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 さっき会った時の失敗もある。

 彼は、そこを反省しているはず。

 多分、あまりに近い所で彼と遭遇すれば、口を開く前に殺されてしまう。

 だから、まっすぐ通路を歩く。ここなら見通しも良い。

 曲がり角でばったり出くわすのも困るから、とりあえず、窓際に背中を預けて待った。

 そして、彼が来た。

 上尾 郷二が。

「探したよ、郷二くん」

 今にも飛びついてきそうだったので、先手を打って呼びかけた。

 これを強がり、とは受け取らないと思う。

 怖いという気持ちがあれば、多少なりとも、声が震えるだろうから。

「全部、思い出した」

 血染めの郷二が、ぴたりと足を止めた。

 その顔には、隠しようのない動揺が広がっていた。

 結局、彼も同じだ。

 いくら決心してマシーンになろうとしても、土壇場でなりきれない。

 その点では、我々は本当に同類だと思う。

 彼をバカにして、そう言ってるわけではない。

 むしろ、もう憎しみは無かった。

 あるのはただ、哀しい気持ちと……一つの義務感だけ。

「はじめ、貴方はドッペルゲンガーなんだと思ってた。

 お互いに同じ姿をしていて、会えば、コピー元の人間が殺されてしまう。

 そんな、怖いものだと思ってた」

 確かに、彼は普通じゃない。

 心の事を言ってるのではない。能力の事だ。

 こうして、人体の一部を何の脈絡も無く発生させたり、マネキンに人を保存して生かし続けたり、頭を切開して脳を壊された人が、生き続けていたり。

 その他にも、未知の超能力みたいなものを、きっと使えるのだろう。

 もっと正確に言えば、自分の思い描いた事を、実体化させる力というべきか。

 推論は、ある側面では正しかった。

 違っていたのは、

「貴方はドッペルゲンガーなんかじゃない、普通の人間」

「やめろ」

 初めて聞いた郷二の声は、低いバリトンだった。

 女のように細い僕の声――いいえ、わたしの声と違って。

「そんなものが居るとするのなら〝上尾 郷二に対応するドッペルゲンガー〟とは、僕――わたしの事だった」

「やめろと言っている!」

 郷二は、その場から動く事が出来ない。

 わたしと同じ顔をした、郷二は。

 女顔、というのだろうか。中性的な顔立ちだ。

化粧をして髪を伸ばしたら、女の子に見えなくも無いだろう。

「エリナなんて人間も、最初から居ない。

 無理矢理その枠に当てはめるとすれば、それはわたしのこと、だったんだよね?」

 アニマ、という言葉を知っているだろうか。

 男性が、無意識下に持つ、女性的な側面。

 より正確に言うなら、女性的原理、かな。

 生物学的に男性として生まれた人は、そのほとんどが、社会の中で男として振る舞う。

 男の人の中にある女性のような要素は、表に出ず、いわば抑圧された状態となる。

 けれど、心の底に〝女性としての彼〟確かに存在する。

 そして、アニマを直視する方法が、無いわけではない。

 夢で見た名前も知らない異性に、強烈に惹かれた経験は、多くの人にあるんじゃないかな?

