書店で見かけた店員
「お前はまだあんな小娘と関係しているのか?」
苛立った声が頭上から降ってきた。
車の排気ガスで薄汚れたガードレールに腰掛けて、海を眺めていた少年は空を仰ぎ見る。
突き抜けんばかりの青い空。
梅雨明けの、高い空だけがそこにある。
さえぎる影もなく、お天道様が降り注いでいた。
だが、確かに声は聞こえた。
少年も、その声が幻でもなく、“上”からかけられたモノだと知っていた。
海岸に沿って横たわる国道は、車の行き交いが激しい。
通行人の安全のためではなく、車の落下防止のために設置されているガードレールに腰掛けるという危険な真似をしているのは少年くらいなものだ。
歩く人影もなく、ただただ潮騒が耳に届く。
「そんなことだから、いつまでたっても子供の姿のままなんだ」
また声がした。
通り過ぎる車から漏れ聞こえるカーラジオの音ではない。
「……俺の勝手……だろう?」
少年はそうつぶやいて、ガードレールから離れた。
:::
本格的な夏がくる前に、どうしても体重を落としたい。
私は毎年同じように思いながら、そして今年も同様にダイエットに励む。
……つもりである。
しかし、大学の友人たちと囲む昼食のメニューにはちゃっかりとデザートが添えられている。
「そういやさ、みか、例のバイト先の先輩とうまくいったって?」
私は、隣で生姜焼き丼をほおばるみかに聞いた。
「うん、まあね!」
箸を持った手でVサインを示し照れたように笑う彼女は、以前にもまして明るい。
――恋の力って、恐ろしい……
そんな事を思いながら、私は「よかったね」と返した。
「それもこれもみ~んな天使の少年のおかげよ!」
うれしそうに身をひねるみかを見ながら、私たちは歓声をあげた。
最近、巷では(といってもおそらく地域的なもの)某ファンタジー小説が大ブームを巻き起こしていた。
大学内の購買では売り切れ御免にまでなったその小説。
片思いの女性に幸せをもたらすとして、大変な人気なのだ。
みかも先月、たまたまコンビニで手に取ったその本のおかげで恋が成就したという。
本のおかげ、というよりは、白い羽根の少年天使が重要らしい。
人々に幻想をみせる天使の絵を見て眠ると、必ずその天使が恋をかなえるアイテムを与えてくれるそうだ。
私はなかなか本というものを読まない部類なのだが、そこまで噂されると買ってみたくなってしまうものだ。
わざわざ購買に取り寄せて、買ってちらりとは読んだ。
だが、私の恋は叶っていない。
冒頭2ページくらいは目を通した。
そこで読むのをやめたからだ。
考えてみたら私には今、恋をする相手がいないのである。
根本的な問題だった。
「サイン会あるの知ってる?」
メロンパンを頬張っていたかおりが、話題を切り出した。
「誰の?まさか、作者の?」
みかが言う。話の流れからして、他に誰のことだと言うのだ。
案の定かおりは頷いて、クリアファイルの中から一枚の紙切れを取り出した。
太めのゴシック体で「奏響子サイン会」と書かれている。
ちなみに、噂のファンタジー作家の名前は「カナデキョウコ」と読む。
場所は市内の大型書店一階特設広場。時間は午後1時から。
日付は、明後日の日曜日である。
「行く?」
「もちでしょ」
「決まり!」
「てか、整理券とかいらないの?」
私のもっともな疑問に、一瞬みなの表情が固まった。
会場に行ってみないとわからない!
