結、あるいは回復する日常、または覚めて見る夢の話
ユーリ、と彼女の名を呼んだ。けれど、返ってくるはずの声はなかった。
彼女がくるくると動き回り、掃除をし、花を飾っていた白い家の中は、深玖里……クリードが戻ってくる前と少しも変わっていないのに、彼女がいないだけで酷くがらんとして見えた。
界を渡り、ユーリの居る界へと“戻って”来たクリードである。家に着き、インターフォンを鳴らしたのだが、いつもならすぐ返るはずのユーリの声がなかった。まだ日が高いから、買い物にでも出かけているのだろうかと思いながら扉に触れると、鍵はかかっておらず難なく開いてしまう。ユーリらしくない不用心な事だと眉をひそめた。
そのまま家の中に入り、まず確認したのは日付だった。時間の流れはほぼクリードの元居た世界と同じであるらしく、あちらで流れたのと同じくらいの時間が経っている。
つまりは、約1週間ほどが。ユーリには、ちょっと出かけてくるとだけ言い置いて出てきてしまった。
もちろんその時にも、すぐ戻れない事はわかっていたし、志津香と仁の助けがなければこんなに早く戻る事は出来なかっただろう。クリードとしては最大限早く戻ったつもりだが、何も知らないユーリはどう思っただろう。
自分の居ないこの数日、何を思っていただろうか。
何かは思ってくれただろうか……契約した関係とはいえ、そうであってくれたら嬉しいのにと思った。
クリードはリビングのソファに腰掛け、ユーリが帰ってくるのを待つことにした。
彼女が帰ってきたら何を言おうと考えながら。
けれど。
一時間経っても二時間経っても……そして日が暮れても。ユーリは帰って来なかった。
クリードは次第に不安になってきた。何処かで事故や事件に巻きこまれているんじゃないかと。それなら一応の連絡先であるこの家に連絡が来るはずだから、と飛び出していくのも躊躇われた。
警察に問い合わせる事も考えたのだが、すぐに打ち消した。クリードという名が偽名であるように、ユーリという名も本名でない可能性が高い。一緒に暮らしたにも関わらず、クリードが知っている彼女の事はあまりにも少なかった。
“ユーリ”という名前。レースやフリルのついた、可愛らしい格好が好きだということ。花や緑が好きで、散歩が好き。そして甘いものに目がないということ。好きな食べ物や、苦手な物、好きな本や音楽のこと。
家の中を綺麗に整え、楽しそうにくるくるとスカートを翻して小走りにかける姿はありありと思い起こせるのに。
“ユーリ”の本当の名前も、どこでどう育ってきたのかも。なぜこんな“契約”を提案したのかも。
クリードは何一つ知らなかった。
もしかしてもっと前から帰っていないのかもと考えて、家の中をあちこち見て回る。しかし、確かに今日までは居た気配があちこちに残っていた事で、少し安心した。
リビングや寝室には、今日生けられたばかりと思われる花があったし、埃も積もっていない。
キッチンには昼作ったと思われる料理が鍋に入ったままだった。冷蔵庫にはきちんと中身が入っている。
彼女は一体どこへ行ってしまったのだろう。クリードは途方にくれて立ち尽くした。
そして。眠れないまま迎えた夜明け。窓の外では鳥が甲高くさえずっている。
電話はならず、彼女も帰っては来ない。
「探しに行かないと……」
クリードはソファから立ち上がった。探すあてなどなかった。
それでも、もうただ待つだけは耐えられそうにない。
まず、よく散歩をしていた公園に行ってみる。空は良く晴れ、気持ちのいい風が吹いていたが、それを感じる余裕は今のクリードにはなかった。早朝の公園には、ジョギングやウォーキングを楽しむ人がちらほら居たが、その中にユーリの姿はない。公園の奥の花園や海のそばのベンチにも居なかった。
広い公園の中をぐるりと回ってみてから、次にクリードは、ユーリがよく行くパン屋に行ってみる事にした。
パン屋はいつもどおり開いていて、早朝でも店内には人影が見える。どうかユーリがその中に居ますようにと願いながら、ドアを押しあける。
「あれ、いらっしゃい。今日は早いんだね」
にこにこと笑顔で店主が挨拶をしてくれるのを、クリードは半ば聞き流していた。さして広くない店内に、ユーリが居ない事はすぐにわかった。焼きたてのパンの匂いが満ちる店内。いつもなら食欲をそそるはずの匂いを、その時のクリードはちっとも感じなかった。
