その八
春星が茶会の場所に選ぶのは〝夢見屋本舗〟に繋がる異空間で、桜夜は人間界が多い。しかし春星の負担を考えてか桜夜が指定したのは〝夢見屋本舗〟に繋がる異空間だった。
今日は中国式の茶会をするとのことで春星は着替えずにそのままだ。
和洋折衷、下手したら和洋中折衷はよく言えば柔軟、悪く言えば節操のない日本人の専売特許のように思われがちだが、もちろん諸外国でも異文化の融合は行われてきた。
その一つにシノワズリがある。
大航海時代に西欧にもたらされた中国装飾がロココ趣味と融合した陶器や織物のようなもののことだ。
また、中国風の美術工芸品を珍重する中国趣味でもある。
十八世紀の貴族社会において東洋趣味が流行り、家具や陶器、壁紙などに中国的装飾を取り入れるのが流行した。その頃の貴族の屋敷にはチャイニーズ・ルームと呼ばれる東洋趣味の部屋が必ずあったという。
先日使った西洋風の屋敷の中庭の一角にはその頃の名残のように中国庭園を模した庭園がある。今日茶会の場として設定されたのはその中国庭園の東屋だ。
池の畔の東屋に向かうと着物姿の桜夜の姿があった。
着物とはいえ嫋やかな物腰、振る舞いはこの場にしっくりきている。
ただ一つこの場にそぐわないのは池を埋め尽くすように咲き誇った蓮の花だ。
中国庭園に池があるのも、その池に蓮の花があるのもいいだろう。だが、蓮の花が咲くのは夏で、今は冬だ。
とはいえそんな事に今更こだわらない大らかさは春星と付き合う内に身に付いたものの一つだ。
「どっちが淹れる?」
「味見をお願いできるかしら?」
「喜んでご相伴させてもらいます」
日本と中国の茶器はよく似ている。日本の急須のような形をした茶壺、小ぶりな湯呑のような形をした茶杯。だが、淹れ方は日本茶とはまるで異なる。
まず茶壺に湯を入れる。茶壺が温まったら中の湯を茶盤という横断歩道のように間隔がある長方形の穴がいくつか空いた木の箱に捨てる。茶壺の底が埋れる程度に茶葉を入れて、今度は湯を溢れる寸前になるまで入れる。
しばらく置いてから蓋を擦切るようにして軽くアクを取る。ボウルのような茶海に移して、もう一度茶壺に湯を入れる。そうすることで茶の濃度が均一になる。
その間に聞香茶・茶杯・茶壺に湯を注いで温める。聞香茶、茶杯を温めた後にその湯を茶壺にかけ、空になった聞香茶に茶を注ぎ、こぼさないように茶杯に移す。
空になった聞香茶では香りを楽しむ。
聞香茶で深く息を吸って茶の香りを嗅ぐと、肺腑が茶の香気で満たされた気になる。
一口茶を含むと、漂うのとはまた違った馥郁たる心地がする。
「美味いな」
「やっと顔が柔らかくなったわね」
桜夜に言われ、春星は空いた左手を顔にやる。
「……オレ、そんなに不機嫌な顔してたか?」
「というよりも、強ばった顔をしていたわね」
桜夜は優雅に茶を飲む。嚥下してからふっと視線を遠くに向けるようにして力を抜くと、幼い時の春星の言葉が脳裏を過ぎった。
笑ってよ、姫ちゃん
昔春星はことあるごとにこう言っていた。
……でも、常に笑顔なあなたの本心もわからないわ……
春星はいつも笑顔だが、明朗快活なだけの者がいるわけがない。それなのに春星はどんな時も笑顔だ。それが桜夜にはまるで笑顔で何かを覆い隠しているように見えてならない。
「…………何があったの?」
「………………いや、何でもない」
桜夜は茶杯を置くとテーブル越しに春星の頬に手を伸ばす。伸ばされた腕に従って垂れた袂をそっと押さえる。しばしじっと見つめてから、伸ばした腕の側にこくりと首を傾げる。
「……そう。私にも隠しておきたいことなのね」
表情は取り繕えても瞳の奥の感情までは隠し通せない。桜夜は春星の瞳の奥に拒絶を読み取った。桜夜は手を下ろすと立ち上がる。
「さようなら」
「待っ‼」
春星は勢いよく席を蹴ると、席を立った桜夜の腕を取る。だが、じっと見つめられても何も言えず、項垂れる。
「………ここはあなたの領分。縋れる相手もいるでしょう」
「………お前、まだ根に持ってたのか………」
春星の養父の知り合いには人外のモノがいる。
この庭園に咲き誇る蓮も池を住処にしている美蓮公主の恩恵によるものだ。
春星は人だけでなく人外のモノにも愛され可愛がられてきた。
