3時間目 筋肉と会話する男
「ふん…ふっ……ふんぬ………」
四月十二日金曜日午後五時三十分。夕日を浴びて朱色に染まるマンションの最上階。その中の一室で、男の野太い声が響き渡る。
部屋の中で男は、全裸でポージングをしていた。
「ふん」
男が全身の筋肉に力を込め、ポーズを決める。すると競い合うように男の正面にいるもう一人の男が同じ動作で同じポーズを決めた。
「ふっ」
男が一旦脱力してポーズを解くと、正面にいる男も同じように脱力する。
「ふんぬ」
男が再び全身に力を込め、ゆっくりとした動作で先程とは違う部位の筋肉を強調するポーズを決める。目の前の男も同様のポーズを決める。
男はしばらくそのポーズのまま固まっていたが、やがて満足したのか、脱力し、詰めていた息を吐き出すと目の前の男に向かって賛辞を送った。
「完璧だ。ついに俺の肉体は完成を遂げた」
鏡に映る自分に話し掛けているこの男の名は浅間龍山。このマンションの住人である。
龍山はじぶんの肉体をじっくりと鑑賞しながら、ひたすら筋力トレーニングに明け暮れた停学期間である五日間と、停学に至るまでの経緯を思い返していた。
龍山は新学期が始まる前日、不良グループ『レッドデーモン』に山奥の採石場に呼び出され、そこで十対一の決闘を申し込まれた。多対一で決闘も何もないだろうと龍山は思ったがそんなことはおくびにも出さずに龍山派十人相手の決闘に臨んだ。十人程度なら楽に勝利する自信があったからだ。
そして、実際その通りになった。
龍山はこちらの挑発に乗って真っ先に突っ込んできた三人を一人一撃ずつで地面に叩き伏せた。そして、遅れて飛び出してきた四人目を腹部にひざ蹴りを喰らわせて戦闘不能にした。
「そう。これが間違いだったんだよ」
龍山は採石場での出来事を思い返しながら大きく首肯した。そして、そこから先の出来事を回想する。
四人目を倒した後龍山は、あざけるような笑みを浮かべながらゆっくりと残る六人の方に近づいて行った。十秒もしない内に半数近くが倒されたことに動揺を隠せない残りの六人を見て、龍山は勝利を確信した。
龍山は先に倒した四人をすでに意識から外していた。手ごたえは充分だったし、もう自分に向かってくることはないだろうと、今までの経験から判断したからだ。
龍山の判断は正しかった。最初に向かってきた三人はすでに意識を失っており、四人目もかろうじて意識はあるものの腹部への一撃で完全に戦意は失せていた。しかし、龍山は一つだけ間違いを犯した。気絶した三人だけならともかく戦意を失ったとはいえ未だ意識を保っている四人目を意識から外すべきではなかったのだ。
四人目の男は龍山が残りの六人を殲滅していくのをじっと見ていた。そして勝機無しと判断するやいなや、なんと警察に通報したのだ。
「た、助けてくれ。殺されちまう」
採石場のある山のふもとには交番がある。そして通報を受けた交番員はすぐさま現場に急行した。そして、通報を受けた交番員が現場に駆けつけ最初に見たのは、地面にはいつくばる十人の若い男と、そのうちの一人を足蹴に高笑いしている龍山の姿だった。
現場の状況に混乱した交番員はとりあえず一人無傷な龍山に事情聴取をした。そしてある程度の事情を理解すると、交番員は詳しい話を聞くために龍山に交番まで同行を求めた。しかし、龍山はそれを拒否した。今まで任意同行を断られたことのなかった交番員は驚きの声を上げた。
「な、何故だね?!」
「いやこれ任意同行ってやつだろ?だから断らしてもらう。俺ァ今からやることがあんだ。とゆーわけだから後のことはよろしく」
そう言うと龍山は、あっけにとられている交番員と殲滅した十人を残してそそくさと下山していった。
普段なら警察の任意同行に従うなどわけもないことだったが、その日は違った。次の日から始まる新学期、龍山にとっての勝負の日に向けてやらなければならないことがあったのだ。
山から下りてきた龍山は周辺地域一帯にある全ての神社をめぐり、あることを祈願した。そして、空が白み始め朝日が顔を出すまで神社巡りをした後、そのままの勢いで学校に乗りこみ、誰よりも早く昇降口に張り出されている二年時のクラス表を確認した。
およそほとんどの高等学校で実施されている年度毎のクラス替え。
そう。新学期とは今までの慣れ親しんだクラスメイトに別れを告げ、これから一年間、苦楽を共にする仲間が発表される日でもあるのだ。そして、このクラス替えというイベントはある種類の人間にとってはチャンスであり、同時に試練でもある。
それは恋をしている人間だ。彼らにとって新学期の初日というのは勝負の日となる。もし意中の相手と同じクラスになれなかった場合、それは意中の相手を遠くから眺め続けるだけの暗い一年間の始まりを意味する。しかし、もし意中の相手と同じクラスになることができたなら、他クラスにいるライバルと比べて仲良くなれる確率は格段に増す。
恋をしている人間にとってこのクラス替えこそが高校生活の天王山なのだ。だからこそ恋をしている人間はあらゆる手段を講じて、かの決戦に臨む。ある者は神社にて祈りをささげ、またある者は権力のある教師に根回しをする。
そして、龍山も思いつく限りの神仏に祈りをささげてこの決戦に臨んでいた。
願いは一つ。
あの娘と一緒のクラスになりたい。
龍山の願いは………
「ッシャアアアアアアアアアアアアア!!!!」
龍山の歓喜の雄叫びが校舎にぶつかり、人気のない校庭に跳ね返る。龍山の願いは叶ったのだ。龍山は喜びにうち震え、今日から始まる希望の一年間を夢想した。
その時、昇降口の中、廊下の奥の職員室から一人の男が姿を現し龍山の方に近づいてきた。
「あんたは………」
「また同じクラスだな。よろしく浅間」
それは森先生だった。森先生の言葉を聞いた龍山は、クラス表の担任教師の欄を確認し、ため息をついた。
「またあんたかよ」
「またとは何だおい。嫌なのか?ん?」
「おう」
「クソガキが。はっきり言いやがって」
「自分のクラスの生徒をクソガキ呼ばわりするような担任がいいなんてモノ好きはそうそういないぜ」
森先生は龍山の言葉を鼻であしらうと校舎の中を親指で指示した。
「ちょっと来い。お前に客だ」
「あん?どういうことだよ。客?意味わかんねぇぞ」
「ついてくりゃわかる」
そう言い残し校舎内に戻っていく森先生を、龍山はしぶしぶながら追いかけた。そして森先生の後を追って職員室に入ると、そこには昨日龍山に任意同行を求めた交番員の姿があった。
「こちら俵山ふもとの交番所属の交番員の右田さんだ。右田さんはな、昨日、我が校の生徒が暴力事件を起こしたと言ってここにいらした。それでな?現場にいた生徒に任意同行を求めたらなんと拒否されたらしい。それで今その任意同行を拒否したっていう不届き者を探しているんだが」
そこまで言うと森先生は龍山を指でさし、右田交番員に問いを投げかけた。
「右田さん。任意同行を拒否した奴ってのは、もしかしてこいつなんじゃありませんか?」
右田交番員は龍山の顔をくいいるように見つめた。そして、これ以上ないくらいに大きく頷いた。
龍山はこの日、警察の言う任意同行は『任意』という名の『強制』であることを知った。