旅立ちは星空の海で
俺の生まれたこの世界にとって、目標なんて言葉はあってないようなものだった。努力も徒労も、終わってしまったものに執着し続けていたずらに時間を浪費しているだけにすぎない。報われないと分かっていながら前に進むのは馬鹿なことと理解してはいても自分の存在を肯定するために偽りの目標や夢を掲げ今にも折れそうな手足で瓦礫の荒野を這って暗い闇へと進んでいく。
それが人の人生だって、分かっていた。
遠く向こうに見えた摩天楼。終わってしまったはずの世界であれが幻覚でないとするのなら、あれこそ初めて俺にできた目標だ。力なく地を這いつくばっていた体を起こし、前に進む意味のある光だ。
あれから俺たちは遠くに霞むビル群が消えないようにずっと見つめていた。それから日没を待っていったん引き返し、荷物をまとめてからあそこに行こうという話になった。今日訪れたビルよりもその旅路は険しく長いものになる。最低限かつ、灼熱の瓦礫を一日二日耐えしのげるだけの荷物を用意しなければならない。
帰宅してコンクリートの床の上に敷いたなけなしのボロ布の上で横になり、この目に焼き付けた光景を何度も思い出す。
「・・行くんだよね恭兄ぃ」
同じくへとへとになって横になる沙織がつぶやく。
「うん。たぶん一筋縄じゃいかないだろうけど、絶対あそこに行くよ」
あの場所に着くことがゴールじゃない。あそこで人生を築き、終えることがゴールだ。こんな場所で生活している俺には想像もつかないような困難が待ち構えているに違いない。
「ちゃんと連れてってよね。しがみついてでも行くけど」
「あたりまえだろ。お前が嫌だって言ったって引きずってでも行くさ」
「これからはずっと一緒って約束したもんねぇ」
沙織がにやにやと悪い笑みを浮かべる。せめて抱きしめるくらいでとどめておけばよかったものを余計なことまで口走ったせいで顔を赤らめることになった。ああ、死んでしまいたい。
「かっこよかったよ、恭兄ぃ」
追い打ちをかける沙織に背を向けて「お前だって泣いてだろ」とかこの上なく薄弱な反撃をする。もうこのまま寝かせてください。
額の先と耳の上部に熱を感じながら眠ったのは初めてだった。
翌日の仕事は休んだ。沙織も同じく休みを取った。二つの違いはサボったかそうでないかである。心配した同僚で幼馴染の沢井が様子を見に来たが荷物をまとめる俺たちを見てさらに心配そうな表情を浮かべた。
「仕事もしないで何やってるかと思えば兄妹揃って夜逃げの準備か?」
「九割正解だ」
食料を三日分ほどバッグに詰め込んでおく。ほとんど配給の缶詰で結構な重量になるが命にかかわる重大な問題だ。
「逃げるったってどこに逃げるんだよ。別に逃げる理由もないだろ?」
沢井が居間で荷物をまとめる俺の前に座り引き留める。
「違う。逃げるってのは残りの一割の方だ」
「じゃあなんだ?こんな瓦礫の山で二泊三日の旅行でもしようってか」
ボトルに入った水はあるだけ背負う。少なくて困るよりは多くて困る方がいい。
「・・お前さ、このだだっ広い瓦礫の中で百メートルはくだらないビルがいくつも建ってる場所があるって言ったら信じるか?」
「・・はぁ?お前何年ここで生活してるんだよ。そんなんあったら誰かが気づいてるだろ?夢でも見たんだって」
「だよな。俺だってまだ信じられねぇよ」
貯めた少ない金もすべて持っていく。あそこに行ったときに必要になるかもしれない。生活はできないだろうが一時しのぎにはなりそうな金額だ。
「おいおいおいおい、そんなもんまで・・マジで行くのかよ。そこに行ける保証もないんだろ?もしそれが幻じゃなくったって唯一形だけは残った街かもしれねぇし、人がいたって俺らみたいなやつじゃ門前払い食らうに決まってるぜ」
「でも行くんだよ。もう止められないんだ。ここにはいられない。ずっと思ってた。ここで生まれたらあとは死ぬのを待つだけだ。何が起こったってかまわない。何も無いかもしれないってそんなこと分かってる。でも今はこれに縋るしかない」
