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最初の読者

作者: チシャ猫

 ――小説を書いてみよう。

 彼がそう思うようになったのはいつのころからでしょうか。

 小学生のころ、彼は国語の授業が大好きでした。教科書の中にぎゅっとつまった物語を紐解いていくことが楽しみで楽しみでしょうがなかったのです。

 次はどんなお話なのだろう。どんな主人公が登場するのだろうか。

 きっと気になって気になって仕方がなかったのでしょう。仕舞いには授業で取り扱わなかった題材も含め、クラスメイトの誰よりも先に教科書を丸々読破してしまいました。

 クラスの皆が嫌がった作文を書く授業も、彼にとっては楽しみでした。

「作文は書き出しが大切よ。読み手は大抵そこで、どんなお話になるのか想像するから」

 そんな先生の言葉を参考にして冒頭に会話文を持ってきた作文は、書いた本人がびっくりするくらい高い評価を受けました。彼の両親もそれを見ては大層褒めてくれました。

 自分の書いたもので相手が笑顔になってくれる。よく出来た、と褒めてもらえる。

 それが彼にとってのきっかけだったのでしょう。

 今度は先生から与えられた課題ではなくて、自分で物語を作ってみよう。そう決意しました。

 するとどうでしょう。頭の中にたくさんの物語が広がってゆくのです。空想上の人物が勝手に物語を進めていきます。彼はただ、心の中に散らばったその物語の欠片を集めて組み立てるだけでよかったのです。

 それからはどんどん作品を書いていきました。本もたくさん読んで、そこから取り込める技術はどんどん吸収して彼は書き続けました。

 周りの皆が現実的な進路を考えるような年になっても、彼は小説だけを書いていました。

誰に言われるでもなく、自然に小説家を目指すようになっていたのです。

「そんな現実味のない職業はやめなさい」

「あんたはまだそんな夢みたいなことを言ってるの?」

 教師にも親にも反対されました。それでも夢を諦めきれない彼をたった一人、支えてくれた人がいたのです。

 それは、小学生のころ隣の席だった女の子でした。彼が書いた作文を一番最初に読んで、「すごくおもしろい!」と言って笑顔を見せてくれた子です。彼女にだけは、今まで書いた全ての作品を見せていました。彼女はいつも彼の作品を楽しみにしていて、適切な批評をしてくれる掛け替えのない存在でした。そして彼女はある時言ってくれたのです。

「書き続けていればいつか絶対に夢は叶うから、諦めないで」と。

 大学生になる前、彼女の父親が持病を悪化させてそのまま他界してしまいました。母親と二人きりになってしまった彼女は、そのまま遠くの母の実家に引っ越していきました。

 彼女と離れ離れになる前、彼は約束をしました。絶対に諦めないから、と。

 それを聞いた彼女はまるで自分のことのように喜んで、いつかのような満面の笑顔を見せて去っていきました。私も誰かさんを見習って夢に向かって努力することに決めたから、そう言い残して。

 それからは必死でした。教養を広めるために大学に入り、将来のことを考えて今のうちに出来るだけお金を貯めておこうとアルバイトに勤しみました。目まぐるしく過ぎていく日々に忙殺されながらも、遠く離れた幼なじみから届く手紙だけを励みに、決して小説を書くことだけはやめませんでした。



 ――小説を書くのをやめよう。

 彼がそう思うようになったのはいつのころからでしょうか。

 小説家になる、という彼の夢が叶ったのは大学を卒業して一人暮らしを始め、一年が過ぎた時のことです。当時は飛び上がらんばかりに喜びました。幼なじみの女性と久しぶりに再会して、お互いに涙で顔をくしゃくしゃにしながら抱きしめ合いました。

 でも、幸せな夢は長くは続きません。元々ベストセラーになったわけでもない彼のデビュー作など、瞬く間にその他多数の本の中に埋もれていきました。

 それでも彼は書き続けました。二作目、三作目と次々作品を発表しましたが、どれも売れ行きは芳しくありませんでした。

 そんな彼の作品を面白いと言ってくれて、ファンレターをくれる読者もいました。それでも、新作には失望した、と言って離れていくファンも同じくらいいたのです。最初から一貫して彼のファンで居続けてくれたのは幼なじみただ一人だけでした。

 読者に喜んでもらえるような物語が書きたい。その思いはいつの間にかデビューすること、作家で居続けるためという動機に変わっていたのです。そんな彼には次第に、幼なじみからの励ましの手紙は重荷にしか感じられなくなっていきました。いたたまれない気持ちのままアパートを引っ越し、その住所を彼女には知らせませんでした。

 どれだけの時間が経ったころでしょうか。彼が身を削る思いで書き上げた渾身の一作が絶版になったと知らされた時、彼の中の何かが音を立てて崩れていきました。

 そして一向に増える素振りを見せない貯金が底をついた時、実家に帰る決心がついたのです。もうお終いにしよう。敗残兵さながらの姿で家に辿り着いた彼を迎えてくれたのは母親の温かい手でした。無言で抱きしめたまま何も聞かずにたった一言、

「よく頑張った」

 そう言ってくれたのです。家にある本棚には彼が書いた本が一つ残らず並んでいました。彼を応援してくれた人が、ここにもう一人いたのです。その時胸に去来したのは幼なじみの笑顔でした。会いたい。そう強く思ったのです。

