起、あるいは平穏な日常
瞼の裏に明るい日差しを感じ、そろそろ起きる時間だと思ったものの、ぬくもりが心地よくてまどろみ続けている。 ベッドサイドの目ざまし時計はまだ鳴っていなかった。それをいいことにあと少し眠ろうと思った所へ、さあっと勢いよくカーテンがひき開けられ、さんさんと射す日差しが部屋の中に満ちた。初夏の日差しは十分すぎるほど……いささか暴力的なほど眩しい。
「……うう、眩しい……あと少し寝かせてくれ……」
日差しを避けるようにベッドの上で丸くなり、クリードが呻くように言っても、ふんわりとしたソプラノの声はきっぱり“駄目です”と容赦なく上掛けも剥ぎ取っていく。歌うようなリズムで言いながら。
「駄目です。今日は少し早く行くって言ってませんでしたっけ? 二度寝なんかしたら間違いなく遅刻ですよ」
さ、早く起きて、いつものハンサムさんになって下さいな。直すのが大変そうな寝癖がついちゃってますよ。
眩しさをこらえて目を開けると、彼女……ユーリはふわふわの紅茶色の髪の毛を揺らし、微笑んでいる。
その佇まいだけを見ればまるで淑やかな……重いものなど持った事がないようなお嬢様に見えるのだが、あいにく。
その白い手は容赦なく上掛けやらシーツやらを手繰り寄せていた。ごろりとクリードはベッドの上で回転する羽目になる。
「というか、洗濯する気満々なんだろう……」
諦めて渋々ベッドの上に胡坐をかいてすわり、くしゃくしゃになったダークブラウンの頭をかきまわす。確かに四方八方に髪が跳ねているようで、直すのも一苦労しそうだった。それ以上にあと五分眠れるところを叩き起こされて、朝からぐったりする気持ちで恨みがましく呟いたところで。
「だってこんなにいい天気なんですもん。絶好の洗濯日和を逃す手はないですよ。ほら早く起きて下さいな。朝ごはん、もう出来てますよ」
彼女はにっこりと笑い、両腕に上掛けとシーツを抱えてクリードの部屋を出て行った。とん、とん……と軽い足音が階段を下りてゆく。
クリードはもう一度頭をかき、さて着替えるかと立ち上がったのだった。
奔放に跳ねていた髪の毛をなんとか見苦しくない程度に直し、上部にだけフレームのついた眼鏡をかける。
鏡の向こうの自分はどこからみても会社づとめの堅実な勤め人だ。毎日スーツを着るのにも慣れたが、ネクタイを結ぶのにはいまだ違和感が消えない。鏡の向こうには苦笑いする自分が映っている。
身支度を整え、スーツの上着を手にダイニングを覗くと、テーブルの上には立派な朝食が並んでいた。
トーストに目玉焼き、カリカリに焼かれたベーコン、サラダ、スープ。ヨーグルトに果物まで。
「朝から豪勢だね」
席につき、思わず呟けば、あら、とユーリは首を傾げてコーヒーを差し出してくれる。
「いつもこうだったでしょう? ヘンなこと言うのね」
さ、召し上がれとにっこりユーリは微笑んだ。
家事が一段落したのかユーリも向かいの席に座り朝食を食べ始める。家事の邪魔になるからだろう、ふわふわの紅茶色の巻き毛は、白いレースのリボンで首の後ろで一つに束ねられていた。今日は淡いピンクのワンピースの上から、白いエプロンをつけている。ふわりとしたフリルやレースのついたエプロンは、クリードの目からするとどうにも実用的ではないのだが、ユーリはそう思わないらしい。毎日同じようなフリルやらレースのついた服を好んで着ているのだ。そしてそんな格好をして、ふわふわの綿菓子のように笑うユーリはまるで少女のように見えるので。時々“兄妹ですか”などと間違われてしまうのだった。
もちろん、自分たちは、兄妹などでは、ない。
いただきます、と言ってクリードは食べ始める。ユーリの作る食事は文句なく美味しい。もっとも、人に作ってもらっておいて、文句など言えるはずもない。
「あなた、今日はいつ頃帰ってくるの? 」
ユーリがクリードの帰宅時間を尋ねるのも、朝食時においてはいつものこと。
クリードは今日の仕事の予定を思い返した。月末が近いから締めの作業でいつもより忙しいかもしれないと思う。
「そうだな、今日は少し遅くなると思う」
「わかったわ、そのつもりでいるわね」
ユーリはコーヒーのおかわりはいる? とにっこり笑った。
「それじゃ、行ってくるよ」