その為に春星は桜夜ではなく海千山千の公主達に泣きつき慰めてもらったことがある。まだ妖怪変化や仙人なら良かっただろうが、公主とは天子の娘のことで人ならざるものであるが故に美人揃いだ。
春星としては公主達は昔から可愛がってもらっている親戚のお姉さんのような感覚だが、桜夜に通じるわけがない。
おかげで桜夜がこれ以上なくへそを曲げ、被害があちこちに飛び火した。その一件で春星は己の振る舞いをつくづくよく考え、〝霞陽〟、〝富幻〟両国では春星関係のことでは桜夜に注意を払うようになった。
「それもあるけど、あなたが本当に必要とするのは私ではないでしょう」
「それは違う‼」
今度は目を逸らすことなく、しっかりと見つめ返す。
「それは違うよ桜夜。オレにとってお前は大事なんだ」
「どうして?」
「お前はオレにとって初めて出来た人の友達なんだ」
忘却の彼方に追いやった春星の幼少期は孤独だった。一つ目の能力もその孤独を満たそうとして生まれたようなものだ。
だが、そのささやかな望みも叶えられず、そればかりか春星を更にどん底に追いやったのもその能力の発現だった。
それから養父によって救われ、自然を友とし動物達を友としたが、人の踏み入らない霊山の奥では人の友は得られない。
今では部下や知己は増えたものの、友人と呼べるのは桜夜と皇帝しかいない。そして二人を友人と呼ぶのも春星だけだ。
己が望んだ言葉ではなかったものの、桜夜のヤケのようなささくれた感情は収まった。
桜夜は春星の目を覗き込んで言い聞かせる。
「いい?春星。私は出会う以前のあなたのことを何も知らない。そしてあなたが話したくないのなら知らないままでいい。でも、その過去のことで苦しんだり、やるせなくなったりしたなら、私以外の誰かと分かち合っても構わない。それを咎めるほど私は狭量でないつもりよ」
「………さいですか………」
これまでに散々思わぬことでとばっちりを受けてきた身としては頷ききれないが、桜夜の思いは伝わった。
それに応えるために端的に答えることにした。
「まぁ、とうの昔に縁切ったはずの兄貴の名前を見ただけなんだけどな」
「お兄さん?」
「そ。〝霞陽〟の政府高官してやがった。だから全力で会わないで済むように手を回す算段を胸の中で整えてた」
「………そんなに上役なの?」
「ん~実家の没落具合からしちゃ目覚しいけど、それ程でもないな」
春星の生家はかつて名門貴族として〝霞陽″の政府の中枢で権力を握っていた。しかし先々代である春星の祖父が追い落とされて時流を外れた没落貴族だ。
だから後ろ盾もない没落貴族が政府の役人になっただけでも快挙だが、父や一族が望む成功ではない。
「やっぱり身分は足かせね」
普段から皇族として不自由を強いられている桜夜は眉を寄せる。
「そんなに会いたくないのなら外してもらったらどうかしら」
「そしたらオレが報われない。あいつのためにオレは色々と………まぁ、それはいいや」
濁したが、桜夜は目を見張り、次いで険しい顔をした。
「まさかあなたに代償を……。」
察しのいい幼馴染みに春星は苦笑いするしかない。
春星の父は優秀な人材を中枢に送ることに執着していた。だからこそ己の子であっても愛おしむべき存在とはみなさず、ただの駒としか扱わない冷酷な人物だった。
春星の兄は幼い時から優秀だった。それは父の期待や一族再興の望みを託してもいいほどに。
だが次男の春星は平凡な子供だった。それはあくまで神童ではなかったというだけで、そもそも春星は大器晩成型だった。それは今の春星の仕事ぶりや実績を見れば明らかだ。
しかし策略によって地位を追われた己の父の嘆きを目の当たりにし、己の代で一族の復活を願ったものの、父は凡俗な地位に甘んじたままだ。だからこそ判断が性急になり、物心つく前に春星は父に見限られた。
だからこそ春星は兄の、そして弟の糧とされた。
春星は左目を押さえて遠い目をする。
春星は親兄弟は固より親戚一同、果ては使用人からも虐げられ、蔑まれていながらも笑顔だった。
春星にとって笑顔は処世術であり、生きる希望だった。
しかし、父は、兄は、弟は、『一族の出来損ない』の春星が笑っていることも許さなかった。
