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 幸いにも、どの客室も鍵は開いていた。

 外観と同じく、客室もまた、モダン志向のデザインだった。

 ただ、照明の陰影やシーツ、カーペットの柄を利用して広く見せようという、部屋の狭いホテルにありがちな小細工は、一切ない。

 むしろ、氷細工のようなシャンデリアが、玲瓏な銀光をもって、部屋の隅々まで照らし出している。

 ゆうに六〇平方メートルはある面積に、イタリア直輸入の寝具や調度品が、ゆとりを持ったレイアウトで置かれている。

 間取りは、ほとんど判で押したように同じだった。

だから、結論だけを述べよう。

 201号室、収穫無し。

 202号室、収穫無し。

 203号室、収穫無し。

 204号室、収穫無し。

 205号室、収穫無し。

 206号室、収穫無し。

 何も異常が無いというのは、良い事のはずだけど……エリナの痕跡が何一つ見つからない事に落胆する僕も居た。

 207号室。

 ダブルベッドのシーツに、赤とも茶色とも区別できない色の染みが、大きく広がっていた。

 さっきのバーから感じる腐臭と同類の物が、鼻腔と食道を突く。

 もう、あの異臭の呪縛からは逃れられないと割り切っていた所に、微妙に違う悪臭をかがされて、更に胸が悪くなった。

 これ以上、気持ち悪くなりようがない、とどこかで安心さえしていたのだけど、まだ考えが甘かったらしい。

 もう、どうにでもなれば良い。

 大事なのは、ここに、あのマネキンみたいなものの痕跡があるという事実だ。

 マネキンは、一体だけではないのだろうか。

 やっぱり中に詰まっているのは、行方不明の人々だったものなのか。

 痕跡だけがあって、移動しているらしいという点も気になる。

 その気になって、通路の床に目をこらせば、染みをたどっていけるかもしれないけど。

 実際、その通りのようだ。

 改めてベッドから床を目で追うと、微妙に濡れた跡が見て取れた。

 どこまで続いているかにもよるけど、これを辿るということは、マネキン(か、それに類する物)の後を追うことを意味する。

 せめて、これが変わり果てたエリナの残したものでは無い事を祈る。

 僕は、諦め半分で、207号室を後にした。

 208号室と209号室にも、変わったところは無かった。

 そして、207号室から続いている染みは、途切れがちながらも、上の階に続いている。

 かなり薄まっているので、他の微妙な染みや陰影を、見間違えているだけかもしれない。

 どのみち二階は空振りだった。

 次は三階を、順番通りに調べていくだけの事。

 また、階段の一段一段に対する恐怖と警戒心を噛み締めて、上がりきった所に誰も居ない事に安堵して、部屋を探す。

 それだけだ。



 一瞬、空耳かと思った。

 あるいは、僕自身の衣擦れ音が、大げさに聞こえただけだったのか、と。

 違う。これは違う。

 染みを辿って305号室の前に来た時、確信した。

 ドアの向こう側から、くぐもってはいるが、確かに聞こえる。

 引き絞るようにして、鼻汁まじりの息を吸う音。

 痰が絡んで、がさついた吐息。

 かなり異常だが、すすり泣きに聞こえなくも無い。

 声質からすると、恐らく女性のもの。

 エリナのものかどうか……かすれすぎて判別がつかない。

 いや、まてよ。

 ふとよぎった仮説に、心臓が、木槌でぶん殴られたように飛び跳ねた。

 恐らく、この中に居るのは、僕がこのホテルに入って初めて出会う人間だろう。

 七人の行方不明者のうちの、誰か。

 順当に考えるなら、そうなんだろう。

 人殺しの手にかからず、一人でも生きていてくれたのなら、嬉しい。

 いくら、エリナと自分の事だけを考えてこのホテルに踏み込んだ僕でも、それくらいの情はまだ残っている。

 けど、中に居るのが行方不明者の誰かだと、決め付けて良いのか?

 ホテルの閉鎖後、この近辺で居なくなったのは、全員が若い女性だ。

 このすすり泣きのような声と、とりあえず符合はする。

 被害者は女性だ。

 それを捕まえて閉じ込めるような人は、どうせ変質者か、さもなければ腕力で勝てる相手しか狙えないヘタレのもやし男だろう。

 今の今まで、僕はそう思い込んでいた。

 いや、僕でなくても、こういう時に想像する犯人像は、男をイメージするのでは無いだろうか?

 けど、もし仮に、人殺しが若い女だったら?

