死者のための水槽
先生、先日の『死生学』の最終課題として、このレポートを提出いたします。
「死を意識すること——メメント・モリが、いかに生の価値を逆照射するか」というのが先生の講義のテーマでしたね。
単位が取りやすいという噂だけで受講した私ですが、今では先生のあの言葉の意味が、少しだけわかるような気がしています。
私は高校時代から、心が壊れてしまっていました。
理由は些細なことです。クラスの中心的なグループの会話で、少しだけ空気を読まない発言をしてしまった。ただそれだけで、私は翌日から「透明人間」になりました。
でも、本当に恐ろしかったのは現実の無視ではありません。私を本当の絶望に突き落としたのは、手のひらに収まる、たかだか五インチの液晶画面でした。
匿名掲示板や、SNSの裏アカウント。そこには私の隠し撮り写真と共に、「キモい」「息をするな」「早く消えろ」という言葉が毎日毎日、滝のように流れてきました。通知音が鳴るたびに、見えない誰かから石を投げつけられているようでした。
私はとうとうベッドから起き上がれなくなり、心療内科に通うようになりました。私の心は、あの中の顔のない人々に殺されてしまったのです。
先生の講義中も、私はずっと手元のノートをボールペンで真っ黒に塗りつぶしていました。何も聞いていませんでした。ポケットの中でスマートフォンが少しでも擦れると、また石を投げられたのかと錯覚して、息の仕方がわからなくなるからです。
「ねえ、それ、塗ってるの?」
ある日の講義中、突然そう話しかけてきたのが、蓮くんでした。
いつも最前列で先生の講義を熱心に聞いていた、少し影のある男子学生です。彼は私のノートの真っ黒なページを、ひどく熱っぽい目で見つめていました。
関わりたくない。そう思って席を立とうとした私の腕を、彼は躊躇いもなく掴みました。ひどく冷たい指でした。
「俺、妹を亡くしてるんだ」
彼は初対面の私に向かって、唐突に話し始めました。
一年前、彼の妹はSNSで執拗ないじめに遭い、耐えきれずに自分の部屋で首を吊ったそうです。遺されたスマートフォンの画面には、見ず知らずの人間たちからの、吐き気を催すような言葉が溢れていたと、彼は言いました。妹を殺した「仮想の死」の正体を暴くために、自分は死生学を学んでいるのだと。
その話を聞きながら、私は必死で口元を引き締めていました。だって、気を抜くと笑ってしまいそうだったからです。
「かわいそうに」と相槌を打ちながら、私の胸の奥には、甘くて温かいものがじゅわっと広がっていきました。
ああ、よかった。首に縄を食い込ませて、惨めな肉片になったのが私ではなく、顔も知らない他人の妹で、本当によかった。私の方がもっと酷く叩かれていたのに、私は生きている。あの子は弱かったんだ。
いじめっ子たちを恨み、被害者ぶって泥水の中でうずくまっていた私の中にも、他人の不幸を貪って自分の安全を確かめる、こんなにも醜悪な化け物が棲んでいたのです。その事実に気づいた時、私は彼を振り払い、逃げるように教室を飛び出しました。
その日の夜、私は震える指でスマートフォンの画面を操作し、自分のSNSアカウントをすべて削除しました。
いじめられてもなお、誰かの視界の端に自分の形を残しておきたい。マトとしてでもいいから存在を認めてほしい。そんな執着を断ち切るのは怖かったですが、あの時の蓮くんの、死人の血をすするような狂った目が脳裏に焼き付いて離れず、気持ちが悪いと感じたからです。
アカウントを消して数週間が経ちました。
誰からも石を投げられない代わりに、私は完全に風景の一部になりました。すれ違う学生たちは皆、手元の小さな画面の中の水槽で息をしていて、私という現実に生きている肉の塊には見向きもしません。
ある日の講義終わり。誰もいなくなった教室に、蓮くんが一人で残っていました。
彼の机の上には、スマートフォンが二つ並んでいました。一つは彼のもの。もう一つは、ピンク色のカバーがかかった古い機種でした。
私が後ろに立っていることにも気づかず、彼は二つの画面を交互に操作していました。
「これ、妹のなんだ」
振り返った彼は、あっけらかんと言いました。
ピンク色の画面には、夥しい数の通知が並んでいました。SNSのアイコンの横に、『死んで正解』『兄貴もキモい』といった言葉が、今この瞬間も次々とポップアップし続けていたのです。
妹さんは一年前にもう亡くなっているのに、まだこんなひどい言葉を投げつける人がいるのか。そう思って絶句する私に、蓮くんはひどく穏やかな声で言いました。
