第4話:五メートルの執念
スフィンクスの背中に、果てしない静寂が戻っていた。
つい数分前まで響き渡っていた、スマートフォンの放つ異質な光と、鼓膜を劈く電子アラームの咆哮。
未知の「魔法」に恐れをなした古代の衛兵たちは、武器を投げ捨てて闇の中へ逃げ去り、今は遠くで怯えた叫び声が微かに聞こえるだけだ。
あとには、乾いた夜風の音と、星明かりに照らされた荒涼たる岩肌だけが残されている。
ケンは、自分のスマートフォン――いや、数千年の時を経て未来の歴史を狂わせることになる「猫型のオーパーツ」を飲み込んだ、底知れぬ亀裂の縁にへたり込んでいた。
喉は焼け付くように乾き、心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされている。
助かった。
だが、その代償は、一人の考古学者にとってあまりにも大きすぎた。
「……掘るしか、ないのか」
乾ききった唇から、ひび割れた声が漏れる。
現代へ帰るためには、あの『5メートルの垂直坑』が必要だ。
しかし、1837年にハワード・ヴァイスが火薬とドリルで強引に開けるその穴は、紀元前2550年の今、この岩盤には一筋の傷すらついていない。
もしこのまま、俺が何もしないまま歴史が流れたらどうなる?
やがてスフィンクスの彫刻は完成し、この背中に走る深い亀裂は、見栄えを損なう不要な傷として、古代の熟練した石工たちによって石灰岩の瓦礫とモルタルで、跡形もなく埋め立てられてしまうだろう。
そして四千数百年後。
ヴァイスが上から強引に5メートルを掘り進め、「何もない行き止まりだ」と毒づいて調査を打ち切ったその『底のさらに奥』で、密閉されたケンのスマホは発見されるのだ。
それが、あのニュースの正体。俺が自分自身のミスで作り上げてしまった、完璧なオーパーツの誕生だ。
「冗談じゃない……! 俺のスマホを、あんなオカルトニュースの主役にさせてたまるか」
ケンはよろよろと立ち上がり、自分の頬を力一杯張っ倒した。
パァン、という乾いた音が静寂に響き、痛みが麻痺しかけていた脳を強引に覚醒させる。
やるべきことは一つだ。
スフィンクスが完成し、この亀裂が完全に埋め立てられてしまう前に。
自分が現代から落ちてきたあの『空間の歪み』を発生させるための、「完璧な5メートルの縦穴」を、自分自身の手で造り上げること。
ケンは、労働者の倉庫から命がけで盗み出してきた、重い閃緑岩の石鎚と、数本の鈍く光る銅のノミを足元に並べた。
「ヴァイスが掘るのは、1837年。奴は、俺が今立っているこの座標の真上から、火薬で強引に下へ向かって掘り進めてくる」
ケンは現代の考古学者としての記憶をフル回転させ、スフィンクスの背中の3Dスキャンデータを脳内に鮮明に展開した。
ヴァイスの穴の位置。直径。そして、その正確な深さ。
「俺は、奴が掘り進めてくるであろう空間の『底』にあたる部分を、今ここで正確に削り出しておく必要がある。そこが、現代の俺が落ちてくる座標になるんだから」
それは、想像を絶する途方もない作業だった。
幸いなことに、ゼロから平らな岩盤を5メートル掘り下げる必要はない。
目の前には、スマホを飲み込んだ深い自然の亀裂が既に走っている。
この亀裂の内側に入り込み、壁面を削って「人間一人がすっぽり収まる垂直の空洞」を成形すればいいのだ。
ケンは意を決し、道具を抱えて、暗い亀裂の隙間に身体を滑り込ませた。
カンッ……!
カンッ……!!