 男は太い。女は細い。

 さっきも言ったけど、この認識は、僕がつい抱きがちな偏見だ。

 今まで僕が見てきた所業は、男に出来て、女に出来ないという根拠も無い。

 一部、人間に出来ない事もあるのは、この際考えないとして。

 話を戻そう。

 人殺しの正体が若い女だとしたら、このすすり泣きの主とも符合する。

 つまり僕は今、殺人鬼が潜んでいるかもしれない部屋のドアノブに、手をかけている。

 無駄だろうけど、音を立てないようにノブを回した。

 鍵は……かかっていない。

 意を決して、部屋へと入る。

 ドアは、閉めようかどうか迷う。

 今、部屋の隅にあるクローゼット。

 あそこの死角にちらついている〝あの人〟が人殺しだったら、開けっ放しにしておく方が良い。当然、逃げる時の事を考えてだ。

 けど、彼女が無実の被害者だったら? 人殺しがここを通りかかった時に、居場所を教えてしまう事になるだろう。

 両方の可能性を吟味した上で――開けたままにする事を選んだ。

 出来れば、外れて欲しい賭けだった。

 今、このタイミングでたまたま人殺しが通りかかるのなら、もうそれは僕の運がどこまでも悪かったという事だろうし。

 ドアが直角になって、ドアクローザーがピンと張るのを確認してから、ドアから手を離した。

 明らかに、糞尿のそれとわかる臭いが、かすかに漂っていた。

 今まで僕にまとわりついていたような臭いを忘れられて、むしろ良い匂いに思えた。

 もう、マネキンから嗅いだあれに比べれば、何だって芳香に出来る。

 色々、理由をつけて見まいとしていたけど、部屋の隅に居るあの人に、いよいよ近づかなければいけない。

 今度は、ペーパーナイフの扱いに困ったけど、歩みは止めない。

 手放すわけにはいかないけど、こんな刃物を持ってこんな所に監禁された被害者の前に立てば、トラブルの元でもある。

 折衷(せっちゅう)案として、後ろ手に持ち、背中に隠す。

 そして僕は、その場にうずくまる彼女の顔を、覗き込んだ。

 ……。

 ……、……。

 最悪だ。

 それしか、言葉が無かった。

 ――ぅ、げっ。

 彼女は、犯人じゃ無い。

 辛うじて残った僕の理性が、とりあえず状況だけを淡白に伝えてくれた。

 そんな事が、何故断言出来るのかと言うと。

 彼女の頭頂部から耳の辺りにかけてが、すっぱりと切れていたからだ。

 最初に見た手首や足首と同じく、まるで正確に測ったかのような断面だ。

 どんな道具を使えば、人の頭蓋骨をこんなに真っ直ぐ切れるのだろうか。

 ――ぉ、あ、ぐ。

 切断された時、血は出たのだろう。傷口を起点として、もはやデミグラスソースのような色合いに変色した血糊が、彼女の卵形をした顔の大半を覆っていた。

 素人目で見てもわかる。あの切り口は脳にまで達している。

 なのに、彼女は生きている。

 生命活動が止まっていない、というべきかもしれない。

 クローゼットに寄りかかった格好で、僕を見上げている。

 だけど、僕の事なんて、視てはいても〝見て〟はいないだろう。

 焦げ茶の瞳は一秒だって一つの方向を向いているわけではなくて、そういう色をしたビー玉が、眼窩の中で延々と跳ね返っているようにしか見えない。

 じっと見ていてわかったけど、本来は、垂れ目がちな瞼のようだ。

 目玉とは対照的に、口はあまり動いていない。あまり動いていないというだけで、常に何かを喋っているように上下はしている。

 白く濁った唾液を垂れ流したまま、あのすすり泣きを発している。

 頭を切り分けられた前後に吐き出したのか、吐瀉物の名残であろう、ヨーグルトのようなものが、半ば固まって口の端にこびりついていた。

 これ以上、見たくない。

 けど、見たくないというのは、見ない理由にはならない。

 とりあえず……エリナでは無い。

 けど、顔の特徴は、どことなく似ている。

 垢じみて、頭皮の脂に濡れて、ほつれにほつれた髪だけど、その長さも同じくらいだ。

 彼女が行方不明者になった七人の一人であると仮定して、誘拐のターゲットになった人達は、容姿で決められたのだろうか?

