらくの間は同じ姿勢を保っていた。やがて、両手をタオルで拭き清めキューを磨く。そして、タップにチョークを丹念になじませ服装を整える。彼は、やや緩慢とも言えるそれら一連の作業を終えると、クルリと向きをかえテーブルをじっと見据える。と、ほとんど無表情だったその顔にみるみる漲りわたる闘志の色は、大偉業の達人をもたじろがせた。

 池上は血走る目でショットごとに球の動きを読み、力加減を微妙に調節する。クッションを使う時は、その反発を頭に叩き込む。1点取るのに四ッ谷老人の1.5倍の時間を要した。だが、彼は全くその事に負い目を感じていない。ただ、「確実」の二文字に徹し切っていた。かつて、これほどまでに慎重を期した池上を私達は知らない。しかし、その私達の知らない池上が今、昭和パルティのマスターが苦し紛れに言った奇跡を起こそうとしている。次第に焦りの色を深めるミキ・蒲田陣営。

 「ま、まさか?!……」

 不二巻玄造の唇がワナワナと震え、目は眼窩から飛び出さんばかりに見開かれている。川崎は驚愕に顔を歪めたままスコアブックを取り落とし、ミキ・蒲田は全身をつたう不快な汗にすら無感覚になっていた。

 「なんということだ!」

 絶句するミキ・蒲田の眼前で池上は遂に奇跡を起こした!! 300点を連取し、四ッ谷老人との一騎打ちを見事痛み分けのドローに持ち込んだのである。湧き起こる歓声と大喝采、そして、感動の嵐が吹き荒れた。観衆は総立ちとなり、池上に惜しみない賞賛が浴びせられた。

 「先生、本当にありがとうございます!」

 無我夢中で駆け寄った女マネージャーは、池上の胸に顔をうずめ、あふれ落ちる涙を拭おうともしなかった。

 「礼を言わなければならないのは私の方だよ。香織君ありがとう、君のお陰だ」 

またひとしきり巻き起こる歓声に、ミキ・蒲田陣営の面々はその場にうずくまり、両手で耳を塞ぐ始末であった。

 「宇津木会長、私はあなたに謝らなければならない。あなたが信じて疑わなかった池上君に対して……」

 昭和パルティのマスターは面目なげにうなだれていた。それは自分に対する腹立たしさでもあった。

 「いいえ、何をおっしゃってるんですか。私とて池上君を完全に信じ切っていたとは言えない。実際、あの窮地から彼が脱出したなんて、正直信じられません!」

 SWOの宇津木俊介会長はこの時、世界をして世紀のプロジェクトと言わしめたスポーツウォーズ開催に夢うつつと思いを馳せていた。いかに人気の先行したスポーツウォーズ熱とて、真の実力者が競い合わずして、そこに真の意義を求めることはできない。世界各国がSWOに積極的な誘致合戦を繰り広げる中にあって、この最大の難問解決に苦慮していた宇津木会長は今、一条の光明を見い出していた。池上健史がミキ・蒲田を破ってビリヤード界に再び希望の灯をともし、力強い言葉を残してオーストラリアへ旅立ったジョー・真理谷が復活の証しを立てれば、真のスポーツ界統一が約束される。

 宇津木会長がそんな胸躍る想いに支配されている時、会場は池上の起こした奇跡に歓喜のるつぼと湧き返っていたが、思いもかけなかった出来事に周章狼狽のミキ・蒲田陣営には、不二巻建設存亡の危機を物語るような異変が襲いかかっていた。


4. 切り札・無頼アン

先に自分のイニングを終え、悠然と池上のキューさばきを綿帽子の間から観察していた四ッ谷巌十郎老人であったが、時間の経過と共に彼の顔は色を失い、引き分けに持ち込まれた直後、老人は一瞬激しく身振いすると、その折れ曲がった腰がピンとばかりに伸び上がった。そして、「グェーッ!」と一声、怪鳥の断末魔と聞き紛う呻き声を発したかと思うと、口から泡を吹いてその場に仰向けになってしまった。後に、単なる一過性の発作だと判ったが、血相をかえて飛んで来た雇われ工作員・川崎三平の腕の中で、四ッ谷老人は息も絶え絶えにこう言った。

