承、あるいは装われた日常。
「きれいな夕日ですね」
真っ赤な夕日と、まっ白いパラソル。白い花が咲いたように、くるりくるりと回るそれ。
「どこにも行くところがないのなら、わたしと一緒に来てくれませんか?」
白いワンピースが風に揺れていた。
鼻歌を歌いながら、ユーリはキッチンで何かを作っている。ふわふわの髪を結ぶレースのリボンが、踊るように揺れるのを、クリードはリビングで新聞を読みながらぼんやり眺めていた。
よく晴れた休日。朝食後クリードはリビングのソファに腰掛け、新聞を読んでいた。仕事に行かない時は、髪の毛は梳かすだけで、長めの髪が額に落ちかかるにまかせていた。襟足につくほど伸びた髪の毛が些かうっとうしいが、切りにいくのも面倒でそのままにしている。眼鏡も仕事の時はフレームのついたものをかけているが、休みの日は縁のないカジュアルなものに変えている。
「ねえ、今日はとてもいい天気だし、公園にお散歩に行きましょうよ。で、お弁当を食べて帰るの」
ピクニックみたいでいいでしょう? とユーリがキッチンから声をかけてくる。
「というか、行くつもりで“お弁当”とやらを作っていたんじゃないか? 」
朝食後から、ずっと何やらアレコレ作っていたではないか。
「あら、ばれてた? その通りです~」
ユーリはキッチンからリビングへとやってきて、悪びれずに笑う。そうして小首を可愛らしく傾げてみせた。
「ねえ、いいでしょう? 」
「はいはい、仰せのままに。公園っていうと、ミスタ・ガーフィールドがこの前話してたバラか? 」
バラがそろそろ見ごろだよと彼が話してくれてから、しばらく経つ。いい天気が続いたことでもあるし、きっと蕾も開いた頃だろう。
新聞を畳みながら尋ねると、ユーリは唇に指をあて、何か考える仕草をした。
「ええ・・・そうね、バラも見たいんだけど。他にも色々ね」
「おや、お二人でお出かけかね」
外に出ると、丁度庭いじりをしていたミスタ・ガーフィールドが声をかけてきた。
「はい、公園までお散歩に行くんです。で、ついでにピクニック気分も味わおうと思って」
「そりゃあいい。いい天気だし、そとも気持ちがいいだろう。気をつけて行っておいで」
ミスタ・ガーフィールドはひらひらと手を振って見送ってくれた。
公園までの道を、クリードとユーリは急ぐでもなくのんびりと歩く。日差しがかなり強くなり始める時期なので、ユーリはつばの広いモスグリーンの帽子をかぶっている。袖口と裾に色糸で刺繍の入った、生成りのブラウスとふんわりと広がったスカートに、えんじ色のニットベストを羽織っていた。
どこからみても、ふんわりした雰囲気のお嬢さんである。
それに対し、クリードは洗いざらしのストライプの入ったシャツに、デニム地のパンツという格好である。
さて、何が入っているのか、ずしりと籐で編まれたバスケットは重い。それを片手にクリードはユーリと公園の中をそぞろ歩いた。この公園はとても広く、天気がいいこともあってか他にも散歩をしている人が大勢いた。
見上げるような大きな木がたくさん植えられていて、緑の葉は降り注ぐ日差しを遮ってくれる。芝生の上で日光浴をしている人もいた。思い思いに憩う人々を横目に、二人はゆっくりと公園の奥へと歩く。
くだんのバラは公園の奥まったところに、ひっそりと植えられている。
まるで秘密の花園みたいで素敵なのよと、初めてその存在を知った時、ユーリは目を輝かせていたものだった。
ミスタ・ガーフィールドが言った通り、そこにはバラが咲き誇っていた。
白や黄、可愛らしいピンクや、鮮烈な赤。
様々な色のバラが、今を盛りと咲いていたのだ。
両手を頬にあて、ユーリはうっとりと呟いた。
「素敵ねえ……とっても綺麗だわ」
「確かに見事だな」
クリードも感嘆の声をあげる。ミスタ・ガーフィールドが薦めるだけあるなと。たいして花などに興味がない自分さえ美しいと思うのだから。
そうしてバラをひとしきり堪能した後、ゆっくり公園を散策し、二人は公園の、海が見える場所へと出てきた。この公園はとても広く、一部は海に面している。海側には大人の胸ほどの高さの柵が設けられていた。そのあたりはちょっとした広場になっており、休憩できるようにベンチが置かれていた。