玄関先の、つるバラが絡みつく白い柵の脇の所で、毎朝ユーリはクリードを見送る。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
そこへ、ちょうど通りかかった隣家の老夫婦が声をかけてきた。隣り合う同じような白い一軒家だが、彼らの家には色とりどりの花が咲き乱れるみごとな庭があった。夫婦そろってガーデニングが趣味であるらしかった。
ユーリは時々、ガーデニングを教えてもらいにお邪魔しているらしい。家に帰ると朝までにはなかった、綺麗に寄せ植えをされたコンテナがあったり、庭の隅に苗木が植えられていたりする。
「あら、おはよう。今日も相変わらず仲よさそうで羨ましいこと! 」
白髪を耳の下ですっきりと切り揃えたミセス・ガーフィールドは快活に笑う。鳥ガラのように細い人であるが、重い肥料袋を軽々と担いで歩くような、見かけに寄らぬ力持ちな人でもあった。初めてその様子を目にした時、クリードは自分の目を疑った。彼女は、こんなのは、コツと慣れよと涼しい顔をしていたが、クリードは彼女のようにやすやすと持ち上げる事はできないだろう。
「おはようございますミセス・ガーフィールド、ミスタ・ガーフィールド。お二人こそ仲良くお散歩だなんて、羨ましいですわ」
にこにこと笑いながら、ユーリは隣家の夫婦と挨拶をかわす。隣家の夫婦から見れば、ユーリなどは孫の年代に近いのだろう、何かと気にかけてくれている。クリードも老夫婦に挨拶した。
「おはようございます。いいお天気ですね」
「そうだねえ。そうそう、公園のバラが、そろそろ見ごろだよ。休みの日にでも、ふたりで散歩したらどうかね」
ミスタ・ガーフィールドがにこやかに提案した。
彼は夫人と対照的に恰幅のいい人である。白っぽくなった金髪を芝生のように短く刈り込んでいる。彼らは公園まで朝の散歩に出かけていたらしかった。
あらまあ素敵ね、是非そうなさいとミセス・ガーフィールドが手をたたく。期待に満ちた目でユーリがこちらを見たので、内心はどうあれクリードは笑顔を作って答えるしかない。休みの日は出かけるより家で寝ていたいんだが……仕方ないこれもご近所づきあいと言う奴だろう。
「そうですね、天気がよければ、行ってみます」
雨の中のバラっていうのも、風情があっていいんだけどねえと、ミスタ・ガーフィールドはひとり頷いていた。
仕事は予想通り、朝から非常に慌ただしいものとなった。みな忙しなく駆けずり回っている。
午後を回った所でようやく忙しさのピークは過ぎ、一息つけるようになったのだ。
今日は会社中どこも忙しいなあと同僚たちと休憩中にぼやきあう。
ああくたびれたなあと自分の席で端末をたたいていた手を離し、クリードは拳で肩を軽く叩く。そしてふと窓の外を見た。林立するビルの向こうに夕日が見える。
普通に会社づとめをして、暖かな家があり、帰れば待っている人が居て。
気のいい隣人はなにかと気にかけてくれる。
この穏やかな生活は、ある意味理想的なのだろうけど。
今まで自分がしていたような“仕事”とはかけ離れていて……逆にとても新鮮で。
「こういった生活も、悪くないんだけど、なあ」
いつまで、この生活を続けられるのだろうと思うのだ。何故なら。
会社を出る頃には、夕日は完全に沈み辺りは暗くなりはじめている。朝ユーリに言った通り、いつもより遅い帰宅になった。大抵は定時で帰っているのだ。
「やっぱり遅くなったな……」
腕時計を見、日が暮れはじめた辺りを見回して、クリードは何か急かされた気分になった。
早く家に帰らないと。
急ぎ足で家路につきながら、クリードは奇妙な気分になる。この街へ住み始めてから三つ目の季節が終わろうとしている。逆にいうと、ここで過ごしたのはそれだけの短い期間だ。それなのに、いままで暮らしたどこよりも馴染んでいるように思うのは……何故なんだろう、と。
「あれ~いま帰り?遅くまで大変だね! 」
通りかかったパン屋の前で、今しがた店の前の看板を片づけていた店主が朗らかに声をかけてきた。丁度店じまいをしているところだった。
このパン屋はユーリがとてもひいきにしていて、パンと言えばこの店の物が食卓にのぼる。