そういうみかの考えに皆が賛同し、私たち3人は地下鉄に乗って市内の繁華街までやってきた。
午前10時。
書店が店を開けると同時に店内に入り、カウンターへ急ぐ。
「すみません、今日あるサイン会についてお伺いしたいんですけど……」
かおりが、カウンター内にいたアルバイターらしい青年に声をかけた。
「あぁ、響子先生のですか?」
「はい、あのまだ参加できますか?」
「ちょっとお待ちください……えっと」
青年はそういうとパラパラと何かの台帳をめくり、三枚の紙切れを取り出した。
胸元のネームプレートに、「熊谷」と書いてある。
少し高めの、どこか艶のある声だな、という印象を受けた。
私は熊谷さん(勝手に呼んでるし)の声に聞き惚れながら、かおりとみかの少し後ろに控えていた。
「この紙と先生の本があれば、サイン会でていただけますよ」
差し出された紙には通し番号。
整理券だ。
やった!と歓声を上げる二人の友をみながら、私は熊谷さんに尋ねた。
「あの、これ本とか購入しないともらえないものなんじゃ……」
私の発言に、またまた一同が固まる。
余計なことを言うなという形相でにらみを利かせるみかにはかまわず、私は熊谷さんの回答を待った。
「ああ、構いませんよ。先生のご意向で、どなたでもサイン会に参加できるようにと、整理券の配布だけ行っているんです」
営業スマイルだとはわかっていても、熊谷さんの笑顔に吸い寄せられる。
――かっこいい人見るのって、心の健康上重要なことよね……
ぼんやりそんなことを思いながら、私は遠慮なく整理券を受け取った。
それにしても。
もとから響子先生のファンであるみかとかおりとは違い、私は本など持参していなかった。
二人ほど、サイン会に興味もない。
でも、せっかくだから頂けるものは頂きたい。
私は先生の作品を一通り見て(とりあえずタイトルとあらすじ確認)、一番安い本を買うことにした。
サイン会が始まる時間、30分前。
私たちは整理券を入手済みなので、ある程度余裕を持って再び書店に戻ってきた。
「おかえりなさい」
自動ドアを抜けると、そこに列を誘導していた熊谷さんがいた。
私たちの顔を覚えていてくれて、気軽に話し掛けてくれた。
――いいな、こういうの。
たったそれだけのことなのに、なんだか心があったかくなる。
「番号のところまでご案内いたします」
ホテルマンのような仕草で、熊谷さんは私たちを先導してくれた。
私は、熊谷さんの声がもっとたくさん聞きたくて、話し掛けてみることにする。
普段なら、何を話していいかもわからないのに、今日はするりと言葉が出てきた。
「すごいファンの列ですね……お一人で案内なんて大変じゃないですか?」
いきなり私が他人に話し掛けたのに驚いて、みかとかおりが振り返る。
熊谷さんも、一瞬目が点になった。
――やだ、なんかかわいい。
おそらく年上の、しかも男性に向かってかわいいもないだろうと思ったが、それが素直な感想。
「……あ。いえ、ファンの皆さんはみな良い方ばかりですから」
マニュアルにあるような返答なのに、彼の声で聞くと、それはそのまま彼の言葉になっていく。
――なんか、いいな。こういう気持ち……
たったそれだけの会話。
だけど、私が得たものは大きくて。
――どきどきしてる。
サイン会に向かう緊張感とは別の、淡い温かな気持ちが湧き出してきた。
列に並んでいる間も、ずっと熊谷さんのことが頭から離れなかった。
サイン会が始まって30分余りが経過したか。
集まった響子ファンの熱気に当てられていると、なんだかこちらの気分まで高揚してくるから不思議である。
やっとのことで順番が回ってきた私たちは、かおり、みか、私の順にサインを頂く。
みかなどは、例の「恋が叶う」噂まで先生に話して、嬉々としている。
そんな話されても、先生は困らないか?
など冷静に考えていた私は、自分の番になって先生から話し掛けられた言葉にドキリとした。
「こんにちは」
「こんにちは。あなたも、私の本で恋が叶えられるって信じてくれてるのね?」
「え?……あ、えっと」
「ごめんなさい、違うの?だって、今日この作品を持ってきてくれたの、あなただけなんですもの」
響子先生は天使のように笑いかけてくれる。
私が差し出し、先生がサインをしたためているその本は『あなたの恋、叶えましょうか?』というタイトルの恋愛ファンタジー(そんな分類があるのか不明だが、帯にはそうあおってある)
「これね、私の経験談を元に書いたデビュー作なのよ……。はい、ありがとう、これからもよろしくね」
そう言って先生はサイン本を手渡してくれる。
先にサインをもらったかおりとみかが「そうなんですかぁー?」と小声で騒ぐ。
「……実は、まだ読んでなくて」
正直に告白した私にむけて微笑み、先生は言う。
「あら、これから恋してくれたらいいわ」
……なんとも粋な小説家だった。
帰宅してすぐ、私は『あなたの恋、叶えましょうか?』を読み始めた。
内容は、ことごとく恋愛に失敗してきた主人公の女性が恋愛の神様に神頼みしまくる学生時代の場面から始まった。
ファンタジーというか、思いっきりギャグ調である。
昼間会った作者本人のイメージとはかけ離れていて、少々意表を突かれた。
主人公は社会人になり、神頼みの最後に教会へ行く。
愛といえばキューピットよ!!などと叫びながら、必死である。
なぜ彼女はこんなにも必死なのか。それは同級生たちが次々と結婚していく中、女では自分だけが
売れ残っている事実に危機感を覚えたかららしい。
そんな事気にしなくてもいいのに。
私はそう思った。主人公はまだ25歳だ。世界にはその年で結婚してない人間なんてたくさんいる。
――って、こんなこと思ってるから、好きな人の一人もできないのかしら?
