国の穀物庫と呼ばれる伯爵家の長女ですが、なぜかお古の制服を着せられています
「ステフィアさん、うちの娘たちには小さくてもう着られなくなったドレスが何枚かあるの。良かったら貰ってくださらない?」
それは、子爵家である友人の母親の、優しい心遣いだと十歳のステフィアにもわかった。友人と自分の体格はほとんど変わらないし、友人には姉だけでなく、まだ服を譲れるはずの妹もいたからだ。
しかし、「ありがとうございます」と口にしかけて、涙がこぼれそうになると、ステフィアは急いで口を引き結んだ。
(やっぱり、誰が見てもこんな古ぼけて擦り切れたドレス……、しかも今の私には小さすぎるものを着ているなんて、呆れてしまうわよね)
*
家に帰ってその出来事を伝えると、母のイゾルデは事もなげに言った。
「いただいてくればよかったじゃないの」
伯爵家の長女。それがステフィアの身分だ。
貧乏貴族?
いいえ、とんでもない。
ステフィアの家の領地は、「国の穀物庫」と呼ばれるほど豊かな農地を抱えていた。加えて、隣国へと続く街道が通っているため、通行料や宿泊料などの税収でも潤っている。
つまり、極めて裕福な実家なのだ。
それなのに、彼女の身なりはいつも酷いものだった。
私服だけではない。
真新しい制服に身を包み、学園の入学式に臨む同級生たちの中で、ステフィアの制服だけがお古だった。
しかも、どこから調達したのか何年も前のものだったため、周囲とは明らかにデザインが違っている。
大人であれば見て見ぬふりをしてくれるだろうが、子供というのは残酷なほど素直で、はっきりと疑問を口にする。
「ねえ、どうして皆と違う制服を着てるの?」
ステフィアは何も答えられず、ただ俯くしかなかった。
耐えかねた彼女は、母、イゾルデに訴えた。
「お母様、他のものは何も要りません。どうか、新しい制服を買ってくださいませ」
しかし、イゾルデは冷ややかな目でステフィアを一瞥すると、その頬を思い切りひっぱたいた。
「うるさいわね。自室に引っ込んでいなさい!」
出入りの商人たちがオロオロと視線を泳がせる。
使用人たちもイゾルデの激しい剣幕に怯え、立ち竦んでいた。
見かねた侍女が、せめてステフィアを抱きとめようと駆け寄る。だが、
「構うんじゃない!」
イゾルデの鋭い叱責が響き渡り、誰もそれ以上動けなくなった。
*
ステフィアはジンジンと痛む頬を押さえ、ベッドで丸くなって泣きながら考えた。
(新品の制服を買ってとお願いすることが、それほど悪いことなの?)
(みんなには当然のように与えられるものが、どうして私には与えられないの?)
(お母様は毎日のように新しいドレスや宝石をお買いになるのに、なぜ、私はいつもひどい格好なの?)
