私の恋のはじまり
神様、お願いします。
私に素敵な出会いを。
切り取られた外壁から、薄く日光が差し込んでいる。
すりガラスに遮られた柔らかな光が、十字架を床に落とした。
キョウコが生まれる前からこの教会はある。
教派も知らないが、クリスマス会なども開催されていて、小学生のころは度々集まった記憶がある。
桜の蕾が枝先に膨らみ始めた頃。
今日で最後になる制服姿で、何年かぶりに教会の敷地に足を踏み入れたのだ。
特に教会に用があったわけではなかった。
少し気分を落ち着かせたかったのかもしれない。
花の高校生活も今日で終わった。
自分で花のなどと形容していることに呆れながら、ため息をつく。
庭先で草むしりをしていた教会のおばさんには、「開いてるから自由に入りなさい」と言われた。
いつでもウェルカムな雰囲気は昔から変わらないようだ。
ひんやりとした空気が、そこに溜まっていた。
なんとなく前から3列目の椅子に腰かけ、ぼうっと十字架の光を見つめる。
――恋、できなかったな。
学業以外の成果といえば、図書委員会の活動と華道部で培った腕前くらいか。
少女マンガのようなとまでは言わないが、好きだなという感情以上の、切なくなるような、自分ではどうしてもコントロールできないような恋がしてみたかった。
テレビの向こうの誰か以外に、そういう本物の感情を向けてみたかった。
が。
ついぞキョウコにはその機会が訪れなかった。
夢を見すぎだとは分かっている。
分かってはいるが、それを夢見ても良い時代だと思っていた。
「恋って、なんなのかしら」
独り言が静かな礼拝堂内に吸い込まれた。
瞬間。
室内の光量が上がった。
雲間から太陽が顔を出したのかと思ったが、明らかに質の異なる光だった。
一斉に灯光器が当てられたような、舞台でスポットライトをあびたような。
強く、満ちる光。
声は出なかった。
ただ、強い光に目を眇めた。
しばらくすると、ゆっくりと光が弱まった。
それは、何かの演出ではかとキョウコに錯覚させた。
壁に開いたガラス張りの十字架の前に、白い服をまとった天使が現れていたのだ。
ばさり、と天使の羽根が広がる。
大きな純白の羽根。
プロジェクションマッピングかと、部屋の中を見渡す。
だが、プロジェクター類の機器は見当たらなかった。
すぐに視線を戻すと、天使の姿は消えていた。
急に、どきどきとキョウコの胸の鼓動が大きくなる。
あれはなんだったのか。
分からなかったが、なんだか秘密にしておきたくて。
キョウコは今日起こった出来事を大事に心にしまっておくことにした。
――ああ、大学生活も終わってしまう。
卒業証を授与される順番を待ちながら、キョウコはぼんやりと考えた。
せっかく県内屈指の人気女子大に入学したというのに。
地味な美術部に入った事が悪かったのか?