主人公の女は恋愛に夢を描き、結婚に期待し、意地でもいい男性をと祈る。
そんな彼女の願いが通じたのか、教会に鐘が鳴り響き、天使の少年が現れたのだ。
さすがファンタジー作家。描写が巧い。
天使は女に恋愛成就の力として自らの羽根の欠片を渡し(どこかで聞いたような話だ)、一度は天上へ戻る。
女はその羽根のおかげで急にもて始め、くるくる男をとっかえひっかえ……
しかし、そんな恋は幻だと気づく。
この恋は、人の(天使は人じゃないだろと無粋な突っ込みはしない)力が加わった擬似のものなのだ。
女は再び教会へ戻る。
するとそこには、女のために力(羽根)を分け与え、その罪により天界より追放処分とされた天使の少年がいたのだ。
愛の天使でもない者が、勝手に人間の恋愛に手を貸す行為を神はお許しにならなかったのだという。
なぜそんな危険を冒して自分の願いを聞き届けたのかと問い詰める女に、天使の少年は言う。
一生懸命なおまえの事を、前から愛していた、と。
女も、そんな天使の気持ちに答える。
そして、ベタなハッピーエンド。天使の少年は女の愛で青年の姿になり、女と生活することになるのだ。
読み終えて、私は不思議な感覚に陥った。
天使シリーズの第1作目。
その後、この天使に焦点を当てた”人々に幻想を見せる天使”の話が続く。
その感覚が何なのか少し戸惑ったが、程なくして正体を知る。
――私、こんな恋愛に憧れてた……
それは憧憬。
自分が理想とするものが、そこに文字としてあった。
――私、恋がしたい。
そう思った瞬間、書店の店員、熊谷さんの笑顔が思い出された。
――熊谷さんと、恋がしたい。
自分の力で、想いで、行動で。
そして本能で。
次の日、私の決意をかおりに聞かせた。
すると彼女はあからさまに無関心な表情で「ふーん」などと相打ちを打つだけだった。
「なに、その反応。なにかコメントは?」
「あのさぁ。言わせてもらうけど、それってマジもんの恋だって言える?なんだっけ、熊谷さん?そう、その店員さんに対して本気で恋してるって言えるわけ?」
かおりの指摘に、私は「うっ」と言葉を詰まらせた。
本物の恋かと聞かれても、そんなの正直よくわからない。
今まで20年間、たいした恋愛してきた覚えがないし。
そりゃ、初心な中学生のころなんか、胸ときめかせていた気がしないでもないけど……。
どんな感覚だったか忘れて久しい。
本物の気持ちって、何だ?
