第3話:聖域のデコイ
夜の砂漠は、昼間の灼熱が嘘だったかのように、容赦なく冷え込んでいた。
ギザ台地の南東に位置する労働者の町。
その一角にある、資材置き場を兼ねた土壁の倉庫。
ケンは、乾燥した藁と湿った泥の匂いが充満する暗闇の中で、一人膝を抱えて震えていた。
昼間、ボールペンと図面を使って書記官を驚かせたものの、彼がすぐに王族のような特別な待遇を受けられたわけではない。
「偉大なる設計責任者、ヘミウヌ様の判断を仰ぐ」
書記官が放ったその言葉の通り、ケンはひとまず、身元不明の不審者としてこの簡素な倉庫に軟禁されることになったのだ。
逃げ出さないように、入り口には槍を持った見張りが一人立っている。
時折、見張りが動くたびに、槍の穂先が月光を反射して冷たく光るのが見えた。
ケンは暗闇の中で、自らの軽率さとあまりの不運を呪っていた。
歴史を狂わせまいと、あの現代の穴に落ちる瞬間に必死で握りしめたはずの、ピンク色の猫型スマートフォン。
過去の世界で目覚めた時、右手にその感触はなく、ケンは「タイムスリップの過程で現代の穴の底に落としてしまったのだ」と絶望していた。
だが、冷える足先をさすろうと、身を屈めた時だった。
膝の横。
防塵用のカーゴパンツにある、普段はまず使わない深いサイドポケット。
そこに、硬くて四角い、異質なふくらみがあることに気がついた。
「……え?」
ケンは心臓を跳ね上がらせながら、ジッパーを震える手で開けた。
指先が、ガラスの滑らかな表面と、チープで弾力のあるシリコンの感触を捉える。
暗闇の中でそれをゆっくりと引きずり出した。
猫の耳の形をした突起。
見間違えるはずがない。
タイムスリップの強烈な重力異常とパニックの中で、ケンは無意識のうちにスマホをこのポケットにねじ込んでいたのだ。
「あった……! 落としてなかった!」
ケンは歓喜のあまり、スマホを頬に押し当てた。
電源ボタンを長押しする。
暗い倉庫の中に、見慣れたメーカーのロゴが青白く浮かび上がり、液晶の光が泥にまみれたケンの顔を不気味に照らし出した。
バッテリー残量は78%。
当然だが、アンテナは一本も立っていない。圏外だ。
紀元前2550年のエジプトには、通信衛星はおろか、電波という概念すら存在しないのだから。
しかし、現代のテクノロジーの結晶が手元にあるという事実は、孤独に沈んでいたケンの心を劇的に奮い立たせた。
これがあれば、真っ暗なこの時代でも光を得られる。時間を知ることもできる。
だが、喜んでいる場合ではない。
ケンは、スマホの画面を見つめながら、冷徹な現実へと急速に思考を戻した。
(俺が現代に帰るためには、あの『5メートルの垂直坑』が必要だ……)
ケンが落ちてきた時空のゲートは、スフィンクスの背中という「座標」と、穴の底という「深さ」が揃って初めて機能するはずだ。
しかし、今の時代のスフィンクスの背中には、ハワード・ヴァイスが1837年に掘るあの穴は、まだ開いていない。
ならば、どうするか。
答えは一つしかなかった。
(俺自身が、今夜、スフィンクスの背中に『5メートルの穴』を掘り始めるしかない)
狂気の沙汰だ。
現代の道具もない、たった一人の男が、巨大な岩山を削って垂直の穴を掘るなど。
しかし、それ以外に現代へ帰還する方法を、ケンは思いつくことができなかった。
ケンは倉庫の隅に積まれていた木箱を、スマホのバックライトを頼りに探った。
そこには、労働者たちが作業を終えて放り出していった道具が乱雑に詰め込まれていた。
硬い閃緑岩の丸い石鎚。
そして、純度が高く鋭く研ぎ澄まされた、無数の「銅製のノミ」。
古代エジプト人は、鉄を持たなかった。
しかし、彼らはこの柔らかい銅のノミと石のハンマーだけで、あの巨大なピラミッドやスフィンクスを削り出したのだ。
なら、俺にだってできないはずがない。
ケンは頑丈そうな銅のノミを数本選び、石鎚とともにカーゴパンツのポケットやベルトに無理やりねじ込んだ。
ずしりと重い。だが、これが現代への、そして人生を取り戻すための切符だ。
入り口の隙間から外の様子を伺う。
見張りの兵士は、壁に寄りかかり、槍を抱えたまま船を漕いでいるようだった。
