第5話:テレビの中の『CAT』
強烈な閃光。そして、全身の細胞が超高速のミキサーにかけられるような、凄まじい激痛。
二つの同じ質量が、同じ時間、同じ座標に重なろうとするタイムパラドックスの強烈な反発作用。
それが、ケンが紀元前二千五百五十年の世界で感じた、最後の記憶だった。
次に意識を取り戻した時、彼を包んでいたのは、むせ返るような古代の砂の匂いでも、焼けた石灰岩の粉塵でもなかった。
鼻を刺すような、ツンとした、冷たい消毒液の匂い。
「……ん……っ……」
鉛のように重い瞼を、数秒かけてゆっくりと押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、吸い込まれるような満天の星空でも、容赦なく照りつける太陽でもない。
無機質で、平坦で、真っ白な――現代建築の天井だった。
耳元で、規則正しい、だがどこか安心させる電子音が鳴っている。
ピッ、ピッ、ピッ。
それは、ケンが現代文明の只中に戻ってきたことを告げる、心電図モニターの鼓動だった。
「気がついたか、ケン!」
ベッドの脇から、ドイツ語訛りの強い、野太い英語が降ってきた。
調査チームの責任者である、シュミット教授だ。
彼は白衣ではなく、いつもギザ台地で着ている、あちこちが擦り切れたカーキ色の調査用ベストを着たまま、心配そうにケンの顔を覗き込んでいた。
「教授……? ここは……俺、は……」
ケンは身を起こそうとしたが、直後、全身の筋肉が断裂するかのような強烈な悲鳴を上げた。
あまりの激痛に、顔をしかめて再びベッドの沈み込む。
指先から足の先まで、身体中の神経が「酷使された」と訴えている。
それもそのはずだ。何十時間、いや何日間も、彼は古代の過酷な環境下で、たった一人で岩を叩き続けていたのだから。
視線を落とすと、自分の両手のひらには、分厚い白い包帯が、まるでボクサーのバンテージのように何重にも巻かれていた。
「カイロ市内の病院だ。まったく、肝を冷やしたぞ。お前はスフィンクスの背中で、突然意識を失って、あの『ヴァイスの穴』に転落したんだからな」
教授は大きく安堵の溜息をつきながら、ベッド脇のパイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。
「転落……?」
「そうだ。幸い、落ちたのが五メートルぽっちの底だったから命に別状はなかった。だが、お前はどういうわけか穴の底で暴れ回ったらしく、両手は擦り切れ、爪は剥がれ、全身泥だらけだった。極度の熱中症と疲労によるせん妄状態だったと、医者は言っているがね」
教授の言葉を聞きながら、ケンの脳内に、急速に記憶の断片がフラッシュバックする。
砂埃の舞う古代の建設現場。
誇らしげに歌う労働者たちの合唱。
冷たい銅の斧を掲げた衛兵たちの追撃。
そして、暗闇の中で、泣きながら、狂ったように銅のノミを振り下ろし続けた、あの地獄のような日々。
「俺は……どれくらい眠っていたんですか?」
「丸二日だ。調査チームは一時解散となった。お前が落ちた衝撃のせいか、穴の底の岩盤の一部が崩れてな。ミューオン透視どころではなくなったよ」
岩盤が崩れた。
その言葉を聞いて、ケンは心の底で確信した。
自分がタイムスリップした先の過去で、血を流しながら削り出した「五メートルの縦穴」。
それと、一八三七年にハワード・ヴァイスが火薬で強引に掘り進めた「五メートルの縦穴」。
二つの時空の穴が、四千五百年の時を超えて、同じ座標で重なり、ゲートが開いたのだ。
現代の自分が落下する瞬間に生じた時空の歪みに、過去の自分が弾き飛ばされるようにして「現在の穴の底」へと帰還した。
あの時空が反発する凄まじいエネルギーが、現在の岩盤をも崩落させたに違いない。
(助かった……。俺は、歴史の矛盾を乗り越えて、現代に帰ってきたんだ……!)