特に、時々しか焼かないというこだわりの食パンがお気に入りのようだった。クリードもランチ代わりにこの店のパンを買って仕事に持っていくことがある。
「まあね、仕事があるだけ有り難いってもんだけどね」
「そうはいっても、体壊しちゃ元も子もないんだから、ほどほどにしなよ~。可愛い奥さん泣かしちゃ駄目だからね~ああそうだ」
まだ年若いパン屋の店主は、人をからかうような表情で言葉を続ける。
「奥さんの好きなパン、明日焼くんだ~。もしよかったら買いに来てねって言っておいてね」
「わかった、伝えとくよ。ありがとう」
それじゃあねえと手を振る青年にひらりと手を振り返し、クリードは家路をたどる。
けれど、いくらも進まないうちに、また声をかけられた。
「おや、いまお帰りかい。会社勤めも大変だ」
「お客さん相手の仕事の方が大変ですよ」
何にせよ楽して稼げる仕事はないねえとにやりと笑うのは、カフェの店主、マダム・ルゥ。
長く伸ばしたつややかな黒髪を一つに纏め、高い位置で結いあげ、簪を挿している。すらりと背の高い人で、いつも派手な色合いのロングドレスを好んで着ている。またそれがよく似合う何ともミステリアスな雰囲気の女性であるが、さっぱり年齢の見当がつかないひとでもあった。近所に店を構えているのだから、何か知らないかとパン屋の店主に一度尋ねたことはあるのだが、彼はにっこり笑って答えたのだ。
いわく、女性の年を詮索するのは野暮ってもんでしょう。
何かあったに違いないと思わせる、言葉と口調だった。クリードもそれ以上の詮索はしないこととした。わが身が可愛いので。
ともあれ、ケーキ(に限らず、甘いもの全般)の好きなユーリに連れられて、クリードもここへ通ううち、彼女とも顔見知りになったのだった。
クリード自身は、甘いものはそれほど好きではないけれど、この店のコーヒーの味が気にいって、一人でふらりとコーヒーを飲みに立ち寄ることもある。
一人の時は大抵何かしら本を読んでいるので、その時はマダム・ルゥもあれこれ構いつけてくることはなかった。その距離感がまた好ましいと思っていた。
「そうそう、週明けに季節のケーキの新作出すからさ、奥さんに伝えといてくれるかい」
「それは大喜びして食べに行くでしょうね。伝えておきます」
マダム・ルゥは唇の端を引き上げるようにして笑う。そんな笑い方は時として下品になるものだが、マダム・ルゥがするととても似合っていて……凄みさえ感じられるから不思議なものだ。
「本当に美味しそうに食べてくれるからねえ、こっちも作りがいがあるってもんだよ」
マダム・ルゥと別れ、クリードは先を急ぐ。
あちこちで立ち話をしたせいで、あたりはすっかり暗くなってしまった。
ユーリが心配しているかもしれない。会社を出たところで、連絡を入れればよかったと思った。
住宅街の外れ、よく似た白い家が二軒並んでいる。そのうちの、緑生い茂る家が、ガーフィールド夫妻の家。
もう片方が、クリードとユーリが暮らしている家だ。キッチンの窓から灯りが見える。食卓に夕飯の料理を並べながら、いつクリードが帰ってくるのかとユーリは待ちくたびれているに違いない。
「……ほんとに、絵にかいたような“新婚夫婦”の生活だよなあ……」
小さく呟いた後、クリードは玄関のチャイムを鳴らす。
「ただいま、いま帰ったよ」
インターフォンごしに、はずむような声でユーリがおかえりなさいと答える。そしてすぐにドアが開けられた。
「おかえりなさい」
ユーリはクリードの姿を認めると、一瞬……ほんの一瞬であるが、安心したような表情になり……けれどすぐに笑顔になった。
クリードも笑顔で答える。
「ただいま」
「ほんとに遅かったのね。お腹減ったでしょう?すぐご飯にする? 」
ユーリは歌うように矢継ぎ早に尋ねてきた。
ああ、そうするよと答えると、ユーリは用意するから着替えてきてちょうだいねと言ってキッチンへ向かった。クリードは心の中で密かに思った。
この穏やかな……まるで誰かが思い描く“理想的な新婚夫婦”みたいな生活は、あくまで期限付きのもの、なのだ。どんなに心地よくても、それを忘れてはいけない、と。
何故なら。
この暮らしは、彼女……ユーリと名乗った彼女との、“契約”なのだから。