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ブートストラップ  作者: 笛伊豆


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第1章

注:ブートストラップ

コンピュータの立ち上げに必要な処理を自動実行するプロセス。具体的には、電源スイッチを入れるとそれをトリガーとしてシステム環境を整え、人間が利用可能な状態にすること。

 テーブルの上に2つの名刺が並んでいる。

「知識認識工学研究所、ですか」

「知識認識工学研究所の鈴木です。知識認識工学研究所は、主に官公庁の補助金を受けてテーマごとに調査研究を行う機関です」

 女性が言った。金縁の眼鏡をかけていて、少しトウがたっているが、それを考慮に入れても結構美人だ。こっちが知識認識なんとかの人らしい。

「そしてこちらが、ええと、地球環境改善推進財団の」

「田中です」

 チ……いや、身長が不自由な田中さんが、にこやかに笑いながら一礼する。こっちはいかにも役人らしい、チンチクリンの背広をきちんと着こなした男だ。男には興味はない。

「なるほど。ところで、私に何のご用なのでしょうか」

 僕の口調は、結構冷たかった。そりゃそうだろう。夜9時まで残業して、やっと帰ろうとする直前に電話がかかってきて、いきなり会ってくれときたのだ。

 当然断った。今日は金曜だ。そしたら役所らしい機関の所属だと伝えてきた。民間企業は役所に弱い。それで、仕方なく指定の場所に赴いてきたのだが、会ってみるとどうも得体の知れない官庁関連機関らしかった。僕が不機嫌になるのは当然だろう。

 まだ夕食も食っていない。せめて、この喫茶店のコーヒー代くらいはもってもらうぞという気迫を感じたのか、チ……田中さんがぎこちない笑顔のまま、ややのけぞって言った。

「田村さんに、ご協力して頂きたいことがございまして」

「うちに、ですか。でしたら、営業の方に言って頂きたいものですが」

 僕は、やや口調を緩めた。仕事の話なら、そうとんがることもない。

「いえ、あなたの会社にではなくて、田村さん、あなた個人にお手伝い頂きたいのです」

「僕個人、ですか」

 僕は、ソフト関係の技術者でただのサラリーマンだ。会社を通じてでないとすると、アルバイトか。

 仲間うちには、会社に内緒でバイトしている者もいるが、僕の場合は仕事が忙しいのと趣味でも色々やっているせいで、とてもそんな余裕はない。

 僕が断ろうとしているのを感じたのか、女性が口をはさんだ。

「田村さんは、ネット方面で色々活動していらっしゃいますよね?」

 僕は、女性、いや鈴木さんを観察した。

 知識認識なんとかとやらにいるのだから、普通の人よりは技術には詳しそうだ。ただ、ああいう組織には、自分のやっている仕事にまったく知識も関心もない職員も多いので、一概にきめつけることは出来ない。

 もっとも鈴木さんの場合、外見からかなり僕に近い人種なのではないか、と推測することができた。いや、僕が女性的だというわけではなく、つまりその、いわゆるオタク的な雰囲気をかすかにではあるが感じることができたのだ。

 もちろん、僕は自分がオタクだと思っているわけでもないし、鈴木さんもオタクには見えなかった。そういう雰囲気があるというだけだ。

 ちなみに、僕の知る限りでは、本物を言い表すのに世間的に流通しているオタクという言葉は正しくない。本物は「ヲタク」というべきで、世間が認識している以上に凄い存在だ。

 それはともかく、鈴木さんの言ったことは間違ってはいなかった。インターネットは、今もっとも面白い遊び場であり、僕もささやかながらそれに関連した趣味をもっている。

「まあ、一応」

 僕がしぶしぶ答えると、鈴木さんはたたみかけるようにつけ加えた。

「確か、メールマガジンを発行していらっしゃいますよね」

 この人何者だ?と僕は身構えた。

 インターネットでは、プライバシイについてはかなり厳しいセキュリティがかけられている。

 自分のホームページやメールで自分のことをバラすのは仕方がないが、プロバイダやネット環境提供組織に加入して何かを行う場合、基本的には加入した個人についてのプライベート情報はしっかり保護されるはずだ。