 そうであるなら、エリナが選ばれた理由にも、一応の合点がいく。

 もう何人かを見てみない事には確証には至らないけど、エリナだろうが他の人だろうが、こんな姿で見つかるくらいなら、やっぱり居ないで欲しいとも思う。

 いきなり出てくる人体の一部。

 腐った肉を詰め込んだ、動くマネキン。

 そんな物さえマシだと感じる日が来るなんて、思いもよらなかった。

 どうして、生きた人間を、こんな風に出来るんだろう。

 当然、抵抗しただろう。頬のひっかき傷と乱れたセーターが、それを物語っている。

 命だけは助けて欲しいって、お願いだってしただろう。

 どうして、聞き流せるんだろう。

 それも殺すんじゃなくて、こんな、どうにもならない状態のまま、放置する。

 僕は、それを平気でやってのける人間が、何より恐ろしい。

 そんな人は、もう人間じゃない。それこそ、マシーンと同じだ。

 それも、バグって、誰の得にもならない行為に及ぶマシーンだ。

 そして。

 エリナは、この女性のようになっている可能性が高い。それが、今、はっきりとわかってしまった。

 エリナはとても華奢だし、敏捷さなんて少しも無いし、性根だって優しすぎる。

 抵抗はおろか、逃げられるわけがない。

 実際そうなったエリナに会った時、僕はどうなるのだろう。

 いきなり落ちてくるバラバラ死体や、腐った肉詰めのマネキンと同じように、そのうち、生きた人間のこういう有様にも慣れていくのだろうか。

 頭を壊されたエリナを見ても、いずれは何も感じなくなるのだろうか。

 嫌だ。それだけは嫌だ。

 でも、それを嫌だと断じれるのは、今現在の僕だけだ。

 慣れきってしまった後の僕にとって、それは些細な事に成り代わってしまうのだろう。

 その方が、楽に生きられるのかも知れない。

 だったら、最初から何にも執着せず、誰も愛さず、喜びを求めず、マシーンのように生きていれば良かった。

 エリナを知らなければ失う苦しみも知らなくて済んだし、その苦しみを忘れる恐怖だって、最初から感じずに済んだ。

 言っても、詮無い事だけど。

 馬鹿な考えに身を浸していた間、僕の目は、ある物を捉えていた。

 それもまた、詳しく見たいと思える物では無かったので、今の今まで思考の端に追いやっていたのだけど。

 後ろ手に投げ出された女性の左手が、何かを掴んでいた。

 ノートだ。

 それも、小学生低学年の子が持たされるような〝じゆうちょう〟だ。

 間違っても、この女性が元々所有していた品では無いだろう。

 それを取り上げるのに、ほとんど躊躇は無かった。

 サルビアの写真が大きく写された表紙だ。〝なまえ〟と〝がくねん〟の欄には、何も書かれていない。

 少し救われた気もするし、相手の正体が見えない恐怖を、余計にかき立てられた気もする。

 安堵と不安が入り交じった、不思議な気持ちだ。

 どうせ、どこであいつと出会っても袋のネズミだ。

 無防備にノートを読む前に、この部屋のドアを閉めて、ロックをかけた。その方がまだ、望みはあるかもしれない。

 念のため、トイレとバスルームも確認。どちらも、髪の毛一本落ちていない。

 改めて、自由帳に視線を落とす。

 マス目の無い、真っ白な紙面には、びっしりと文字が書かれていた。

 字は、かなり綺麗だ。

 けれど、それが内容の気持ち悪さを余計に引き立てる事を思い知ったのは、読み始めてすぐの事だった。


 はじめに。

 この試みについては、既に結論が出ている。

 しかし、いつか、この失敗した理論が新たな理論の呼び水となるかも知れないので、記録として残しておく。

 また、この記述を被験者に読ませる事で、その時の彼女らの情動が何らかの化学反応を起こして、思わぬ結果を生む可能性も、否定できない。

 それが、このような自分用の覚え書きに、わざわざ概要を書いた理由である。

 これを読む被験者には、各自、留意していただきたい。

 なお、このノートのバージョンは1.3である。

 本文の言い回しや表現を変え、被験者ごとに読ませるノートを変えてある。

 これによって、何千億分の一の確率でも、彼女との再会が成れば良いと思う。


 ……一見して、何を言っているのかはわからない。

 けど、いくつかの単語を拾えば、ある程度の推論は立つ。

 文脈を素直に受け取るなら、これは〝実験〟の記録という事なのだろう。

 〝被験者〟というのは、これを読まされる人間の事だろう。

 いや、正確には、これを読まされる人間が、何人か居る被験者達の一人、という事になるか。

 その辺りの細かいことはどうでも良い。

 とにかく要約するなら、この文を書いた人は何らかの〝試み〟を行っており、それには人間の〝被験者〟が必要である。

 被験者は何人居るのかわからないが(七人だとは思いたくないが)複数居る事は確かで、これを読まされた被験者は、バージョンから考えれば三人目という事になるのか?

