11時間目 惨劇
リビングから出てすぐ左手にあるキッチンで、龍山はその場にへたり込むと長い息を吐き出した。
「ふぅ。まさかこんなことになるとは。十分前の俺にゃあ想像できねぇだろうな」
そう一人ごちた後、龍山は考えた。
今までの愛美ちゃんの俺に対する言動から察するに、間違いなく彼女の中での俺の好感度は上がっている。と、いうかさっきの旦那さん発言とか考えると愛美ちゃんはもう俺に惚れていると言っても過言ではない!!
先程のリビングでのやり取りを思い出し、龍山の顔は自然とにやけていった。しかし、
「………ハッ!いかんいかん」
と、龍山は幸せな思い出を打ち消すかのように頭を左右に振ると、すぐさま表情を引き締めた。
危ねぇ危ねぇ。あやうく油断する所だったぜ。そう、勝負はこれからだ!!
そう己を戒めると龍山は勢いよく立ちあがった。
普通の野郎ならこんな弩濤のジェットコースター展開についていけず、振り落とされて終いだろう。だが俺そんなザコ共とは違う。どんな事態にも対応できるよう春休み中に対策を練りに練った。もはや俺に死角はねぇ!!
龍山は行動を開始した。
まず、キッチンの上方に備え付けてある三分割された戸棚のうち、左の棚から銀色の鍋と赤茶色の細長い茶缶と温度計を取りだした。茶缶には金色のローマ字で「Dajeeling tea」と記されている。
取りだしたものを脇に置くと、次に真ん中の戸棚から陶器製のティーポット一つとティーーカップ2つを取り出し先に取りだしておいたものと一緒にまとめた。
そして、それらを取りだした後、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだすと、中身を先程取りだした鍋に入れ、流れるような動作で鍋を火にかけた。そして、
「紅茶の適温は九十五度、と」
そうつぶやくと龍山は水を張った鍋に温度計を差し込んだ。
その後、ティーポットに茶缶から取りだした紅茶葉を入れると、龍山はようやく一息ついた。
愛美ちゃんが来た時のために買っておいた高級紅茶葉とミネラルウォーター。まさかこんなに早く使う時が来るとはな。今回は余計なオマケも約一名いるが、まぁ勘弁してやろう。
龍山は不敵な笑みを浮かべながら、温度計が適温を示すのを静かに待った。
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「それにしても浅間の奴、なんで海パン一丁で出てきたんだ?」
龍山にオマケ扱いされているとは露知らず、鈴は疑問を口にした。鈴の疑問に愛美も腕を組んで考え始める。やがて何か思いついたように右の拳で左の手のひらを叩くと、真面目くさった口調でしゃべり始めた。
「もしかして………筋肉を見せつけてセールスマンを追い払おうとしたとか?」
愛美のいつになく真剣な様子に鈴も黙って耳を傾けていたが、最後まで聞くとこらえ切れずに吹き出した。
「ぷッはッは!いくらなんでもそりゃねぇだろ。どこの世界に筋肉でセールスマン追い払おうとするバカがいるんだよ」
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「暑いな……」
その頃、筋肉でセールスマンを追い払おうとしたバカは額に玉の汗を浮かべていた。湯が煮えるのが待ち切れず、ずっと温度計を覗き込んでいたからだ。そうやって鍋に覆いかぶさるような体勢をとり続けた結果、鍋から立ち上る湯気を上半身にもろに浴び、龍山は上半身だけサウナに入っているような状態になっていた。
このままだとリビングに戻った時汗臭い奴だと思われるかもしれん。
そう考えた龍山は、対策として汗をかいている上半身の服だけ脱ぐことにした。
脱いだ服をキッチンの隅に置き、上半身に噴き出した汗をキッチンの壁かけに掛けてあったタオルで拭き取り、龍山は再び温度計を覗き込んだ。温度計は目標の九十五度を示していた。
「おっと」
龍山は火を止めると、温度が下がらないうちにティーポットに湯を注ぐため、慌てた様子で鍋を持ち上げた。
その時、龍山が驚異的な速度で鍋を持ち上げたことの結果としてある一つの現象が起きた。
鍋の中の湯が慣性の法則に従って大きく波打ったのだ。発生した波は、鍋の中という狭い空間で暴れ回り『チャポン』という音と共に外の世界へと数滴の雫を解き放った。そしてその雫は地球という惑星が内包する重力に逆らいながら上昇し、龍山の胸に衝突した。
「熱っつ!」
龍山の上半身に針で刺されたような鋭い痛みが走った。そして予期せぬダメージに対して龍山の肉体はある反射行動を行った。手に持っていた鍋を離したのだ。
龍山の手から突如解き放たれた鍋は、次の瞬間地球の重力に捕まり、その高みから引きずりおろされた。そして、床に激突した鍋が得た衝撃はそのまま内容物である湯に伝わった。
鍋から伝わってきた衝撃を、湯は流動的な己の形状を変化させることで表現した。湯はその身を水柱に変化させたのだ。
床から立ち昇った水柱はさながら天に向かう竜の如くぐんぐんとその身を伸ばしていった。そして………
九十五度の水柱が龍山の股間を直撃した。