「違うよ。奴らは、俺が叩かせてるんだ」
意味がわかりませんでした。
彼は、複数の裏アカウントを自分で使い分け、定期的に炎上するような燃料を投下して、群衆の悪意を妹のアカウントに向けさせていたのです。
「どうしてそんなことを」と、私は思わず呆れた声を出しました。
すると彼は、その整った顔を醜く歪めて笑うのです。
彼に言わせれば、ネットの海から妹の痕跡が消え、誰も彼女を憎まず、誰も話題にしなくなることこそが、本当の『死』なのだそうです。痛くても苦しくても、石を投げられ続けている間は、彼女はあの中で『生きている』のだと。だから自分は、あの子を孤独な無に帰さないために、この水槽に泥を注ぎ続けなければならないのだと、目を血走らせて語りました。
私は、彼を哀れむよりも先に、ある種の感心すら覚えました。
人間は、自分の執着を満たすためなら、死んだ家族すら永遠の地獄に繋ぎ止めることができるのですね。
「メメント・モリ、でしたっけ」
私は彼の手から、そのピンク色のスマートフォンをそっと抜き取りました。
蓮くんが血相を変えて手を伸ばしてきましたが、私は一歩下がってそれを躱し、ためらうことなく電源ボタンを長押ししました。
「やめてくれ!!」
彼が絶叫する中、私は画面をスワイプして、電源を切りました。画面が真っ暗になり、ただの黒い板切れに戻ったそれを、私は蓮くんの胸に押し付けました。
「目を覚ましてください。あなたが必死に守っているのは、妹さんの命なんかじゃありませんよ。ただ、妹さんを救えなかった自分の罪悪感を誤魔化すために、死体をオモチャにして遊んでいるだけじゃないですか」
そう言って微笑みかけた時、蓮くんはスマートフォンを抱きかかえるようにして、床に崩れ落ちました。
鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにして、ひゅうひゅうと喉の奥を鳴らして泣き喚く彼を見下ろしながら、私は頭の芯が痺れるような、圧倒的な全能感に酔いしれていました。
ああ、私は今、正しいことを言っている。狂っているのは彼で、私は間違っていない。正論という名の大きな石を、無抵抗な相手の頭上に全力で振り下ろすのは、こんなにも気持ちがいいものだったのですね。そりゃ“イジメ”が無くならないわけです。
安全な場所から私を集団でリンチしていたあの人たちと、今の私。一体何が違うというのでしょうか。機会さえあれば、喜んで他人の急所を蹴り上げる。それが、生きている人間の本当の姿です。
私は、床で這いつくばる彼を置いて、一人で教室を出ました。
重い扉を開けると、夕暮れの冷たい風がキャンパスを吹き抜けていました。
大きく深呼吸をすると、冷たい空気が喉を通っていきました。
「……美味しくないな」
私は、ぽつりと呟きました。
本当に、ただ冷たいだけの空気です。
先生が言う通り、私はたしかに今、現実の世界で自分の肺を使って呼吸をしています。でも、ただ呼吸をしているだけです。
誰も私を見ていない。誰も私を認識していない。現実という世界は、たった一人でただ冷たい空気を吸い続けるには、あまりにも広すぎて、寒々しすぎました。
私は足をとめ、コートのポケットから自分のスマートフォンを取り出しました。
あの日、自分のアカウントを消してから、ずっと電源を切っていた黒い板。私はその電源ボタンを長押ししました。
薄暗い画面が発光し、見慣れたSNSのアイコンが浮かび上がります。
私は新しい、名前も顔もない、真っ白なアカウントを作成しました。
そして、かじかんだ指先で、文字を打ち込み始めました。
『同じ大学に、いじめで自殺した妹の裏垢を、自分で炎上させて生かしてるヤバい男がいるんだけど。晒していい?』
ためらいはありませんでした。
送信ボタンを押す。
数秒後。画面の向こうの、顔も知らない誰かから、「いいね」という反応が届きました。
ブブッ。
手のひらで震えたその微かな振動を感じた瞬間。
ずっと泥沼のように冷え切っていた私の胃の腑が、カッと熱を帯びていくのがわかりました。
ああ、誰かが私を見ている。誰かが私の投げた石に群がってきている。私は今、完璧な安全圏から、他人の人生という「死体」を見下ろしている。
私は画面を見つめたまま、ふふっ、と声を出して笑いました。
冷たいだけの現実の空気より、この底なしに黒い泥水の方が、私にはよっぽど息がしやすかったのです。
先生。
他人の命を踏み台にして自分の輪郭を確かめる。
私の「死生学」は、これで合っていますよね?