 「か、川崎、あの池上というわけぇのはただ者じゃねえ。わしにははっきり判る。スゴウデスキーのやつが負けたのも偶然じゃあるまい。悪いことは言わねえ、ブライアンの野郎に恥をかかせたくなかったら、いや、不二巻の看板にこれ以上泥を塗りたくなかったら、早々に引き揚げた方がいい。悪い事は言わねえ、本物の破邪魂というやつを、わしはこの目ではっきり見た……」

 老人のこの言葉を川崎は大あわてで総帥・不二巻玄造とミキ・蒲田に伝えた。もちろん、ミキ・蒲田は敵に背中を見せる事に猛反対を唱えた。しかし、年寄りの虫の息にそれなりの含蓄を感じ取った不二巻は最高責任者の立場から用心棒の言葉に従う以外にないと判断した。

 「ブライアン、池上健史はおまえの力で倒せるような相手じゃない。おまえは若いし、いくらでもチャンスはある。だから今回だけは諦めろ」

不二巻は我が子を諭すようにブライアンシルバーに言い聞かせたが、無論、ブライアンは簡単に引き下がろうとはしなかった。

 「ボス、なんてことを! ミキさんの言うようにここでイケガミから逃げたら、それこそ終りだ。俺はまだ誰にもスヌーカーで負けた事はない。スゴウデスキーの仇を討つためにもやらせてくれ!」

 血気にはやるブライアンシルバーは端正な顔を歪めて、半ば抗議するように不二巻玄造に詰め寄った。陽気な性格で頼りなげな印象はたちまち彼から遠のき、肉食獣の獰猛さがその面に浮かび上がっていた。池上健史が逸早く見抜いたブライアンシルバーの欺瞞がこの時ベールを脱いだのである。

 「いかん! この上おまえまで破れるような事になれば、不二巻建設の株は大暴落する。惜敗も負けは負け、引き分けも負けたと同然。わしらは新GBRCの引き立て役ではない。四ッ谷の爺さんがああ言うからにはよっぽどの事だ。おまえには前途がある。必ず池上健史を破る日が来る。不二巻建設を助けると思って諦めてくれ、この通りだ!」

 そう言って頭を下げる不二巻の姿に、さしものブライアンも折れざるを得なかった。利口なブライアンにはこの時全てが即座に計算できた。恐らく、ボスの描いた幕張での青写真に大きな狂いが生じたに違いない。楽勝を目企んだ首脳陣の胸算用が崩れた今、自分がここで犬死にするのはもったいない。ミキ・蒲田が破れ去った時、その時こそ自分の出番なのだ。考えてみれば長い人生で、これほどのチャンスはそうそう巡ってくるものではない。ここで身を引いておけば、そのチャンスが転がり込んでくるのである。

(そうだ、俺は不二巻建設のジョーカーだ! 次のGBRCチャンプはこの俺だ!)

 「わかった、ボス。潔く身を引こう。スゴウデスキーや四ッ谷の爺さんには申し訳ないが、会社も大事だ」

 ブライアンシルバーの一言によって新GBRC前夜祭は事実上、全スケジュールを消化した。そこかしこに起こるブーイングを尻目に、ミキ・蒲田陣営はそそくさと会場をあとにする。宿泊先で最後の調整を行なったあと、幕張をめざす事になる。第3の刺客、ブライアン戦がとりやめになった池上陣営にとっては、束の間の休息となる。

思えばハードな日程だが、それもこれも不二巻建設の作戦とあらば、抜け目はあるまい。その証拠に池上健史は神経を擦り減らし、その疲労は極限に達していた。軽いめまいを起こす彼を、すんでのところで女マネージャー・庄司香織が抱きかかえた。

 「せ、先生、大丈夫ですか!?」

 「うん、大丈夫だ。ありがとう。ゆっくり体を休めたいがそうもいかん。なに、まだまだ若い。これぐらいの事に参ってはいられんよ、はっはっはっ。しかし、香織君、私は本当にラッキーだ」

「ラッキー?」

「ああ、あのあと、ブライアンとやっていたら四ッ谷老人の横に枕を並べていたかも知れん。まあしかし、老人もただの発作でよかった。この勢いで明日の統一戦も丸く納めたいが、そうは問屋が卸すまい。不二巻建設も必死だからな……」

 努めて明るく振る舞う池上ではあったが、その表情は心に深く垂れこめる暗雲のためか、憔悴し切って見える。ミキ・蒲田が去り際に言い残した捨てぜりふがいつまでも鼓膜に反響する。