「あそこでもいいけど、ちょっと眩しいからここでお昼にしましょうか」
ユーリは木陰にあるベンチをさす。そこからでも十分海は見えるし、なにより木々が日差しを遮ってくれるので過ごしやすい。流石に昼を回る頃になり、おまけに歩いていたせいで汗ばんできた。クリードは手のひらで額の汗を拭った。ユーリも帽子を脱いで手に持ち、ぱたぱたと顔をあおいでいる。
「そうだな。それにしても重かったな、一体どれだけ作ったんだい」
クリードはバスケットをベンチに下ろし、その横に座った。ユーリは楽しそうに笑いながら、バスケットの蓋をあける。そうして取り出されたのは……。
摘みやすいように小さめに作られたサンドイッチ、おにぎり、唐揚げやウインナー。そういったものが、ランチボックスの中にぎっしり詰め込まれていた。
「デザートにはパウンドケーキもあるのよ」
うきうきとベンチの上にランチボックスを包んでいた布を広げる。ユーリは紙皿におかずやおにぎり、サンドイッチを取りわけると、それをクリードに差し出した。
「はいどうぞ」
「ああ、ありがとう」
ユーリは自分の分もとりわけ、バスケットの中から水筒とプラスチックコップを取り出す。水筒の中身は冷えたコーヒーのようだった。
これだけのものが入っていたのだから、そりゃ重いはずだとクリードはこっそりため息をつく。
「じゃ、食べましょう。お腹すいちゃったわ」
いただきます、と言って、ユーリは早速食べ始めた。クリードもサンドイッチを口に運びながら、本当にわからない、何を考えているんだかと思う。
ユーリはとても楽しそうな顔で、美味しそうにおにぎりを頬張っている。
いまの彼女を見ていても……あんな、突拍子もない提案をしてくるような人間には見えなかった。
そうだ、おなじこの場所だったな、とクリードは思い出す。
夕日の色に、空も海も染まっていた。すべてが赤く縁取られていた中で、彼女がたわむれれに回すパラソルと、風に吹かれるワンピースだけが白かった。
この場所で、自分と彼女は出会ったのだった。
どこをどう歩いて、あるいはさ迷ってこの場所に出たのか、自分でも覚えてはいなかった。ただとても疲れきっていて、何かを考える事がひどく苦痛だった。海の見える公園のベンチにぼんやりと腰かけたまま、立ち上がる気力さえ薄れていた。
夏の終わりの日差しはまだ厳しい。光の色が、どんどん赤みを帯びていくのを感じていたが、同じ場所から動けなかった。膝に肘をつき、腕組みをした姿勢で視線を海の方に投げていた。
何を見ているわけでも、考えているわけでもなかった。このままここにいても仕方ない事だけはわかっていたが、どこに行けばいいのか何をしたらいいのかが……わからなくて。
それに気づいたのは何故、なんだろう。
ふと……視界の中を白いものがよぎった。ぼんやりとした視界に明瞭に映り込んだのは、ふんわりとした白いパラソル。そして白いワンピースを身にまとった女性の後ろ姿だった。彼女は海際の柵の傍に立っている。
時折、くるりくるりとパラソルを回し、彼女は飽きることなく海を見ていた。
日差しが傾き、海も空も、夕日の色に染まるまで。
自分は……ずっと彼女の後姿と、白いパラソルを見ていた。
長い間ひとり佇む彼女の、何が気になったのか、あの後いくら考えても答えは見つからなかった。
ただ、自分が彼女から目を離せなかったのは事実で。
夕日が沈む間際、彼女がくるりと振り向いた時、疲れきって動かなかった心のどこかが跳ねた。小作りの顔を縁取るのは、夕日に染まって色を濃くした紅茶色の髪。瞳は光を受けて濃い緑に見えた。
ただ……思っていたよりも幼い面立ちに驚いた。
自分がずっと見つめていたことに気付いていたのか、彼女はにっこりと笑った。
「こんにちは。もうそろそろこんばんは、になるよ……なりますね。ずっと海を見てらしたようですけど、お好きなんですか? 」
たぶん、何も答えずに立ち去るべきだったろう。自分は誰かと関わるべきでないことは重々承知していたのだから。けれど何故か答えてしまっていた。
「……海は、別に好きでも嫌いでもない。きみこそ、長い間海を見ていたじゃないか」
しばらく声を出していなかったせいで、喉に絡んだ掠れ声になったが、さあ、と彼女は小首を傾げて微笑む。