夜風の音に紛れて、ケンは倉庫の裏側にある、崩れかけた泥レンガの壁の隙間から、蛇のように身体を滑り込ませて外へ出た。
夜のギザ台地は、言葉を失うほど美しく、そして恐ろしかった。
街灯もネオンもない、真の闇。
だからこそ、空には気が狂いそうなほどの数の星が瞬き、天の川がくっきりと夜空を分断していた。
古代エジプト人が星を神格化し、天文学を死に物狂いで発達させた理由が、ケンには痛いほど理解できた。
星明かりに照らされて、巨大な二つのシルエットが闇の中に白く浮かび上がっていた。
完成して間もないクフ王の大ピラミッドと、現在建設中のカフラー王のピラミッドだ。
外装を覆う白い化粧石(石灰岩)が星の光を反射し、まるで自ら発光しているかのように神々しく輝いている。
ケンはその足元に広がる、巨大な採石場の跡地――現在彫刻中のスフィンクスが鎮座する深い窪地へと、息を殺して向かった。
周囲は静まり返っているが、ここは王の聖域だ。夜間の警備がいないはずがない。
岩肌の影に身を隠し、足音を立てないように慎重に進む。
スフィンクスは、巨大な岩山を周囲から掘り下げるようにして削り出されているため、深い溝に囲まれている。
ケンは足場として組まれている太い丸太の階段を、音を立てないように一歩ずつ登り始めた。
目指すは、スフィンクスの巨大な背中の上。
あの「運命の座標」だ。
あともう少し。
そう思った時、闇を切り裂くような、鋭く野太い怒声が響いた。
「誰だ! そこで何をしている!」
ケンは心臓を冷たい手で鷲掴みにされたように硬直した。
スフィンクスの頭部の足場から、松明を持った数人の男たちがこちらを指差していた。
それは、昼間に見た労働者の現場監督ではない。
頭に独特の布を巻き、手には鋭い銅の斧や弓を持った、神殿を警護する精鋭部隊――メジャイの衛兵たちだ。
「まずい……!」
ケンは踵を返し、足場を駆け下りようとした。
しかし、背後からも別の衛兵たちが松明を掲げて迫ってきていた。
完全に包囲されたのだ。
『止まれ! 聖域を侵す不浄な盗賊め、神々の呪いを受けて死ね!』
言葉の響きから、彼らが問答無用で自分を殺そうとしていることが伝わってきた。
王の神聖な像を傷つけ、財宝を狙う不届き者だと思われている。
ヒュン、という風切音が耳元をかすめ、背後の石灰岩に矢が突き刺さる。乾いた音が夜の静寂に響いた。
「ひぃっ!」
ケンは情けない悲鳴を上げ、スフィンクスの背中の上へと無我夢中でよじ登った。
そこは、まだ何一つ障害物のない、ただの平らな岩盤だった。
逃げ場はない。
前からは弓兵。後ろからは斧を振り上げた衛兵たちが、松明の炎を揺らしながらじりじりと距離を詰めてくる。
(殺される……ここで終わるのか。歴史の闇に葬られて……)
銅の斧が月明かりに鈍く光る。
衛兵の一人が、ケンに向かって処刑の刃を振り上げた、その瞬間だった。
ケンは、ポケットの中で震える手に触れた「現代の魔法」に、すべての運命を賭けた。
「……神の力を見せてやる! 太陽神ラーの怒りを知れぇっ!!」
ケンは絶叫しながら、ポケットから猫型ケースのスマートフォンを引き抜き、天高く掲げた。
そして、画面を限界までスワイプし、「ライト機能」を最大光量でオンにした。
カッ!!
現代の強力なLEDの純白の閃光が、紀元前2550年の漆黒の闇を、暴力的に切り裂いた。
「うおおおおっ!?」
『な、なんだ!? 太陽が……夜に太陽が降臨したぞ!!』
松明の弱々しいオレンジ色の炎しか知らない古代の衛兵たちにとって、スマートフォンの放つLEDライトは、まさに超常現象。闇を切り裂く、純白の「神の光」そのものだった。
先頭にいた衛兵は、あまりの眩しさに両目を覆い、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
だが、これだけではまだ足りない。
ケンは震える指で画面を操作し、さらに致命的な「魔法」を発動させた。
アラームのサウンド設定を「非常用サイレン」に合わせ、音量を最大にする。
ウィイイイイン!! ウィイイイイイン!!!
ピロロロロロ!! ピロロロロロ!!
