第2話:銀の棒と星の図面
じりじりと肌を焦がすような熱波が、ケンの全身を包み込んでいた。
肺に吸い込む空気はひどく乾燥しており、細かい砂と石灰岩の粉塵が混じって、喉の奥をザラザラと削っていく。
目の前には、巨大な岩山を削り出している最中の、数千人規模の労働者たち。
現代のカイロの喧騒――絶え間ないクラクションの音や、観光客の話し声、排気ガスの匂いは完全に消え失せていた。
代わりにこの世界を支配しているのは、銅製のノミが硬い岩肌を叩く、耳をつんざくような甲高い金属音。
そして、数トンもの巨大な石材を引きずる男たちの、地を這うような重厚な合唱だった。
「おい、貴様! そこで何をしている!」
けたたましい銅鑼のような音に続き、鞭を腰に差した筋骨隆々の男が、砂を蹴立ててケンに歩み寄ってきた。
男は腰に粗末な白い亜麻布を巻いただけの半裸の姿だ。
しかし、その首元には権威を示す青や緑のファイアンス(陶磁器)の首飾りが揺れており、彼がただの労働者ではなく、現場を仕切る「監督官」であることが一目で分かった。
ケンは慌てて立ち上がろうとしたが、足がもつれて砂の上に尻餅をついてしまった。
無理もない。
ケンの服装は、汚れに強い最新の化学繊維で作られた防塵ジャケット。
ボトムスは頑丈なデニムのジーンズ。
そして足元には、グリップの効いたトレッキングシューズ。
紀元前2550年のエジプトにおいて、これほど異様で、かつ不審な格好はない。
彼らの目には、未知の蛮族か、あるいは空から降ってきた狂人にしか見えないだろう。
「……っ!」
男が、喉の奥を鳴らすような独特の響きを持った言葉で怒鳴りつけてくる。
ケンは大学時代に叩き込まれた「古代エジプト語」の知識を必死に総動員した。
現代のアラビア語とは全く異なる、聖刻文字が音を持っていた時代の言葉。
男の言葉を脳内で強引に翻訳する。
『お前は誰だ。どこの採石場の者だ。なぜ作業を怠けている。お前の主は誰だ』
そんなニュアンスだった。
ケンは両手を顔の高さまで上げ、手のひらを見せて敵意がないことを示した。
「お、俺は怪しい者じゃない! ヌク……レメチュ……(私は、人間です)」
ひどく原始的で、当たり前すぎる返答しかできなかった。
現代の知識があっても、喉の筋肉が古代の音に追いつかない。
現場監督の男は、ケンの奇妙な衣服――特に、滑らかなナイロンの質感と、日光を反射して輝く金属製のジッパー――を、まるで毒虫を見るような目で見つめると、背後の護衛たちへ合図を送った。
「連れて行け。不審者だ。書記官のテントで調べさせる。言葉が通じぬなら、ワニの餌にするまでだ」
左右から、丸太のような屈強な腕が伸びてきた。
ケンの両脇を乱暴に掴み上げる。
「ちょ、待ってくれ! 乱暴はしないでくれ! 話せばわかる……はずなんだ!」
ケンの抵抗など、石を引きずることに人生を捧げている男たちには羽毛ほどの重さもなかった。
彼は文字通り引きずられるようにして、巨大な建設現場の奥へと連行されていった。
引きずられながら、ケンは周囲の光景を食い入るように見つめた。
恐怖よりも、考古学者としての本能が勝っていた。
そこは、これまでの「奴隷の地獄」という映画的な偏見を、根底から覆す光景だった。
巨大な石灰岩のブロックを木のソリに乗せて引っ張る男たちは、確かに汗まみれで過酷な労働をしている。
だが、彼らの表情に絶望の色はない。
むしろ、神聖な国家プロジェクト、ファラオの永遠の住処を作るという巨大な使命に参加している誇りと、活気に満ち溢れていた。
ソリの滑りを良くするために、前方に手際よく水を撒く少年たちがいる。
その背後で、歌うようなリズミカルな掛け声に合わせて、全員が完璧に息を揃えてロープを引く。
彼らは、強制的に連れてこられた奴隷ではない。
農閑期に国中から集められ、衣食住を完全に保証された、立派な「有給労働者」なのだ。
その事実を証明するかのように、建設現場のすぐ隣には、信じられないほど巨大な「町」が広がっていた。
ギザ台地の南東。
現代の考古学で『ヘイト・エル=グラブ(カラスの壁)』と呼ばれる、建設労働者たちの居住区だ。
泥レンガで作られた無数の長屋が、碁盤の目のように規則正しく並んでいる。