「あんた、それただの憧れでしょう?恋愛と違うくない?」
打ちのめされた私は、残りの講義をサボった。
昼間の公園には、まだ幼稚園に上がる前の子供たちが集まっていた。
ブランコや雲悌は危険だからと撤去され、砂場とモニュメント、それに象さん型の小さな滑り台だけの残る公園。
いつだったか、盗撮事件が発覚し公衆トイレも閉鎖されたままだ。
緑の濃いケヤキと桜の木陰の中、私は一人タイヤの遊具に腰掛けていた。
「……いいなぁ、子供は」
元気にはしゃぐ子供たち。
男の子も女の子も無く、和気藹々と遊んでいる。
「まだ恋愛とか、悩まない年頃だもんなぁ」
重たいため息が出た。
「そんなことも、無いぞ?」
「へあっ!?」
急に後ろから声をかけられ、素っ頓狂な悲鳴をあげてしまう。
まさか、独り言に反論が返ってくるなど思いもしなかったものだから、なんというか、うん、心の準備が……。
後ろを確認すると、10歳位だろうか、色の白い男の子がこちらを眺めていた。
「……」
「びっくりして声も出ないのか?」
「……なぁに?学校は?」
「あんたに言われたくないな。どうせサボってるんだろう?あんたも」
――最近の子供は年上に対する口の聞き方を知らないとみえる
「……お姉さんは大学生ふだから、いいのよ?」
「ふーん、学校じゃ悩むに悩めないしな」
「はぁ?何、何であんた私が悩んでるなんて分かるのよ」
「恋愛について悩んでるんだろう?さっき大声で独り言言ってたじゃないか」
「!!」
――そんなに大きな声だったかしら……
私は赤面し、あたりをキョロキョロと見回した。
幸い、近くにいる子供はこの生意気な子供だけだ。
そういえば、この子は「そんなことも無い」とかなんとか言っていた気がする。
「あんたも?」
「俺は独り言は言わない」
「違うわよ、恋愛で悩むのかって話」
少年はあぁ、と軽く頷いて話しはじめた。
「子供だって、悩むときくらいあるさ。だれそれが好きなんだけど、どうやら違うあの子のことが好きみたい、どうしようとか」
いいながら、少年は大人びた顔をする。
深く影が差し、なんとも不思議な余韻が生まれた。
「早く大人になって、好きなやつと同等になりたい、とかな」
「何よ、それ。同等って……別に同じにならなくても良くない?」
意見する私に彼は甘いなと言って馬鹿にした顔を向ける。
はっきりいってムカツク。
「“同じ”になるんじゃない、“同じ位置”に並びたいんだ」
そんなものなのか。
どこかませた考えをもつ少年に、私はなぜか感心していた。
だから、話す気になったのかもしれない。
「私の悩みはさ、深いのよ」
「どのへんがだ?」
「……“恋”って何なのか、わからなくてさ」
「辞典を引けば載ってる。でも、それは意味であって本質じゃない」
「……難しい言葉知ってるのね……」
「理性で理解しようとしても無駄だ。お前の恋しいと思う気持ちは、お前にしかわからない」
少年は、少年らしからぬ考えの持ち主だった。
「これが恋だ、なんて、他人に言われても客観的にしか受け取ることはできない。ある種基準にはな
るかもしれないが……」
小学の低学年にしてはやたらと大人びた物言いをし、雰囲気も落ち着いている。
私は自分のほうが年下のような気分にさせられた。
「本能で、感じろ」
思いっきり諭されてしまった。
「そうねぇ……」
かおりに言われた言葉を思い出す。
――恋愛と違うくない?
よくよくその言葉を吟味すれば、彼女もまた私の気持ちが「恋」かどうかなんて判断できていない。
かおりの認識の中では私の気持ちは恋愛感情とは呼べないのだろう。
しかし。
――私は、熊谷さんが好きなんだもん
「ありがと、なんか君の意見に励まされたわ」
私は立ち上がった。
少年の頭を下に見る。
「そうか、じゃ、これ記念にやる」
そう言って、少年はズボンのポケットから白い羽根を差し出した。
――……え?
「幸運の、お守りだ」
少年は、弾けんばかりの笑顔で。
私はその羽根を受け取った。
自分の指にはさまれた、純白の羽根を凝視する。このシチュエーションはまさか。
「……あなた、なんで」
ふと視線を戻したときには、少年の姿はどこにも無く。
手元には羽根だけが残った。
私は再びあの書店にいた。
街まで出てくる用事もなかったのに。
いや、用事はある。
熊谷さんに会わなくちゃ。
私は本能のまま、足しげく書店に通った。
何か本を買うというわけでもなく、大学の講義が終わってからや、休みの日にも、ただぶらぶらと店内をうろつく。
そして熊谷さんの姿を遠くから見つめながら「告白、告白」と呟いて…。
――まるでストーカーのようだ……
おまけに店の人にはいい迷惑である。
自覚しているならどうにかしろという話だが、どうにもできない。
熊谷さんの姿を見ないと、一日が終わらない。
そうして2週間が過ぎた。
「あれ?」
店内に入って、まず違和感を感じた。
店の奥にあるカウンターに、熊谷さんの姿がない。
本の整理でもしているのか、お客の対応をして店内を行き来しているのか、ともかく、いるべきところに彼の姿がなかった。
ここ2週間の間に、熊谷さんのシフトはほぼ完璧に覚えた。
今日は夕方6時まで入っているはずの金曜日。
どこかにいるんだろうなと思い、私はあてもなく雑誌コーナーに足を向けた。
ふと腕時計に視線をやると、すでに6時半。
店員の気配がするたびに顔を上げたり、3階ある書店のフロア全部を行ったり来たり……。
自分でもめちゃくちゃ怪しい行動だとは思ったが、いつまでたっても熊谷さんの姿を見つけられない。
――もしかして、辞めちゃったとか!?
