その三
「仙人のことなら調べなくてもよく知っているでしょう」
舜がいなくなるや重く閉ざした口を開いた桜夜を振り返り、呆れる。
「オイオイ。思ったことがあるなら会話に参加しろよ。あの年頃の男子は繊細だぜ?殊に異性のことに関しては」
「それで。わかったの?」
何についてかはっきりさせない質問をされると春星は笑顔を引っ込め、片目をすがめて腕組みをする。理解できなくて訝しんだのではない。質問の意味を理解し、そのことを憂えたからこその表情だ。
「ったく。ひでー顔してたな。そりゃ桑名の奴もこっちに寄越すわけだ」
桑名とは舜が相談した学校の保健医だ。
この店は近辺に情報提供者や協力者がいるし、学校の保健医やスクールカウンセラーにはこの店が扱う事柄の説明をし、住所も教えてある。
とはいえ皆が皆協力的なわけではなく、桑名もあまり春星を信用していない。しかし眠れぬ夜が続き、目元には濃い隈を作ってやつれた舜を見て尋常ではないと思ったのだろう。そして現実にはありえないと思いつつも対処できる人間として春星を紹介した。
いくら胡散臭くとも、この店にはその程度の信頼を勝ち得る実績はあった。ただ惜しむらくはそのほとんどは先代店主である春星の養父によるものだったが。
「あの坊やが普段見てたのは想夢だ。ってことは、ユメクイに食われたな」
「そうね」
古代中国では夢は十五種類に分類されると考えられていた。
その一つが想夢だ。想夢とは日頃考えた事が夢で現れる夢で、人間の精神活動の産物と思われる夢でもある。
生まれ育った環境から春星は中国の文化への造詣が深い。中国とは縁遠く育った桜夜も春星と共にいるうちに様々な事を学んでいた。
だが、ユメクイという言葉は二人のいる世界の常識で、幼子でも知っていることだ。
二人は夢を糧に存在する夢界の住人だ。
夢界は住人の見る夢の恩恵を皆で共有しているが、人間の夢も収集している。しかし住人と違って人間の夢を収集する時は夢の楽しさ面白さだけを奪う。
楽しさ面白さを奪われた夢の残りカスを人間は『悪夢』と呼ぶ。
本来人間界への出入りは厳しく管理され、行き来する者も限られている。その例外の一つが人の夢を収集するユメクイだ。
ユメクイに夢を奪われた者には〝贄の証〟が付けられる。これは人には見えないが、夢界の住人がその人間を見ると肩の所にぼんやりとした光を放ちながら花開く牡丹が見える。
桜夜には舜に付けられた証がはっきりと見えた。だが、それを春星には伝えない。
春星が理解していることならば視覚から得た情報は伝えないことにしていた。
春星には何人かしか知らない秘密がある。春星が隠し通すと決めたそれを知ってしまった桜夜は気づかぬふりをすることにした。
「…さっきあの子に渡したのは…」
「香包だ。中に入ってる香は獏が好む香だから大丈夫だろう」
香包とは香の入った中国のお守りで、春星は養父によく持たされていた。春星と親しくなると桜夜も養父特製の物を渡されていた。ちなみに日本語読みの香包は組香で利用される香木を包む畳紙のことを指す。
「…じゃあ、あれはもしかして獏の形を模していたの?」
何とも形容し難い形をしていた香包を思い出して桜夜は確認してみた。
「いや。蝙蝠」
蝙蝠は中国では幸運の印といわれている。また、福や長寿の印でもあり子供を守ってくれるともいう。
「…日本人なんだから燕でいいじゃない」
「柳が足りないぞ。柳に燕が吉祥の印だ」
そっとため息をつく桜夜に春星は得意そうにニヤリと笑う。
桜夜は教養が高く、その上春星に合わせてか伝承や言い伝えを独学で調べているものの、このように時折誤りや不足がある。とはいえ春星には桜夜の間違いをあげつらうつもりもないし、優位に立とうというくだらない虚栄心もない。ただ、幼い子供の時のように教え合いをできる機会が少なくなったので嬉しくなっただけだ。何しろ養父に教えられた色々な事を春星が得意になって言っていたら猛烈に勉強を始め、見る間に太刀打ちできなくなった。
「お姫様。お時間にございます」
どこからか現れた女性が頭を下げて伝えると、桜夜は眉をひそめる。
他人からしたら不機嫌そうに見えるが、これは桜夜が残念がっている時に見せる表情だ。
とはいえ桜夜は己の立場を弁えているので決して不服は言わない。
「さようなら、春星」
「ああ。また明日」
「ええ」
桜夜が女性を伴ってススキ野原に消えると春星は頭を掻く。
「さて、オレも帰りますか」
春星は懐から煙管を取り出す。刻み煙草を詰め、火を点けるとぷかりと煙を吐く。辺りに煙が充満した頃にさぁっと風が薙いで、倒れた背の高いススキの向こうに赤レンガで縁どられた薄暗いトンネルが姿を現した。
春星は空間把握・掌握と共に、場と場を繋ぐ事にも長けていた。
舜が訝しんだ通り、舜が通ってきた通路は店の中にあったものではない。本当は和・洋・中それぞれの矢印に従って進んだ入口の先はただの空き部屋だ。
舜がこの場所に来るまでの通路で感じていた甘ったるく、鼻につく匂いは、店内の一室と異空間に誂えた和の空間を繋ぐために焚き染めた香だ。香に依存しないためにあえて不快な香りを加えていた。
この術式は本来は香炉でするのだが、使い勝手が悪いので煙草に香を混ぜ、煙管で香を漂わせていた。
今春星が吸っている煙草に混ぜた〝夢の残り香〟と名付けた香は人間界から夢界への通り道を作り出す。
春星は出現したトンネルを潜って夢界に戻っていった。