これから。
キョウコは、薄青く光る画面をブルーライトカットのメガネレンズ越しに眺めていた。
白い画面。
左下に表示された文字数はまだ120。
「どうした?電気もつけないで」
気が付くと、部屋に男が入ってきていた。
手には温かな湯気の立つコーヒー。
「ジヴリエル」
キョウコは男の存在を確認し、ふ、と息を吐く。
「スランプ、ってやつかな」
そして苦笑する。
天使シリーズを完結させた後、キョウコは何も書けなくなっていた。
ジヴリエルが人間としてキョウコに寄り添う決意をした後。
今も二人の生活は続いている。
ジブリエルはコーヒーカップをパソコンの脇に置くと、キョウコの頭をなでた。
「書きたいこと、もうないのか?」
「うーん……、今まであなたの為にって理由があったけど、今はなんか、ね」
「自分の恋が叶ったから?」
瞬間、キョウコの心がときめく。
こんな言葉一つで、まだ心がざわつく。
まだ、恋の続きをしている。
本当に手に入ったのか、今でもそばにいてくれるジヴリエルには悪いが、実感がない。
姿かたちが変わっただけで、生活は何も変わらない。
自分がジヴリエルを好きだという気持ちと、ジヴリエルが自分を好きだという気持ちが確認されただけで、何が変わるというのか。
天使の愛し方に、納得できていないのか。
ジヴリエルはそばにいてくれるだけで何も変わらない。
そばにいてくれるのはうれしい。
自分を一番に考えてくれるのはうれしい。
彼の一言に心が跳ねる。
それは間違いない。
だが、何か足りない。
「今、編集に出してる提案はファンタジーなんだけど」
「キョウコはファンタジーが得意なの?」
そういわれてみれば、デビュー以来ファンタジー以外を書いたことはない。
ブログに趣味程度に書いていたころは、恋愛コメディのようなものも書いた事がある。
「どうだろう?」
「世界観だけファンタジーにして、貴種流離譚とか、サスペンスとかにしてみたら?」
「……そうねぇ」
「じゃぁ、ラフィの話なんてどう?」
「え?」
珍しく出た旧友の名に、キョウコは驚きを隠せない。
「あいつ、何。何か面白いネタあるの?」
「ラフィって、なんで羽が赤いか言ってないよね」
「うんうん」
「彼の魂は昔、天界に反乱を起こした天使の相棒だった天使のものなんだ」
「え?何どういう事?」
「有名な4大天使って知ってるよね」
「聖書にも出てくる天使だよね。そのネタはたくさんあるから知ってる」
「実際、その他にも神の御許には多くの重要な天使がいて、そのほとんどは地上に顕現することはない」
ジヴリエルはゆっくりと記憶を紐解くように話す。
「遥か昔、神にはべる天使の一人が神を裏切った。それはルシフェルの時代なんかよりもっと後の話なんだけど、その裏切った天使には相棒がいて、その天使は相棒の罪を他の天使に認識させるいわば見せしめとして羽根と髪を赤く変えられてしまったんだ」
初めて聞く天界の歴史である。
「俺たち天使には、本当の意味での死は訪れない。魂は天に戻り、再び形を与えられる」
「じゃぁその赤くされた天使の魂が今ラフィに宿っているの?」
「そう。あいつは天界樹から生まれた時……俺たちは天界樹ってものから生まれるんだけど、その時からすでに羽根が赤かったんだ」
「ほかの羽根の色って、ないの?」
「あるにはあるけど、赤っていうのはないね。高位の天使は真っ白な羽根に金色の髪だし」
「でも、外見ってある程度変えられるって前言ってなかった?」
「そうだよ。俺はもとは白い羽根にブロンドの髪だったけど」
今のジヴリエルは、栗色の髪だ。
「なんで、ラフィは変えないの?」
「あいつは、自分の魂を誇りに思っているからね」
「天界でいやな目に合わないの?」
「いじめとか?」
ジヴリエルは苦笑した。
「ないことはないけど、あいつも実は実力者で、結構守られてるから」
「えええええ!」
「言ってなかったっけ?あいつ、このあたりの管理責任者だって」
「えええええええええ!?」
「堕天管理局の中間管理職」
「なんでそんなのと仲いいのよ!」
もっともな疑問である。
「なんでだろう?気づいたら仲がいいというか、悪くはなかったというか」
きょとんとするジヴリエルを、キョウコはさらに追及する。
「そこ、もっと詳しく!」
「忘れちゃったよ。俺も堕天みたいなものだから、今は監視対象だしその内また顔だすんじゃない。その時インタビューしてみたら」
「ええええええええ!そんな簡単に言わないでよ!」
「キョウコに作品書いてもらわないと、生活に困っちゃうからなぁ」
少しおどけて。
ジヴリエルは柔らかな笑みをこぼす。
キョウコは少しだけ考えた。
考えて、頭の中でプロットを構築する。
「神に叛旗を翻した天使と、その相棒の物語?」
「うん?」
「それとも、魂を封じられた天使と、もう一度神に反抗しようとするグループの物語?」
「いいね。確かに、反乱者たちの魂は封じらている」
「あとは、その事件を隠ぺいしようとした神に疑問を呈する天使に注目するとか」
次々と筋を考える。
「いっそのこと、神様の力が失われるとか……」
「はい、じゃあ明日までに次回作の内容をまとめておいてね」
担当編集のような物言いで、ジヴリエルは部屋を後にする。
「もー!簡単に言わないでよ!」
温かなコーヒーの香りが残る。
そして少しだけ、ジヴリエルの温かさ。
その暖かさに安らぐ。
「……これって、恋なのかなぁ」
分からない。
今まで感じたことがない感情。
再び一人になって、考える。
満ちたりていないわけではない。
足りないものが分からない。
でも足りない気がする。
「贅沢な悩みかしらねー」
好きな人がそばにいて。
好きだと言えて。
「バカだろ、お前」
「きゃっ」
急に声を掛けられ、キョウコの肩が跳ねる。
「ちょ、なんなのいきなり」
そこには話題のラフィがふわりと浮いていた。
「お前、バカ!一緒に居られて何が不満だ」
「ちょっと!人の思考を読まないでよ」
「読まんでもわかるわ、ばか」
「ばかばか言い過ぎ!」
「お前たちには言葉とふれあいが足らん!」
きっぱりと言い捨てられ、キョウコはうん?とうなった。
「何よ」
「ふつう人間ってのは、愛してるだの、キスだの言葉と態度で愛を分かち合い確認しあうんだよ」
かかーっと、キョウコの頬が赤らむ。
「恥ずかしがってる年か!見ててこっちが恥ずかしい」
言われてみれば、ジヴリエルは必要以上にキョウコに触れない。
「あいつも愛の天使……のなり損ねなんだからそういう分野は得意のはずなんだがな」
ラフィは顎に手をあて考える。
キョウコの顔の温度は下がらない。
「もう!いいってば!早く帰りなさいよ!」
「はいはい。がんばれよ」
ラフィが不敵な笑みを浮かべてどろんと消える。
キョウコはテーブルに顔を隠した。
ううぅんと小さくうなる。
求めていないわけではないが、求めない時間が少し長すぎた。
長く一緒に生活していただけあり、少し気恥ずかしい面もある。
でも、これからも一緒だ。
「そう、よね」
これから先。
ずっと一緒に居られる。
その場所を、生活を守らなくてはならない。
「がんばります、私」
一言自分を勇気づけて、キョウコはキーボードをたたき始めた。