その七
舜と約束した翌日も春星は政務に追われていた。
机に向かって書類を読み進めていると、書類の中に〝霞陽〟からの外交文書があった。内容を確かめると大使が交渉の場を持ちたいと申し出ていた。
「おい。この文書はいつ届けられたものだ」
尋ねるとすぐさま若い官吏が席を立ってやって来た。
「昨日の夕方にございます」
春星がいなかった時間なので報告が無かったのを責めるわけにいかない。
「失礼はなかったろうな」
「はい。ですが……」
「どうした」
口を濁した若い官吏に尋ねると言いにくそうに言う。
「………大使が対応したのですが、自分は『マオリィウ・ドンフェの使いだ』とか『もっと上の者を出せ』だとか文句ばかりでして……。………おまけにその方はあくまで大使の書記でして………」
「ふん。大使とは一国の代表。そして大使団の人員もそうだ。それなのにそんなくだらん者を据えるとは、つくづくあの国らしい」
〝霞陽〟は『地位』と『栄光』の夢からなる。人間界と同じく様々な人種が混在し、領土争いや自国で権謀術数を巡らせることに腐心している。
〝霞陽〟からの文書があると春星に言い出せなかったのは春星が〝霞陽〟を嫌っていたせいでもある。
春星は〝霞陽〟の外務省の資料を取り出すと件の書記の名前を調べる。
「……野間澄明か」
ついでに任命しただろう人事のトップを確認したが、名字も違うし、縁戚関係もないようだった。
「………何でこんな役職に就けているんだ?」
ふと疑問が沸き、聞き流していた言葉を思い返す。
「なぁ、そのマオリィウ・ドンフェというのは何者だ?」
「〝霞陽〟の政府高官です。十年ほど前から異様なほど出世をされ、新進気鋭の若者だと注目されています」
「……それはそれは……」
異様なほどの出世、という言葉にきな臭いものを感じてしまうのは春星の穿った見方のせいだけとは言い難いだろう。
もちろん元ユメクイにもユメクイでの実績を足掛かりに政府に登用され、明晰な頭脳と持ち合わせた胆力で時勢や政局を見極め、高官に就いて今も腕を振るっている者もいる。だがそれにしたって人の口に上るほど異様な出世はしていない。それは堅実に登り詰めた結果だからだ。
………婚姻による縁故から手繰り寄せたか、人を貶めたか……それとも能力を使ったか……
ここで言う能力とは生まれ持ったものではなく、儀式によって得たもののことだ。
夢界の住人には能力を得る素質があり、儀式で供物を捧げるか何か対価を払うことで能力を得ることができる。
例外的に五国の長の一族は生まれながらに能力を持っているものの、それも脈々と受け継がれた血筋、人々の崇拝などを対価にしているためだ。
桜夜は〝霞陽〟の天皇の妹で、生まれながらに能力を持っている一人だ。
そ うした選ばれた一族以外の家では儀式をするしかないが、身分が低かったり衰退した家だったりすると供物を用意する財力がない。そこで己の何かを犠牲にするしかないが、思わぬ代償を払ったなら能力を得た意味がない。
そこで代償を他人に押し付ける秘術もある。
忌々しいことを思い出してしまったので気を取り直そうとマオリィウ・ドンフェなる人物の名を調べた。
結果から言えば逆効果だった。
「……昴流冬月……」
春星は目を見開き、なぞるのも忌まわしいというように腕を振り払った。だが激昂することもできない悔しさを滲ませながら唇を噛む。
春星は自身の儀式は二度行っている。
その一度目で夢を見ることができなくなり、二度目で怒ることができなくなった。
だから春星は先日舜に渡した良夢ドロップをいくら舐めようと夢を見ないし、このように忌まわしい過去の片鱗に触れても気が済むまで怒り狂うことができない。
突然の春星の変化に周囲は狼狽えるも、春星の横に小鳥が降り立ったことで安堵の息を漏らした。いつもなら無慈悲な使いが救いの女神に見えた。
我に返った春星は部下達に丁重に見送られてその場を後にした。何故か全員が示し合わせたように敬礼をしたので内心首を捻った。
桜夜との茶会に行くために宮廷の隠し通路に向かう途中で気配を感じた。
足を止めると急に辺りに霧が立ち込める。たちまち目の前も見えない濃霧になるが、今日の天気は快晴だ。
「……誰だ?」
「東雲軍司にございます」
東雲軍司は昨日調査を命じた相手で、ユメクイに潜り込ませた密偵達の長でもある。
「まず、近頃急に成果を上げたユメクイは〝霞陽〟の者ばかり五十名。突然消息を消したユメクイは〝霞陽〟の者五名と〝宵灯〟の者三名にございます。それらの行方、並びに人間界で〝贄の証〟に不自然な細工をされた者の炙り出しにつきましてはまた後程」
「うむ。それと、近頃急に成果を上げたユメクイの詳細も教えろ」
一人一人挙げていくのを聞き終えると、黙って頷いた。すると辺りに立ち込めていた霧が晴れ、視界が開けた。
「………やれやれ。五十人もいて己が努力で成果を上げたのが七人だけとは……」
どうも例の組織に組みしているのはその四十三人で間違いなさそうだ。行方不明者も、〝霞陽〟の者は誘いに乗らなかった口封じだろうが、〝宵灯〟の者は弱みを握って失敗したのだろう。
〝宵灯〟は『色恋』と『美食』からなる国だ。歓楽街で成り立ち、人々は飽くことなく酒池肉林の限りを尽くす。だから住人は己が快楽のためならば何だってする。
………しっかしありゃ妖術か忍術か……密偵じゃなくて正確には間者か……
「…けど、昼日中から霧を起こしたらかえって目立つだろうが」
忍んでいるのかいないのかいまいちはっきりしないまま隠し通路を潜った。