まとめた荷物を玄関先に並べる。居間に座る沢井は依然として怪訝な顔で俺を見つめてくる。
「なぁ、よかったらお前も一緒に来ないか?」
瞳が一瞬大きくなる。うつむき少し間をおいて俺の瞳を見た。
「・・・・・・俺には無理だ」
「・・だよな」
沢井がそう答えるのも分かりきっていた。沢井も俺もこの世界の人間だ。自分でも馬鹿なことだって内心思ってる。こいつの言うことの方が全部正しいって分かってる。俺に理性が残っているならきっとこいつの言うことに従って荷物をまとめる手を止めただろう。でも今はあの光景とこの衝動だけが自分を突き動かしている。
「・・夕方には出発するんだ。その場所に着こうが着くまいが俺たちはきっとここに戻らない。今日がお前とも最後だ。今までありがとな」
「・・そうか。とりあえず、その・・がんばれよ」
「おう」
「・・沙織も、恭弥のことよろしく頼んだぞ」
「うん。任せてよ」
沢井は力なく立ちあがると、玄関にまとめられた荷物とすっかり生活感のなくなった部屋を一瞥した。それから俺に目をやって、深くため息をついて家を後にした。
少ない人口のこの街で同い年なんて両手で余るくらいしかいなかった。沢井はその中でも一番の親友だった。俺と沙織と三人でいつも駆けずり回っていた。十三歳で仕事を始めた時も沢井は一緒で、沙織の次に人生を共にした人間だ。だからこそ奴も連れていきたかった。
「とりあえず、休憩したらお世話になった人にお礼にでも行こうか」
「うん。沢井くんにももういっかいちゃんとお礼言った方がいいよ」
やっぱり沙織も思ってたか。なんだかあれじゃ後味が悪い。失望されて当たり前といえば当たり前だが一番の親友の最後に見る顔があれなのはいつまでも心残りになりそうだ。
挨拶回りは街の人ほぼ全員になってしまった。それでもかかった時間は三時間程度。本当に小さい街だ。
今日一日サボったので瓦礫作業員の人たちには軽く怒られたが最後はみんな笑って送ってくれた。現場監督は号泣していた。
みんな俺たちが遠くの街に引っ越す程度にしか思っていないようで、命がけであの場所へ行く俺たちにはそれがありがたくてすこし寂しかった。
沙織と一緒に配給の人たちにお別れを言いに行ったときは「こんなかわいい子に何かあったら許さないからね」とおばさんたちに強く言われた。一人一人に抱きしめられる沙織を見ていると、いかに沙織がこの街の人に愛されていたのかが分かった。心のどこかで沙織を守れるのは自分だけだと思っていたし、沙織もその背中を預けられるのは俺しかいないと思っているに違いないって思ってた。
それがいつの間にか沙織も大人になって、いろいろな人に支えられることを覚えていたのだった。
それから小さいころお世話になっていた人や、小さいころ遊んだ仲間にも別れを告げた。途中噂を聞きつけてきたのか、あまり見覚えのない大人の人まで見送ってくれた。
生まれてから今に至るまで、ずっと瓦礫だけを見続けてきた。でも実はこんなにも人や愛でこの街は溢れていて、それにずっと支えられてきたことを今日ここで初めて知った。
西日がこの街を照らす。その茜色の光に切なさがこみ上げたので深呼吸とともにそれを吐き出そうとしたが、いつまでも胸の底で残り続けていた。
「恭兄ぃ、行きたくなくなっちゃったでしょ?」
そんな感傷を察してか沙織が声をかける。その目元は真っ赤になっていた。配給のおばさんたちとのお別れで泣きまくって、涙腺が脆くなったせいかそれから会う人会う人の度に泣きはらしていた。昨日のお返しに弱みを握ってやったぞと心の中で喜んでいたが、幼いころの友人に会った時にあまりにもみんなが泣くものだから思いっきりもらい泣きをして肩まで抱き合ってしまったので、野望もそこで潰えた。我ながら情けない限りだ。