硬い石灰岩に銅のノミを当て、石鎚で振り下ろす。
鈍い打撃音が、スフィンクスの体内に反響する。
ギザ台地の地層は、モカッタム層と呼ばれる古第三紀の石灰岩でできている。
地質学的には比較的柔らかい部類に入るとはいえ、それはあくまで「鉄の重機」を持った現代人の基準だ。
不純物を含んだ脆い古代の銅のノミは、数回叩いただけで先端が丸くひしゃげてしまい、その都度、予備のノミに替えなければならない。
「くそっ、なんて硬さだ……!」
打撃の反動が、手首から肘、そして肩へと強烈な痺れとなって突き抜ける。
ほんの数十分打ち続けただけで、ケンの手のひらは擦り切れ、マメが潰れ、柄を握る手が自分の血で滑るようになった。
それでも、ケンは叩き続けた。
生きるためだ。現代に帰るためだ。
そして何より、あの忌まわしい「猫型オーパーツ」という歴史の汚れを、自分の手で清算するために。
それからの数日間は、筆舌に尽くしがたい地獄のようなサバイバルだった。
昼間、太陽が容赦なく照りつける過酷な時間は、スフィンクス本体の彫刻作業のために数千人の石工たちが押し寄せてくる。
ケンはその間、自分が掘り進めている亀裂の奥深く、光の届かない闇の中に身を潜め、息を殺して震えていた。
頭上数メートルのところで、古代の職人たちが足場を組み、楽しげに歌いながらノミを振るう音が聞こえる。
もしここで見つかれば、昨夜の「光り輝く悪魔」として、今度こそ確実に生きたままミイラにされるか、採石場の奥深くで処刑されるだろう。
夜になると、ケンは穴から這い出し、這うようにして労働者の町(ヘイト・エル=グラブ遺跡)のゴミ捨て場へと向かった。
野犬と争いながら、捨てられた硬いパンの欠片を齧り、醸造所の裏口に放置された、酸っぱい濁りビールの残りを啜って命を繋いだ。
衣服は破れ、泥にまみれ、髪も髭も伸び放題。
その姿は、古代の労働者たちですら目を背けるような、完全な「砂漠の狂人」になり果てていた。
そして深夜、誰もいなくなったスフィンクスの背中で、満天の星空の下、再び穴に戻り、ノミを振るう。
カンッ……。
カンッ……。
ひたすらに岩を削る。
丸くなって使い物にならなくなったノミは、労働者の現場に密かに忍び込んで、こっそりと研ぎ直された新しいものとすり替えた。
幸いなことに、道具の管理が少しばかり杜撰だったことがケンの命を救っていた。
数日、いや、十日以上が過ぎたかもしれない。
ケンの精神は、極度の疲労と孤独、そして終わりの見えない作業によって、もはや限界を超えていた。
暗闇の中で、幻覚を見るようになった。
削り出している岩の壁面に、カイロのホテルのテレビ画面が青白く浮かび上がる。
『――速報です。年代測定不能な異常な遺物が回収されました』
「違う……! あれは俺のスマホだ……俺が、あそこに投げたんだ……!」
ケンは涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら、血だらけの手で石鎚を振り下ろした。
自分が今、一削りずつ掘り進めているこの空間。
これこそが、1837年にハワード・ヴァイスが到達する「行き止まり」の空間なのだ。
ヴァイスは、火薬で岩を吹き飛ばしながらこの座標まで掘り下がり、「なんだ、ただの岩の底じゃないか」と諦めて引き返す。
その時、ヴァイスの足元の岩盤の「密度」が意図的に脆くなるように、ケンは現代の地質学の知識を総動員して、絶妙なバランスで空洞の形状を調整し、ヒビを入れていた。
未来の自分が落ちてくるとき、その衝撃を吸収し、かつ時空を繋げるための「受け皿」を、四千五百年前の俺が作っている。
この狂気じみた因果関係が、今のケンの唯一の支えだった。
そして、運命の夜が来た。
深さはおよそ5メートル。
亀裂の幅は人間一人が入れるまでに広がり、ケンがちょうど両手両足を踏ん張って、垂直に昇り降りできるだけの「完璧な縦穴」が完成していた。
ケンは穴の最深部に座り込み、荒い息を吐いていた。
全身の筋肉が断裂したかのように悲鳴を上げ、指の骨はひび割れているように痛む。
もはや、石鎚を持ち上げる力すら一欠片も残っていなかった。
「……できた。これが、ヴァイスの穴の……真の姿だ……」
見上げると、狭く四角く切り取られた夜空が見える。
その真ん中で、オリオンの三つ星が、まるで見届けているかのように冷たく瞬いていた。
その時だった。
キィィィン……。
耳鳴りのような、微細な高周波音が、岩盤の奥深くから響き始めた。
「……っ!?」
ケンは弾かれたように跳ね起きた。
空気が急激に重くなる。肺の奥が圧迫されるような、異常なまでの気圧の変化。
周囲の石灰岩が、薄暗い青白い光を帯びて、脈動するように明滅し始めたのだ。
石英の結晶が極度の圧力を受けて放つ、巨大な圧電効果(ピーゾ効果)。
時空のゲートが開く前兆だ。俺が落ちてきたときと、全く同じ現象。
(来る……! 現代から、俺が落ちてくる!)