そんな問いが頭を巡るばかりで、答えは出なかった。
*
いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。
夜中にふと目が覚めると、のどの渇きを覚え、ステフィアは水を求めて階下へ向かった。
そこでちょうど、帰宅したばかりの父、セリアンと鉢合わせる。数日ぶりに見る父の姿だった。
「お帰りなさいませ、お父様」
声をかけると、セリアンは酒で赤くなった顔をほころばせて言った。
「ステフィア! ああ、会えて嬉しいよ」
ステフィアは、何だか妙な言い方だな、と思った。なかなか会えないのは、父の帰りがいつも遅いせいだからだ。
セリアンは娘の目と頬が赤く腫れ上がっていることに気づくと、痛ましそうにその頬へそっと触れた。
「……何があったんだ?」
優しい声に促され、ステフィアは昼間の出来事をすべて打ち明けた。セリアンはしばらく黙って考え込んでいたが、やがてぽつりと言った。
「次の休みに、二人で出かけよう」
けれど、ステフィアはあまり期待しなかった。父は優しい。けれど、家庭人としてはあまりにも無能だった。この約束も、きっとそのうち忘れてしまうに違いない。
そう思いながら、彼女は寂しげにうなずくだけだった。
*
そして迎えた次の休日。やはり、セリアンは朝食の席に現れなかった。
ステフィアはなるべくイゾルデの怒りを買わないよう、気配を消して静かに食事を終えると、すぐに自室へと戻った。そして、学園の図書館で借りてきた本を読んで時間を潰した。
その本をもう少しで読み終えるというところで、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
ドアから顔を覗かせたセリアンは、すでにお洒落な服に着替えていた。ただ、貴族の正装というよりは、どこか着崩した伊達男といった風情で、ステフィアは思わずクスリと笑ってしまった。
「さあ、出かけるよ。着替えておいで」
父の言葉に、ステフィアの心は一転して重く沈んだ。
(出かけると言っても、着ていく服なんてないのに……)
それでも、手持ちの中で一番ましなドレスを着て見せると、セリアンは「フム……」と唸ったきり考え込んでしまった。彼はやおらステフィアのクローゼットを開け、中を検分し始めた。
少ししてクローゼットから出てきたセリアンの顔は、青ざめていた。彼は無理に作ったような歪な笑顔で、「じゃあ、出かけようか」と言った。
*
「やあ、ステフィア。初めましてだね。僕は君の叔父のルネだよ」
セリアンに連れられて訪れたのは、とても小さく、けれど不思議と居心地の良い家だった。そこで出迎えてくれた美しい人は、穏やかに微笑んでそう名乗った。
初めて会うはずなのに、なぜか懐かしい。
父に似た柔らかい空気感を持ち、父と気安く言葉を交わすその姿を見て、最初は父の兄弟なのだろうと思った。しかし、二人の会話を聞くうちに、驚くべき事実を知ることになる。
この人は、母イゾルデの弟なのだ。本来なら伯爵家を継ぐ立場でありながら、それが嫌で家を飛び出したのだという。
「悪いが、ルネ。娘のドレスを選ぶのに付き合ってくれないだろうか。私はどうも、こういうものには不案内でね」
セリアンが眉を下げて頼むと、ルネは少しの間、顎に手を当てて考え込んだ。
「……それもいいが、根本的な解決にはならないだろうね。あの姉のことだ。ステフィアが新しいドレスを着ているのを見れば、力ずくで剥ぎ取って暖炉に放り込むくらいのことは平気でするさ」
具体的な光景が脳裏をよぎり、ステフィアはゾッとして寒気を覚え、自分の両腕をきつく抱きしめた。
するとルネは、グイッと顔をステフィアの目の前まで突き出し、ニィと不敵に笑った。
「お嬢さん。君は自分の力で、この状況を解決しなくちゃいけない。――もちろん、そのための知恵は貸してあげるけどね?」
*
その後、ステフィアは二人に連れられて、小さな舞台のある、食堂とも居酒屋ともつかない賑やかな店へとやって来た。
ひとしきり楽しく食事を楽しみ、舞台の踊り子が楽屋へ引っ込んだ頃、ルネがステフィアの頭を軽く叩いた。
「ここから動かないようにね」
そう言って、二人は席を立ってどこかへ行ってしまった。
