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軽い浮遊感を感じた。めまいだろうか。足がかじかんでいたせいか、雪の上でバランスを崩しかけた。
寒い。
あちこちを雪にデコレーションされた僻地だから、当然だけれど。
時刻は十六時とちょっと。今は、ひとかけらの粉雪も舞ってはいない。
昼と呼ぶには薄暗く、夕方と呼ぶには明るい。
薄雲が漂うだけの空は、薄紫色をしている。
数日前に降り積り、凝り固まった残雪が、空の色を吸い込んで地上を彩っている。
枯れた桜の並木は、どれも雪に閉ざされて氷細工の品評会みたいになっている。
今、僕は、とても大きなものを見上げていた。
それは、一見して、洋館のように見える。
けれど、一目では、視界に収まりきらない。
孤話クラシックホテル。
のべ面積三,四五七平方メートル、地上七階建ての威容は、後方の山に勝るとも劣らない。
深緑の葉に砂糖菓子のような雪塊をつけた針葉樹林が、ホテルの肩越しに見える。
戦前に創業し、孤話市の郊外・孤話山のふもとに君臨し続けたこのホテルは、大勢の観光客を飲み込み、吐き出した。
桜に飾られ、葉桜の緑をまとい、遠く、山林に色づいた紅葉を遠近法で冠とし、冬は雪で化粧をした。
のべ何万という人間がそこで過ごした思い出は、口頭で語られ、白黒の写真に残され、カラーのホームビデオに記録され、ウェブサイトの電脳に焼き付いた。
知り合いがFacebookに投稿した写真は、記憶に新しい。
夜の雪景色と共にライトアップされた、きらびやかな画像だった。
けれど、つい一昨年の二〇一二年九月十五日に、このホテルは死んだ。
僕の人生二十五年を遥かにしのぐ年期だったが、幕切れは呆気ないものだった。
当時のオーナー兼総支配人と、テナントでバーを経営していたバーテン、三組の家族。
これらの人々が、一夜にして惨殺された事が、原因だった。
被害者の居場所は、それぞれ違ったが、遺体の状況は完全に同じだった。
両腕、両足を鋭利な刃物で切断された、バラバラ死体ばかりだったのだ。
噂によると、切断面は、とても人の手で切られたとは思えないほど、真っ直ぐだったらしい。
持ち去られたのか、遺体には、発見されていない部位もあるという。
深夜、あらゆるセキュリティを無視して凶行に及んだ犯人は、足取りすら掴めず。
事件は未だ解決の糸口すら見られないまま。
現場検証がちゃんとした形で終わる事も無く、ホテルは閉鎖し、無人となった。
何らかの不条理で、大勢の人が血まみれの惨殺体に変えられた。
けれど、その不条理の正体が掴めないから、無理に忘れようとして放棄された。
更に悪い事に、事件後、ホテルの周辺で七人もの人が、消息を絶った。
失踪者のいずれも、若い女性ばかりだ。
七人の行方不明者についても、手がかりは一切掴めておらず、事件解決のめどは立っていない。
彼女たちが、直接ホテルに入った所を、誰かが見たわけではない。
けれど、誰もが、二年前の事件と、彼女たちの行方を結びつけた事だろう。
期待で顔を輝かせた人々を飲み込み、充足感に満ちた顔の人々を吐き出していたジョージアン様式の西洋館は、今や、飲み込むだけ飲み込んで、誰一人帰してくれない魔城だ。
このホテルを知る誰もが、そんな迷信じみた話を、信じて疑わなかった。
僕が今見上げているホテルとは、そういう場所だ。
綺麗だ。
レンガ壁は規則正しくモザイクを描き、表面の質感は、つい昨日磨き抜いたようですらある。
白亜に装飾されたベランダには、不自然なほどに汚れが無い。普通、あの色なら、この距離からでも煤けているのが見て取れるはずなのに。
手頃なガラス一つ見ても、手脂一つ付いていないように見える。寒空と樹氷を、ただ虚ろに、けれど清涼に反射していた。
そこだけを見れば、あたかも氷の宮殿を思わせる。