「ここまで大々的にお別れして出発しなかったら恥ずかしすぎるよ」
それでもきっとあの人たちは俺たちを迎え入れてくれるのだろう。
「だよね。それにちゃんとお別れも言えたから私は心残り無いよ。次に進める。で、恭兄ぃは?」
その質問の意味することは分かっていた。街の人ほぼ全員に会ったにもかかわらず、あいつの姿だけが見えなかった。
「分かってる。けどさ、あいつが出てこなかった理由も察してやらなきゃならないんじゃないかって思うんだよ。たぶんまだ受け入れられないんだ。その気持ちはお前だってわかるだろ?」
「・・なんとなくはわかるけど。でもいいのかな」
「しょうがないよ。別れはちゃんと告げたんだ。これでいい」
東の低い空に赤みがかった月が昇っている。今夜は満月だ。夜行動する上で月明りはありがたい。やはり今日は旅立ちに丁度いい日だ。
水や食料の入ったバッグを背負う。かなり重いがこれから少しづつ減っていく中身だ。最初だけ持ちこたえればいい。街の中心部に行くとここでも見送りを受けた。お別れの言葉やよくわからない歓声まで聞こえてくる。気持ちはすごくありがたいがこの人たちはパレードか何かと勘違いしていないか。
何はともあれ、この街の人たちの顔をしっかりと目に焼き付けておく。そしてきっと何度でも思い出す。その一人一人に心からのありがとうを伝えながら。
街の入り口付近に近づくと人気は少なくなっていた。中心部からはお祭り騒ぎのような歓声が聞こえているのにも関わらず。・・というか本当にあの人たちは何をやっているのだろう。
「ねぇ恭兄ぃ、あれ」
沙織の指さす方向に人影が立っている。それが誰かは言うまでもない。
「街ぐるみでこんな演出しようってのはお前らしいな沢井」
「へへ、まぁよくやった方だろ」
「バレバレだ馬鹿」
沢井は腕を伸ばしたり、伸脚や屈伸をしている。なんのためのウォームアップだ。
「さて、俺の演出の意味は分かってもらえたかな?」
腕をぐるぐると回しながら沢井が尋ねる。
「・・一番の親友としてどうこうって話じゃないのか?」
「ブッブー!残念でした」
準備運動の後は空中に向かってパンチを放ちだした。沢井の行動がまるで理解できない。
「正直なところ、お前らの夜逃げには反対だ。この街の中で俺だけな」
「だから夜逃げじゃないって・・」
「そこで!俺はお前の前に立ちはだかることにした!」
鋭く早そうなパンチを宙に二、三度放ち拳を俺に突き付けて声高らかに言い放つ。
「つまり、先に進みたきゃ俺を倒してからにしろってことだな!」
「・・喧嘩を買えってことか?」
「そうだな。まぁ隣に沙織もいるから殴り合いはやめといてさ・・」
突き付けた拳をゆっくりと下におろす。その意味が俺には一瞬で理解できた。
「じゃんけんしようぜ」
人にはなにかしらの特技がある。あらゆることが人並み以下でも大抵一つくらいは秀でたものがある。俺にとってのそれがじゃんけんだった。
じゃんけんははるか昔から世界の終末後のこんな瓦礫の海でも一般的に知れ渡っている遊びだ。説明の必要もない。だからこそ誰だってじゃんけんが「特技」だという俺を不思議に思うだろう。
じゃんけんは運で勝ちを掴むもの。当たり前だ。それでも俺は今まで負けたことがない。あいこすらない。勝ったことしかない。これはもう立派に特技と呼べるだろう。
そんな俺に沢井はじゃんけんで勝負を挑んできた。沢井の目はしっかりと俺を見据えて、いつになく真剣だった。もちろん沢井にも負けたことがない。「最初はパー」という姑息かつ卑怯な手にも勝った。
「お前が勝ったら先へ進んでいい。俺が勝ったら明日からまたこの街の住人だ」
「分かった。受けて立とう」
色濃い月を背景にした沢井の前に立ち、拳を固く握りしめて前に突き出す。
「最後まで俺の勝ちで決定だろうな」
「馬鹿言え、最後じゃねぇよ。今夜俺がお前をここでぶっ倒すからな」