見知らぬ場所に取り残され、ステフィアが不安で身を固くした――その時だった。
にわかに拍手が湧き起こった舞台の上に、なんと父のセリアンが現れたのだ。ステフィアは驚きのあまり目を見張った。
セリアンは手にしたヴァイオリンをゆっくりと掲げると、顎の下に挟み、静かに弓を引いた。
家でヴァイオリンに触れる父の姿など、ステフィアは一度も見たことがなかった。だが、それ以上の衝撃が彼女を襲う。
紡ぎ出されたのは、ステフィアがこれまでの人生で聴いたどの音色よりも、優しく、そして愛しい旋律だったからだ。
美しい曲が名残惜しくも終わりを告げると、セリアンは客席のステフィアを見つめ、微かにうなずいた。そして、舞台袖のほうへと優雅に手を差し伸べ、もう一人の主役を招き入れた。
少し照れたような苦笑いを浮かべて舞台へ進み出るルネを見て、ステフィアの心臓は激しく波打った。
(ルネ叔父様? でも、何も楽器を持っていないわ……)
不思議に思ったのも束の間、セリアンが先ほどよりもいっそう柔らかな音色を響かせ、それに重ねるようにして、ルネの「詩の朗読」が始まった。
その瞬間、ステフィアはまるで魔法をかけられたように、呆然と聞き惚れてしまった。
それは十歳の子供にはまだ難しい、大人の愛の詩だった。けれど、セリアンとルネが時折交わす視線の温かさ、そして周囲の大人たちがいつしか涙を流し、すすり泣く声――。そのすべてが、空間を何とも言えない切なく美しい空気で満たしていた。ステフィアは、その雰囲気にすっかり呑まれていたのだった。
*
あの夢のような夜からしばらくの間、ステフィアは相変わらずイゾルデの冷酷な仕打ちに耐えながら暮らしていた。そして、ついに「その日」がやってくる。
ステフィアが出した手紙に応えて、祖母のアンバーが突然、領地から邸へとやって来たのだ。
彼女こそが、この家の本物の権力者――領主代理として領地経営を一手に担う女傑だった。
これこそが、あの夜にルネがステフィアへ授けてくれた秘策だった。
『ステフィア、お祖母様にお手紙をお書き。「お会いしたいです。お母様には何も知らせずにいらしてくださいね」とね』
予告もなしに現れた実母の姿に、イゾルデはひどく狼狽えた。
そして、祖母を出迎えに来たステフィアの姿を見るや否や、焦ったように彼女を自分の背後へ隠したのだ。
しかし、アンバーの鋭い目がそれを見逃すはずはなかった。
アンバーはイゾルデの背後にいるステフィアへ優しい微笑みを向けると、一瞬でそのみすぼらしい全身を見回し、すべてを察したように穏やかな声で言った。
「私の手を引いてくれるかい? お前の部屋へ案内しておくれ」
アンバーはステフィアの自室へ入ると、「ちょっとごめんなさいね」と言って、迷わずクローゼットの中へ入っていった。
そして数分と経たないうちにクローゼットから出てくると、怒りを押し殺したような、けれど慈愛に満ちた顔で言った。
「お土産をたくさん持ってきましたからね。楽しみにしていなさい」
彼女はそう言い残し、毅然とした足取りで部屋を出て行った。
ステフィアは、自分のみすぼらしい格好のせいで祖母を落胆させてしまったのではないかと、胸を痛めて心配した。
――しかし、それは杞憂に終わる。
そして、この日を境に、母イゾルデの姿は、この邸から消えたのだった。
*
アンバーはその後も、しばらくこの邸に滞在した。
ある日、彼女の希望で、ステフィアは父、セリアンと共に小さな劇場へと足を運んだ。
それは小ぶりながらも品が良く、古い歴史を感じさせる美しい劇場だった。
舞台の上でセリアンがヴァイオリンを奏で始めると、アンバーはどこか懐かしそうな微笑みを浮かべて聴き入った。
そして、ルネが舞台に現れ、その柔らかな調べに乗せて詩を唄い始めると、彼女はオペラグラスをじっと動かさず、愛おしそうに二人を見つめ続けた。
*
現伯爵であるセリアンに代わり、長く領地経営を一手に引き受けてきたアンバーは、時折、在りし日の美しい日々に想いを馳せることがあった。
それは、セリアンとルネがまだ十五、六歳の頃のことだ。
親友同士だった二人はいつも行動を共にしていた。セリアンが楽しげにヴァイオリンを弾き、ルネがそれに合わせて即興詩を美しく唄う。紅顔の美少年と白皙の美少年が寄り添い、芸術に興じるその睦まじい姿に、周囲の人々も自然と目を細めたものだった。