戦前生まれという古くささを、どこにも感じない。
とても廃墟とは思えない。
曖昧な時間帯の紫色を一身に浴びて、どこか幻想的で懐かしい気持ちさえ、わき上がってくる。
これで電気が通っていれば、絵に描いてしまいたくなりそうだ――。
「あ……」
そんな事を思っていた矢先だ。
ガラス戸や窓が、まばたきをしたかのように。
白熱灯のオレンジがかった光が、音も無く明滅した。
その光は、冷たい冬の色に閉ざされていたホテルに染み込み、あちこちで紫とオレンジのコントラストを作り上げていた。
ただでさえ昼と夜の境界が曖昧な心持ちだったのが、余計に現実感が失われていくように見える。
幻想的、といえば、確かにこうした風景も幻想的ではあるのだろう。
けど、僕は、つま先からお腹の辺りが、怖気で冷たくなるのを感じていた。
血の流れがシャーベット状になって滞ったような気持ちだ。
このホテルが生きているなんて、あってはならない事だ。
――それはつまり、中に誰かが居る事を意味するのだから。
そして僕は、今からこのホテルに足を踏み入れなければいけない立場にある。
今、この瞬間まで、廃ホテルを独りで探る事を考えたら気が重かった。
けれどその認識は間違いだった。
人間は誰一人いないはずなのに、ホテルだけが生きていて、暖かみを帯びている。
この中に飛び込まなければならない事を考えれば、薄暗い廃墟の方が、全然マシだったんだ。
「だからと言って」
男らしくない自分の声が、僕は大嫌いだ。だから、普段からあまり喋らない。
けれど僕は、あえて声に乗せて、自分に言い聞かせなければならなかった。
そこが、見えない殺人鬼の巣になっていようが、悪霊の巣窟になっていようが、僕は行かなければならない。
いや、そんな危険な場所だからこそ、一刻も早く行かなければならない。
そして、見付けなければならない。
彼女を。
「エリナ……」
僕は、ショルダーバッグから、折り畳んだ画用紙を取り出した。
目の前で広げると、それはA4のサイズで、一人の女性が描かれている。
夜の清流みたいに艶やかで長い黒髪が、まず目に入る。
ただ、上から下に流れているだけでは無い。髪の一房一房が、彼女の動きと風に合わせ、物理法則に忠実に踊っている。
色も、太陽の光を強く浴びている所ほど茶色く見える。天使の輪のような髪艶のハイライトは、しかし、髪の動きに従って、その形をちゃんと崩している。
僕に背を向けていたけど、ふとこちらを見返った。そんな瞬間の絵だ。
日本人らしい、丸みを帯びた輪郭の顔には、底なしの安心感を覚える。垂れ目がちの瞳と、薄桃色の唇で、僕に微笑みかけている。
肌に射した血色、陰影、瞼の流線、眉の生え方、瞳の虹彩。
全て、現実に即していると、言い切れる。
色彩的にも、人体解剖学的にも。
絵画の右下には〝Kyoji Kamio〟と、サインされている。
上尾 郷二。
著作者の名だ。
僕の名だ。
思い上がりかもしれないけど、僕は、この絵の中で、エリナの姿をほとんど完璧に表現したつもりでいる。
けれど、本物の笑顔が恋しい。肉眼で見たい。その衝動は、おさまらない。
確実に、何かが居るあのホテル。
怖くて怖くて仕方が無い、死の気配しかしないあそこに、僕が行かなければならない理由だ。
エリナがあのホテルのどこかに居ると思うと、いてもたってもいられない。
彼女があそこで無残に殺されるくらいなら、僕の体を、指先から数ミリずつ挽肉にされていったほうが何倍もマシだ。
だから僕は、フロントから堂々と乗り込む。
両開きの自動ドアが、滑るように開いた。
どこを見渡しても、迎え入れてくれるスタッフは居ない。
鏡面のように爛々と輝く床や、ビロードの絨毯の暖かな質感が見て取れる。
内装を近くで見ると、流石に、古き時代の産物だという印象を抱いた。