ケンは震える足で立ち上がり、血だらけの両手と両足を穴の壁面に突っ張って、必死に上を見上げた。
青白い光が激しさを増し、頭上の夜空が歪み始める。
星空が掻き消え、代わりに現れたのは、ギラギラと照りつける太陽の光と、見慣れた現代の青空だった。
次元の壁が紙のように薄くなり、二つの異なる時空が無理やり重なり合おうとしている。
見えた。
頭上の、穴の縁。
そこに、防塵ジャケットを着て、タブレット端末を持った「数週間前の自分」が立っている。
2026年のケンが、いぶかしげに穴の底を覗き込んでいるのが、はっきりと見えた。
そして、現代のケンは、身を乗り出しすぎたせいでバランスを崩し、その手からあの「猫型スマホケース」を、今まさに落としそうになっているではないか!
(ダメだ! それを落としたら、また俺が拾いにこなきゃならなくなる!!)
過去に囚われたケンは、血走った目で、頭上にいる「現代の自分」に向かって、腹の底から、喉が裂けるほどの声で絶叫した。
「そこを動くな、バカ野郎!!!」
その声は、次元の歪みを突き抜け、5メートルの縦穴を激しく反響して、2026年のケンの耳に叩きつけられた。
上から覗き込んでいる「現代のケン」が、その声に驚き、ビクッと身体を震わせるのが見えた。
そして、落としそうになったスマホを、空中でガッチリと掴み直す。
歴史が繋がった瞬間だった。
第1話でケンが穴の底から聞いた「謎の声」の正体。
それは、地獄のような穴掘り作業の果てに、未来の自分の軽率な行動を止めようと必死に叫んだ、自分自身の、執念の声だったのだ。
「あぁ……」
安堵の息を漏らした次の瞬間、現代のケンが光に包まれ、重力を失って真っ逆さまに落ちてくるのが見えた。
二つの同じ質量が、同じ座標に重なろうとする矛盾。
タイムパラドックスの強烈な反発作用が、穴の底にいた「過去のケン」の身体を激しく弾き飛ばした。
強烈な閃光。そして地響き。
身体が原子レベルにまで分解され、別の時間軸へと再構築されていくような激痛。
「ぐあああああああっ!!」
ケンの意識は、青白い光の奔流の中に完全に飲み込まれていった。
――だが、光に飲まれる最後の0.1秒。
ケンは、足元の岩の隙間、自分が這いつくばって削り続けたあの亀裂のさらに奥深くに、チラリと「ピンク色の猫の耳」が見えたような気がした。
(あ……)
囮にして投げ捨てた、自分のスマートフォン。
拾い上げる暇など、一秒たりともなかった。
俺が投げたあのスマホは、結局、この時代に取り残されたままになる。
ケンの魂の絶叫は、誰の耳にも届くことなく、数千年の時空の彼方へと消え去った。
・ハワード・ヴァイスの調査 (1837年): 実際にヴァイスはスフィンクスの背中に深さ約5メートルの穴を掘りましたが、何も発見できずに調査を終了しています。現在、その底は行き止まりの岩盤です。
・ギザ台地の地質 (モカッタム層): スフィンクスが彫り出された岩盤は、古第三紀始新世の「モカッタム層」と呼ばれる石灰岩で構成されています。古代の石工にとって比較的加工しやすい硬さでした。
・古代の工具の限界: 当時のエジプトには鉄器がなく、青銅も貴重でした。石灰岩の削り出しには、純度の高い「銅のノミ」と、極めて硬い火成岩である「閃緑岩」や「粗粒玄武岩」の丸い石鎚が使用されていたことが、遺跡からの出土品で確定しています。
・自然の亀裂の修復: スフィンクスの体にはもともと巨大な亀裂が走っており、古代の石工たちはそれを石灰岩のブロックやモルタルで埋め立てて修復しながら彫刻を進めました。