「どうかした? 」
店主が眉をひそめて尋ねたのに、クリードは急きこむように尋ねた。
「ユーリはこっちに来てなかったかい? 」
「奥さん? いいや来てないよ? ああ、おととい来てくれたんだけど、何か元気なかった気がするなあ。何、けんかでもしたの」
「そうじゃないけど……ごめん、邪魔したね」
「ああ、ちょっと待って」
店主は手早く焼きたてのパンをいくつか紙袋に放り込み、クリードに手渡した。
「え、これって」
目を丸くするクリードに、店主は片目をつむってみせる。
「お得意さんへのサービスだと思ってよ。奥さんと二人で食べて。でもその前に、旦那さんもちゃんと食べるんだよ。まったくマトモにご飯食べてないような顔してるんだから」
そんなんじゃ、奥さん心配するよと店主は言い、クリードは礼もそこそこに店を後にした。
次に向かったのは、ユーリのお気に入りの喫茶店だ。モーニングもやっている店だから、もう店は営業していた。ドアを開けると、涼やかにドアベルが鳴る。客はまだ入っておらず、カウンターの向こうからおやという顔をしてマダム・ルゥがこちらを見た。
「おや、こんな時間に来るのは珍しいねえ。どうしたんだい? 」
カウンターの奥からマダム・ルゥは店内へと出てくる。クリードは口ごもりながらも答えた。
「いえ……ユーリがこちらに来ていないかと思ったんですが……来てないようですね、お邪魔しました」
すぐさま店の外へ出ようとしたクリードを、マダム・ルゥが引き留めた。
「お待ちよ。そんな酷い顔して出ていくんじゃあ、ないよ。何があったか知らないが、少しくらいなら時間はあるだろう? 」
クリードを手近な椅子に座らせると、マダム・ルゥはカウンターの方へ行く。そして漂ってくるコーヒーの香り。しばらくして、湯気のたつカフェオレボオルがクリードの目の前に置かれた。
「まあこれでもお飲み。いつものあんたの好みじゃあないだろうがね」
促されるままに口をつける。ミルクのたっぷり入ったカフェオレは、ほんのり甘くて。飲んでいるうちに、クリードはこちらに戻ってから、何も口にしていなかったことを思い出した。
どうりで酷い顔をしているだのと言われる筈だ。温かさと甘さがじんわり沁みいるようで。
マダム・ルゥは眉をひそめ、心配顔で尋ねてくる。
「奥さんがどうかしたのかい? 喧嘩でもしたのかい。いつ見ても仲よさそうにしてたくせにねえ。ああでも……」
ふっと何かを思い出したように、マダム・ルゥは細い指で頤を撫でた。
「昨日うちに来た時には、何やら元気がなかったねえ」
「そうですか。昨日はこちらへ来ていたんですね」
おととい、昨日までは、まわりの人に元気がないなどと思われながらも、ユーリは普通に暮らしていたらしい。
では、昨日ここへ来た後、ユーリに何があったのだろう。
「元気がなかったせいだろうかねえ。何だかいつもより雰囲気も違って見えたねえ」
マダム・ルゥは思い出すようにして言った。
クリードはそうですか、とため息をつくように答えた。彼女のことはわからないままだ。
一度あの家に帰った方がいいだろうと思った。彼女が居なければ家でなくただの入れ物のようになってしまっていても。
カフェオレを飲みほして立ち上がる。温かいものを腹に入れたおかげで、少し気分が和らいだ気がした。
「ごちそうさまでした。ええと……」
お代は、と言いかけたクリードを、マダム・ルゥは手を上げて制する。
「今度は二人で店に来ておくれ。そんな辛気臭い顔じゃなくて、もっといい顔でおいでよね」
それでお釣りがくるさと彼女はにやりと笑った。
家の方へ帰る頃には、丁度出勤していく人たちとすれ違った。ここで暮らしていた“いつも”ならば、クリードもスーツを着て会社へ向かっていた。
いつもなら、ユーリが見送ってくれていた玄関先に立ち、インターフォンを鳴らす。返答はない。ドアに鍵はかかっていなかった。慌てて出てきたクリードは鍵をかけ忘れてしまっていた。
「……ユーリ? 」
そっと呼んでみても、返ってくるのは静けさばかり。これ以上何処を探せば彼女は見つかるのか、クリードにはわからなかった。