「わたし、は、海が好きかどうかもわからないので。ただ、見てみたかったんです」
果てのない水のひろがりというものを。
どこかたどたどしさを感じる声が、意味のよくわからない言葉を紡ぐ。ただ彼女の瞳には冷静な色しかなくて、逆にそれが自分を混乱させた。
「……なんにせよ、もう帰った方がいい。じきに日が暮れる」
「……あなた、は?帰らないんですか? 」
くるり、とパラソルを手の中で回し、彼女が尋ねた。
「……もう少ししたら帰るさ」
言いながら、さてどこへ“帰ろう”かと思う。
元居た場所には戻らないつもりで出てきたのだ。戻ったが最後、自分の望まぬ事態になる事は明らであるから。さりとて、行き先にあてがあるわけでは、ない。咄嗟にここへ逃げ込んだはいいが……もしかしたら足取りを追われているかもしれなかった。
完璧に痕跡を消したつもりではあるけれど。追ってくる可能性のある……そして自分を追える可能性のある人間を頭に思い浮かべ、気分が落ち込んでくる。やすやすと他家のお家事情に駆り出される奴ではないだろうが、それでも“仕事”の一環として命じられればのらりくらりとかわすのも難しいだろうから。
彼女は何度か瞬きをしたあと……ゆっくりとこちらに近づいてきた。そして自分のすぐそばに立ち止まる。
そしてこちらの顔を覗きこむと、さも楽しそうなことを見つけた、というような表情になった。
「もし、あなたがどこにも行くところがないんだったら……わたしと一緒に来てくれませんか? 」
唐突な彼女の言葉に、咄嗟に返事が出来なかった。
「わたし、と一緒にしばらく暮らしてほしい、けど……駄目? 」
その言葉を理解してようやく頭が回転を始める。駄目、とかじゃなくて。そういう問題じゃなくて。
「何を莫迦なことを言ってるんだ、初対面の他人にそんなことを言って。危ない目にあったらどうする気だ」
叱りつけるには疲れきっていた自分は、力ない声で窘めるけれど。
「ええと、あなた、に危害を加える気はないんだけど? 」
そうじゃなくて……と頭を抱えた。どうにも噛みあわない会話にため息をつく。何だかヘンなのと関わり合いになってしまったらしい。あのね、と彼女はぽつりと言った。
「……誰かと一緒に暮らすっていうのを、やってみたいだけ、なのよ。どうしても駄目? 」
それなら、他の誰かを探すと言いだしそうな彼女に、再び深いため息をついた。関わり合いになるべきではないと警告する光が脳裏で点滅していたけれど。それでも……何故か放っておくことは出来なかった。
「わかったよ、きみの望むとおりに」
彼女は目をみひらき、嬉しそうに笑った。白いパラソルをくるりくるりと回し、それじゃあしばらくよろしくね、と手を差し出してきた。自分よりも小さく白い手を軽く握り返し……その時から、奇妙な同居生活が始まったのだ。
彼女が自分を連れて行ったのは、真新しい白い箱のような家だった。人の気配はなく、それどころか誰かが生活していた空気もなかった。家ではなく、これはまるで、ただのがらんとしたイレモノ。
彼女は言った。
“これは契約です。ここで暮らす間の衣食住は保障します。契約の終了時にはお礼もします”
“ちなみに……お礼ってどれくらい? ”
全くの興味本位で尋ねてみて、その額に驚いた。
慎ましく暮らせば数年は働かなくても食べてゆけるほどのものだ。
そして彼女から契約の内容を詳しく聞いてさらに驚いた。
彼女が提示する“報酬”に比べ、こちらが差し出すものがあまりに……言ってみればたやすくて、釣り合わない気がしたのだ。
“きみの望むようにここで暮らして、きみの望むところにつきあって……それだけでその報酬? ここまでのこのこついてきた俺が言う台詞じゃないが、きみは正気かい? ”
“この上もなく正気ですとも。もしあなたが、やっぱりやめるって言うのでしたら……”
“そうは言ってないけど……”
結局自分は、彼女の差し出した“契約”の条件を呑んだ。謝礼が軽くて文句を言うならともかく、多すぎて文句をつけるのもヘンな話ではあったが、どうにも彼女は不用心すぎるように見えたのだ。
こんな奇妙な“契約”を持ち出す時点で、十分に変であり不用心であるのだが。
なんにせよ。
どこにも行くあてがなかった自分にとっては、渡りに船では、あった。ひっそりと静かに暮らしている分には、早々誰にも気づかれまいと思ったのだ。
