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死者のための水槽

作者: 久禮 晃
掲載日:2026/03/24

 先生、先日の『死生学』の最終課題として、このレポートを提出いたします。


「死を意識すること——メメント・モリが、いかに生の価値を逆照射するか」というのが先生の講義のテーマでしたね。


 単位が取りやすいという噂だけで受講した私ですが、今では先生のあの言葉の意味が、少しだけわかるような気がしています。


 私は高校時代から、心が壊れてしまっていました。


 理由は些細なことです。クラスの中心的なグループの会話で、少しだけ空気を読まない発言をしてしまった。ただそれだけで、私は翌日から「透明人間」になりました。


 でも、本当に恐ろしかったのは現実の無視ではありません。私を本当の絶望に突き落としたのは、手のひらに収まる、たかだか五インチの液晶画面でした。


 匿名掲示板や、SNSの裏アカウント。そこには私の隠し撮り写真と共に、「キモい」「息をするな」「早く消えろ」という言葉が毎日毎日、滝のように流れてきました。通知音が鳴るたびに、見えない誰かから石を投げつけられているようでした。


 私はとうとうベッドから起き上がれなくなり、心療内科に通うようになりました。私の心は、あの中の顔のない人々に殺されてしまったのです。


 先生の講義中も、私はずっと手元のノートをボールペンで真っ黒に塗りつぶしていました。何も聞いていませんでした。ポケットの中でスマートフォンが少しでも擦れると、また石を投げられたのかと錯覚して、息の仕方がわからなくなるからです。


「ねえ、それ、塗ってるの?」


 ある日の講義中、突然そう話しかけてきたのが、蓮くんでした。


 いつも最前列で先生の講義を熱心に聞いていた、少し影のある男子学生です。彼は私のノートの真っ黒なページを、ひどく熱っぽい目で見つめていました。


 関わりたくない。そう思って席を立とうとした私の腕を、彼は躊躇いもなく掴みました。ひどく冷たい指でした。


「俺、妹を亡くしてるんだ」


 彼は初対面の私に向かって、唐突に話し始めました。


 一年前、彼の妹はSNSで執拗ないじめに遭い、耐えきれずに自分の部屋で首を吊ったそうです。遺されたスマートフォンの画面には、見ず知らずの人間たちからの、吐き気を催すような言葉が溢れていたと、彼は言いました。妹を殺した「仮想の死」の正体を暴くために、自分は死生学を学んでいるのだと。


 その話を聞きながら、私は必死で口元を引き締めていました。だって、気を抜くと笑ってしまいそうだったからです。


「かわいそうに」と相槌を打ちながら、私の胸の奥には、甘くて温かいものがじゅわっと広がっていきました。


 ああ、よかった。首に縄を食い込ませて、惨めな肉片になったのが私ではなく、顔も知らない他人の妹で、本当によかった。私の方がもっと酷く叩かれていたのに、私は生きている。あの子は弱かったんだ。


 いじめっ子たちを恨み、被害者ぶって泥水の中でうずくまっていた私の中にも、他人の不幸を貪って自分の安全を確かめる、こんなにも醜悪な化け物が棲んでいたのです。その事実に気づいた時、私は彼を振り払い、逃げるように教室を飛び出しました。


 その日の夜、私は震える指でスマートフォンの画面を操作し、自分のSNSアカウントをすべて削除しました。


 いじめられてもなお、誰かの視界の端に自分の形を残しておきたい。マトとしてでもいいから存在を認めてほしい。そんな執着を断ち切るのは怖かったですが、あの時の蓮くんの、死人の血をすするような狂った目が脳裏に焼き付いて離れず、気持ちが悪いと感じたからです。


 アカウントを消して数週間が経ちました。


 誰からも石を投げられない代わりに、私は完全に風景の一部になりました。すれ違う学生たちは皆、手元の小さな画面の中の水槽で息をしていて、私という現実に生きている肉の塊には見向きもしません。


 ある日の講義終わり。誰もいなくなった教室に、蓮くんが一人で残っていました。


 彼の机の上には、スマートフォンが二つ並んでいました。一つは彼のもの。もう一つは、ピンク色のカバーがかかった古い機種でした。


 私が後ろに立っていることにも気づかず、彼は二つの画面を交互に操作していました。


「これ、妹のなんだ」


 振り返った彼は、あっけらかんと言いました。

 ピンク色の画面には、夥しい数の通知が並んでいました。SNSのアイコンの横に、『死んで正解』『兄貴もキモい』といった言葉が、今この瞬間も次々とポップアップし続けていたのです。


