3
現実逃避をしている場合では無い。
僕は、エリナを助ける為のマシーンだ。
そうでなくてはならない。
今すぐ、マシーンになりきる事は無理かもしれないけど、徐々に冷静になれるように心がけるべきだろう。
彼女への想いが実ろうが実るまいが、実際の所、二の次だ。
あの人だけは、酷い目にあってはいけない。
最悪、僕は人殺しと刺し違える。
僕の腕を切り落とすのに、足を切り落とすのに、人殺しはどれだけの手間をかけなければいけない?
それとも、殺してから僕をバラバラにするつもりか?
心臓を一突きして、僕が絶命するまでに、どれだけのタイムラグがある?
その時こそ、僕は、このペーパーナイフで、人殺しの目玉を刺し貫く。
人殺しが重傷以上の損害を被れば、彼女が逃げ延びるチャンスは大幅に増える筈だ。
――そんなにうまく事が運ぶはずはない。僕は弱い。僕は死にたくない。
そんな考えは、浮かぶ前に押し込めてしまえ。
僕はマシーンだ。エリナを救う為のマシーンだ。
死ぬ気になれば……出来る事は多い。
最初はさっきみたいな事に怯えるかもしれないけど、慣れるべきだ。慣れなければ。
壁伝いなどという甘えも捨ててやる。
堂々と通路を歩き、ナイフを片手に、人殺しと対決する意思を見せつけてやる。
例え、彼がどこかで僕を見ていて、せせら笑っていたとしても。
しかし。
僕は、膝が笑うままに通路を行きながら、考えを巡らせていた。
今通っているのは、さっき来た道だ。
つまり、もう少し行けば、さっき床にぶちまけられた物とか、血まみれになった窓が見えてくる。
あえて、その道を選んだ。
その理由は、もう言わない。
ほら、あの濃い極彩色の肉塊が落ちている。にじみ出た汁や血が、さっきよりも広く、絨毯を冒していた。
余談だが、僕の吐瀉物もちゃんとそこにある。
駄目だ……冗談めかして言っても、まだ割り切れない。
しかし、外に落ちている手首といい、それがどこから来たのか、論理的に推論出来ないものだろうか?
びゃっ。
さっきの二つに比べれば、控えめな飛沫の音。今来た道の、背後。
振り向くか、振り向かないか。一瞬、迷った。
だが、目を背けた結果、大事な事を見落としていては、きっと後悔する。
現実を直視して失うものなんて、多分、いくらかの正気くらいだろう。
「……っ!」
うめきを、完全にかみ殺す事に成功した。
何のことは無い。
五〇〇ミリペットボトル一本分……くらいの……血が……絨毯に……飛び散って……いた……だけ。
大半が生地に吸われたが、溢れた分は水面となって、白熱灯の光で爛々と輝いていた。
錆びた鉄のような臭いが、濃厚に胸を満たす。もう一度、嘔吐しそうになったが、もう吐けるものは液体しか残っていない。
透明な液を吐き出したくらいで済んだ。
またロビーに引き返したい気持ちを強引に抑え、足早に歩を進めながら、どうにか考える。
あの血は、どこから来た?
壁にかかった飛沫を見ると、上からまき散らしたように思える。
美術教師の仕事柄、薄めたアクリル絵の具のバケツをひっくり返した経験も、何回かはある。
その記憶が役に立っているかどうかは知らないけど、多分、この血溜まりは、真上から落ちてきたのだと思う。
けど、上からそんなものが漏れ出した形跡は、少しも無い。
天井は、純白の漆喰に、精緻な細工が刻まれている。クリスタルのキューブを思わせる吊り照明が、奥行きに沿って沢山ぶら下がっている。
そこには、一滴の血はおろか、染みさえも見当たらない。
かといって、床からにじみ出たわけでも無いだろう。壁についた飛沫は、明らかに、飛び跳ねたものだ。
当然、窓や壁にもそれらしい痕跡は無い。
どうしても、大量の血液が中空に現れ、落下してきたようにしか思えない。
鼓動が急速に早まる。
後ろから何かが追ってきている気がする。
多分、僕の足音なのだろう。
ごとり。
擬音で表しやすい物音。重量物。固形物。三メートルほど前。
バスケットボール大の物だ。やはり血染めだ。
僕はそれを、ろくに見もせず飛び越え、全力で走った。
何か、背中がむずがゆい気がする。
誰かに、黙って手をかざされているような、そんな違和感だ。
気のせいであって欲しい。