観葉のアレカヤシやポトスの鉢があちこちに置かれていて、緑にも事欠かない。
もっとも、レプリカでも無い植物が二年経っても美しいままでいるという事は、世話をしている人間が居る事も意味する。
さもなければ、水と養分の代わりになるものを吸い取っているのか。
どちらも、良い事とは思えない。
この樹たちには申し訳ないけれど。
耳を澄ませる……物音は、聞こえるような気もするし、聞こえない気もする。
聞こえているのだとして、それが人や生き物の立てた音かは自信が無い。
窓や戸のガラスは思ったより面積が狭い。
中から窓を見つめると、と意外に閉塞感を覚える。
開け閉めの出来ない、はめ殺しの窓だというのも、狭苦しい印象に拍車をかけてしまっているのかもしれない。
無駄だとは思うけど、もっと広い視野で辺りを見回したい。
そう思って、後ずさってみたのだけど。
「……、……」
息を吸って、そして、吐き方を一瞬忘れてしまった。
背中に、冷たいガラスの感触を覚えた。
つい今し方、僕が入って来た自動ドアの入り口だ。
あってはならない事だ。それは、自動ドアが機能を止めた事を意味するからだ。
改めて向き直るのに、かなりの勇気が必要だった。
自動ドアは、隙間など最初から無かったかのように、ぴたりと口を閉ざしていた。
センサーの所で足踏みをしても、手をどれだけかざしても、全く反応を見せない。
依然、暖かな白熱灯の光は、ロビー全体をくまなく照らしている。
通電はしているのだ。
自動ドアだけが動かない道理は、無いはずだ。
何者かの作為が絡んでいない限りは。
一点の曇りも無い、どこまでも透き通ったガラスだけど、それでもホテルの外と中を隔てて見せるくらいの存在感はある。
違う世界に隔離されたような、取り返しのつかないような焦りがわき上がってきた。
こみ上げてくる唾液が、うまく飲み込めない。何かが、喉を押さえているような圧迫感さえ感じる。
横目で、片隅に並ぶ肘掛け椅子と丸テーブルを盗み見た。
あの自動ドアのガラス厚は、僕の目算では、十二ミリだと思う。
強化ガラスだろうけど、五キロ強はある椅子で思い切り叩けば、いくら何でも割れるだろう。
かなづちとか、火かき棒を探してきても良い。そこに暖炉があるし、 工具くらいなら用務員の部屋かどこかに置いてあるだろう。
だが、それは最後の手段にしよう。
ただでさえ、僕のしている事は、事件現場への不法侵入だ。
もし、僕の心配が杞憂で、エリナを首尾良く見つけ出す事が出来た場合、痕跡を残して余計な罪を背負いたくは無い。
そう、思う事にした。
もし、どんな手を尽くしてでも割れなかったら。
そんな考えが、僕の心を激しく浮き沈みしているが、直視しない事に決めた。
とりあえず、思い出したかのように、バッグからペーパーナイフを取り出してみた。
照明の光が、刃の上を水滴のように流れては消えた。
細長くて鋭い刀身だけど、役に立つかはわからない。
もし誰かが隠れ潜んでいるとすれば、それは、例の殺人鬼だろう。
それも、大の男を何人もバラバラ死体に変えて、痕跡一つ残さなかった、亡霊のような。
そんな人を威嚇するには、あまりにも貧弱な刃物だとは思う。
そもそも、取っ組み合いのケンカさえ満足にしたことの無い僕に、人を刺すような事が出来るかどうかも怪しい。
エリナが目の前で殺されそうになっている状況でさえ、とっさに動けるかどうか。
それでも、ただ丸腰で居るのは嫌だった。
何もしようとせず、無抵抗のまま殺される。
出来る努力もせずに、エリナを死なせる。
無いプライドをふり絞ってでも、それだけは許してはいけない。
人を傷つけずにエリナを助ける方法だって、あるはずだ。
ナイフは、僕の心に対するお守り。そう思う事にした。
とにかく、耳を澄ませながら、何かの物音が聞こえるまで慎重に行こう。