 妹さんは一年前にもう亡くなっているのに、まだこんなひどい言葉を投げつける人がいるのか。そう思って絶句する私に、蓮くんはひどく穏やかな声で言いました。


「違うよ。奴らは、俺が叩かせてるんだ」


 意味がわかりませんでした。


 彼は、複数の裏アカウントを自分で使い分け、定期的に炎上するような燃料を投下して、群衆の悪意を妹のアカウントに向けさせていたのです。


「どうしてそんなことを」と、私は思わず呆れた声を出しました。


 すると彼は、その整った顔を醜く歪めて笑うのです。


 彼に言わせれば、ネットの海から妹の痕跡が消え、誰も彼女を憎まず、誰も話題にしなくなることこそが、本当の『死』なのだそうです。痛くても苦しくても、石を投げられ続けている間は、彼女はあの中で『生きている』のだと。だから自分は、あの子を孤独な無に帰さないために、この水槽に泥を注ぎ続けなければならないのだと、目を血走らせて語りました。


 私は、彼を哀れむよりも先に、ある種の感心すら覚えました。


 人間は、自分の執着を満たすためなら、死んだ家族すら永遠の地獄に繋ぎ止めることができるのですね。


「メメント・モリ、でしたっけ」


 私は彼の手から、そのピンク色のスマートフォンをそっと抜き取りました。

 蓮くんが血相を変えて手を伸ばしてきましたが、私は一歩下がってそれを躱し、ためらうことなく電源ボタンを長押ししました。


「やめてくれ!!」


 彼が絶叫する中、私は画面をスワイプして、電源を切りました。画面が真っ暗になり、ただの黒い板切れに戻ったそれを、私は蓮くんの胸に押し付けました。


「目を覚ましてください。あなたが必死に守っているのは、妹さんの命なんかじゃありませんよ。ただ、妹さんを救えなかった自分の罪悪感を誤魔化すために、死体をオモチャにして遊んでいるだけじゃないですか」


 そう言って微笑みかけた時、蓮くんはスマートフォンを抱きかかえるようにして、床に崩れ落ちました。


 鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにして、ひゅうひゅうと喉の奥を鳴らして泣き喚く彼を見下ろしながら、私は頭の芯が痺れるような、圧倒的な全能感に酔いしれていました。


 ああ、私は今、正しいことを言っている。狂っているのは彼で、私は間違っていない。正論という名の大きな石を、無抵抗な相手の頭上に全力で振り下ろすのは、こんなにも気持ちがいいものだったのですね。そりゃ“イジメ”が無くならないわけです。


 安全な場所から私を集団でリンチしていたあの人たちと、今の私。一体何が違うというのでしょうか。機会さえあれば、喜んで他人の急所を蹴り上げる。それが、生きている人間の本当の姿です。

 私は、床で這いつくばる彼を置いて、一人で教室を出ました。


 重い扉を開けると、夕暮れの冷たい風がキャンパスを吹き抜けていました。


 大きく深呼吸をすると、冷たい空気が喉を通っていきました。


「……美味しくないな」


 私は、ぽつりと呟きました。


 本当に、ただ冷たいだけの空気です。


 先生が言う通り、私はたしかに今、現実の世界で自分の肺を使って呼吸をしています。でも、ただ呼吸をしているだけです。


 誰も私を見ていない。誰も私を認識していない。現実という世界は、たった一人でただ冷たい空気を吸い続けるには、あまりにも広すぎて、寒々しすぎました。


 私は足をとめ、コートのポケットから自分のスマートフォンを取り出しました。


 あの日、自分のアカウントを消してから、ずっと電源を切っていた黒い板。私はその電源ボタンを長押ししました。


 薄暗い画面が発光し、見慣れたSNSのアイコンが浮かび上がります。


 私は新しい、名前も顔もない、真っ白なアカウントを作成しました。


 そして、かじかんだ指先で、文字を打ち込み始めました。


『同じ大学に、いじめで自殺した妹の裏垢を、自分で炎上させて生かしてるヤバい男がいるんだけど。晒していい?』


 ためらいはありませんでした。


 送信ボタンを押す。

 数秒後。画面の向こうの、顔も知らない誰かから、「いいね」という反応が届きました。


 ブブッ。


 手のひらで震えたその微かな振動を感じた瞬間。

 ずっと泥沼のように冷え切っていた私の胃の腑が、カッと熱を帯びていくのがわかりました。

 ああ、誰かが私を見ている。誰かが私の投げた石に群がってきている。私は今、完璧な安全圏から、他人の人生という「死体」を見下ろしている。


 私は画面を見つめたまま、ふふっ、と声を出して笑いました。


 冷たいだけの現実の空気より、この底なしに黒い泥水の方が、私にはよっぽど息がしやすかったのです。


 先生。


 他人の命を踏み台にして自分の輪郭を確かめる。

 私の「死生学メメント・モリ」は、これで合っていますよね?


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