 いや、断言するのは危険か。こんな頭のおかしい人間が、果たして秩序に従ってナンバリングをするか。

 数をまともに数えられる、僕たち人間と同じ生命体なのか。

 僕には、わからない。

 とにかく、被験者の数だけ同じ内容のノートがある、という事だけはわかる。

 実験の内容は何か、被験者は誰なのか。最後の一文にある〝彼女〟とは?

 それは、読み進めて行けば嫌でもわかるだろうけど……大体、想像はつく。


 この試みは、私が彼女と再会する為の、一つのアプローチである。

 まず、被験者の頭部を切開し、止血等、延命処置を施す。

 次に、脳を直接的に欠損させる。

 フォークで崩す、かなづちで割る、ナイフで刺す、適度に汚れた釘を打ち込む、その他。

 考えつく限りの方法で、面積の数割程度に破壊を加える。

 そうする事で、被験者の人格が彼女のものに、寸分違わず書き換われば成功である。

 そのパーセンテージは、天文学的だろうか?

 結果には、一応の規則性は認められた。

 最たる共通点は、生命活動が停止する事は無いが、意思疎通が不可能なレベルに精神が崩壊するという事であった。

 これは最初から予測できた事だ。

 私の試みは、脳に破壊を加えた結果のカオスから彼女を生み出す事であり、人格を崩せば別の人格に組み変わるという、都合の良いものでは無い。

 ファミコンのロムカセットを思い浮かべて欲しい。

 このゲームが横スクロールのアクションゲームだったとする。

 その基板にひっかき傷をつけてバグらせ、その結果、ヒット作のロールプレイングゲームに書き換わる事を期待する。

 私の試みには、これだけの苦難が存在すると、おわかり頂けたであろうか?