取りあえず、服を着替えて顔を洗って、パン屋で貰ったパンを食べて……それからもう一度頭を整理しようと、疲れて重い体を引きずるようにしてクリードは家の中に入ろうとした。
その背中に、快活な声がかけられる。
「あら、おはようございます。今日もいい天気ですよ。ほんとにお散歩びよりで」
「ミセス・ガーフィールド……おはようございます。今日も公園までお散歩ですか? 」
日差しよけのサンバイザーや、首に掛けられたスポーツタオルを見て、クリードは尋ねた。
「ええそう。あら……今日はお仕事お休みなの? 」
「ええまあちょっと……それが? 」
ミセス・ガーフィールドは首を傾げた。
「いえね、ユーリを公園の方で見かけたものですからね。あなたがお仕事なら、この時間公園に行くはずはないし……でも、あなたはここに居るしねえ」
「ユーリが公園に居たんですか?どのへんに? 」
急きこむように尋ねたクリードに、ミセス・ガーフィールドが目を丸くする。
「え?ええと、公園を抜けたら高台へと続く道があるでしょう?その路の辺りで見かけたわよ」
ありがとうございます、とクリードは礼もそこそこに駈け出した。背後でミセス・ガーフィールドが、ちょっと鍵開けっ放しでどうするのと叫んでいたが、振り返る余裕などなかった。
本日二度目の公園である。ここまでの道のりで、クリードはユーリに会わなかった。彼女が帰る道を変えていたり、公園からどこか他の場所へ行ったというのでなければ……彼女はまだここにいる筈だった。
公園を通り抜け、高台へと続く道のふもとについたころには、息が上がってしまっていた。日が高くなり、気温も上がっている。流れ出る汗を手のひらで拭うと、坂の上を見上げた。
公園から続く高台……そこは木立を切り開いて作った墓地になっていた。マデイラの墓地、と土地の者は呼んでいる。 海の方から見ると白い石がたくさん立ち並んでいるせいか、白い鳥がとまっているように見えるという。
ユーリは何故、そんな所に行く必要があったのだろう。
わからないけれど……今度ユーリに会えば、それもわかるのだろうか。クリードは息を整えて、坂道を登りはじめた。
鳥がさえずる声、木立を吹き抜ける風の音。遠くで聞こえる汽笛。
緑に囲まれた人気のない墓地の……まだ新しい墓石の前で佇む人影を見つけた。風に紅茶色の髪の毛が揺れる。
白いちいさな横顔が見えた。間違いなくユーリだった。すぐに駆け寄ろうとして、クリードは躊躇った。
横顔に、ぴんと張った糸のような緊張感を見て取ったからかもしれない。そして、何より。
今まで見た事のない服装を彼女がしていたからかもしれない。
いつも可愛らしい格好を好んでしていたユーリだったが、今の彼女は白いシャツに洗いざらしのジーンズという格好で。髪もリボンで飾るわけでもなく、無造作に括っていた。クリードは墓地を取り囲む木立の中を通り、そっとユーリの方へ近づく。丁度大きな木があったので、そこに身を潜め、彼女の様子を窺った。
俯きがちに、ユーリは呟いた。
「……俺、もうどうしたらいいのか、わかんないよ。これが自分の望んだことのはずなのにさ。続けるほど苦しくなっちゃって……“契約”とかって言って、ひと一人縛るのって端から無理だよね。あの人いなくなってさ、ちょっとほっとしたんだけど、でも……何だか変な気分なんだ」
契約も途中だったけどさ、あの人全然謝礼も受け取って行ってないし。こんな酔狂な事に付き合うどんなメリットあったんだろうなあ。
唇の端だけ引き上げるように、ユーリは仄かに笑う。いつもクリードに見せていたような、ふんわりとした柔らかな笑みではなく。
どこか寂しそうな、笑み。
「俺はそれでも、結構楽しかったかな。苦しいけど楽しかった、な。あ~あ、これからどこに行こうかなあ」
振り切るように殊更明るい声を出したユーリ。クリードはもう黙っている事は出来なかった。
「ユーリ、どういう事だか説明してくれるか? 」
思ってもみなかった声に、ユーリの肩が震えた。おそるおそる背後を振り返り、近づいてくるクリードを認めた瞬間、ユーリは身を翻し駈け出そうとした、が。
その腕をクリードが捕まえる。
「戻ってきたんだ……」
茫然と呟くユーリに、クリードは苦い顔をして答える。
「ちょっと出てくると言ったろう。確かに時間がかなりかかってしまったんだが……何で戻らないと思ったんだ」