学園祭ではミニスカメイドのコスプレまで披露して、学外活動も積極的に参加して、それなりに男子学生との交流もあったというのに。
就活中に出来た最初の彼氏とは、なんとなく連絡を取っていない。
とりあえず付き合ってみたが、恋ができたのかといわれるとよくわからなかった。
毎日来る「おはよう」や「おやすみ」のメール。
週1回のデート。
それを苦に感じる自分がいた。
その内メールも電話も、会う回数も減った。
別に毎日連絡が取れなくてもいいと思ったし、相手が何をしているかも気にならなかった。
恐らく、就職を機に自然消滅。
ただ、顔はまぁまぁだったし、キスはうまかったなと今でも思う。
それだけ。
檀上に上がり証書を受け取りながら、キョウコは決意を新たにすることにした。
人生、社会に出てからが本番だと。
何通目だろう。
結婚式へ招待したいというメールを見つめながら、キョウコはサンドイッチを口に運んだ。
社内のデスクで、カプチーノとサンドイッチの昼食。
「どうしたの?」
向かいの席の同僚が声をかけた。
「え?何がですか」
彼はキョウコの教育係として、入社時からよく世話をしてくれている。
佐々康太。
入社8年目、30歳。未婚。今のところ彼女もいない。確認済み。
「浮かない顔してる」
「今、高校の友達から結婚式の招待確認メールが来てですね」
「あれ?なんか先月もそんなこと言ってなかった?」
「ええ、今年3回目ですね」
「ふーん、そんな年頃だもんなー」
「そんなって、まだ24です」
「24ってさー、お前のお母さんは何歳で結婚したの」
「母たちの時代とは違うじゃないですか」
「いやそうだけど、昔さー、俺の彼女も母親の結婚した年までには自分も結婚したいって言ってたな、と思って」
「前の彼女さんですか」
「そ。今はフリーですから、俺で良ければもらってくれる?」
冗談交じりにそういわれ、キョウコは「遠慮します」と即答した。
そんな冗談で言われてもうれしくなかった。
「でも、焦りますね。周りがどんどん結婚していくと」
真剣に。
真剣にそう思う。
彼氏がいるならまだしも、今キョウコは絶賛売出し中。
フリーもフリー。
ただし少しガードが固いというか、理想が高いというか。
「大丈夫だよー。課長だって結婚してないし」
「課長は仕事にまい進するとおっしゃってるから、別格です。私たちは恋愛して、結婚したいんです」
キョウコたちの課の課長は女性だった。
若くして出世し、社内初の女性部長になるのではと噂されているやり手だ。
38歳。未婚。
容姿もきちっとしていて隙がなく、スタイルもいい。
だから安心しろ、とは次元の違う話だ。
そうではないのだ。
出世したいわけではない。
恋愛がしたいのだ。
「ま、仕事もまじめにやってくれてたら恋愛は自由だけどさぁ」
キョウコは再びメールに目を落とした。
そして返信メールを打つ。
出席したいと思います。
招待状は下記までお願いします。
郵便番号……
えらく固い文章になってしまったが、構わず送信ボタンを押した。
「おめでとう!」
「おめでとー!」
ライスシャワーの中を、新郎新婦が笑顔で通り過ぎる。
多くの祝福を受け、幸せいっぱいの笑顔。
拍手で見送りながら、キョウコも素直に式を楽しんだ。
披露宴の席は高校の同窓会になった。
「知ってる?美知も結婚したんだって」
美知って誰だっけと思いながら、同級生の一人だろうと相槌を受つ。
「亜里沙もさ、今の彼氏と結婚するつもりだって」
「へー」
そんな話をしているテーブルの面々も、半分は既婚者だ。
「キョウコは?今彼氏いんの?」
「んー、微妙」
「微妙ってなに」
「社内だと恋愛って気分にならないし、かといって事務だと社外の人とは電話くらいしか話さないし出会いがないというか」
「今度合コンでもする?」
「ん!いつでも空いてる!」
メインの肉料理をほおばりながら、キョウコは力強く頷いた。
それから2年。
「やばい」
課長席に挨拶に行った後輩社員を見ながら、キョウコはこぶしを握りしめていた。
「お前顔が怖い」
相変わらず向かいの席にいる同僚が小声でささやく。
昨年入社した後輩女子が、今まさに結婚の報告をしている。
佐々はキョウコの心中を察して声をかけたのだ。
結婚しないだろうと思われた課長も、昨年末に入籍していた。
仕事が落ち着いたから、12年付き合った彼氏とついに区切りをつけたと言っていた。
課内の少ない女子社員の中で今、未婚女子はキョウコだけになりそうだ。
「お前この前合コンしたって言ってなかった?」
「しましたけど!なんかいい人いなかったんですもん」
「あー、そう」
佐々は少し呆れてため息をついた。
その佐々の左手にも指輪が光る。
なんだか取り残されていく気がして。
キョウコの気分は落ち込む一方だった。