 ただ、被験者の容態に共通点が生じた事については、収穫と言って良いだろう。

 脳を壊せば廃人になりやすい、という秩序立った法則を、ひとまずは発見出来たのだから。

 しかし、試行回数があまりに少ない。もっと、確証が持てて、あるいは別の法則性が運良く見つかるまで試してみたい。

 断っておくが、私は医学には詳しくない。

 人が持つ〝人格〟の根源は脳にある、という持説しか、頭に無い。

 側頭葉、前頭葉、小脳……名前だけは知っているが、それぞれが思考の何を司っているかさえ、私は満足に把握していない。

 ただ、脳のどこかしらを破壊すれば、最初にあった人格は壊れる。

 壊れた後、破片が継ぎ接ぎされて、別な形に生まれ変わり、それが彼女の人格と一ミクロンも違わないものである確率は、全くのゼロでは無い気がしている。

 宇宙開闢(かいびゃく)から今までの間に、一度くらいはそんな巡り合わせが生じても、おかしくはない。

 今の私には、充分すがりつく価値のある賭けだ。

 よって、この試みは、あくまで偶然に頼ったものだ。

 成功の為の理論的な裏付けは皆無であり、わかりやすく表現するならば、暗中模索という所だ。

 当然、確率の幅を少しでも広げる為に、被験者ごとに脳を破壊する手段を大きく変える必要があるだろう。

 その為のナイフであり、フォークであり、かなづちであり、不潔にした釘である。

 また、失敗に終わった被験者についても、延命や栄養補給は続ける価値がある。

 空気中の細菌が脳に入って、試みが急に成功する可能性も、否定しきれないからだ。

 現在の所、成功例は無い。

 例え、全人類七十億を被験者にしても、成功の公算は絶望的に低い。

 まして、彼女に容姿の近い女性など、絶対数が限られてくる。

 あまり期待は出来ない。

 この試みと平行して、別の手段を考える必要がある。

 人生にこんな試練を課せられた私は、可哀想だ。


 ……出来るだけ、必要な事だけを考えてみる。

 このノートを書いた人の目的は〝彼女〟に再会する事だと言う。

 会いたい人が居る。

 何らかの理由で会えない。

 だから、容姿がそれなりに近い女性を拉致して、脳を壊す。

 運が良ければ、壊れた人格が〝彼女〟の人格とぴったり同じものに、変わるかもしれない。

 とにかく。

 これの著者の目的は〝彼女〟に会う事。

 額面通りに受け取るなら、そういうことになるだろう。

 今は会えない。

 失恋したのか、亡くなったからなのか。

 この文章を読んでいる最中、僕は、男のストーカーが恋い焦がれた女性を探しているようなイメージを想起した。

 女性に会う事=男が女を求めている、と思い込むのは危険だ。

 同性の親友を追い求めている可能性だってある。逆に、親の仇を探している可能性もある。

 とにかく、犯人像を決め付けるような危険だけは避けないと。

 さっきの被害者女性にしても、そうだ。

 僕は、彼女が犯人かもしれないという可能性を考えず、近づく所だった。

 結果的に彼女は加害者では無かったけど、次もそうだとは限らない。

 僕がこの文章から男女の関係をイメージしたのは、やはり、上辺だけは、今の僕と似た所があるからだろう。

 手が届かない所にいる女性を、無駄だと解りながらも認めず、どんなことをしてでも追い求める。

 けど、断じて違う。

 例えエリナを失っても。

 他人の脳を壊して、エリナと全く同じ人格が出来たとしても。

 そんなものは、エリナじゃない。

 元のエリナからすれば、今現在の思考と、他人が作り上げた自分の人格とは全く連続性が無い。

 寸分違わない人格を作り出したとしても、それはエリナじゃない。

 エリナと寸分違わない、他人だ。

 それは、相手の事を思わない、一方通行の思慕。

 第一、エリナがそんな僕を好きだと言ってくれるなんて、ありえない。

 条理の何もかもを無視した妄念の為に、このノートの著者は、何人もの人間を存在の根幹から踏みにじった挙げ句〝運が良ければ実る〟などと、無責任に言い捨てているのだ。

 さっきの彼女を見付けて、エリナじゃない事を確認したとき。

 僕は、心底安堵した。

 それでも、犠牲になった彼女達の事を思って、このノートを読むと、どうしようもない怒りと憎しみがわき上がってきた。

 これはもう、エリナをさらった者に対する、個人的な怒りでは無い。

 人を人とも思わない――思う能力が生まれつき欠如した欠陥人間に対する、〝人間社会の中にこんな存在を許してはいけない〟という原初的な、義務感に近いものだ。

 この殺人鬼は、言いようの無いクズだ。

 多分、今の僕なら、この殺人鬼の喉に、躊躇無くペーパーナイフを突き刺す事が出来る。

 この怒りが醒めない限りは。

 けれど。

 そうして現金に、コロコロ考えを変える僕は、果たしてまともな人間なのだろうか?

 被害者がエリナじゃなくて良かった。安心した。

 しかしこの犯人はクズだ、僕の正義に反している、許せない。

 喉元過ぎれば、という言葉もあるが、この怒りとやらは時間で変動するほど、安いものなのだろうか。

 客観的に見て、そんな僕こそ、打算的で醜い生き物ではないのだろうか。

 ……やめよう。考えるだけ、益体が無い。

 エリナを助けなきゃ。

 でも、その前に。

 僕は、もう一度、部屋の隅ですすり泣く女性に近づく。

「今の貴方は、死んだ方がマシだと思いますか?」

 ナイフを見せて、一応訊いてみた。

「もしそうなら、僕が貴方を殺します」

 僕なら、こんな風になったら、耐えられない。死にたいと答えるだろう。

 せめてそうだと答えてくれれば、僕は彼女を、楽にしてあげられる。

 やれと言われたら死ぬほど怖いけど、そうしなければならないと思う。

「貴方が生きたいのなら、僕はこのまま立ち去ります。

 運良く、ここを生きて出られたら、助けを呼びたいとは思っています」

 ――やれと言わないで。僕に人殺しはさせないで。このまま黙ってて。

 でも彼女は表情を変えないまま、せわしく動き回る目線で、部屋を無為に見つめていた。

 僕の言葉を聴いてはいるだろうけど、聞けたかすらわからない。

 彼女には、意思表示をする権利さえ、もう無い。

 死にたいと思っても、死ねない。

 死にたくないと思っても、このままでは長くない。

 そんな事、充分予測できた事じゃないか。

 もしかしたら〝死にたい〟と答えてくれるかもしれない。〝生きたい〟と答えてくれるかもしれない。

 もう口をきけないのは、わかりきっているのに。それでも。

 宇宙開闢以来の確率で、そんな事もあるかもしれない。

 そんな愚劣な考えに、今の僕はとらわれていなかっただろうか?

 音を立てないよう、早足で、僕は彼女の前から逃げ出した。

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