 それこそが、アニマのイメージ。

 男性の中にある、好きなタイプの女の子、理想の彼女ってイメージは、このアニマを参考にして作られる。

 現実の女性に恋をする時、男性は、このアニマイメージを相手に投影し、判断する傾向にあるとも言われている。

 アニマとは、無意識による、意識への補償作用。

 自分に無いもの、欠けているものの象徴。

 だから、欲しがると強烈な渇望を伴う。

 彼が〝エリナ〟と名付けた存在――つまりわたしは、彼のアニマが、この世に実体化したものなのだろう。

 エリナという名前が、何をもって付けられたかはわからない。

 多分、どう呼べば良いのか迷った挙げ句に〝エリナ〟という語句が、記憶のジャンクから無意識のうちに選ばれたのだろうと思う。

 けどきっと、夢に出てくる女性がどれだけ髪型を変えても、顔や体つきが全然違っても、郷二にとっては全員が〝エリナ〟だったに違いない。

 事実、それは正しい。

 わたしを投影して作り上げられたイメージなら、何でもエリナになる。それは、ごく自然な事なのだから。

 普通の人なら、夢は夢として諦め、アニマの面影を忘れる事が出来る。

 けれど、彼は違った。

 きっと、そういう選択肢を選べない人だった。

 一度求めてしまった以上、どんな手を使ってでも手に入れたかった。

 無駄だとわかっていても。

 抑圧されたものの中に――わたしに持ち去られていたものの中に――そうした正常な判断力という物も含まれていたのだろうから。

 結果的にわたしは、彼が持つべき人間性の大半を持ち去って、心の底に引きこもっていたことになる。

 彼が犯した、正視に堪えない罪の数々は……わたしの罪でもあった。

 どうしてこんな事になったのかまでは、わからない。

 推測だけど、彼がこれだけ好き勝手な事を出来るのは、このホテルと彼の精神の波長みたいなものが、合ってしまったからなのかもしれない。

 人間の思考は実体を持たないけれど、形而上では確かな指向性をもったエネルギーとして、そこに存在する。

 仮にそのエネルギーが次元の枠を超え、この物質界に漏れ出したなら……呪いや残留思念というものは、そうして具現化するのでは無いのだろうか。

 わたしは、そう考える。

 このホテルは、そうした形而上世界に通じやすい性質を持っていたのかもしれない。

 そして、オリジナルの郷二は、思い描いたものを、この現実世界に引っ張り出す事が出来た。

 それだけ、正確なイメージ力を身につけていたのだろう。

 自分の半身に対してこう言うのもおこがましいけれど、若くして個展を開いた事もあるのは、この才能があったからだろう。

 彼は、何度も何度も人間を作ろうとした。

 理由。このホテルでは、それが可能だから。

 やりたい事が可能であればやるのが、上尾 郷二という男なのだから。

 そして、中途半端にイメージされた内臓とか手足だけが、度々ホテルに実体化して、落ちてきた。

 あの肉は、全てが〝エリナ〟をこの世に呼び出そうとして、失敗したものだった。

 わたしは、その唯一の成功例だった。

 人として生きる為の器官全てを得て、実体化した。

 最初に、このホテルを外から見上げていたあの時、めまいのようなものを感じた。

 体が浮いて、宙から落ちたような感覚がした。

 着ている服も、持ち物さえも、全く同じ物が実体化した。

 だからあの似顔絵があった。

 そうなると、あの鉈は、わたしを生んだ瞬間には持たなかったのかな。

 今にして思えば、携帯電話も、もう少しよく見ておくべきだった。

 そうすれば、あの時点で気付けていたかもしれない。

 分子レベルで複製され、充電量まで全く同じ携帯電話であっても〝契約〟されていない白ロムの携帯で、通話など出来るはずもない。