太い円柱を描いたロビーを中心に、道は二手に分かれている。
右から行くか左から行くかなんて、この際どうでも良い。左だ。
左から行って、階段があれば上る。何も無ければ来た道を戻って、右。
さっさとルーチンを決めて、その通りに動く。それだけだ。
創作だって、最初の一筆を入れなければ、完成への道はない。
壁伝いに行こう。何かに密着していれば、多少は安心出来る。
伝って行くのは、窓際だ。
部屋から殺人犯がいきなり飛び出してくる可能性を考えると、少しでも遠ざかった方が精神的に楽だ。
それに、外に誰かが歩いていれば、雪を踏みしめる音を聴くことも出来る。
ほとんど綱渡りをするような心持ちだ。僕は、窓際の壁に、完全に依存しきっている。
ここから手を離せば、本当に、奈落へ投げ出されるような気にさえなってきた。
聴覚に神経を集中して。
極度の集中で、目の前が狭窄する。
だから、なおさら、視覚にも気をつけようという気になれる。
何が来ても、すぐに反応して見せる。
どっ。
「ィっ」
鈍い音。重い振動が伝わる。
左手から。窓。外だ。
大股で一歩後ずさって、つい今しがたまで触っていた窓に目を向ける。
外が見えない。塗りつぶされているからだ。
何に?
赤い液体。血のようなもの。
薄く引き延ばされて、乾ききっていない部分が、端から滴り落ちている。
今は、血液に対する嫌悪感よりも、外に対する警戒心と恐れの方が強かった。
ペーパーナイフをことさら強く握りしめて、汚れていない窓から、外の様子を見据える。
人の姿は、無い。
そもそも、外の庭はかなり開けている。
申し訳程度の植込みと、樹氷となった桜並木、溢れ出したままの形で凍った白亜の噴水。
およそ二〇〇メートル彼方に塀があるくらいで、誰かが身を隠すような遮蔽物は無い。
あの窓を、もう一度見た。
赤い液体は早くも乾きかけて、ルビーのような深紅だった色合いに、朱色や黒みを落としはじめていた。
そんな色彩変化を起こす液体は、限られている。
「エ、リナ?」
自分のかすれた声に、全身が総毛立つ。
あれが血で、エリナのものだったら。
窓に投げつけられた物は、何だ。
そう思うと、自分から血まみれの窓に近づくだけの度胸を、絞り出せた。
窓にすがりつくようにして、朱に染まったガラスの向こう側を透視しようとする。
鼻息で、窓が曇っては元に戻る。生臭い匂いを嗅いだ気がした。
雪に閉ざされた芝生が広がっている。
何か、手のひら大の物が転がっている。窓に跳ね返って落ちたのは、あれだろう。
人の、手首だ。
よろめいて、反対側の壁へ、背中を強かに打ち付けた。
砂袋を叩いたような、僅かな音しかしなかったけど、僕にとってそれは、殺人鬼に居場所を教えかねない、大音量だった。
宴会場だろうか。大きな観音開きのドアが、三つある。
いつ、どのドアから、誰が出て来ても不思議では無い。
今来た道を引き返し、走った。
ひたすら走った。
走りながら、さっき見た、手首の映像を反芻してしまう。
手首は、綺麗にすっぱり切れていた。
それと、指が無かった。それぞれの第一関節から指先が、綺麗に断たれていた。
どの切り口からも、止めどなく血が流れ出していた。
そう、例えば、鋭利な刃物で切り落とされたような。
バラバラ殺人。
孤話クラシックホテルのバラバラ殺人事件。
凶器は鋭利な刃物。
人の手で切ったとは思えないほど、真っ直ぐな切断面。
犯人の消息は、依然不明。
現場近辺で、七人の行方不明者。
僕の論理的思考が、今置かれた立場と、今まで他人事だった事件とを強引に結びつけて、僕自身を責めさいなむ。
どうして、一人で来てしまったのだろう。
あの窓際に居てはまずいでもどこに居てもまずいあそこもロビーも距離的には大差が無いまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい!