 もちろん、犯罪に関係した場合や、警察が捜査令状を持ってきた場合は仕方がないが、それ以外ではほぼ安心できると言ってよい。

 というか、そう思っているからこそ僕たちも安心して使っている。

 僕がメールマガジンを発行していることは、誰にも話していない。メールマガジン自体にも僕がどういう人間なのかを書いた覚えは絶対にないし、メールマガジンの受信者も発行者がわからないようになっている。それどころか、発行者である僕も、受信者が誰なのかはわからない。受信している人数は知らせてもらえるが。

 そういう条件で、メールマガジン発行元と契約しているのだ。だから、尋常な手段では、今鈴木さんが言ったようなことがわかるはずがない。

 尋常な手段では。

「誰から聞いたんです?いや、どこで調べたんですか」

「まあまあ、その辺のところはよろしいではありませんか。別に、我々は田村さんがメールマガジンを発行していることを広めるつもりはありませんよ」

 にこやかにチ……田中氏が割り込む。こいつらは、結構コンビネーションがいい。なめてかかるとまずいかもしれない。

 それに、何らかの方法でセキュリティを破ることが出来るらしいのだ。こっちは単なる庶民にすぎないのだから、ヘタに逆らわない方がいい。

「別に、知られてまずいことでもないでしょう。非合法なことをしているわけでもないでしょうし」

 チ……いやいや、田中氏が続けた。明らかに、威嚇の意味を含んだ言葉だ。

 メールマガジンは、一種のメーリングリストだ。普通のメーリングリストと違うのは、メールの発行者がひとりだけで、受信者が多数であるということだ。すなわち、受信者はメールの発信は出来ない。

 僕がメールを書いてメールマガジン発行元に送ると、発行元ではあらかじめ登録してあるメール宛先に向けてそのメールを一斉に配布する。それだけなら単なるメールだが、メールマガジンは内容に特徴を持たせ、受信者に娯楽を提供することを目的としている。

 僕が発信しているのはテキストのメールマガジンで、つまりは文章だけの記事で成り立っている。

 受信者つまり読者は、いつでも受信を取りやめることが出来る。購読料は無料で、メールの受信環境があればサービスを受けられる。

 そんなことをして何の得が僕にあるんだと言われそうだが、自分の文章を人に読ませたいという趣味の奴にとっては堪えられないツールなのだ。だから言っただろう。僕はオタクっぽいって。

「もちろん、非合法なことなんかやってませんよ」

 僕は声を大にして言ったが、田中の奴はニヤニヤ笑っていた。嫌な奴だ。

 僕のメールマガジンは、時事問題解説が主題だった。それも、マトモな方じゃなくて、一応解説しつつも少しおちゃらけてみたり、かなりきわどい皮肉や当てこすりをまぜこんて、面白い読み物に仕上げている。まあ、まともな新聞や雑誌には載らない程度の毒はある。

 どのくらい面白いのかは、欲目があるから何とも言えないのだが、時々読者の感想がメールマガジン発行元から回ってくるので読んでみると、結構ウケているらしい。

 読者数は、現在約500人というところか。もちろん、この中には受信するだけで読んでいない人もいるはずだが、個人のメールマガジンとしては人気がある方だろう。

 だが、内容が内容なだけに、僕の実名入りでメールマガジンが公開されたらひょっとして会社での立場が悪くなるかもしれない、という懸念はある。田中の笑いは、そのへんを指しているのだろう。

「ところで、お願いなのですが」

 鈴木さんが言った。

「あなたのメールマガジンで、ご協力頂きたいのです」

「私の?」

「はい。我々のプロジェクトでは、ある理論をたてまして、それを実証するための実験を行いたいと思っています。その材料として、田村さんのメールマガジンが最適だと考えているのです」


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