 多分、彼が作りたかったのは〝上尾 郷二〟じゃなくて〝エリナ〟だった。

 自分の中にあったアニマを切り離して、肉を与えた。

 その結果が、わたし。

 一見して上尾 郷二のコピーでしかないけど、声帯や色々な部分は、きちんとエリナとして実体化した。

 あるいは、彼の試みは、これで成功だったのかもしれない。

 設計図は、結局の所、自分自身なのだから。

 夢の中に居たわたしは、不定型の存在に過ぎなかったのだから。

 今にして思えば、わたしの中にある上尾 郷二としての記憶は、本で読んだように、客観的なものだった。

 いくら絵画の知識をグーグルか何かで調べて、画材を買い揃えたって、それでプロの絵描きになれるわけがない。

 経験が伴わない知識に、実体は無い。

 そして、郷二とは全てが正反対の〝エリナ〟に、絵画やマネキン作りの心得は無い。

 わたしにとって、このホテルでの経験と、郷二が見た夢での〝わたしの設定〟だけが、実の伴う知識だった。

 このホテルに入って、怖い目にあって、逃げ回った。

 幼い頃からピアノを習っていて、音の違いを正確に聞き分ける事が出来る。

 多分、彼にとっては最後の賭けに等しかったのだろう。

 自分の中にあるわたしを完全に分離して、他人として実体化させる。

 そうして生まれたわたしが、自分と全く同じ姿だった時、彼の失望はどれほどのものだったのだろう。

 裏切られた、と思ったはずだ。

 傷つけられた、と思ったはずだ。

 上尾 郷二は、そうして人を遠ざけてきた。

 身近な人間が自分の思い通りに動かなければ拒絶し、それで去って行った人達の事を、裏切り者と称した。

 その時の感情の動きが、手に取るようにわかった。

 だってわたしは、二十五年間、ずっと彼といっしょにいたんだから。

「お前は、エリナじゃない」

 彼の声は、震えていた。

 どんな感情によるものかは、わからない。

「じゃあ、どうして最初に捕まえた時、わたしを殺さなかったの?」

 わたしは、残酷な問いを投げかえした。

「どうして、声を聞いた途端、うろたえたの?」

 分離したわたしを殺してしまえば、彼の中でのエリナは完全に失われてしまう。

 永遠に、失われてしまう。

 それを直視するだけの勇気は、多分、彼には無い。

 だから、彼にはわたしを殺せない。

 腕力があっても。

 異能があっても。

「わたしは、全部思い出した。思い出して、義務に気付いた。

 貴方のしてきた事は、もうどうやっても償えない」

 ペーパーナイフを、顔の高さに上げて、郷二を見据える。

 郷二は、(きびす)を返して逃げ出した。

 でも、わたしは彼を逃がさない。

 逃がすつもりは、ない。

 足の速さは、彼が圧倒的なのだろうけど。

 でも、彼がいつまでも逃げられるわけでは無い事も、知っている。

 わたしは急ぐわけでもなく、彼とは逆方向に歩き出した。



 あの出来損ないを、どうにか元のエリナに戻す。

 ちゃんと、オレの目の前に肉として存在して、一緒にいてくれる優しいエリナに。

 それが最優先事項だと判断した。

 その為には、迂闊に殺す事も出来ない

 だが、捕まれば、殺されるのをただ待つしかない。

 あの態度は、そういう事なのだろう。

 畜生! これでは、今までと立場がまるで逆だ!

 どうすれば良い?

 このホテルでオレは、何だって作り出せる。

 いざ本気を出せば、人間の一人や二人、無から作り出せるんだ。

 なのに、どうしてエリナだけが作れない?

 今から、奴から逃げながら、新しい案を思いつけっていうのか。

 どうして、どうしてこんな仕打ちを、仮にもエリナだった奴からさえ受けなければいけないんだ。

 卑怯な奴だ。エリナを人質にとって、なんて卑劣な事をするんだ。

 オレが一体何をした!

 どうしてオレばかりが!