町全体を覆うように、香ばしい匂いが漂っていた。
酵母の発酵する少し酸っぱい匂い。
薪が勢いよく燃える煙の匂い。
そして、何千人分もの肉を炙る、動物性の脂の強烈な香りだ。
連行されるケンの横を、素焼きの壺を山のように積んだ木車が通り過ぎていく。
長屋の間の広場では、女たちが巨大なすり鉢で穀物を挽き、円錐形の型に入れて大量のパンを焼いていた。
別の場所では、麦芽を発酵させて栄養満点の「濁りビール」を醸造している。
「すごい……本当に、毎日肉とビールが配給されていたんだ……」
ケンは思わず、乾いた喉で呟いた。
発掘された動物の骨の量から、彼らが日常的に牛や羊、山羊の肉を食べていたことは知識として知っていた。
しかし、実際に数千人、数万人の胃袋を満たすための、この圧倒的な規模の「調理風景」を目の当たりにすると、古王国時代の国家規模の兵站に身震いがした。
やがてケンは、町の一角にある、一際立派な日除けのテントの下へ放り出された。
そこは、労働者たちの「医療所」を兼ねた記録所のようだった。
テントの中には、乾燥した薬草と、独特の油の匂いが立ち込めている。
ござの上に横たわっている労働者が数人いた。
一人の男は、石の下敷きになったのか、腕を複雑に骨折しているようだった。
だが、ケンを驚かせたのは、そこにいる「医師」の存在だった。
清潔な白い麻布をまとった医師らしき男が、手際よく骨折した腕を適切な位置へと引っ張り、骨を継いでいる。
そして、木の添え木と精巧に編まれた亜麻布の包帯で、あっという間に固定してしまった。
その隣では、別の助手が痛みを和らげるための鎮痛作用のあるビールを飲ませ、パピルスに詳細な症状を記録している。
現代の救急救命室と本質的に変わらない、高度で合理的な医療行為。
「使い捨ての奴隷なんかじゃない……。彼らは、国家にとっての貴重な技術的財産として、これほど手厚く保護されているんだ……」
ケンがその光景に見とれていると、テントの奥からパピルスの巻物を持った、初老の男が現れた。
耳の横に一本の葦の筆を挟み、鋭い眼光を放つその男。
彼こそが、この現場の管理と記録を一手に司る「書記官」だった。
古代エジプトにおいて、文字の読み書きができる書記官は、現場監督よりもはるかに地位の高いエリートだ。
数学、測量、天文学。そのすべての知識を持つ者が、この巨大な建設を支えている。
書記官はケンの異様な衣服を一瞥し、眉をひそめた。
パピルスを広げ、黒い固形インクを水で溶かした壺に筆を浸すと、冷淡な声で尋ねた。
『言葉は分かるか、異邦人。お前の身元と、その不気味な織物について説明せよ。ここは偉大なる王の永遠の住処を作る神聖な場所だ。もしお前が邪悪な呪術師、あるいは盗賊であれば、即座にナイルのワニの餌として捧げる』
冷酷な響きだった。
ケンは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
ここで「21世紀の日本から来ました」などと言えば、一瞬で狂人として処刑される。
あるいは、運が良くても一生採石場の奥深くで石を砕き続ける消耗品に身を落とすだろう。
自分の正体を隠しつつ、彼らに「こいつは生かしておいた方が役に立つ。神聖な知識を持っている」と思わせなければならない。
ケンは深呼吸をし、落ち着こうと努めた。
ポケットの中を探る。
第1話で「落とした」と思い込んでいたあのスマホは、やはりそこにはない。
(……いや、スマホどころか、現代との繋がりはもう何一つ……)
絶望しかけたケンの指先に、胸ポケットの中で一本の細い「金属の感触」が触れた。
調査の記録用に常に持ち歩いていた、金属製の「ノック式ボールペン」だ。
ケンはゆっくりと立ち上がり、書記官の目をまっすぐに見つめ返した。
震える声を抑え、威厳を込めて告げる。
「……私は、遥か東の果て、世界の果てから来た、石と星の言葉を読む者です」
片言の古代エジプト語。
ケンは胸ポケットから、銀色に光るボールペンを、まるで聖遺物であるかのように恭しく取り出した。
カチッ。
静かなテントの中に、鋭い金属的なノック音が響いた。