 母親にそのことを話すと、一瞬だけ目を伏せた後一通の葉書を見せてくれました。



「……よく来てくれましたね。さあ、あの娘にお線香をあげてやってください」

 おばさんに誘われるように、家の中に招き入れられます。畳敷きの一室にある彼女の写真が飾られた仏壇を見て、ようやく彼の中に実感が沸いてきました。ああ、あいつは死んでしまったんだ、と。

 彼女の病気は亡くなった父親と同じものでした。こちらに引越してきてから体調を崩しはじめ、何度も入退院を繰り返していたそうです。

 夫と娘を同じ病気で亡くしたおばさんの顔には深い皺が刻まれていました。

「あなたの邪魔はしたくないから絶対に教えないでくれ、そう何度も頼まれまして。娘が息を引き取ったことはあなたのお母さんには知らせましたが、娘の願いを尊重してくださったようです」

 住所不明で返ってきた手紙を見て、彼女はどう思っていたのでしょうか。彼女に助けられてばかりで、ついには何の恩返しも出来ずに先立たれてしまった彼は写真の中の幼なじみと目を合わせることが出来ませんでした。

 彼が唇を噛みしめていると、おばさんが一冊のノートブックを持ってきました。ちょうど手帳くらいの大きさです。

「娘からのもう一つの願いです。もしあなたが来ることがあれば、これを渡してほしいと」

 震える手でノートを開きます。そこに綴られていたのは、彼女が残した物語でした。


 登場人物は二人。作家志望の男の子と彼を応援している女の子。男の子はいつも自分の書き上げた作品を一番最初に彼女に見せていました。それを楽しみにしていた女の子はどんどん次の物語をせがみます。作文が大の苦手だった女の子にとって、身近な存在である彼の書いた物語は新鮮そのものだったのです。

 鬱陶しいと思いつつも彼女の喜ぶ顔が見たかった彼はせっせと新しいお話を作っていきました。

 時は過ぎ、二人は高校生に。彼のことを異性として好きになっていた女の子ですが、なかなか本当の気持ちが伝えられません。告白することで今の関係が崩れて、彼の読者でいられなくなることを何より恐れたからです。

 そんな彼女に彼が照れながら手渡した新しい小説は、彼女へのラブレターを物語風にアレンジしたものでした。

 そうして二人は付き合い始めます。これからも一番最初に私に読ませてね。そんな彼女の言葉に不承不承、でもどことなく嬉しそうに答える男の子。

 時が経ち、作家としてデビューした彼の隣にはいつも彼女の笑顔がありました。


 小学生のころ、国語の時間に隣の席で「ぜんぜん書けないよー」とむくれていた女の子が一生懸命紡いだ物語。

 拙い文章でした。文法もところどころ間違っていました。

 それなのに、どうしてでしょう。彼の目からは涙が止めどなく溢れ出てきます。小さなノートから、彼女の気持ちがひしひしと伝わってきます。仕舞いには声をあげて彼は泣き崩れました。

 小説を書くことに夢中で彼女の気持ちに気付けなかったこと。ずっと応援してくれていたその思いから逃げようとしてしまったこと。後悔の涙は、涸れることなく彼の頬を濡らし続けました。

「出した手紙があなたに届かずに戻ってきてからそれを書き初めて……病室から出られなくなってもそのノートだけは決して放そうとしませんでした。どうか、もらってやってください。そしてあなたは前向きに生きてください。娘もきっとそれを望んでいるはずです」

 娘のために泣いてくれてありがとう。おばさんの言葉を背に、彼はある決意と共に彼女の家を後にしました。



 後年、彼の出版した本は若者の間で絶大な支持を得ました。出版社からの次回作の要望をことごとく退け、彼がそれを最後に筆を執ることはありませんでした。

 ある雑誌のインタビューで彼はこう答えています。

「自分の書きたかったものは全て、あの作品の中にある」

 喜ぶ顔が見たかった。他の誰でもない、彼女の笑顔を見たいが為に小説を書き始めたのだということに彼はようやく思い至ったのです。そして、その思いが愛する人に向けられる感情であることにも。

 現在彼は、学校の教師をしています。幼なじみの彼女がことあるごとに語っていた夢を、叶えられなかった願いを受け継いで。

「わたしはね、国語の先生になりたいの。文章を書くのは苦手だけれど、素晴らしい物語を伝えることは出来ると思うから」

 

 そうして彼は今日も、かつて自分が胸躍らせた物語を生徒たちに語って聞かせています。



 彼女が残したノートの最後にはこう記されていました。

『あなたの書く物語が大好きでした。私はいつまでもあなたの一番最初の読者でいたかった。大好きだよ』

 彼に宛てられた物語に自分の思いを重ねたもの。それが彼の最後の作品でした。

 その本の題名、それは――


『最後の読者』




読了感謝!

敬体での初作品だったものです。


ベタだけど温かい話、を目指して書きました。テーマは≪作家と読者≫ですね。

実は普段お世話になっている批評サイトである作品を投稿して、モロに赤点をもらったことがありまして……。

その時の反省を胸に、もう一度読者の視点に立って物語を書いてみようと思って執筆したのが今作でした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 心に迫りました。 [一言] 〝彼〟が小説を書くことに至った経緯が、自分とダブるような気がして、一気に感情移入してしまいました。
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