しかし、その楽園に無理やり割り込んできたのが、娘のイゾルデだった。
「あの子を私の婚約者にしてちょうだい!」
そう言って激しく駄々をこね、周囲を困らせるイゾルデに、ルネはただ悲しげな目を向けることしかできなかった。
イゾルデは幼い頃から、類稀なる美しさを持って生まれた弟のルネに激しい嫉妬を抱き、ことあるごとに辛く当たってきた。セリアンを欲しがったのも、彼を愛していたからではない。ただ、ルネから大切なものを奪い取り、彼を傷つけたかっただけなのだ。
だが、アンバーは「子供の我儘」と甘く見て、何の手も打たないまま数ヶ月を過ごしてしまった。そしてある日突然、ルネは失踪してしまったのだ。
当時の悔恨は、今もアンバーの胸をひどく締め付ける。
(あの時、イゾルデの『他者の美貌に対する異常な嫉妬と憎悪』という悪癖を、双葉のうちに摘み取っておくべきだったのだ――)
*
けれど今、あの頃のままに、舞台の上で心から楽しそうに視線を交わす二人の姿がある。
アンバーは心の底から救われたように、静かに喜びの涙を流した。
*
ステフィアはその後、誰に対してもイゾルデの行方を聞かなかった。
母親のいなくなった邸は驚くほど風通しが良く、居心地が良かった。何より、それまで外ばかりに目を向けていた父、セリアンが、毎日のように家に居てくれるようになったことが、ステフィアには堪らなく嬉しかった。
さらに叔父、ルネが邸に戻ってきてからは、いっそう賑やかで楽しい生活が始まった。
朝食の席で交わされる他愛のない会話、夜に響くヴァイオリンと詩の声。ステフィアは「これこそが家族というものなのだ」と、生まれて初めて実感したのだった。
*
数年後――。
学園で領地経営の基礎を学び終えたステフィアは、ついにその領地へと向かう馬車の中にいた。
これから祖母、アンバーの側で、実践的な経営を学ぶための旅立ちだ。
いまや父、セリアンと叔父、ルネは、国中でその名を知らない者はいないほどの高名な音楽家と詩人として、確固たる名声を馳せている。
ステフィアは、その大切な二人が贈ってくれた美しい唄を小さく口ずさみながら、長い道のりを馬車に揺られていった。
*
数年ぶりに再会した祖母、アンバーは、あの頃と変わらず元気で、朗らかな笑顔でステフィアを迎えてくれた。そして、孫娘が本格的に領地経営に関わってくれることを、何よりも喜んだ。
「さあ、まずは我が領の自慢の土地を見て回りましょう」
アンバーはステフィアを連れ、領内のあちらこちらを案内してくれた。
国の穀物庫の名に恥じず、見渡す限りの豊かな大地には穀物だけでなく、瑞々しい野菜や果物が見事に実り、広大な牧草地では酪農も盛んに行われていた。
ステフィアが興味深く、そして誇らしげに周囲を見回していた、その時だった。
「――ステフィアッ!!」
突如、地を這うような、ひどく濁った金切り声が響いた。
それが誰の声であるか、頭で理解するよりも早く、ステフィアの身体が本能的な拒絶反応を起こした。全身にぶわっと鳥肌が立ち、額からは冷たい脂汗がじわりと滲み出てくる。かつての恐怖の記憶が、脳裏をよぎった。
並み居る護衛の一人が、すぐさま険しい顔で剣の柄に手をかけた。
「農奴風情が、ご領主様のお嬢様を呼び捨てにするか! 不敬である!」
護衛は鋭く言い放つと、声の主である薄汚れた女の元へと猛然と駆け寄っていった。
ステフィアは、けしてそちらを見ようとはしなかった。
一瞥をくれる価値すらないと、前だけを見据えていた。
背後で、あの女がなおも狂ったように何かを叫び続けている。しかし、それも鈍い音と共に、すぐに悲鳴へと変わった。
やがて、女を厳しく打ち据えた護衛が、息を整えながらステフィアたちの前へと戻ってきた。返り血が飛び散ったその顔を見て、ステフィアはそっと自分のハンカチを差し出した。
そして、かつて自分を怯えさせた「怪物」の哀れな末路に、眉一つ動かすことなく、淑女たる微笑みを浮かべてみせた。
「お疲れ様。……どこにでも、頭のネジが緩んでしまった可哀想な人はいるものですわね。さあ、案内を続けてくださいませ、お祖母様」