スッと息を吸う。まるで意図したように二人の息はぴったりだった。
走馬灯のように記憶が蘇る。たくさん馬鹿なことをした。瓦礫で作った秘密基地、昔はここいらでも花が咲いていたと近所のばあさんに言われて沙織のために二人で花を探しに行ったこと。結局花は見つかったんだっけか。
毎日のように探検を繰り返しては瓦礫撤去作業員のおっちゃんに見つかって沢井の母親に二人して怒られたこと。作業員になってからも二人してひいひい言いながら瓦礫をかき分けていた。へらへらしてるくせに根が真面目だからいろんなことでこいつには世話になった。
「「最初はグー!!!」」
二人の声が天を衝く。沢井と視線を合わせたままで思いっきり拳を振りかぶる。
「「じゃんっ!!けんっ!!」」
久々にぶつかり合う互いの意思。混じりけもなく、揺るぎなく、弾道のようにまっすぐな腕が振り下ろされる。
「「ぽんっ!!!!」」
地平線の彼方に日は沈み、月はまだ重たく、空に向かおうとその輝きを徐々に強めていく。群青の空に幾千の星が瞬く。
世界が終わっても空はこんなにきらびやかで、俺たちのことなんてまるで見えていないようにも思えた。
「あー畜生。最後くらい勝たせてくれよ」
「絶対に俺が勝たなきゃいけないような条件付けたのは誰だってんだよ」
「ああっそうか!俺が勝ったらお前が先に行ってもいいようにすればよかったのか!!」
「本末転倒じゃねぇか」
勝負の結果はなんていうかまぁそういうことになった。
「恭兄ぃは強いでしょ」
「じゃんけんだけはな。沙織がいなかったらここでボコボコにして俺の勝ちだ」
「そーだね沢井くんの勝ちだ」
横で負け惜しみと嘲りの会話が盛り上がっている。黙ってればいい気になりやがって。
「あっ、そうだ。この前偶然見つけて渡そうと思ってたんだけどさ」
沢井がポケットから長方形の紙を取り出す。その紙には淡いピンク色の花が張り付けられていた。
「恭弥は覚えてるだろ?二人で日が暮れるまで探して、ようやく一本見つけて、俺が押し花にしてやるからってそのまま忘れちまったんだ」
ああ、そういえば結局瓦礫の下で咲いてる花を見つけたんだっけか。今思えば少ない湿気が溜まってて時間帯によっては日光も当たる珍しい環境で奇跡みたいな一本だったんだ。
「何年越しになるかもう忘れちゃったけど沙織のために二人で探してきたんだ。受け取ってくれよ」
「ありがと。でもこんな珍しい花置いといてそのまま忘れちゃうってのが恭兄ぃと沢井君っぽいや」
笑いながら受け取る沙織を見て「それもそうだな」と俺たちも笑った。
沢井が星空を見上げる。俺もそれに続いた。
「昔からお前らは俺たちとはいつも違うものを見てた気がするよ。いつか、どういう形でかまでは分からなかったけど俺たちのもとから離れちまうってのはなんとなく分かってたんだ」
「・・悪いな、こんな形になっちゃって」
「謝るなよ、突拍子もないのは昔からだろ?・・信じたなら突き進めよ。その先には絶対良いことが待ってる。お前と沙織ならこんな世界でも幸せになれる」
小さく息を吐いて沢井は続けた。
「さぁ、もたもたしてたら夜が明けちまうぜ。夜逃げするならいまのうちだ」
「だから夜逃げじゃねぇっての」
ゆっくりと足を進める。その足取りは自分でも驚くくらいしっかりと地面を踏みつけていて、確かに俺がこの地上を歩いていると実感できるようだった。
何歩か歩いて沢井に振り返る。
「じゃあな。今まで楽しかったぜ」
「俺もだ。絶対に忘れんじゃねぇぞ。沙織もな」
「沢井君みたいな人は忘れたくても忘れられないよ」
「その通りだ」
「違いねぇ」
三人で笑いあってまた歩みを始める。急に目頭が熱くなって零れ落ちるそれを、後ろで見送る沢井にばれないように何度も拭いながら、ようやく昇り始めた月に照らされてただひたすらに前に進んだ。
その先で待ち受ける光がこの月明りよりも美しいことを願って。