だからこそ弟の儀式の代償を押し付け、春星から『あるもの』を奪った。
兄の儀式の代償に春星はすでにそれを失っていた。その時は絶望に打ちひしがれながらも春星はどうにか一人で立ち直ってみせた。
だというのに父は無慈悲にも再び春星から奪い取った。そればかりかまともに日常生活も送れなくなった息子を非情にも〝霞陽〟の外れの山奥に捨てた。
不幸中の幸いで養父に出会い、救われた。
皇帝の側近となった今なら己にこんな仕打ちをした一族を社会的にも物理的にも抹殺することも地獄に叩き落とすこともできるのに、野放しにしたままだ。
決して父達を許したわけではない。ただ、そうする必要も感じないからだ。
権謀術数の末に兄が登り詰め、己と直接交渉する立場になったとしても春星は私怨を交えることなく宰相として対処してみせるだろう。
ただ、春星の唯一の逆鱗に触れたのならば話は別だ。
己達の欲望を満たすために理不尽に他人の物を奪うのは許されない。
それは失意のどん底で抱いた、今も変わらない揺るぎない信念だ。
その信念に従い、春星は多忙の中〝夢見屋本舗〟を営み、人に害を与えたユメクイを裁く。
「……ああ、畜生……」
いつからかこの信念を忘れ、どこか惰性のように〝夢見屋本舗〟の依頼をこなしてきていたことに気づいた。
だが思い出したきっかけが兄だということが気に食わない。
複雑な感情を綯い交ぜにしたまま、過去やしがらみを抱え込んだまま生きていくしかない。それが生きる、ということだ。
茶を口に含むと、込み上げてきた苦い思い出と諦観を込めて飲み下す。
しかし、だ。
「何か複雑‼素直に喜べない‼」
春星は頭を抱えて絶叫する。そればかりか地面をのたうち回る。傍から見たら発狂したかのようだが、桜夜は涼しい顔で茶を飲み景色を愛でる。しばらくして起き上がると春星はガシガシと頭を掻く。
「落ち着いた?」
「どうにか」
普段は宮廷で冷静沈着な判断を心がけているが、春星は本来感情の起伏が激しいし、血気盛んだ。だがら機会あらば全力で感情を発露するし、戦場にだって殴り込む。
春星が服の土埃を叩いてから席に着くと、桜夜は新しく淹れた茶を前に置く。今度は日本茶だった。湯呑の縁を片手で掴んでふうと冷ましてから飲む。玉露なのか程良い渋味が思考回路を蘇らせ、胃に落ち着いた熱さが強張りを解く。
「やっぱりお前の茶って美味いな」
「ありがとう」
「上手く淹れるコツとかあるのか?」
「特に無いわね。まぁ、これに限っては…」
春星はじっと湯呑を覗き込むと聞いてみる。
「……なぁ、何か入れた?」
「まさか。あなたに毒は入れないわよ」
「毒以外なら入ってんのかよ⁉」
以後の茶会の前に解毒剤の服用を習慣化しようかと検討していると、「冗談よ」と言われた。
「……お前の冗談は笑えない……」
「言う機会も無いものね。で?気分は変わったかしら?」
どうも桜夜なりの励ましだったようだ。「思いやりの方向性が歪んでいる」と思わなくもないが、不器用なりに気にかけてくれるのは嬉しい。
「ああ。おかげさんで。それに、まずは少年を助けないとな」
「頑張ってね」
「おう」
桜夜がいなくなってから春星は懐から独楽を取り出した。くるくると縄を巻きつけ、回転させる。春星はぼんやりと独楽が回る様を眺めていた。
「坊。大丈夫?」
振り返ると美蓮公主の姿があった。
「うん。大丈夫」
薄らと微笑む春星に公主はそっとため息をつく。
……大丈夫に見えないからこうして声をかけているのに……
春星は昔から落ち込んだり、寂しくなったりしたらこうして独楽を回す。
独楽は日本のもので春星は幼い時から肌身離さず持ち歩いている。この独楽は春星が実家にいた頃に唯一持っていた玩具で、身一つで捨てられた時も持っていたものだ。
春星には懐古趣味も無いし、実家での過去にもいい思い出はないが、この独楽は大切にしていた。すっかり装飾も剥げ、磨り減っているが春星は新しい物に買い換えたり塗料を塗り直したりすることはない。
……結局オレはまだ過去に囚われてるんだよな……
言ってみればこの独楽は春星にとっておしゃぶりのようなものだ。持っていないと落ち着かないし不安になる。成長していない自分に嫌気がさすが、こればかりはどうしようもない。