そんなことを考えていたら、頭の中が混乱して、店内だということも忘れて持っていた雑誌をきつく握り締め、凶悪な表情になっていたのだろう。
――ぽん
「え?」
肩をたたかれた。
「お客様、ちょっと」
私からすればすでに顔見知りの、店長さんの怒りを隠した声がかけられた。
「あ、あぁぁ、ご、ごめんなさい」
私は慌てふためいて雑誌のしわを伸ばす。
「いえ、お買い求め下されば、文句はございません」
そういわれ、レジカウンターへと道が開かれる。
「はい、すみません!ぜひともお買い求めになられまますっ」
自分に敬語を使ってしまうほど動揺し、私の財布からは1200円が消えた。
店を出て、深いため息を一つ。
――熊谷さんに会えなかったどころか、今月の資金が興味のなかった雑誌に消えてしまった……。
正確には「会えなかった」ではなく「見れなかった」なのは気にしない。
地下鉄の構内で電車を待っていた私には、1200円の建築雑誌がやけに重たく感じられた。
「建築に興味あるんですか?」
「はえ?」
またしても思いもよらぬ時に声をかけられ、おかしな声が出てしまい、恥ずかしさに口元を覆った。
――く、くくく、熊……!
私の後ろから、手の中の建築雑誌を見下ろしていたのは、熊谷さん、その人だった。
「ごめんなさい、いきなりで驚かせちゃいました?なんか、最近いつもバイト先で見かけるもんだから、なんか知り合い見たいな感覚あってさ」
「あ、いえ、そんな。こっちこそ」
仕事中と変わらぬさわやかな笑顔で、熊谷さんは笑いかけてくれた。
「あの、今日お仕事してらっしゃいませんでしたよね?」
「え、あぁ、よく見てますね~。今日はちょっと都合でお休みもらってたんで」
「そうだったんですか」
辞めたわけではないということがわかって、安心したのか、私は心の底から安堵の吐息を吐いた。
「その雑誌、結構建築家さんや建築学を学ぶ学生さんが御用達にしてるんですよ」
熊谷さんは私の横に適度な距離を保って並ぶと、再び雑誌の話題を持ち出した。
「熊谷さんは建築お好きなんですか?」
「え、名前……」
――しまった!!
私はつい熊谷さんの名前を口走ってしまったことが恥ずかしくなって、その場に固まってしまう。
顔に血液が集まってくるのを感じた。
「ご、ごめん、なさい!ほら、バイト中はネームプレートしてるじゃないですか?」
慌てて言い訳する。
密かにチェックしてました、なんて死んでも知られたくない。
「あぁ、そうですね。よく覚えてくれてましたね」
熊谷さんのほうも、どこか気恥ずかしそうに髪の毛をいじる。
「えっと、僕実は建築を学んでまして」
「学生さん?」
「えぇ、専門学校の現役1年です」
「そ、そうなんですか?すごいですね」
何がすごいのか自分でもよくわからなかったが、気の利いた言葉なんて出てきやしない。
年下か、とぼんやり思った。
「あなたも建築すきなんですよね?そうだ、僕だけ名前知られてるのもなんですし、よかったらお名前教えてください」
客商売が板について、そこら辺の軟派な男どもより数段上を行く丁寧な口調でたずねられたら、とことん素直に答えてしまう。
それが、気になる相手ならなおさらだ。
顔の照りは未だ治まる気配を見せない。
建築なんて、本当はほとんど興味なんてない。
でも、これからは好きになれそうだ。
「って、いきなりこんな事いうのもなんですけど、ってゆうか、あの」
熊谷さんは、私から目をそらし急にしどろもどろになる。
「白状しますけど、実は毎日のようにあなたが書店に来てるのに気づいてから、ずっと気になってたんです」
「え?」
私の思考が真っ白になる。
男の子からの告白なんて、小学校以来ではないか?
というか、ここは地下鉄の構内で……。
――いや、何でもいい!ありがとう神さま!じゃない天使さま!響子さま!
鞄の中にしまわれた羽根を、無意識に探し、そっと握りこんだ。
「よかったら、その……」
「はい!」
熊谷さんが言い終わる前に、私は必死な声で大きくうなづいていた。