“ところで、わたし、はあなたを何と呼べばいいの? ”
口を開きかけて、閉じる。もとの名前は、ここでは奇妙に響くだろうから。逆に彼女に尋ねた。
“それなら、俺はきみをどう呼べばいい? ”
“わたしのことなら、ユーリと呼んでください。それで……あなたは? ”
“そうだな……では、クリード、と”
そうして。
自分は“クリード”と言う名の彼女の夫として、振舞っている。実のところ、始めから、“夫として”振舞うことを彼女から望まれたわけでは、ない。
おはようからおやすみまで、まるで家族のように暮らしているうち、隣人との付き合いもあり、街には知人が増え。
真新しいがらんどうの箱のような建物が、次第に色づき“家”へと変化していく中で、いつの間にか自分の立ち位置は、“彼女の夫”と言うことになっていたらしい。
特段、夫婦であると名乗ったわけではないが、そう受け取られても否定しなかったせいだろう。
二人連れだって歩いていると、時々は“兄妹”と受け取られたが、大抵は“夫婦”として受け取られた。
はじめはどんなことになるかと思っていた彼女との生活は、意外に楽しくて。
けれど、ともに暮らしていても……自分は彼女に触れたことはない。ほんの事故のように手が触れあうことはあるが、意志を持って触れたのは、一番初めに会ったあの日……差し出された手を握ったあの時だけだった。
季節はあの日から三つが過ぎた。そしてもうすぐ、四つ目の季節がやってくる。それが過ぎる頃が……契約の終わる時だった。
あと少し、と思っているのか、あと少ししかないと思っているのか、クリードは自分でもわからなかった。
「ふう、たくさん食べちゃった。おなかいっぱい。あなた、コーヒーのおかわりはどう? 」
「……ああ、いただくよ」
ユーリは水筒からコーヒーを注いでくれる。彼女は“契約”が始まった時から、親しい“家族のような”態度を貫いている。まるで今までずっと家族として暮らしていたように振舞っている。それはクリードが驚くほど完ぺきだった。
クリードは時々素が出てしまうのだけど。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
食後のコーヒーを飲んだところで、ユーリが片づけをしながら言った。頷いて、クリードも片づけを手伝う。
ユーリは帽子をかぶり直すと、海際の柵まで歩いていって、海を眺めていた。
あの日のように。
ふいに風が強く吹き、ユーリのスカートと帽子を揺らした。風に揺れる花のようだ……と思った瞬間には、クリードは彼女に声をかけていた。手を伸ばしかけて……躊躇う。
「そろそろ家に帰ろう。さすがに日差しがこたえたよ」
ユーリは振り向き、茶色がかった緑の目でクリードを見上げで、笑った。
「あらまあ。運動不足はいけませんよ」
家に入る前に、隣家の庭先にいるミセス・ガーフィールドに気がついた。軍手をはめて陶器製のコンテナを運んでいる。彼女もこちらに気がついたようで、あら、と笑顔を向けてきた。
「あらあらお出かけだったのね。どこまで? 」
「公園まで。バラを見がてら、ランチしてきたんです」
と、ユーリはクリードのもつバスケットを指差した。
「仲が良くて羨ましいこと」
ミセス・ガーフィールドと別れ、家の中に入る。人目がなくなると、途端にほっと肩から力が抜けるのがわかる。
“演じる”のは自分のガラじゃない。けれど、彼女の目があるところや、“クリード”としての自分が居る場所においては……演じつづけなくてはならない。それは、彼女との“契約”のために、必要なことだった。
その彼女は、家の中でまで“演じて”いる。
“ユーリ”と名乗った女性を。クリードは彼女の本当の名前を知らない。
季節が三つ過ぎても、クリードにはわからない。
彼女はなぜ、こんなことを望んだのだろうか、と。
彼女にはいくらでも……彼女を心から思う誰かなどいるのではないかと思うのだ。
もしそうであれば、彼女はこんな契約などする必要はない。
「ありがとう、ゆっくり休んでてちょうだいね」
ユーリはキッチンへと入って行く。クリードはため息をつきながら、自分にと用意された二階の部屋へと上がって行ったのだった。