それだけで、書記官と護衛の男たちがビクッと肩を震わせ、数歩後ずさった。
彼らの世界に、精密なバネ仕掛けの機械音など存在しないのだ。
ケンは足元に転がっていた、平らに均された石灰岩の破片を拾い上げた。
そして、書記官が差し出したパピルスではなく、その石の表面に、スラスラと「あるもの」を描き始めた。
それは、ただの絵ではない。
現代の考古学者が死ぬほど見慣れている、正確な幾何学的比率の「ホルスの目」、そしてその横には、現在彫刻されているスフィンクスと、背後のピラミッドを、完璧な測量図面のように真上から見た「配置図」を描いた。
インク壺も使わず、筆を湿らせることもなく。
ただの銀色の細い棒の先端から、滑らかで濃密な黒い線が引かれていく。
その異様な光景に、書記官の目が驚愕に見開かれた。
『な……なんだ、その道具は。水も墨もないのに、なぜ線が引ける。それに、なぜお前が……まだ王しか知り得ぬはずの、神殿の隠された配置を知っているのだ……?』
ケンはペンを胸にしまい、静かに、だが確信を持って言った。
「私は、建築の秘密を知っています。この巨石の下に何があり、星々がどこを指し示すべきか、すべて理解しています。どうか、私をこの建設現場に置いてください。必ず、偉大なる王の役に立ちます」
嘘は言っていない。
ケンは現代の考古学者として、ピラミッドやスフィンクスの内部構造、落とし戸の仕組み、さらにはどこに重力分散の間があるかまで、この時代の誰よりも――設計者でさえまだ悩んでいるであろう問題の「正解」をすべて、歴史の結果として知っているのだ。
ケンが現代へ帰還するための「時空のゲート」。
あの「5メートルの垂直坑」を、将来ヴァイスが掘る場所に今すぐ開けるには、ただの労働者としてではなく、この現場を自由に歩き回れる「技術者」としての地位を手に入れる必要があった。
書記官はケンの描いた石板の図面と、彼自身の顔を交互に見比べた。
やがて、震える手でその石板を手に取ると、低い声で護衛に命じた。
『……こいつを一時的に倉庫に留め置け。食事と水を与えよ。設計責任者であるヘミウヌ様に判断を仰ぐ。この者は、神々の使いか、あるいは恐るべき知識の主だ』
ひとまず、最悪の事態――即座の処刑は免れた。
護衛に背中を押されながら、ケンはテントを出た。
夕暮れの空の下、建設途中の巨大なスフィンクスが、赤黒い影となって地平線に横たわっている。
その巨大な背中には、まだ一切の傷跡はない。
1837年に掘られるはずの「あの穴」は、まだ存在しないのだ。
(俺が落ちてきた、あの磁場の歪みをもう一度発生させるには、未来の俺が落ちてくる『5メートルの座標』を、今この場所から物理的に繋ぐしかない。……俺の手で、この硬い岩を掘り抜くしかないんだ)
西の砂漠へ太陽が沈み、ギザ台地が再び燃えるような黄金色に染まっていく。
歴史の矛盾の始まりとなった「猫型スマホ」は、まだどこかに消えたままだ。
ケンは途方もない孤独と絶望を感じながらも、この砂と石の世界で生き抜き、自らの手で「歴史の傷跡」を穿つ覚悟を固めつつあった。
自分の人生が、数千年の時間を超えた壮大な「帳尻合わせ」に組み込まれてしまったことを、彼はまだ完全には受け入れられずにいたが。
・労働者の町(ヘイト・エル=グラブ遺跡): ギザ台地の南東で実際に発掘された巨大な居住区です。数千人規模の労働者が計画的に収容されていました。
・労働者の実態(奴隷労働の否定): 映画などで描かれる「鞭打たれる奴隷」は過去の誤った認識であり、現在は「有給の熟練労働者や農民」であったことが発掘調査から確定しています。
・食生活(パンとビール、肉): 労働者の町からは大量のパン焼きの型、ビール醸造の痕跡、そして日常的に牛や羊の肉を消費していた大量の動物の骨が発見されています。ビールは当時、水を安全に飲むための栄養源でもありました。
・高度な医療体制: 労働者の墓から発見された人骨には、複雑な骨折が綺麗に接合された痕跡や、外科手術を受けた跡があり、現場には専門の医療体制が整っていたことが証明されています。
・書記官の地位: 文字を扱える書記官は、古代エジプト社会において非常に地位の高い特権階級でした。