ユーリは視線を伏せたまま答えない。クリードはため息をついて、質問を変えた。
「それなら質問を変えよう。これは誰のお墓なんだ? 」
まだ新しく見える墓に、刻まれた名は男性のもの。生没年から想像するに……。
ユーリは諦めたようにため息を一つついた。
「俺の父親の墓だよ。この土地とは縁もゆかりもない筈なんだけど、ね。本人がここに墓地を買って、墓石まで手配してたよ。失踪する前にね」
え、と驚いた声を上げたクリードに、ユーリは皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「そう、俺の父親失踪したの。で、七年経ったから失踪宣告して、法律的には死んだって事になった。普通なら生体反応登録されてるから、そんなことにならないんだけどさ。何しろ俺たちの住んでた所っていわゆる陸の孤島でさ。周りを囲む山のせいで反応がうまく拾えないんだって。だから例外扱いされたらしい。その手配すらどうやってか自分でしてたみたいでさ。俺には法律的に死亡したという通知と、ここに墓石が建てられたって知らせが届いた」
「それは、また……」
クリードは言葉を失ってしまう。ユーリの話し言葉がまるで男の子みたいなのにも驚いたが、彼女の話す内容にも驚いた。自らの法律的な死を選んだというユーリの父親。それは尋常な行動ではない。
彼女の父親という人物は、二度と帰らない事を決めて出て行ったのではないか。死んだ者として扱ってくれと言う彼女の父親は、一体どんな人物だったのだろう。
「まあ、俺の父親は、変わり者ぞろいの研究者の中でも、群を抜いた変わり者だったらしいけどね。いい機会だから、あんたに聞いてもらおうかな。俺も誰かに話したい気がするし」
ふっと視線を上げて、ユーリはクリードを見上げた。茶色がかった緑の目は、日差しを受けて透き通った色に見えた。クリードはもちろん、と頷く。
「じゃあ、ちょっと長い話になるけど、聞いてくれるかな」
俺がもの心ついた頃には、母親って人はもういなかったから。
自分の育てられ方が普通とは違うってことに気がつかなかった。
何か変だなって思い始めたのは、学校に行く年になっても、父親が一向に学校へ行かせてくれなかったから。
何度頼んでも駄目だった。勉強なら見てやれるし、通信教育があるって、その一点張りでさ。
あげく、人があまり住んでないような、辺鄙な場所に引っ越しまでしたよ。
流石に父親も悪いとか思ったのかな。人をひとり雇って連れて行った。俺の世話係兼遊び相手兼、自分の助手みたいな感じだったな。辺鄙な所に越したせいで、色んな手間が増えたみたいでさ。自業自得だけど。
実際に学校に通うのが無理な場所だったから、学校は諦めた。
次に変だなって思ったのはさ。俺、ほんとはこっちの言葉づかいや格好が地なんだよ。あんたと暮らしていた時のあれは、作ってた。なんでかっていうとさ。父親が俺に男の子の服を着せて、男の子みたいなしゃべり方をさせてたんだよ。
俺は自分を男だと思った事はない。そして父親の育て方が普通じゃないってことも知っていた。
だから。父親に何度も頼んだよ。普通に学校に行きたい、普通に女の子の格好がしたいって。でもさ。
ある日父親はいなくなった。何にも言わずにさ。酷いよねえ、ちょっと出かけてくるからって、それだけ言って、いつものように家を出てった。ああそうだね、あんたが、ちょっと行ってくるから、って言ったみたいな感じでね。
ちょっとのはずが一年経ち、二年経って。それでも俺は家で父親を待ってたよ。もう学校に通う年じゃなくなってたし、通信教育で大学に行く資格も取っていたけど、家を出る気になれなかった。
おかしなもんだね。父親が居た頃は、あんなに普通の生活をしたいと思ってたのにね。
多分父親はあらかじめ計画して、家を出て行ったんだろうね。俺が生活していけるだけのお金は準備されていたし、未成年のうちは後見人だって知らない間に立てられてた。金銭的にも法律的にも、何一つ困る事はなかった。
後見人は余計な事は何も言わなかったから、俺は未だに父親がなんでこんな事をしたのか知らないままだ。