そうだ、警察、警察だ、手首が本物であれ偽物であれ、あんなものがこのホテルに転がっていれば本腰を入れて調べてくれるだろう、エリナのことも助けてくれる、不法侵入とか器物損壊とか、もうどうでもいい、警察、警察を呼ばなきゃ殺される!
胸ポケットに入れたスマートフォンをがっちり掴んで、取り出す。
画面に意識をやるのも怖い。操作中に、いきなり襲われたら……。
けれど、やらなければならない。手が震えて、誤タップしてしまう。
カメラ機能のショートカットアイコンを押してしまった! 戻るボタン、戻るボタン、戻るボタン!
画面を戻した。今のタイムロスさえ、致命的に思えてくる。なおさら手が震える。
だがまだ来てもいない恐怖に飲まれては、深みにはまるだけだ。
物音は、聞こえない。
視界の端で何かがちらつく事も、今のところは無い。
慎重に、周囲に耳を澄ませながら、通路全体に神経の網を這わせつつ、通話のアイコンを押す。電話帳を開く。
一一〇番では、他の署に繋がってしまう。取り次いでもらう時間も惜しい。ちゃんとした番号を入れなきゃ。
今までに登録したグループが出て来た。家族、エリナ専用、プライベートA、プライベートB、仕事A、仕事B、仕事C、仕事D……。
物音はしないし、何の気配も、今はしない。
孤話市西警察の番号はあらかじめ入れておいたが、一番下の〝緊急〟というグループに入れておいたので、遠く感じる。
その緊急グループをやっとの思いでタップすれば、これまでに登録してきた緊急連絡先がずらりと並んで、警察署の番号を画面外へ追いやっている。
物音はしないし、何の気配も無い。
山岡自工・町田記念病院・アパート大家・事故受付センター・島田勇太・至井東警察・北道和子・孤話市西警察。
物音はないし、何も異常なものは見えない。
震える指で、それでも出来る限り正確に、警察署の番号をタップした。
テンポの良い電子音が、耳元に鳴る。
……。
…………。
反応が、遅い。
いや、
【圏外です。】
「なんで……!」
画面を見る余裕も失い、携帯を握り潰してしまいそうな程の剣幕で、そう吐き捨てた時。
ヴ……ちゃっ。
粘りけがあって、妙に鈍重な音が、すぐ背後から聞こえた。
遅れて、糞尿と食酢を均等に混ぜ合わせたような刺激臭が、鼻孔を突いた。
バランスを崩して、足腰が揺らぐ。
辛うじて残っていた理性が、出来るだけ後ろに倒れ込め、と命じた。
力なく尻餅をついた僕の目の前に、それが落ちていた。
最初、それが何か、理解が及ばなかった。
何か、雑多な有機物が、一塊に集まっている。
所々、茶色かったり、濃紺だったり、赤黒かったりして、塊のようでもあり、有機的な管のようでもあり、痙攣していたり、血管が配線のように張り巡らされていたり、それが破れた所から血が流れ出して、ビロードの絨毯を黒くぬらしていたり、湯気が立ち上っていて、それが温かいものだと理解した。
一息後、その異物が何であるか、大方の察しがついた。
画家を目指していた時に読んだ、解剖学の本。絵だけなら、嫌という程見た物。
何故そんな物がそこに落ちているのか。
いや、突然現れて、僕の前にぶちまけられたのか。
そんな考えは、胃から食道へと逆流してくる流動物に、全て洗い流されて消えた。
押さえたくても押さえられない。
僕は、その場に、止めどなく嘔吐した。