ケンは包帯に巻かれた、感覚の乏しい両手を見つめ、熱い涙が込み上げてくるのを堪えきれなかった。
夢ではなかった。
この消えない痛みが、何よりの証拠だ。
自分は確かに古代エジプトで生き、歴史の傷跡を自ら刻んできたのだ。
数時間後。
点滴が外され、教授が退院の手続きのために病室を出ていくと、部屋にはケン一人だけが残された。
カイロの強烈な西日が、ブラインドの隙間から差し込んでいる。
エアコンの効いた快適な室温。
窓の外から聞こえてくる、喧騒に満ちた車のクラクションの音。
そのすべてが愛おしく、現代文明のありがたみが骨身に染みた。
「そういえば……」
ケンはふと、自分がタイムスリップする直前、安ホテルの部屋で見ていた、あの衝撃的なテレビニュースを思い出した。
ヴァイスの穴の奥底から発見されたという、異常な金属反応。
年代測定不能のオーパーツ。
あれは確か、自分が過去の世界で「衛兵の囮」として、あの深い亀裂の底に投げ捨てた、ピンク色の猫型ケースのスマートフォンだったはずだ。
ケンは震える手でベッド脇のリモコンを手に取り、壁掛けの液晶テレビの電源を入れた。
アラビア語のニュースチャンネルに合わせる。
もし、自分が過去で歴史の矛盾を正して帰還したのだとすれば。
あのオーパーツのニュースは、歴史から跡形もなく消滅しているはずだ。
俺のスマホは、単なる「現代のゴミ」として処理され、あの馬鹿げたニュースもなかったことになっているに違いない。
そう期待して、固唾を呑んで画面を見つめていたケンだったが――。
『――続いて、世界中を騒がせているギザの「スフィンクス・オーパーツ」の続報です』
ニュースキャスターの深刻そうな顔が大写しになり、ケンの背筋に氷を押し当てられたような冷たい汗が流れた。
『先日、ヴァイスの穴の深部より回収された未知の遺物について、初期の泥落としとX線クリーニングが完了しました。その結果、この遺物が我々の想像を遥かに超える「超古代文明の証拠」である可能性が浮上しています』
「な……なんだって……!?」
ケンは激痛を忘れてベッドから身を乗り出し、画面を食い入るように見つめた。
中継映像が切り替わり、厳重なセキュリティが敷かれた研究所のクリーンルームが映し出される。
そこには、第1話で見たあの泥だらけの物体が、特殊な洗浄液で磨かれた状態で鎮座していた。
数千年の地圧に耐え、奇跡的に原形を留めていたのは、外側のチープなピンク色のシリコンではなかった。
シリコン部分は地層の熱と高圧で半ば炭化し、泥と共に剥がれ落ちていたのだ。
露わになっていたのは、その内部。
すなわち、スマートフォンの「中身」だった。
『ご覧ください。表面の樹脂層が剥がれた結果、内部から極めて精密な、現代の半導体回路に酷似した金とレアメタルの基盤が発見されました。その密度は、現代の最新技術をも凌駕しているとの見解もあります』
カメラが、その「超古代の遺物」の表面にゆっくりとズームインしていく。
そこには、肉眼では辛うじて見えるほどの微細な金色の配線パターンが、幾何学的な美しさを持って刻まれていた。
紛れもなく、ケンが使い慣れた現代のスマートフォンのプリント基板(PCB)だ。
だが、ケンに決定的な、そして致命的なトドメを刺したのは、その基板の中央に残された、焼け焦げたプラスチックの保護カバーに刻印された「文字」だった。
『さらに驚くべきことに、この基盤の中央には、アルファベットに酷似した記号で【 C A T 】という三文字がは明瞭に刻印されています。一部の言語学者は、これが失われたアトランティス語の聖なる頭文字ではないかと推測しており――』
「…………っ!!」
ケンは口を半開きにしたまま、手からリモコンを床に落とした。
CAT。
アトランティス語ではない。
それは、ハーン・ハリーリ市場の路地裏で、怪しげな親父に売りつけられた中国製のパチモンスマホケースのブランド名『CUTE-CAT』の、無残な残骸だ。
歴史は、変わっていなかった。
いや、むしろ俺が過去に行ったことで「確定」してしまったのだ。
ケンは震える手で、自分の顔を覆った。