 ……いや、そんな非生産的な事を考えているくらいなら、方策を練らなければならない。

 足の速さは、こちらが上だ。

 だが、このまま夜が来て、眠気に襲われたら。

 だとすれば、どこか、身を隠す場所も確保しなければ。



 窓の外を見る。

 夕焼けのオレンジが、弱まってきた。

 夜の帳が、少しずつ下がってきている。

 彼も、眠気には勝てない。

 眠っているうちに、わたしから隠れられる場所を、探そうとするはず。

 何を考えても、結局無駄なのに。

 彼がどういう状況で、何を考えるのか、自分の事以上にわかる。

 わたしは、最終的に彼が来る場所で待っていれば良いだけ。



 色々考えはした。

 スタッフが使うような部屋は、目星を付けられやすそうだ。良くない。

 客室が良い。バリケードを充分に置いて、いざという時は、壁を切り取って部屋伝いに逃げる。

 後は立てこもるだけだ。我慢比べで、オレが奴に負けるとは思えない。

 ただし、あまりに平凡な客室もまずい。

 今度は裏をかいて〝特徴のある部屋〟を選ぶ。

 調理場や宴会場、スタッフルームなど、特殊な場所に居ないとわかったら、きっと〝平凡な客室に潜んでいる〟とあたりを付けるはずだからだ。

 元はオレの中に居た奴だ。その考えは手に取るようにわかる。



 多分、調理場や宴会場は、探すだけ無駄だと思う。

 七階に渡って同じ景観がずらりと並ぶ客室にこそ、彼は安堵を覚えるはず。

 バリケードを置かれてしまったら、おしまいだ。わたしに、それを打ち破るだけの力はないのだから。

 客室といっても、このホテルに客室は、五十四部屋もある。

 その中から一部屋を探り当てなければならない。



 特徴のある客室という事は、奴が〝特徴的である〟と認識している場所、という事を意味する。

 つまり、奴が行った事のある部屋の中で、特徴のある部屋だ。

 なおかつ、今、この場所から、最も遠い部屋が良い。

 オレ=奴の性格上、判断のつかない選択をする時は、手近なものから選ぶ癖があるから。

 奴がその部屋に気付いた時には、手遅れだ。



 そして、わたしが本能的に忌避しそうな部屋を選ぶだろう。

 わたしがバリケードの可能性を頭に入れていないと思っている彼は、きっと、その部屋を本能的に後回しにするだろう、と決め付けるはず。

 そうなると。



 あまり逡巡している暇は無い。

 ここにしよう。

 207号室。



 207号室。

 マネキンの痕跡があり、ひどい腐臭がしていた部屋。

 わたしが、心理的に避けそうな部屋。

 彼が去った最初から、ここだと言う事はわかっていた。

 わたしはただ、彼が考えている間に、まっすぐこの部屋に来れば良かった。

 ほら、思った通り。

 ドアを開けてすぐ、わたしの顔を見た郷二は、泣きそうな程に顔をくしゃくしゃにした。

「貴方がどういう結論を出すか、貴方より早くわかる。

 だってわたしは、元々、貴方の深層心理に住んでいたんだから」

 郷二は、もう口を利かない。

 心が、完全に折れたらしい。

 外では、雲が晴れたようだ。

 夜闇の幕に圧縮された夕陽が、部屋をいっぱいに満たす。

 夜に沈む前の、いよいよ最期の輝き。

 まぶしい。

 きっと彼から見たわたしの顔は、逆光でもっとわかりにくいのだろう。

「今、貴方がここから去っても、わたしは追いかけはしない。

 何度でも、貴方の辿り着く結論に、先回りするだけ。

 それでも、まだ続ける?」

 わたしは、郷二をいたぶっているのだろうか。

 多分、そうなのだろう。

 そこに嗜虐心とか、報復の心は無いけれど。

 ただ、わたしはもう、貴方の思っているエリナ像から離れつつあるんだって。

 それを、知って欲しかった。

 初めてこの物質の世に出て来て、勇気を振り絞ってロビーに入った瞬間から、わたしは、今のわたしに変化していった。

 〝エリナ〟を追い求める郷二としてのわたしは、偽物だった。

 ただ、他人の人生を追体験しているだけで、そこにわたしの意思はなかったけれど。

 その偽物の体験から得たものは、確かに本物だ。

 それが、わたしを、今のわたしにした。

「わかっているでしょう? わたしはもう、少しも貴方の思い通りに動かないし、仮にそうしたくても、出来ない。

 そんな風に変わってしまったわたしは、もう、貴方の求めるエリナじゃないって」

「黙れ」

「貴方は、罰を受けなければならない。

 それは、死んで楽になる事ではない。

 生きたまま、その人生が終わるまで苦しむこと。

 それでさえ、貴方が、七人の被害者にした事の償いにはならない」

 わたしは、自分の喉元にペーパーナイフを突きつけた。

「黙れ」

「貴方の大切なものを道連れに、わたしは地獄に落ちる。

 貴方が、自らわたしを分離したから、出来るようになった事」

 切っ先が、皮と肉を突き破り――致命的な深さに潜り込むよりも先に、ナイフの刀身が消えた。

「認められない? わたしの死が」

 ナイフが忽然と消えた事に、驚きは無い。

 それくらいの事は、このホテルでなら、やりかねない。

 あの、被害者の女性が切り取られた頭の断面を見れば、なおさら。

 そして彼は、わたしの自殺を阻止した事で、ついに白状してしまった。

 わたしの存在自身が、弱みであると言う事を。

「黙れ、黙れ、黙れ」

 今や、ぐずる幼子のような顔となっている事が、何よりの証拠だった。

「ナイフなんていらない。

 自殺の方法なんていくらでもある。

 貴方がわたしを追いかけても、もうわたしと遭遇する事はない。

 あなたがどこに行くのか、あなたより早く解るのだから。

 永遠に、すれ違い続ける。

 この得体の知れないホテルに、ずっと孤独のまま居続けなさい。

 わたしがいつ死んだかさえ、わからないまま。

 貴方が作り出した肉片と、マネキン達と一緒に」

 わたしは、ただ普通に、郷二の側を通り抜けるだけで良かった。

 すがりつこうとする彼の手が、空ぶる。

 放心から立ち直って、彼が部屋から飛び出したときにはもう、わたしの姿は死角になって見えなくなっているだろう。

 獣のような雄叫びが、また宵闇の西洋館に響き渡った。

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