 「火事場の馬鹿力とやらか? 追い込まれた人間の怖さがよくわかった。せいぜい首を洗って一晩を過ごすが、私も今、非常に追い込まれている。明日の統一戦が本当に楽しみだ」

 池上一行はそれからしばらくの間、マスコミの取材攻撃にもみくちゃにされたが、前夜祭の余韻は次第に“幕張メッセ大決戦”への期待へと変わっていった。



BB讃歌

第9章 恐るべき策謀

1980年代半ば。ある巨大プロジェクトを巡る黒い噂は我が国の建設業界、いや、全マスコミを震撼とさせた。大成設計工房が日本初の超々高層マンション「オリエンタルヒルズ」の設計・監理を単独で受注したのがこの年代である。並居る大手設計事務所と競合した形跡のないこの巨額受注が、実は出来レースなのではないかという衝撃的な情報が飛び交った。

当局の調べが進むにつれ、怪情報に潜む邪悪な構図が、あぶり出しの如く浮かび上がってきた。出来レース説は発注者である「日下ファンド」社長・日下一男、大成設計工房所長・槙村隼人の両氏に共通する人間関係にその根拠がある。ふたりに共通の人間関係、しかも、彼らにとって相当昵懇な間柄にある人物が、あの不二巻玄造だと聞けば、この説は信憑性を帯びる。

 総工費が5,000億円にものぼるオリエンタルヒルズの施工を請け負ったのは、こちらも並居るスーパーゼネコンを抑えた不二巻建設なのだ。日下・槇村・不二巻の癒着が疑われた背景には、彼らのただならぬ経歴があった。更に遡ること10数年前、“北の大地の大地主”こと「ほっかいどう地所」代表・南原数男、関西圏でビルディング保有棟数No.1を誇る「橋本ビル」社長・橋本一夫、さらに、全国でセブンイレブンはじめ大手コンビニチェーンのシェアを浸食しつつある「エイトトゥウェルブ」会長・工藤一雄と共に「KAZUO’z」を結成し、日下一男は不動産業界へ革命的な殴り込みを果たす。

この先見性に目をつけた不二巻玄造は、日下に力を貸してくれないかと声をかけた。この時、不二巻は建設業界制覇の野心に燃えており、お互いの利害が一致したに違いない。不二巻は己の野望達成のためには、決して手段を選ばない。そして、なんでも欲しがったのだ。即戦力となる有能な人材の確保に加え、ある世界タイトル獲りの計画に躍起となっていた。

 彼が狙った世界タイトルがGBRCだった事は言うまでもない。しかし、当時のチャンピオンを倒しタイトルを手中にするためには、タイトル戦の主導権を握る必要があった。だが、既に姉妹提携を結んだ大阪のメッカ・帝国ビラードは疑惑の中心にあり、不二巻玄造の意のままに興業を組むことはもはや不可能となっていた。そのため、彼の腹心たちは帝国ビラードに代わる新しいフランチャイズの開拓に東奔西走する日々を送っていた。

そこで、不二巻は日下一男の辣腕振りに目をつけたのである。実は、後に新GBRC千葉決戦の調印式が取り行なわれた「ランドマーク千葉」を手掛けたのが、他でもない日下一男だった。そもそも、ランドマーク千葉は、のしあがりつつあったKAZUO’zの前線基地として建てられた。不二巻玄造については今更言葉を労する必要もないが、問題は槙村隼人と彼の関係である。こちらの方の調査には当局も相当骨を折ったとみえ、槇村の線がつまびらかとなった段階で、TMRに調査の継続が依頼されている。

 TMRと言えば、抜群の捜査網を駆使し、数々の悪辣な事件の真相を暴き、ビリヤード界の治安を守り続けてきたビリヤードベンチャーご自慢の秘密機構である。近頃では、お蔵入りした犯罪事件の再捜査にも応じ難なく解決してみせるなど、そのノウハウは高い評価を受けている。建設業界の大贈収賄事件がビリヤード界の平和と秩序を揺るがすスキャンダルと目され、TMRが乗り出した以上、不二巻玄造と槙村隼人の関係が白日の下に晒されるのも、もはや、時間の問題と考えられていた。

だが、一見同じ畑で暮らすこのふたりの接点は、それでいて、なかなか見つけることができなかった。今、私達の手元にある報告書をまとめるまでに、TMRは実に一年半に及ぶ歳月と延べ500人余りの調査官をつぎ込まなければならなかった。何故、不二巻と槙村の関係を洗うのにこれほど時間を要したのか? そこには様々な事情が錯綜していた。それらの全てについて確かな裏付けを取るまで、調査は根気強く続けられた。