スピーカーの限界を超えた、鼓膜を裂くような電子の絶叫が、スフィンクスの背中に響き渡った。
『ヒィィィィッ!!』
『悪魔だ! 奇妙な形の魔石が、聞いたこともない不吉な声で泣き叫んでいる!!』
未知の強烈な光と、自然界には絶対に存在しない甲高い電子音。
そして、暗闇に不気味に浮かび上がる「ピンク色の猫の耳」のシルエット。
屈強な衛兵たちは完全にパニックに陥り、武器を投げ捨て、地面に這いつくばって神に許しを請い始めた。ある者は恐怖のあまり、足場から転げ落ちて逃げていく。
「今だ!」
ケンはこの隙を逃さず、背中の上を全速力で走った。
だが、前方からも増援の足音が聞こえる。このままでは捕まるのは時間の問題だ。
ケンは、自分を追ってくる者たちの注意を、自分自身から完全に逸らすために、究極の、そして最悪の決断を下した。
「あっちへ行け……! 呪われてしまえ!!」
ケンは、悲鳴を上げながら光り続ける『魔石』を、自分とは逆の方向――スフィンクスの背中に走る、深い自然の亀裂の奥底へと、力一杯放り投げた。
ピンク色の光と電子音が放物線を描き、深い亀裂の中へと吸い込まれていく。
カンッ、カラカラカラ……。
硬い岩盤にぶつかる音が何度か響き、やがて光も音も、深い地底の奥底へと吸い込まれるように消えていった。
「あ…………」
衛兵たちは、自分たちの横を通り過ぎ、地底へ消えた「魔石」を追って亀裂の周りに群がり、怯えながら祈り始めた。
その隙に、ケンは反対側の影に隠れ、岩肌に身を寄せて息を殺した。
助かった。
追っ手は完全にスマホの落ちた場所に釘付けになっている。
しかし、ケンは全身の血の気が引いていくのを感じていた。
スマホを投げ込んだ、あの場所。
あの深い亀裂は、スフィンクスの彫刻が完成する工程で、上から石灰岩の瓦礫や砂、モルタルで綺麗に埋め立てられ、完全に「密閉」される場所だ。
そしてその直上を、数千年後にハワード・ヴァイスがドリルで掘り進め、「行き止まりの底」とする場所なのだ。
ケンは自分の愚かさに、声を上げて笑うしかなかった。
その笑いは、すぐに嗚咽へと変わった。
「……しまったぁぁぁぁっ!!」
自分がタイムスリップの時に現代の穴に落としたのだと思っていた。
だが違ったのだ。
歴史を狂わせ、現代のニュースを騒がせているあの「オーパーツ」を、過去の世界の地層の奥深くに埋め込んでしまったのは――他でもない、たった今、自分の命を守るためにスマホを投げ捨てた、自分自身だったのだ。
「俺が……俺のせいで、歴史が……!!」
歴史のパズルのピースが、最悪の形で噛み合った瞬間だった。
現代のニュースで見た、地層に押しつぶされて化石化したあの猫型ケースの残骸。
あれは、今自分が投げ捨てたスマートフォンが、数千年の地圧に耐え抜いた末の、変わり果てた姿だったのだ。
取り戻さなければならない。
しかし、スマホが落ちた亀裂は深く狭く、人間の体が入る隙間はない。
しかも、そこはこれから「ヴァイスの穴の底」となる岩盤よりも、さらに数メートル深い場所だ。
絶望に打ちひしがれるケンのポケットの中で、奪ってきた銅のノミと石鎚が、カチャリと冷たい音を立てた。
途方もない作業が、彼を待っていた。
自分が現代へ帰るための「5メートルの穴」を、内側から、自分の手で掘ること。
そして、歴史の矛盾を正すため、現代に戻ったら「もう一度あの穴の底に落ちて、今度こそ、埋もれたスマホを回収する」という、無限ループのような呪われた決意。
大スフィンクスは沈黙したまま、星空の下で、一人の男が始めた滑稽で壮絶な営みを見下ろしていた。
・夜のギザ台地の景観: 当時、ピラミッドの外装には真っ白な「化粧石(上質なトゥーラ産石灰岩)」が張られており、月や星の光を反射して白く輝いていたことが分かっています。
・古代エジプトの夜間照明と警備: 照明は油や獣脂を使ったランプや松明しかなく、絶対的な暗闇でした。また、王の建造物や墓地は「メジャイ」と呼ばれるような砂漠の警察部隊・治安部隊によって厳重に警備されていました。
・当時の工具(青銅器時代): 当時鉄はまだ一般的ではなく、ピラミッドやスフィンクスの建設には、純度の高い「銅製のノミ」と、「閃緑岩」という極めて硬い石のハンマーが主に使用されていました。
・スフィンクス背部の地質: スフィンクスの周辺および背中には、岩盤の自然な亀裂が多数走っており、建造時にこれらをモルタルや石材で埋めて修復した痕跡が現在も残っています。