俺はただぼんやりと家で過ごしてた。でもさ。父親が法的に死んだって通知が来て。墓がこの街に建てられたって知らせがきた。おまけに、俺までこの街に引っ越すようにって言う指示つきでさ。何の冗談かと思って来てみたら、あの白い家が俺の新しい家だって言うし。
それにさ。俺の名前、本当はユーリじゃないんだ。ユークリッドが本当の名前。男の名前だよ。ほんと俺の父親って何考えてたんだか。
でもこの街に来て、書類やなんか見たら、いつの間にか名前が“ユーリ”になってた。
俺の名前呼ぶ人って父親くらいしかいなかったし、あの人は俺を“ユークリッド”って呼んだ。ユーリって呼ばれるの、この街に来てからだから、初めは変な気分だったな。
あんたの名前聞いた時、俺ちょっと驚いたんだよ。俺の元の名前に似ているなあって。
ところでさ、よくここがわかったね。ミセス・ガーフィールドに聞いたって? ああそう。あの人ね、父さんの先生だった人なんだよ。俺は会ったことなかったけど、昔写真で見たよ。確かガーフィールドって名前じゃあなかったよ。父さんに頼まれて、あそこに住んでたんじゃないかって思うんだ。多分、俺が困らないようにとか余計な気を回したんじゃないの? ほんとのとこはわかんないけど。
父さんは居なくなる前に、写真とか記録とか……家族以外の個人的なものは全部処分しちゃってたから、俺が確かめる方法ってないんだけど。父さんは俺に全部内緒にしたままで、全部自分の思い通りに手配した。
いつだってそうだ。隠し事をするなら、もっと上手く隠してほしかったな。手掛かりなんか一つも残さずに。
そうしたら、そうと知っていても……騙されてあげたのに。
そしてユーリは長いため息をこぼすと、遠い目をして笑った。
「ずっと女の子に戻りたかった。綺麗な服を着てみたかった。でも駄目だね。いつまでたっても、借り着してるみたいで落ち着かないんだ」
クリードはそっと尋ねてみる。
「デートの真似事したり、新婚夫婦の真似事してみたり、っていうのも、ひょっとして……」
そう、とユーリは肩を竦めた。
「自分でしてみたいって望んでいたんだけどね。どうにも違和感が消えなかったよ。可愛い服着て、可愛らしい言葉づかいでさ。鏡見てると自分でも可笑しくて、途端に夢から覚めた気分になってた」
「ひょっとして……初めて会った時、どうも言葉づかいが可笑しかったのって、単に女の子の話し方に慣れてなかったせいなのか? 」
「よく覚えてるね。そうだよ。女の子のしゃべり方したのって、この街来てからだしね。そう言えば、あんたとはこの公園で会ったよね。あの時……もう自棄になっててさ。誰でもいいから、俺の望むことにつきあってもらう気でいたんだ。そうしたら、あんたが居た」
異なる界から逃げてきたクリードと、今までの自分から逃れたいユーリが、あの場所で出会った。
それはなんという偶然だったのだろう。
「変な事につきあわせて、悪かったな。契約終了にはちょっと早いけど、もう終わりにしようか。約束通りのものは払うから……これで、本当にさよならだね」
ちゃんとさよならが言えてよかったよとユーリは言う。けれど、クリードは。
「もしも。もしも君が望むなら、契約の無制限延長につきあうよ? 」
「え、ちょっと何言ってるんだあんたは。謝礼欲しいからあんたは俺につきあってくれたんじゃないの?無制限だなんて言ったら、それって……」
「居場所は欲しかったけど、謝礼が欲しいから君と居たわけじゃないよ。俺はこれからも、この生活が続くものだって、心のどこかで勝手に思ってた。これは契約だからって言い聞かせてた。でも、きみがこの生活を借り物じゃないって思える日まで、そばにいたいし、傍に居てほしいんだ」
クリードはじっとユーリの言葉を待った。彼女は目を見開いてクリードを見上げている。どれほどの時間が経ったのだろう、やがてユーリは小さくため息をつき、仕方ないなあって感じで笑った。
「物好きだなあ……いいよ、好きにしろよ。お前が飽きる日まで、傍に居たらいい」
クリードは腕を回し、彼女の体を抱きしめる。それが、握手以外で・・・初めて意志を持って触れあった瞬間だった。ユーリは驚いたような声をあげ、じたばたともがいたものの、やがて大人しく腕の中におさまった。つん、と頼りない力でシャツの裾を掴まれる。胸に顔を伏せた彼女の耳は、真っ赤に染まっていて、クリードはますます強く彼女を抱きしめたのだった。