 さて、不二巻玄造が日下一男に新フランチャイズとして幕張メッセの名を挙げたとすれば、便宜を図った日下にはそれなりの見返りが用意されていたはずである。それがなんと、GBRCの地方興業権買収話だったのである。これが、野望の芽に花咲かせたであろうことは容易に想像がつく。GBRCの地方興行権が手に入れば、全国各地に会場をプロデュースする事となる。一代で築き上げた日下ファンドは大成長を遂げ、「KAZUO’z」の大躍進が保証される。

無論、不二巻がそれだけの条件を提供できたのは、日本撞球との業務提携が水面下で進められていたからに他ならない。日本撞球の一部幹部達と不二巻の間には、もう既に提携を約束する書面が取り交わされていた。ある支援団体の役員によれば、日本撞球組織名鑑の中に「槙村直人」の名が見られたと言う。

この槙村直人なる人物には、元赤坂の高級クラブホステスだったという愛人がおり、今この女性は目黒の高級マンションのオーナーにおさまっている。業務提携に何らかの便宜を図った槙村への謝礼だと目されている。ここで腑に落ちないのは、槙村直人なる人物の日本撞球での立場だが、彼の肩書きは“タイトル戦制定編成局次長補佐”となっており、とりたてて有力な人物とは思えない。にも関わらず、彼のあと押しによって不二巻建設が提携にこぎつけた理由には、彼のもつ豊富な人脈と類い稀なプロデュース力に頼らざるを得なかった日本撞球首脳陣の弱体ぶりが見えてくる。

このビリヤード界の屋台骨を揺るがす大スキャンダルは、後にコミッショナーの裁定による幹部達の減俸処分で一応ケリがついているのだが、言うまでもなく根本的な問題解決には何ら結びついていない。あまつさえ、当の槙村直人は事件発覚の1年後に、編成局次長への昇格を果たしている。まさに悪魔に魅入られた老舗組織・日本撞球の悲運である。この現在の編成局次長こそ、大成設計工房所長・槙村隼人の叔父の息子つまり、従兄弟だったのである。隼人がオリエンタルヒルズの設計・監理を指名コンペにより獲得したのも、不二巻玄造への働きかけがあったからに違いない。

こうして、まんまと帝国ビラードに代わる不二巻建設の新フランチャイズは幕張メッセという隠れ蓑を着て、日下・不二巻・槙村の三大悪党の私腹を肥やす要塞として、ウォターフロントにその威容を誇っているのである。全ては乱脈金権の産み出した邪悪の構図である。しかし、なんと最近この三大悪党の間に微妙な亀裂が走っているらしい。日下一男と槙村隼人が共にごく親しい側近に、不二巻に裏切られたと言うニュアンスを口にしているらしいのだ。

TMRの調べを待つまでもなく、オリエンタルヒルズと東京湾の間に建設が進められている「湾岸サンセットコロシアム」の発注者が不二巻玄造なのだ。ミキ・蒲田が個人的に推進しているビリヤードの裏興業に備えて、不二巻が土地買収の触指を動かしていた事を考え合わせると整理しやすい。サンセットコロシアムの建設によってオリエンタルヒルズ低層階からでも望めたはずの海の眺望は断たれることとなった。このあたりに三者の認識のずれをうかがい知ることができる。

 「数多くの人々の手を借りて完成した超々高層マンション、日本の技術水準の高さを世界に示すいい機会になる」

 そう語っていた日下。

 「サンセットコロシアムが建設されることは、コンペ時はもちろん、実施設計に入るまで知らなかった。気づいた時は既に遅かった」

 と残念がる槙村。ふたりが共にオリエンタルヒルズにある種の情熱を傾けていたのに対し、不二巻玄造は早くも次なる計画に着手していた訳である。恐らくそれとて、正面切ったやり方ではなかろう。もはや、腐敗が腐敗を呼ぶ邪悪の構図を修正することはできない。不二巻玄造は田中角栄の「日本列島改造論」ばりの「国土地理再編論」を掲げ、ビリヤードを通じて、日本のみならず世界の国土を征服せんと企んでいるのだ。つまり、彼にとって日下や槇村は、遠大な目的を果たすための一本のネジ・一つの歯車に過ぎなかったのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