現代に戻るために、スフィンクスの背中から覗き込んでくる「過去の自分」に向かって、「そこを動くな!」と叫び、時空のゲートが開いたあの絶好のチャンス。
光に飲み込まれる直前、自分の足元の亀裂の奥深くに、確かにピンク色の物体が転がっているのが見えた。
そうだ。
自分は、衛兵から逃げるために囮にして投げ捨てたあのスマホを、結局、拾わなかった。
いや、拾う暇など一秒たりともなかったのだ。
「俺が……俺があの穴を掘って時空を繋げちまったせいで……あの安物のスマホは永遠に『数千年前の地層の中』に封印されちまったんだ……!」
テレビの中では、世界中の権威ある考古学者たちが、「これは人類が宇宙から来た証拠だ!」「いや、ピラミッドは古代の巨大な量子コンピュータで、これはその部品だ!」と、真顔で大激論を交わしている。
その全ての元凶を作ったのは、他ならぬ自分だ。
このままでは、現代の考古学は、一個のパチモンケースのせいで根底から崩壊してしまう。
シュミット教授たちが一生を懸けて積み上げてきた真面目な学問が、オカルトと陰謀論に染め上げられていく。
「冗談じゃない……!」
ケンは点滴のスタンドを激しく蹴り飛ばし、包帯まみれの手で頭を抱えながら、病室の中心で天を仰いで絶叫した。
「しまったぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ケンの悲痛な叫びが病室に響き渡った、まさにその直後だった。
ガァンッ!!!
突如、病室のドアが蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで、外から蹴り開けられた。
あまりの爆音に、ケンは弾かれたようにドアへ視線を向ける。
騒ぎを聞きつけた看護師が飛び込んできたのかと思った。
しかし、そこに立っていたのは、白衣の天使などではなかった。
「えっ……お前、は……?」
ケンは、自分の目を疑った。
そこに立っていた男は、砂ぼこりとオイルにまみれた、見たこともない漆黒のタクティカルジャケットを着込んでいた。
何ヶ月も手入れをしていないような無精髭を生やし、頬には生々しい切り傷が走っている。肩で荒い息を吐き、眼光は獣のように鋭い。
だが、その顔立ちは。
鏡で毎朝見ている自分自身のものと、一寸の狂いもなかったのだ。
男――『もう一人のケン』は、呆然とするベッドの上のケンを射抜くような視線で見下ろし、ひび割れた声で吐き捨てた。
「無駄だ。今からあそこに戻ってスマホを拾おうとしても、お前は失敗する」
「は……? お前……何、を……」
「お前がこれから繰り返そうとしているその『失敗』を、俺は嫌というほど、この目で見てきたんだ。俺は、お前のその無意味な円環を終わらせるために、ここへ来た」
未来から来たのか、それとも幾千回とループを繰り返した果ての自分なのか。
満身創痍の自分自身は、有無を言わせぬ迫力で、ベッドの上のケンに向かって血に汚れた手を差し出してきた。
「さっさとその終わらないループを切り上げて、こっちを手伝え。……時間がねぇんだよ」
窓の外では、ギザの大スフィンクスが夕日に照らされ、全てを見透かしたような不敵な笑みを浮かべていた。
どうやら、歴史のパズルは、たった一つのオーパーツを回収するだけでは、決して終わらないらしい。
(俺の平凡な考古学者の人生は……どうやら完全に、SFミステリールートに突入してしまったようだ)
(完)
・ハワード・ヴァイスの穴の深さ: スフィンクスの背中にある穴は、深さ約5メートルで行き止まりになっています。ここから未知の文明の遺物やオーパーツが公式に発見されたという記録は存在しません。
・オーパーツの正体に関する見解: 現代の考古学において、「オーパーツ(場違いな工芸品)」とされるもののほとんどは、後世の捏造、あるいは自然現象の誤認、別用途の道具(例:アンティキティラ島の機械などは例外的に高度ですが古代ギリシャの技術と判明)であることが科学的に証明(確定)されています。
・ミューオン透視調査の現状: 「ScanPyramids」などの国際プロジェクトにより、宇宙線を用いた非破壊検査は、エジプトのピラミッドや遺跡で実際に進行中の最先端の調査手法です。




